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事務所へたどり着いてすぐに、ジェイ・ゼルは事務室の奥の私室へ入った。
出て来るまで声をかけないでくれと依頼して、自室を通り抜け、
自分がラグレン警察ともめたことを、どうしても伝えておく必要があった。
本来なら、警察からすぐに連絡を入れるべきだった。だが、ハルシャの傍らを離れることが出来なかったのだ。その詫びも込めて、
呼び出し音二回で、すぐに回線が繋がった。
イズル・ザヒルはゆったりと椅子に座っていた。
その様子から、もしかしたら彼は自分を待っていたのかもしれないという予感がした。
薄青い瞳を画面越しに向けてから、彼は静かに微笑んだ。
『そろそろ、連絡を入れてくるだろうと思っていたよ、ジェイ・ゼル』
情報収集能力に優れた
言葉をすぐに発することが出来ないジェイ・ゼルの耳に、
『どうやら、ラグレン警察と揉めたようだね』
と、穏やかな声が響く。
ふふっと、笑いながら、種明かしをするように、彼は呟いた。
『レズリー・ケイマンから、苦情があったよ。君が警察機構の邪魔をしてきたと――』
笑みを深めて
『聞かせてもらおうか。何があった、ジェイ・ゼル』
レズリー・ケイマンがイズル・ザヒル様に直接苦情を入れた。
そのことが、マイルズ警部が話していたことと妙に符合し、鼓動が早くなる。
「申し訳ございません」
『聞きたいのは、詫びではない。事実の説明だ。ここで私は君が連絡を寄越すのを待っていたのだよ』
さあっと、冷たいものが背中を滑り落ちていくようだ。
『随分時間がかかったようだね、ジェイ・ゼル』
じとりと、背中に汗が滲んだ。
「申し訳ありません、ハルシャ・ヴィンドースの病院に付き添っておりました」
ジェイ・ゼルの言葉に、ぴくっと、イズル・ザヒルの眉が痙攣した。
『君は』
姿勢を少し崩し、画面の方へ身を乗り出すようにして、イズル・ザヒルが問いかける。
『ハルシャ・ヴィンドースと関係を切ったはずではないのかね?』
「いえ、
ジェイ・ゼルは落ちかけていた視線を上げて、真っ直ぐにイズル・ザヒルへ眼差しを向けた。
「彼とは――人として生涯向き合っていきたいと、新たに思い直しました」
画面に見えない下で両手を握りしめて、言葉を続ける。
「契約に縛られた関係ではなく、大切な伴侶として――彼と共に生きていきたいと考えております」
言い切った言葉の強さに、一瞬イズル・ザヒルが眉を寄せた。
『ハルシャ・ヴィンドースも、それを承知しているのか』
一瞬の間の後、
「はい」
と、ジェイ・ゼルは一言、応えた。
薄青いイズル・ザヒルの瞳が、内側の覚悟を見透かすように、じっと自分に注がれている。
「ご報告が遅くなって申し訳ありませんでした。格別なご配慮をいつもイズル・ザヒル様に頂戴しながら、ないがしろにするような真似を……」
視線が落ちていく。
「ハルシャのことは、改めてお耳に入れるつもりでした。申し訳ありません」
イズル・ザヒルからの言葉はなかった。
重苦しい沈黙の後、ようやくジェイ・ゼルは口を開いた。
「そのハルシャ・ヴィンドースに対して、ラグレン政府と警察は、罪状をつけて捕え、犯罪者として汚名を着せようと働きかけを行っておりました。
以前、ご迷惑をおかけしたシヴォルトも、その企みに加担していたようです」
『シヴォルトが?』
「はい。シヴォルトはラグレン警察を通じて、違法な駆動機関部をハルシャに作らせるように依頼を受けたようです。
私の感知しない場所でシヴォルトは仕事を請け、ハルシャに作らそうとしていました。サーシャ・ヴィンドースが誘拐される少し前のことです」
イズル・ザヒルの表情が動いた。
『とすると、それは、ハルシャ・ヴィンドースが借金を完済する前のことだね』
「はい、そうです。
と、ジェイ・ゼルは答える。
考えを内側に巡らせるように、イズル・ザヒルは腕を組むとしばらく無言だった。
『話を続けてくれ、ジェイ・ゼル』
沈黙の後、イズル・ザヒルは口を開いて話の先を促した。
ジェイ・ゼルは、なんとかイズル・ザヒルが納得してくれるように、懸命に事実を述べ続ける。
今回の事件についても、ジェイ・ゼルは計画を立てたのはシヴォルトで、実行に移したのは同じ工場のトーラス・ラゼルであり、彼に犯罪に誘われたのがハルシャと良く似た体形のカイン・シーヴォウであったことを、話し続ける。
「ハルシャが無実であることは明白であるのに、ラグレン警察は認めず、彼を釈放しようとしませんでした。
そのために、こちらで真犯人を捕え、証拠と共に取調室に行かざるを得ない状況になったのです。
ラグレン警察は、ハルシャに暴力を振るい自白の強要をしていました」
言った後、自分が持ち運んで来た取調室内の画像のことが、ジェイ・ゼルの心に浮かんだ。
この後、データをコピーして、オルセイン弁護士を通じて警察に返却する心づもりだった。
ハルシャがどんな調査を受けたのか――見た後自分が平静を保てる自信がなかった。彼は頭部を負傷し、腹部に打撲を受けていた。恐らく倒れた状態で、腹部を蹴られたのだろう。そして、左頬に受けていた殴打の痕。
考えただけで、怒りが湧き上がってくる。
『なるほど』
考えに沈んでいたジェイ・ゼルは、はっと顔を上げた。
『レズリー・ケイマンは、君が警察機構の邪魔をしてきたと言っていたが、どうやら、ハルシャ・ヴィンドースを捕らえる邪魔をしたというだけで、犯人確保にはむしろ協力したと言うべきなのだね』
少し、楽しんでいるような口調でイズル・ザヒルが言う。
ふふと、穏やかな笑みを浮かべながら、彼は呟いた。
『君はハルシャ・ヴィンドースが絡むと、人が変わるからね。なるほど、よく解ったよ』
薄青い瞳が静かに自分を見つめる。
『それで、ジェイ・ゼル』
ごく自然に彼は言葉を続けた。
『この後、どうするつもりだ。ハルシャ・ヴィンドースを守るために、ラグレン政府を叩き潰すのか?』
この通信は、外部へは漏れない。
だから、こんな言葉を
「イズル・ザヒル様……」
『放っておけば、ラグレン政府はハルシャ・ヴィンドースを殺すよ』
ふふと、イズル・ザヒルが微笑む。
『今までは何とか罪状を被せるという、良識の範囲に押しとどめていたが、君が相手だと政府に対して宣戦布告したのなら、なりふり構わず潰しに来るだろうね。手間暇をかけるよりも、ハルシャ・ヴィンドースの命を奪う方が簡単だ』
静かな目がジェイ・ゼルを見つめる。
『そこまできちんと考えて、君は動いたのかな。ジェイ・ゼル』
ハルシャの命が狙われる。
ごくっと、唾を飲み、覚悟を決めてからジェイ・ゼルは言葉を放った。
「それは、イズル・ザヒル様。
ハルシャのご両親の命を――ラグレン政府が奪ったように、ということですか」
イズル・ザヒルは笑みを浮かべたままジェイ・ゼルを見つめていた。
目を細めて、彼は穏やかに呟いた。
『誰から聞いた。あの帝星の刑事か? それともカラサワ・コンツェルンの坊やからか?』
衝撃に、思考が止まる。
イズル・ザヒル様が、否定されなかった。
やはり――そうだったのか。
凍り付くジェイ・ゼルに、語気を和らげてイズル・ザヒルが静かに語った。
『君は優しいからね。その知識は毒になると私は考えた。
単に『アイギッド』へ二人の兄妹を連れて来てもらうだけの役目しか、君には与えない予定だったからね。人殺しの片棒を担がせるつもりはなかったのだよ』
ふふと、『ダイモン』の
『本当に君は、人の命を奪うのが嫌いだからね』
教えなかったのは、自分に対する思いやりだったのだと、気付かされる。
その方法しか、無かったのですか、
と、問いかけたい言葉が、喉の奥に凍り付く。
これが『ダイモン』だった。
目的のためなら、人の命も財産も、容赦なく奪い、肥え太る。
血涙を絞り、怨嗟の声を浴びながら、自分も金銭を巻き上げここまで生きてきた。
その罪深さを思い知る。
「ラグレン政府はどうして――」
『ジェイ・ゼル』
問いは、冷たい
『それ以上は答えられない』
聞くな、と、命じられた。
「申し訳ありません、
『――ただ一つ、私が君に教えてあげられるのは、ハルシャ・ヴィンドースを守るということは、ラグレン政府を敵に回すと言うことだ。
言っておいたはずだよ。ハルシャ・ヴィンドースは君にとって危険な存在だと。
君は、愛する者を切り捨てられない』
重い楔を、内側に打ち込まれたようだった。
無言でしばらく、ジェイ・ゼルは目の前の人を見つめ続けた。
不意に、愛しげに微笑むとイズル・ザヒルが呟いた。
『それでも、君がハルシャ・ヴィンドースを愛するというのなら、私は止めない』
静かに言葉が滴り落ちる。
『たとえ、全宇宙を敵に回しても、守りたいものがあるなら、守り抜けばいい。
ジェイ・ゼル。これは君の人生だ』
一つの人格として、
生きることも、誰かを愛することも。
「――イズル・ザヒル様」
『結果がどうあれ、最終的に君は我々の不利益にならないことはしないと、信じているよ。ジェイ・ゼル』
にこっと、イズル・ザヒルが笑う。
『最後の収支がプラスであれば、幹部たちも黙るだろう。その間のことは、不問に付す』
ふっと息を吐くと視線を彼方に向けて、彼は呟いた。
『思うようにすると良い。ハルシャと離れられないと君が思うのなら、それは仕方がないことなのだろう。
私もかつて、そうだった』
短い静寂の後、イズル・ザヒルの言葉が虚空に響いた。
『たった一人の女性のために、全てを捨てても惜しくはなかった』
だから。
良いのだと。
命を懸けるほどの思いがあるのなら――
それを許すと。
彼は、伝えてくれている。
『レズリー・ケイマンには、私から話をしておこう。少しく誤解があったようだ、とね。それで収まるとは思えないが――』
面白そうに彼は呟く。
『君が気にすることはない』
「ありがとうございます、イズル・ザヒル様」
心からの礼を、ジェイ・ゼルは口にした。
『君が幸せそうにしていると、エメラーダが喜ぶからね』
思いもかけない優しい声で彼が呟いた。
短い挨拶を交わしてから、ジェイ・ゼルは専用回線を閉じた。
複雑な感情の波が押し寄せて、しばらく席を立つことが出来なかった。
ハルシャを病院に残してきている。
それだけが、次の行動へと辛うじて移らせた。
専用回線の部屋を閉じ、私室の机に向かって電脳を立ち上げた。
警察から預かってきていたデータを、電脳本体へコピーする。
作業自体は数秒で済んだ。
本体から記憶媒体を抜き取り、しばらく迷った後、データを開いて取り調べの一部始終を、見る。
見終えた後、黙って画面を閉じると、ジェイ・ゼルは窓際に行き、窓枠に手を着いた。目を閉じ、身を震わせながら、ハルシャが受けた屈辱的な尋問に対して、必死に怒りを抑える。
ジェイ・ゼルは、そんなことはしない。
偽りを述べた刑事に対して、ハルシャは懸命に訴えていた。
無遠慮に投げつけられた恥辱を与える言葉の数々が、今も潮のように耳に響き続けている。
罵りと暴力に、ハルシャは耐え続けたのだ。
ただ、自分を信じて。
名を呼んだ時、自分が来たと、彼は嬉しそうに呟いていた。
「――ハルシャ」
この後、どうするつもりだ。
ハルシャ・ヴィンドースを守るために、ラグレン政府を叩き潰すのか?
冗談めかしたイズル・ザヒルの言葉が、耳にこだましていた。
五年前。
ハルシャの両親を殺したのは、ラグレン政府だった。
いくら調べても、手がかりがないはずだ。
政府と警察が手を組んで、事実を隠ぺいしていたのだ。
そして、今――
彼らは両親だけでは飽き足らず、遺児のハルシャの命までも狙い始めた。
ジェイ・ゼルは、顔を上げた。
窓からは、きらめくラグレンの街が見えた。
この中に、ハルシャを不幸に陥れた張本人が居る。
彼がいる限り――自分の愛する人は、命の危険がある。
だとすれば。
ジェイ・ゼルは漆黒の空の下で、星々を撒き散らしたような街を見つめる。
自分が為すべきことは、たった一つだった。