ほしのくさり

第196話  ラグレンの浄化装置






 夜の都心ラグレンは、銀河の中心のようだ。

 飛行車の窓から見下ろしながら、リュウジは心に呟いていた。
 輝く星々が、それぞれ一個の恒星であるように、この光の粒一つ一つも誰かの人生を照らす明かりなのだろう。
 恐らく一生巡り合うことも言葉も交わすこともない人々が、この光の下にいる。
 その中で、ハルシャたちと出会ったのは、奇跡のようだ。
 散りばめられた光の傍らにいる、無数の命と人生のことを、ふと、思う。

 ジェイ・ゼルは、一時間半ほどしてハルシャの病室に戻って来た。
 明日の退院に備えてか、ハルシャの着替えも用意してきたらしい。出る時には持っていなかった鞄を携えていた。
 遅くなった詫びを述べるジェイ・ゼルの顔に、深い疲労が滲んでいることにリュウジは気付いた。
 何かがあったのだと、敏感に読み取ってしまう。
 けれど、敢えて詳細を尋ねることを避けて、リュウジはただ、ハルシャはぐっすり眠っていて、一度も目を覚ましませんでしたと報告をし、彼が元気そうで安心しましたと、笑顔で付け加える。
 彼はその時だけは、微笑みを浮かべた。
 明日の再会を約して、リュウジはヨシノと共に辞去する。
 ふと――
 去り際に扉の前で振り向いた時、ジェイ・ゼルは眠るハルシャの傍らに佇み、優しく髪を撫でていた。
 病院の消灯時間を迎えて明かりが抑えられた中に、彼の顔が浮かんでいる。
 切ないほどの慈しみを湛えて、ジェイ・ゼルはハルシャを見つめていた。
 髪を撫でる手がハルシャの頬に滑り、優しく指先で左の頬に触れる。
 じっと動かずに、ジェイ・ゼルは頬に手を当てていた。
 愛しげに視線を向けながら、彼は無言で佇み続ける。
 声をかけるのがためらわれ、そのままリュウジは病室を後にした。

 その時の場景が、今も胸を締め付ける。
 マイルズ警部の忠告があっても、ジェイ・ゼルは傷ついたハルシャを警察から連れ出さずにはいられなかったのだろう。
 取調室から出すために、彼は相当無理をしたのではないかと、リュウジは考えていた。
 『アルティア・ホテル』へ戻る道すがら、都心ラグレンをただ眺め続ける。

「警部は」
 ホテルの看板が見え始めてから、ようやくリュウジは口を開いた。
「もう、部屋にお戻りだろうか」
 外の風景を眺めたまま呟いた言葉に、
「恐らく、お戻りだと思います。遠出をせずにホテル内でお食事をされると、聞き及んでおります」
 と、ヨシノが明確に答える。
「そうか」

 明日。
 ジェイ・ゼルと今後について話し合わなくてはならない。
 ラグレン警察は、なりふり構わずハルシャを捕えようとした。
 それなら、こちらも手段を選ばない。
 リュウジは、光の洪水のような街を見つめる。
 この中に潜む狡猾な毒蛇の首を叩き切らなくては、ハルシャはこの先も命を狙われる。
 それだけは、許せなかった。

 ヨシノが的確な操作で『アルティア・ホテル』の駐車場に停め、扉を出た途端、駐車場に置かれた椅子に座るマイルズ警部の姿が目に飛び込んできた。
「マイルズ警部」
 呟いてから、リュウジは小走りに彼に近づいた。
「どうしたのですか、こんなところで」

 警部は、頭の後ろで手を組んで、リラックスした様子で長椅子に座っていた。
 空を眺めていたようだ。
「ここから、星が良く見えるなと思ってな」
 リュウジを認めると腕を解き、にこっと笑った。
「どうだ。食事は楽しめたか? 坊」
「はい。心づくしの料理でした」
「そうか。それは良かった」
 警部は再び空へ目を向けた。
「実はね、坊。本部から連絡があって、そろそろ帝星へ戻らなくてはならない」

 マイルズ警部の顔を、リュウジは見つめる。
 多忙な部署の重鎮であるディー・マイルズ警部の不在が、捜査に支障を来し始めたのだろう。
 それを伝えるために、警部は自分の帰りを待っていてくれたのかもしれない。
「――僕のわがままのため、長期間お引止めして申し訳ありませんでした。後は僕の力で何とか出来ると思いますので、どうか、お気兼ねなくお戻りください」
 視線を落として呟いた言葉に、警部が小さく笑った。
「そういう意味で言ったんじゃないよ、坊」
 視線を上げると、マイルズ警部は微笑みながらも強い眼差しをリュウジに向けていた。
「決着をつけようか、そろそろな」
 言ってから警部が立ち上がった。
「ヨシノの部屋へ行こう」
 椅子から離れ歩き出す。
「坊と俺の部屋には、留守の間にラグレン警察が何かを仕込んでいるかもしれない。俺たちの存在は煙たいようだからな」
 盗聴器が仕込まれている可能性を、マイルズ警部が指摘する。
 だから、部屋に入る前に駐車場で待っていたのだと、悟る。
「はい、解りました、警部」



 ヨシノは部屋に着いて、すぐに盗聴器の確認をしていた。
 小型の探査機があるのだ。
 一通り調べてから
「今のところ、大丈夫なようです」
 と、リュウジに告げる。
 念のために、と、ヨシノは盗聴防止用の|ジャミング《妨害電波》発生装置を作動させていた。
 ヒューっと、警部が口笛を鳴らして、ヨシノの手際を褒めている。
「ちょっとした諜報機関並みだな」
吉野ヨシノは色々な場面を想定して動いてくれます」
 素直な言葉をリュウジは呟く。
「本当にありがたいです」
 にこっと、警部が微笑む。
「心強いな」

 ソファーに警部と向き合って腰を下ろし、本題に入る。
「アンディとナロウに今日、レズリー・ケイマンが拉致監禁されていた場所のことを調べてもらっていた。パショネル地域にある一戸建てだ。ここからだと北に当たる。サジタウル・ゲートから少し離れた郊外だな。
 で、だ」
 警部は静かに言葉を続けた。
「廃屋になっている建物の床下に、遺体らしき有機物の塊の存在が確認された」

 埋められた遺体を発見するために、人体の組成に特化した有機物の地中レーダー探査機を汎銀河帝国警察機構は使用する。カラサワ・コンツェルンのレーダー探査部門が独自に開発したものだ。
 どうやら探査機に、遺体の形状のものが引っ掛かったらしい。
「もちろん、所有者の許可を得ない不法侵入で調べたからな、それ以上のことは出来なかったが――もう一つ、特筆すべきことがあってな、坊」
 静かな眼差しを向けながら、警部が言葉を続ける。
「レズリー・ケイマンが13年前に拉致監禁されていた家だがな、現在の所有者は誰だと思う?」
 問いに、リュウジは瞬きをした。
 考える沈黙の後、はっと気づいてリュウジは声を放った。
「まさか」
「そう、そのまさか、だよ」
 さらりと言う警部の言葉に続けて、リュウジは呟いていた。
「レズリー・ケイマン、ですか?」

 うん、うんと警部がうなずく。
「ご明察。そう、自分が誘拐された場所を、レズリー・ケイマンは買い取って所有している。それまでは、バルドーという人物の持ち物だったらしい」
「つまりそれは――」
「レズリー・ケイマンは、あの家が他の誰かの手に渡って、床下を掘り返されたくなかったらしい。自分の悪事がばれるのを、未然に防いだんだろうな。賢い男だ」

 だとすれば。
 床下に埋められている遺体は、本物のレズリー・ケイマンである可能性が高い。

「掘り返して遺伝子情報を調べれば、遺体がレズリー・ケイマンかどうか解りますね」
「そうだな。だが、どうやって許可を取るか、だな。正攻法で行っても、あのレズリー・ケイマンが許可を出すとは思えない。こっちが勝手に不法侵入をして調べたことで、逆に訴えられる可能性もある。難しいところだ」

 そうか。
 リュウジは考える。
 こちらがなぜ遺体の情報を掴んでいるかを指摘されれば、苦しい立場に立たされる。それよりも埋まっているものが遺体でなければ、もっと厄介な事態になる。

「それに」
 小さく、警部が付け加えた。
「レズリー・ケイマンが偽物だとバレたとしても、誘拐犯が本物のレズリー・ケイマンを殺し、自分は入れ替わる様に強要されたと言い逃れをされたら――罪状は詐欺罪にしかならない」

 腕組みをすると、警部は天を仰いだ。

「政治の表舞台からは失脚するかもしれないが、殺人罪に比べれば、刑は軽くなる。出所後、恨みを抱いてハルシャくんに復讐しないとも限らない――かえって危険な人物にしてしまう可能性も無きにしも非ず、だ。
 難しいところだな」

 警部は視線を上に向けたまま黙り込んでいる。
 リュウジは口を開いた。

「ハルシャのご両親の殺害の関与については、いかがですか」
 目を細めて、マイルズ警部は呟いた。
「五年前、ヴィンドース夫妻の事件を調査していた人物に話を聞くことが出来た。シレルとマックスが当たってくれてね」
 ようやく視線をリュウジに向けると、警部は静かに続けた。
「彼の話では、夫妻殺害につての調査はほとんど行われていないそうだ。上層部から調査の停止を命じられたようだ。
 理由としては、外部のテロ組織の犯行だから、捜査部署を変えるというものらしい。
 彼は――やり方に納得がいかずに、結局警察を辞めて今は警備員をしている。もし必要なら、汎銀河帝国警察機構に証言をすると言ってくれている。
 警察内部でも、ヴィンドース夫妻の事件については、納得がいかない者たちが多いとシレルが言っていた。上手く持って行けば、複数の証言を引き出すことは出来るが、しかし、それが現警察署長のヴィルダイン・ハーベルがラグレン政府と組んで下した命令だという証拠はどこにもない。
 夫妻の事件を突き詰めても、警察の調査の怠慢を指摘するぐらいのことだ。
 ラグレン政府がスクナ人を使って夫妻を殺害したという証拠が、どこにもないんだよ。残念ながらね」

 リュウジは大きく息を吐いた。
「――都心ラグレンに、スクナ人が存在するということの証明も、難しいのですね」

 マイルズ警部はすぐに答えなかった。
 リュウジは目を上げた。
 警部は腕を組んだまま、沈黙している。

「実はな、坊」
 ヘイゼルの瞳が自分を見つめている。
「ちょっと厄介な事態かもしれない。スクナ人の存在を突き詰めていくと、な」
 言い方が気になった。
「どういうこですか、警部」
 短い息を吐いてから、マイルズ警部が口を開いた。
「結論から言うと、スクナ人はどうやら都心ラグレンに存在する。確実に。しかもラグレン政府の管理下にあるようだ」

 ぱっと、リュウジの顔が明るくなる。
 見通しがいきなり立ったようだ。
 スクナ人の使用は、150年前から禁じられている。
 だとすれば、簡単にラグレン政府を摘発できる。

「なら、その違法性を指摘すればいいのではないですか」
 弾んだリュウジの言葉に、すぐに警部は言葉を返さなかった。
 しばらく沈思黙考してから、おもむろに口を開く。
「スクナ人を保有していることが公になれば、帝国法において、スクナ人の撤去が命じられる。
 そうなるとな、坊」
 瞬きを一つしてから、警部は静かに語った。
「都心ラグレンは、人が生存できないエリアになってしまう」

 リュウジは無言で警部を見つめ続けていた。
 言っている意味が、すぐに理解できない。

「都心ラグレンの歴史は古い。三百年は越えている。銀河帝国草創期から存在する貴重なコロニーだ」
 静かな声でマイルズ警部は語り続ける。
「三百年前――スクナ人は違法ではなかった。むしろ人々は積極的にスクナ人の能力を開発し、利用した。
 その頃に、都心ラグレンは作られたんだ。解るかな、坊」
「はい、解ります」
 リュウジの答えに、警部は静かに微笑んだ。
「ハルシャくんの祖先が惑星トルディアの大気から有害物質を特定し、分離する方法を見出した。それによって、浄化された空気をたたえたコロニーが作られ、人々は惑星トルディアに栄えることが出来た。
 さて、ここで質問だ。
 都心ラグレンが存続するためには、外部から大気を取り込み、常に浄化する必要がある。
 これだけ巨大な空間の空気を浄化し続ける装置の動力源――それは、何だと思う、坊?」

 考えてみたこともなかった。
 自分が今座っているこの場所。
 空気が浄化されているからこそ、たくさんの命が息づいている惑星トルディアの都市――
 都心ラグレンは、自分が知る中でも巨大なドームだ。
 住民たちの命を守るために動き続ける装置なら、相当巨大なものだろう。
 それを休みなく動かし続ける。
 その動力源。
 三百年間命を支え続けている装置。
 浄化装置の、動力源。
 この都市が作られたのは、三百年以上前――

「まさか」
 にこっと、再び警部が笑った。
「俺もまさかと思ったよ。クディンサから聞かされた時にね」
 部下の名を挙げながら、警部は静かに微笑む。
「坊。思わないか。地上にあるというだけで、ここは宇宙船によく似ている。有害な大気を浄化し命を生かすために、装置が動き続けている。
 三百年前に作られた宇宙船と同じものを、この都心ラグレンは大気の浄化装置の動力源にしているんだよ」

 言葉を切ると、窓へ顔を向けて、警部は都心ラグレンの街の光を見つめた。

「都心ラグレンの大気浄化装置は、スクナ人を動力源にしている。政府が厳重に管理する場所で、スクナ人は三百年前からラグレンの大気を浄化し続けていたんだ」

 街の光から、警部が視線をリュウジに向けた。

「違法であることが発覚すれば、銀河帝国法に基づき、スクナ人の撤去が命じられる。そうなると、浄化装置を動かすことが出来ず、すぐに人々は都心ラグレンで生活することが不可能になる」

 意外すぎる事柄に、リュウジは動くことが出来なくなった。
 スクナ人の存在を摘発することは、このラグレンを滅ぼすに等しい。
 なんということだ。
 恐怖に近い衝撃が、身を襲う。
 静かな声で、警部が続けた。

「汎銀河警察機構に、スクナ人のことを報告するのは簡単だ。
 帝星から優秀な捜査員が派遣されて、すぐに不正を摘発するだろう。
 だが、そうなると、都心ラグレンは死の街になる。
 ハルシャくんの先祖が作り上げた栄光の街が、人の住めない都市となる――坊。これはとても難しい問題だ。
 ハルシャくんのご両親の死の原因を明らかにすれば、都心ラグレンの存亡にかかわる事態になる。
 慎重にことを運ぶ必要がある」

 リュウジは、額に手を当てて考え込む。
 スクナ人を動力源として設計されているものは、システムの改変が難しい。
 これほどの規模のドームを支える浄化装置の動力源となれば、宇宙船三基分の動力源を必要とするかもしれない。
 だが、問題はラグレンに水がないことだ。
 宇宙船は過燃焼を防ぐために、航行中は絶対零度に近い宇宙空間の冷気を利用している。
 けれど都心ラグレンではその方法は使えない。
 惑星ガイアや帝星では、豊富にある水を冷却水として使うが、その手も封じられる。
 八方ふさがりだ。
 三百年の昔から、浄化装置の傍で働き続けるスクナ人のお陰で、都心ラグレンは栄えて来た。
 不用意にスクナ人の存在を指摘したら、この街自体を滅ぼすことになる。
 だから――
 慎重に口をつぐみ、ラグレンの歴代の政治のトップたちは秘密を守り通してきたのだろうか。
 極秘だったからこそ、暗殺の手段としてスクナ人の力を使うことが出来た。
 そういうことなのかもしれない。

 恐ろしいことだ。
 自分たちが判断を誤れば、都心ラグレンを死の街にしてしまう。
 スクナ人という、開けてはならないブラックボックスを、三百年間、都心ラグレンは封じ続けて来た。
 スクナ人の能力に匹敵するほどの動力源は、現在銀河系の上には無いと言っても等しい。
 それほどまでに、彼らの能力は優れていた。
 今でも闇でスクナ人の取引が行われるのは、それが理由だった。

 事態を理解し黙り込むリュウジに、
「事情を話し、帝国に動力源の代替法が決まるまで、撤去の猶予を願う、という方法ももちろんある。人命が第一というのは、帝国法の基本だからな」
 と、優しい声で警部が告げる。
 けれど、代替の方法を模索するのも、大変だろうという予感はした。

 ふと、会話が途切れた。
 想いをそれぞれ抱えながら、沈黙する。

「明日」
 静寂を破って口を開いたのは、リュウジだった。
「ハルシャの退院後、ジェイ・ゼルと話し合う予定をしています」
 警部を見つめて、はっきりと宣言する。
「レズリー・ケイマンと現警察署長ヴィルダイン・ハーベルは裏で手を組んでいます。あの二人をこのまま、ラグレンの政治の表舞台に置いておくことを、僕は許せません。
 リンダ・セラストンは、宇宙海賊時代にセジェン・メルハトルの遺伝子サンプルを取得しています。それとレズリー・ケイマンの遺伝子が合致すれば、彼が偽物だと証明できます。その証拠を元に、誘拐事件のあった家の家宅捜査を申請すれば、通るのではないでしょうか」

 警部はしばらく考えていたが、小さく頷いた。
「それは、良い手かもしれないな。しかし」
 ヘイゼルの眼がリュウジに向けられる。
「そこにどうして、ジェイ・ゼルを噛ませるんだ。彼は『ダイモン』の組織に属している。イズル・ザヒルは彼に対して、レズリー・ケイマンとハーベル警察署長と懇意にするように指示をしている。
 ジェイ・ゼルを、『ダイモン』に背かせるつもりか。
 そうなると、彼の命が危ないぞ。イズル・ザヒルは裏切り者に容赦しない。それがたとえ幹部であってもな」

 リュウジは黙り込んでから、再び口を開いた。

「彼には、決して迷惑はかけません。ただ、知っておいて欲しいのです――ハルシャを助けるためには、ラグレンに潜む毒蛇の首を切るしかないということを」
 真っ直ぐな目を、警部に向ける。
「僕は、ジェイ・ゼルを誤解していました。ハルシャのご両親の死の原因を知りながら、彼はハルシャを囲い込んでいるのだと思っていたのです。
 でも、違いました。
 事実だと悟った時の、ジェイ・ゼルの苦渋に満ちた表情が忘れられません。
 僕は――もう、こんな悲劇を止めさせたいのです。
 誰かの利益と思惑のために、踏みつけにされ苦しむ者が、もう無いように」

 ハルシャが身をもって庇ったから、サーシャは欲望のはけ口となることを免れた。
 そのことを、思う。
 彼らの境遇に、悔しさと苦しさが込み上げて、目に涙が滲む。

「罪を犯した者が、それにふさわしい正当な罰を受ける――当たり前の正義が通る世界になる様に、僕は祈らずにいられないのです。
 ハルシャとサーシャは犠牲者です。
 それと同じように、ジェイ・ゼルもまた、犠牲者なのだと僕は思います。
 彼らが心から笑える日のために、僕は自分に出来る精一杯のことを、したいだけなのです。
 無駄だ、愚かなことだと言われても……僕は、信じたいのです。
 公平な宇宙は見ていてくれている。
 何が正しいのか、何が間違っているのか――全てを知悉して、必ず正しい裁きをつけてくれる。
 今は無理でも、三十年後でも、百年後でも――この世界には正義が存在するのだと、僕は、信じていたいのです」

 五歳の時。
 自分を守り包んでくれていた両親の腕の温もりを、自分は忘れてしまった。
 サーシャは覚えているのだろうか。
 彼女を愛した両親が居たことを。
 もし、悲劇が起こらなければ、自分たちは今も両親とともに暮らしていたはずだ。
 失ってしまったどうしようもないものが、胸を締め付ける。
 この悲劇は、誰かが利益を得ようとしたために、生じた。
 血の涙を絞る者たちを踏み付けにし、笑っている人たちがいる。
 それがどうしようもなく、やるせなかった。

「――ジェイ・ゼルは、ハルシャを苦しめてきたことに心から傷ついていました。
 彼は、ハルシャの幸せだけをただ、祈ってきたのだと思うのです。それなのに、ハルシャを傷つけることしかできなかった自分自身に対して、深く悲しんでいました。声なき慟哭を聞いたように思えたのです」

 かつて、ハルシャとサーシャが幸せだったらいいと告げた自分に、ジェイ・ゼルは微笑みながら返した。
 幸せとは、難しい要求だ。幸福も不幸も、外側ではなく、内側にしか存在しないものだと。
 はぐらかされたように感じたのを覚えている。
 だが、違ったのかもしれない。
 ジェイ・ゼルはハルシャが幸せであるように、懸命に努力を重ねていたのかもしれない。
 それがハルシャにとって、本当の幸せになるのかを、常に不安に感じながら。
 それでも、彼は、ハルシャから借金を取り立てなくてはならなかった。
 どれほど辛かったのだろうと、今更ながら気付かされた。
 あれは、ジェイ・ゼルの切実な言葉だったのだ。
 ハルシャの借金が清算された時の、疑いようのない心からの笑顔を、思い出す。
 あの時――
 誰よりもジェイ・ゼルは喜んでいた。
 その想いの深さを、改めて感じる。

「ジェイ・ゼルは、ハルシャの身の安全を誰よりも望んでいるはずです――だから、彼に聞いて欲しいのです。ハルシャを真に自由にするために、僕が為そうとしていることを。
 もしかしたら彼の立場上、反対を受けるかもしれません。
 リスクは承知の上です。
 それでも――僕はジェイ・ゼルの、ハルシャに対する思いを信じたいのです」

 言い切った後の顔を、マイルズ警部はじっと見つめていた。
 ふっと、彼は笑った。

「そうか」
 ぽつりと警部が呟く。
「それなら、俺も坊を信じるよ」

 その言葉を受けて、リュウジは心にある計画を全て警部に打ち明けた。
 ふんふんと、頭を揺らしながら警部が聴く。

「なるほど。だが、レズリー・ケイマンに直接どうやって会うつもりだ?」
 警部の言葉に、リュウジはにこっと笑った。
「そこはきちんと考えています」
 ほう、というようにマイルズ警部が眉を上げる。
「どうするんだ、坊」
 リュウジは静かに笑みをたたえたまま言う。
「お祖父さまに一肌脱いでもらいます――カラサワ・コンツェルンは新規事業を都心ラグレンで行うつもりだ……利に敏いレズリー・ケイマンなら、総帥の代理人にきっと会うでしょう。
 そこはお任せ下さい、警部」






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