朝、もう一度脳内部の検査を受け、出血が収まっていることを確認してから、ハルシャは退院を許可された。
ジェイ・ゼルは退院のために、服をあらかじめ用意してくれていたようだ。
検査を終え戻って来た病室で、病院着から着替えるようにと、白いシャツと紺色の下の服を渡される。
新しい品だった。
わざわざ買ってきてくれたのか、と問いかけたハルシャに、
「私の服はハルシャには大きすぎるからね。急いで用意したものだから、気に入らなかったら許しておくれ」
と、微笑みながら答えてくれる。
「そんなことは思わない。ありがとう、ジェイ・ゼル」
慌てて彼の危惧を解こうとするハルシャに、優しい笑みを浮かべたまま、ジェイ・ゼルは、
「早く着替えないと、看護師が来てしまうよ。身体がまだ本調子でないなら、着替えを手伝ってあげようか――ハルシャ」
と、静かな艶めいた声で言う。
受け取った服を抱きしめて、ハルシャは急いで言葉を返す。
「だ、大丈夫だ、ジェイ・ゼル。一人で着替えられる」
顔が赤らむのを抑えられない。
彼の前で服を着ることなど、何百回もしているはずなのに、場所が病院だとどうしてだか物凄く恥ずかしい。
ジェイ・ゼルの脅しのような言葉に、ついつい、入り口を仕切るカーテンを確認してしまう。
検査を終えてから病室に戻るハルシャに、看護師の方が、あとで退院後に服用する薬を持ってきてくれると言っていたのだ。
薬を受け取ったら、もう退院できるらしい。
彼女が来る前に、さっさと着替えよう。
心を決めて、ベッドの上で病院着を脱ぐ。
真新しい上着の袖に腕を通すハルシャを、静かな眼差しでジェイ・ゼルが見つめていた。
顔がますます赤くなる。
少し横を向いてくれてもいいのに、と、とちらりと思うが、口にはしなかった。
ジェイ・ゼルに背を向けるようにして服をまとい、ベッドの上で着替え終える。
「痛みはどうだ。動いて大丈夫だったか」
袖口を留めるハルシャに、ジェイ・ゼルが問いかける。
自分を見ていたのは、様子におかしいところがないかを気にしていたのだと、言葉の雰囲気から感じ取る。
「だ、大丈夫だ」
袖を留め、脱いだ病院着を畳みながら、ハルシャは答えた。
「治療のお陰で、どこも痛くはない。心配をかけてすまなかった、ジェイ・ゼル」
「そうか」
呟きが近くなり、後ろから髪に手が滑る。
「それは良かった」
振り向くと、ジェイ・ゼルがすぐ傍にいた。
着替えた自分を見て、彼はにこっと笑う。
「思った通り、君は白がよく似合うね」
そっと指先が髪を滑る。
「髪色がきれいに見える」
灰色の瞳の中に、自分の姿が映っていた。
言葉もなく見つめていると、静かに顔が近づき、額に軽く唇が触れた。
挨拶のような触れ合いだった。
ゆっくりとジェイ・ゼルが離れていく。
手をほどき、距離を取る。
彼はそのままベッドから離れ、病室の片隅にあるソファーベッドのところへ歩いて行った。昨夜、彼はそこで休んだようだ。
朝、夜明けの光に目を覚ますと、ジェイ・ゼルが傍らの椅子に座って、虚空を見つめていた。
深く考え込むような様子に声をかけそびれ、しばらく無言でジェイ・ゼルを眺める。
ひどく疲れた顔をしていた。
自分がたわいなく寝ている横で、ジェイ・ゼルは一睡もしていないのだろうか。
心配になって、かけた声に彼は視線を落としてハルシャを認めた。
途端に、柔らかい笑みが顔に浮かび、疲労の影が消える。
目が覚めたのか。調子はどうだ。痛みはないか?
左手で髪をさらりと梳く。
ジェイ・ゼルの右手は、自分の手を握ってくれていた。
大丈夫だ、とても調子が良い。
だが、ジェイ・ゼルは、大丈夫か? 一晩中起きていたのか?
問いかけるハルシャに、彼は小さく首を振った。
きちんと寝たよ。ほら。
と、顎で部屋の隅にあるソファーを示す。平たくベッド状になっていた。
この個室には付き添い用に、ソファーベッドが完備されているんだよ。そこで眠ったから安心してくれ。
夜明け前につい、目が覚めてしまってね、ハルシャの側に居ただけだよ。
そう、ジェイ・ゼルがこともなげに言う。
ハルシャは彼の顔を見上げる。
でもやはり、一睡もしていないような気がする。
ハルシャは心配性だな。私なら大丈夫だよ
髪を撫でながら、ジェイ・ゼルが呟く。
笑って彼は付け加えた。
顔色も良さそうだ。この分だと無事退院できるね。
彼の予言通り、医師はハルシャに退院の許可を与えてくれた。
今、ジェイ・ゼルは昨日眠ったというソファーベッドを、立てて元に戻しているところだ。帰るための準備なのだろう。
黒い鞄がアップルグリーンのソファーの上に乗っている。
そこに、服を入れて来てくれたのだ。
入院の手続きから、個室を取ってくれるところまで、全てジェイ・ゼルがしてくれたのだと改めて思う。
申し訳なさに、眉を寄せてハルシャは呟いた。
「色々、迷惑をかけてしまった。すまない、ジェイ・ゼル」
ジェイ・ゼルが動きを止めた。
「君が謝ることはない」
声が、背中を向けたジェイ・ゼルから響いた。
「詫びるのは、私の方だ」
重く静かな声だった。
夜明けの光の中で、一点を見つめていた峻厳な表情が不意に蘇る。
虚空に眼差しを向ける彼は、何かを深く考えているようだった。
それ以上の言葉を言えず、ハルシャも黙り込む。
しばらく動きを止めてから、彼は再び作業に戻った。
ハルシャは、ジェイ・ゼルの背中を見守る。
取調室で、警察の理不尽な暴力から自分を守ってくれた背中だった。
揺るぎない信頼が、胸の中に湧き上がってくる。
「ありがとう、ジェイ・ゼル」
詫びの代わりに、感謝を呟く。
「嬉しかった。本当に」
言葉に重なる様に、軽いノックの音が聞こえた。
返事をすると、扉が開かれ看護師の方が約束していた薬を持ってきてくれた。
入り口で、ジェイ・ゼルが代理で受け取ってくれる。
処方を聞き、もう退院していいという言葉に、ジェイ・ゼルは
「色々お世話になったね。ありがとう」
と丁寧に礼を述べている。
言われた看護師の頬が、みるみる赤くなっていく。
「お大事になさって下さいね」
と、言葉を告げてから、彼女は立ち去っていった。
ジェイ・ゼルが笑顔をハルシャに向ける。
「退院のお許しが出たよ。良かったな、ハルシャ。もうネルソンが上で待機してくれている。行こうか」
鞄を手に持ち、促すように明るい声で彼は言った。
ハルシャは、ジェイ・ゼルを見つめる。
どうしてあの有能な看護師の方は、顔を赤らめたのだろう。
ジェイ・ゼルはごく普通の挨拶をしているように思えたのに。
「どうした、ハルシャ?」
ベッドに腰を掛けて動かないハルシャに、ジェイ・ゼルが問いかける。
はっと、意識を戻す。
「薬は受け取ったよ。行こうか」
何が引っ掛かっているのだろう。
胸の奥がもやもやする。
退院できてうれしいはずなのに、先ほど見た光景が脳裏を去らない。
どうして――
ジェイ・ゼルの笑顔に、看護師の方は顔を赤らめたのだろう。
「ハルシャ?」
気づくと、すぐ側にジェイ・ゼルが居た。
悪戯を見つかったように、何だか顔が赤くなる。
自分はなぜ、顔を赤らめているのだろう。
頭を打ったために、何か脳が混乱しているのだろうか。
些細なことが、気になって仕方がない。
「あ、すまない。ジェイ・ゼル」
慌てて靴を履き、ハルシャはベッドから立ち上がった。
「お待たせしてしまった」
ジェイ・ゼルは微笑むと首を振った。
「無理をしなくていい。ゆっくりでいいよ、ハルシャ」
促されて病室を出る。
出た途端、ハルシャは驚きに足を止める。
そこには、マシュー・フェルズが立っていた。
「ジェイ・ゼル様」
彼はすっとジェイ・ゼルの傍へ寄ってきた。
「お迎えに参りました」
「ご苦労だね。ありがとう、マシュー」
マシューはジェイ・ゼルが手にする鞄を慣れた手つきで受け取る。
「会計も、もう済んでおります。このまま駐車場へお向かい下さい」
「助かるよ」
支払い。
しかも個室だ。
個室は高いはずだ。その支払いをジェイ・ゼルにさせるなど申し訳ないことだ。
気付いたハルシャは、慌ててジェイ・ゼルを見上げた。
「ジェ……ジェイ・ゼル」
小声で彼に語りかける。
「入院代は、私が支払わせていただかなくては……治療代も……」
「ハルシャが気にすることはない」
すっぱりと、断ち切る様に強い口調で言うと、彼は背中に手を当てて、促すように歩き始めた。
「ネルソンが待っているからね。行こうか」
温かい手に後押しされて、病院の廊下を歩く。影のようにマシューが従った。
ジェイ・ゼルは愛想良く、すれ違う看護師の方たちに辞去の挨拶をしている。
世話になったね、ありがとうと言う度に、看護師の方たちの顔が華やかになる。
ハルシャも丁寧に礼を述べるが、何よりも挨拶を返す彼女たちの反応が気になった。
どうして皆、顔を赤らめるのだろう。
ごく普通にジェイ・ゼルは言葉をかけているだけなのに。
そして、どうして。
自分はそんなことが気になってしまうのだろう。
そう言えば。
ジェイ・ゼルと会うのは、これまで料理店と『エリュシオン』という二つの場所しかなかった。他の人の反応など気にもならなかったのに。
なのに……どうして自分は。
取調室で身に覚えのない罪を自白しろと迫られ、そこを助けてもらって安心しているはずなのに。
ジェイ・ゼルの笑顔に、みなが顔を赤らめることが妙に心をさざめかせる。
とてもつまらないことに、自分はこだわっている。
釈然としないまま屋上の駐車場へたどり着き、後部座席にジェイ・ゼルと並んで座った。
マシューは前の席に腰を落ち着け、ネルソンと短く言葉を交わしている。
「待たせたね、ネルソン」
「いいえ、ジェイ・ゼル様」
短い沈黙の後、彼は小さく呟いた。
「ご退院、おめでとうございます」
マシューはあまり自分のことを気にかけていなかったようだが、何だかネルソンは心配してくれているようだ。
そうだ。
この病院へ連れて来てくれるとき、車中で気分が悪くなったハルシャのために、彼は走って看護師を呼んできてくれたのだ。駐車場へ駆けつけた数人の看護師たちの手によって、ハルシャはストレッチャーに乗せられて、検査に向かった。
迷惑をかけたのだと、改めて思う。
「ありがとうネルソン」
ハルシャは身を乗り出すようにして、彼に声をかける。
「お陰で元気になった」
ネルソンが顔をハルシャに向ける。
静かな笑みが彼の顔に浮かんだ。
「良かったです。お元気になられて」
隣で静かにジェイ・ゼルが微笑む。
「やってくれ。ネルソン」
「はい。ジェイ・ゼル様」
飛行車が浮き、ネルソンは丁寧に操って空間を滑っていく。
どうやら北の方角へ向かっているようだ。
それにしても……マシュー・フェルズがさっきから、後ろを気にしていた。
「ジェイ・ゼル様」
彼が小さく呟く。
「やはり、一台います」
一台? 飛行車だろうか。
振り向いて後ろを確かめようとしたハルシャの動きを、ジェイ・ゼルの手が制する。
腕に捕らわれて、引き寄せられた。
「大人しく座っていてくれないか、ハルシャ」
優しく呟いてから、ジェイ・ゼルが前を向く。
「まいてくれ、ネルソン」
「承知いたしました。少々荒い運転になるかもしれません。お気を付けください」
「大丈夫だよ。頼んだね」
ぐっとジェイ・ゼルの腕に力が籠る。
「しっかり私に掴まっていなさい、ハルシャ」
その言葉の意味を、数分後にハルシャは思い知る。
朝の通勤時に当たっていたために、ラグレンの空には飛行車が列をなしている。
その中を静々と進んでいたのに、ネルソンは突然方向を転換した。
遠心力で身が外に振られる。
ぐっとジェイ・ゼルの腕に力が入り、ハルシャは固く彼に留められたような形になる。
ネルソンは大きくカーブを描き、ラグレンの空を今度は東に向かった。
通常の高さよりもかなり低い所を駆け、建物の間を縫うようにして進む。
車体ギリギリのところを建物がかすめ、ハルシャは思わず声が出そうになった。
どうやら、病院から出た時自分たちは後をつけられていたようだ。
ネルソンはそれを振り切っている最中らしい。
パニックになりそうなのはハルシャだけで、ジェイ・ゼルをはじめ他の人たちは慣れているのか平然としている。
ハルシャは必死に叫び声を飲み込んだ。
建物の間をすり抜けてから、ネルソンの運転が変わった。
「まいたようです。車体が消えました」
マシューの声が静かに響く。
「もう少しこのまま進んでから、戻ってくれるか。ネルソン」
ジェイ・ゼルの指示に
「はい、ジェイ・ゼル様」
と、ネルソンが普段と何一つ変わらない声で言う。
いつもの穏やかな車内が戻り、ハルシャはドキドキとしていた心臓の音を収めようと儚い努力を続ける。
「気分が悪くなってないか」
ジェイ・ゼルが小さな声で問いかける。
「大丈夫だ」
ハルシャはまだ轟く心臓の音を聞きながら、答える。
しばらくしてから、ジェイ・ゼルを見上げて問いかけた。
「誰かに、つけられていたのか?」
ジェイ・ゼルの視線が落ち、静かな笑みが浮かんだ。
「私には、敵が多いからね」
それ以上の質問を封じるような言葉だった。
納得するしかない。
その後会話が途切れ、飛行車の中には静寂だけがあった。
やがて、ネルソンは軌道を変え、静かに西へと進路を取る。
中心部へ戻るようだ。
十数分後、飛行車が降りたのは、見慣れた場所だった。
ジェイ・ゼルの自宅だ。
「降りようか、ハルシャ」
どうやら、ここが目的地のようだ。
ジェイ・ゼルに促されて、飛行車から出る。
「少し、ここで待っていてくれ」
車内の二人に言い残して、ジェイ・ゼルが歩き出す。
彼は空手だった。黒い鞄は飛行車の中に残している。
一日前と同じように、ジェイ・ゼルは認証機に手を触れて、自宅へと繋ぐ。
光に包まれて降り立った場所は、もう目に馴染み始めたジェイ・ゼルの部屋だった。
「サーシャに逢いたいだろうが、少し事情があってね。ここでしばらく過ごしてくれないか」
降り立った玄関で、ジェイ・ゼルが呟く。
「リュウジにはもう伝えてある。サーシャのことは、彼が責任を持って面倒をみてくれるようだ。
だから」
灰色の瞳が自分を見る。
「安心してくれ、ハルシャ」
事情があるというのが、警察との絡みだとハルシャは気付いた。
来る時に気にしていたのも、自分の行方をラグレン警察が追っているからなのだろう。
ジェイ・ゼルが最善と思ってすることを、ハルシャは全面的に信頼しようと心に呟く。
「解った、ジェイ・ゼル」
素直な言葉に、ジェイ・ゼルが微笑んだ。
「まだ数日は安静にするように、医師が言っていたね」
背中を押すようにして、彼が歩き出す。
「午前中は、ベッドの中で過ごすんだよ、ハルシャ」
昨日の朝まで、一緒に眠った寝室へ
「これから、少し済まさなくてはならない用事がある。午前中で終わると思うから、それまで一人で大人しくしていてくれるか、ハルシャ」
彼はパジャマも用意してくれていたようだ。
きれいに整えられたベッドの上に、ハルシャ用のパジャマが置いてある。
手にした途端、驚く。
絹だ。
高価な品に、唖然とした顔を向ける。
にこっと、ジェイ・ゼルが笑う。
「サイズはぴったりなはずだよ。それを着て養生しておくれ」
部屋にあるものは、何を食べても何を飲んでも構わない。退屈なら書斎に本がある。
てきぱきと指示をし、パジャマに着替え終えたハルシャを布団に包んでから、ジェイ・ゼルが呟く。
「昼までには戻ってくるから、一緒に食事をとろう」
額に軽く、唇が触れる。
「いい子にしていたら、ご褒美を上げるからね」
ご褒美、という言葉に、かつてクラヴァッシュ酒を口移しにしたことが不意に蘇り、顔が赤くなる。
おや、とジェイ・ゼルが眉を上げて額に手を触れる。
「顔が赤いが、熱はないね」
サラサラと、髪に手が触れる。
「私以外は拒否するように、認証機を設定しておくから安心して眠っていなさい」
「解った。ありがとう、ジェイ・ゼル」
彼の香りがする布団に包まれて、ハルシャは言葉を返した。
優しい笑みがジェイ・ゼルの顔に浮かぶ。
「いい子だ」
髪をさらりと撫でてから、彼の手が離れた。
「独りにしてしまって、すまないね」
大丈夫だというハルシャに微笑みを与えて、彼は寝室を出て行った。
もう出かけたのかと思ったら、暫くして水と軽い食べ物を運んできて、ベッドの傍の小卓に乗せる。
それだけの準備を終えると、
「なるべく早く戻るからね」
と、優しく呟いてから、今度こそ彼は部屋を出たようだ。
音が途切れ、静寂が部屋を支配する。
ジェイ・ゼルは、自宅にハルシャをかくまうことが、一番安全だと判断したのだろう。
彼の考えを全面的に信じて、ハルシャは滑らかなシーツに身を沈め、天井を見上げた。
この場所には――ジェイ・ゼルの気配が満ちている。
彼の懐に包まれているようで、何だかとても安心する。
ジェイ・ゼルは、自分以外は部屋に入れたことがないと、言っていた。
天井を見つめ続ける。
どうして。
自分はジェイ・ゼルの笑顔に、他の人が頬を赤らめることが気になったのだろう。今まで覚えたことのない感情が内側に湧き上がり、ハルシャは自分自身に戸惑っていた。
ジェイ・ゼルは、自分のために奔走してくれている。
そのことを、もっと真摯に考えるべきなのに。
なぜ――
こんなつまらないことが、気にかかってしょうがないのだろう。
静寂の中で、ジェイ・ゼルが話してくれた辛い過去のことが、脳裏をよぎる。
彼の手は――
自分以外にもたくさんの人に触れていたのだと、なぜか気付いてしまう。
強制された運命に、彼は逆らうことが許されなかった。
それは、解っていた。
何一つ、ジェイ・ゼルは悪くない。
過去も含めてそれがジェイ・ゼルの全てだ。
解っている。
なのに。
どうして、気になるのだろう。
これまで考えたことすらなかったのに――
自分の内側の混乱に耐えきれず、ハルシャはぎゅっと目を閉じ、打った右側を上にして布団に丸くなる。
眠ろうと心を決めて、目を閉じ続ける。
だが、眠りがなかなか訪れなかった。
薄闇の中で耳にした、優しい子守唄を必死に思い出す。
記憶を頼りに、ハルシャは一人でその歌を口ずさんだ。
ジェイ・ゼルが歌ってくれたように、穏やかなリズムで。
彼が傍らにいるかのように。
不意に、深く優しく愛してくれた記憶が蘇る。
歌が途切れた。
どうして、こんなに彼が恋しいのだろう。
昨日も一晩中側に居てくれて、さっきまで一緒だったというのに。
昼には戻ると約束してくれた。
大人しく待っていれば良いはずだ。なのに。
わずかな別離が、こんなにも切ないのだろう。
「――ジェイド」
小さく彼の本当の名を呼ぶ。
彼が教えてくれた、宝石の名前。
唇を引き結ぶと、ハルシャは布団を頭までかぶり、彼の匂いの中に身を浸した。
再び小さな声で子守唄を口ずさむ。
彼が側に居ないことが、どうしてこれほど寂しいのか――その理由がハルシャには分からなかった。
震える身をなだめながら、ハルシャはただ、子守唄を小さく歌い続けた。