瞼を開けると、見慣れない風景が目に入って来た。
滑らかな白い天井と、柔らかな光を投げかける照明。
清潔で、消毒薬の匂いが漂う部屋。
どこだろう。
考えていると、
「ハルシャ」
と声が聞こえ、視界にジェイ・ゼルの姿が現れた。
「――ジェイ・ゼル……」
掠れた声の呼びかけに、彼は微かに眉を寄せた。
「痛みはどうだ」
その時になってはじめて、自分は医療用のベッドの上に寝ていたのだと気付いた。
身体の形に柔らかく添う素材のマットの上に横たわり、腕にいくつかの器具がつけられている。自動で血圧や脈拍を測るもののようだ。
記憶が蘇る。
そうだ……病院に運び込まれてから、安心したのかひどく気分が悪くなってしまった。検査を受け、痛みを軽減するための薬を投与されてから、意識が朦朧としてきた。どうやら、そのまま眠ってしまったようだ。
いつの間にか病室に運び込まれ、今目を覚ましたところらしい。
その間ずっと、ジェイ・ゼルはついていてくれたのだろうか。
眉を寄せたまま、ジェイ・ゼルが静かな声で語り掛ける。
「頭を強く打っていて――硬膜下にわずかだが出血がみられたそうだ。もう治療は済んでいるが、一晩入院をし、経過を観察することになった」
椅子から落ちた時に、打ったところが思ったよりもダメージを受けていたようだ。
「頭を打った時に、頸部も軽い捻挫をしていたそうだ。それに、右肩と右脚も打撲している。腹部にも、打撲痕があり――頬も内出血し……口内も切っていた」
一瞬、ジェイ・ゼルは言葉を切った。
手を伸ばして、ハルシャの髪を撫でる。
「腹部は打撲を受けただけで、内臓は傷ついていない。内出血と筋繊維の治療はもう終わっているから、安心してくれ」
目を細めて、ジェイ・ゼルが呟いた。
「辛い思いをさせたな、ハルシャ」
慰撫するように静かにジェイ・ゼルが手を動かす。
自分よりも、ジェイ・ゼルのほうがひどく傷ついているような気がした。
彼の心配を解こうと、ハルシャは呟いた。
「大丈夫だ、ジェイ・ゼル。痛みはもうない。病院へ連れてきてくれて、ありがとう」
しっかりした言葉遣いに、彼は微かに口角を上げた。
「ミア・メリーウェザ医師のところへ……とも思ったのだが、私はどうもメドック・システムが苦手でね。君がその中にいることに耐えられそうになかったから、掛かり付けの医者のところへ飛び込んでしまった」
手を止めて、言い訳のように彼が呟く。
「きちんと治療はしてもらったから、安心してくれ」
「ありがとう、ジェイ・ゼル」
信頼を湛えて、思いを告げる。
ジェイ・ゼルの笑みが深まった。
「君は鎮静剤が効いてよく眠っていたから、起こさなかったけれど」
再びゆっくりと指先が髪を撫でる。
「一時間ほど前まで、リュウジとサーシャがここに一緒に居たんだよ」
リュウジとサーシャが……。
最後に見た妹の悲痛な顔が脳裏をよぎった。
「サーシャは、大丈夫だっただろうか」
必死で問いかけてしまう。
目を見開いたハルシャに、穏やかな声でジェイ・ゼルが言葉を返してくれた。
「二人とも、ハルシャの様子を見て安心していた。もう、頬の傷も癒えているからね――何があったのか詳しいことは話していない。ただ、ハルシャの無実が証明されて、釈放されたということと、精神的に負担がかかったから、今晩は大事をとって一晩病院で過ごすとだけ伝えてある。サーシャはそれで納得していたよ」
兄が警察で暴行を受けたと聞けば、サーシャはさらに衝撃を受けるだろう。
ジェイ・ゼルの配慮がありがたかった。
「ありがとう」
ほっとしながら呟いた礼に、ジェイ・ゼルがやっと心からの笑みを浮かべた。
「リュウジとサーシャには、約束していた食事に行ってもらっている。キャンセルするのに忍びない状況でね。店に少し無理をして入れてもらった予約だったんだ。こんな時に申し訳なかったが――」
髪を優しくジェイ・ゼルが撫でる。
「リュウジは、サーシャとメリーウェザ医師と、あと一人誘って食事に行ってくれたようだ。
マイルズ警部もお誘いしたのだが、彼は部下と一緒に食事をとると仰ってね。
苦労を掛けている部下を置いて、自分だけが良い目をすることは出来ないと」
優しい笑みが、彼の顔に浮かぶ。
「思い遣り深い優秀な方だね。帝星からお見えの警部殿は」
灰色の瞳が、包むように自分を見つめている。
「また」
静かな言葉が、ジェイ・ゼルの口から滴る。
「元気になったらリュウジとサーシャを誘って、一緒に食事に行こう」
微笑みがこぼれ落ちる。
「約束だ、ハルシャ」
理由もなく、急に涙がこみあげて来た。
はっと、ジェイ・ゼルが表情を変える。
「どうした、ハルシャ。痛むのか」
言葉に、微かにハルシャは首を振った。
「――違う」
彼の温もりが欲しくて、器具が着いていない方の手を上げる。
気付いたジェイ・ゼルが、その手を、柔らかく手の平で受けて、さらに上から包むように握ってくれる。
「目を覚ましたらジェイ・ゼルがいてくれて、嬉しかっただけだ」
手を包んだまま、ジェイ・ゼルが涙の滲んだ顔を見つめる。
「もう、大丈夫だよ」
言ってから、上の手を浮かせて、涙を指で拭ってくれる。
「私が側に居るから、安心してくれ。ハルシャ」
涙を拭った手が、髪を滑る。
「サーシャは、食事のあと、メリーウェザ医師が自宅に泊めて下さるそうだ。ハルシャは何も心配せずに、ゆっくり体を休めるんだ。
いいね」
ぐっと、手に力が籠る。
「明日、異常がなければ退院できる――」
わかったと、ハルシャは首を揺らした。
鎮静剤を与えられていると言っていたが、再び眠気が襲ってきた。
うとうととし始めたことに気付いたのか、
「おやすみ、ハルシャ」
と、ジェイ・ゼルの声がする。
その声を聞きながら、ハルシャは閉じかけた目を開いた。
「ジェイ・ゼル」
呼びかけに、ん? とジェイ・ゼルが眉を上げる。
「どうした。喉が渇いたのか?」
身体的な不快を訴えていると思ったのか、ジェイ・ゼルが危惧をにじませて問い返す。
ハルシャは小さく笑って首を振った。
「この前、ジェイ・ゼルの部屋で」
言いかけてから、ハルシャは顔が何となく赤くなってきた。
「歌を聞いたように思ったのだが――気のせいだろうか」
また夜明けを迎えない部屋の中に、おぼろに響いていた歌声。
あれは、ジェイ・ゼルだったような気がする。
さっきの呼びかけが、まどろみの中で聞いた声に似ていた。記憶が蘇ってきて、問わずにはいられなかったのだ。
不意に、彼が声を上げて笑った。
「これは、これは。聴いていたのか、ハルシャ」
柔らかな発音で、彼が呟く。
「酩酊していたので、憶えていないかと思っていたよ」
はっきりと目を開けて、ハルシャはジェイ・ゼルを見た。
彼はいたずらっ子のように笑っていた。
「君を寝かしつけるために、子守唄を歌っていたのだが――気付いていたんだね」
子守唄。
知らされた事実に、何故か顔が赤くなる。
幼い子ども扱いされているようだ。
「酔っぱらったハルシャは、なかなか大胆だからね。こちらも手段を講じさせて頂いた」
クスクスと笑って、ジェイ・ゼルが髪を指で梳いた。
「どうした。もう一度聴きたいのかな?」
「い、いや」
ハルシャは、妙に戸惑ったまま小さく首を振る。
「歌声が気になっていただけだ――聞いたことが無いはずなのに、不思議に懐かしい曲だったから」
静かな眼差しで、ジェイ・ゼルがハルシャを見つめていた。
「惑星ガイアに伝わる古い子守唄だから、それで懐かしい感じがしたのかな」
髪を優しく撫でながら、ジェイ・ゼルが呟く。
「歌ってあげようか。ハルシャが眠るまでね」
かっと、ハルシャは顔が赤くなる。
子守唄を所望するなど、幼い子どものようだ。
「い、いや。別に――気になっただけだから」
ふふと、ジェイ・ゼルが微笑む。
「この病室は個室だから、気にすることはないよ。小さい声で歌うから――誰にも聞こえない」
髪から手を戻すと、ハルシャの手の甲に触れるようにリズムを刻みながら、ジェイ・ゼルの口から歌声が漏れ始めた。
ああ、あの曲だ。
夢の中で聞いていた歌。
これだったのだ。
ハルシャは不思議な感動を覚えながら、ジェイ・ゼルの声に耳を傾けた。
ゆったりとしたリズムで、古いガイアの言葉で紡がれる一つの歌。
聞いている内に、瞼が閉じてきた。
ジェイ・ゼルの歌声は優しかった。
遠い昔に、ベッドの傍らに座りながら、母の口から流れていた子守唄を思い出す。幸福な記憶が、胸の内を締め付けた。
何の憂いもなく暮らしていた、遠い日々。
恵まれていることにすら、その時は気付かなかった。
それでも――
過去の自分より、今の自分の方が幸せであるような気がするのは、なぜだろう。
罵られ、暴力を受けながらも――
きっと。
ジェイ・ゼルの手の温もりがあるからだろう。
嵐の中で繋ぎ止めてくれる錨のように、厳しい運命の荒波の中にも、揺るぎないジェイ・ゼルの存在が傍らに居てくれる。
そのことに、ひどく安堵する。
自分は理不尽な暴力の中で――ジェイ・ゼルの名を心に呼び続けた。
父でも、母でもなく。
ただ、彼の名を――
そこまで考えた時、眠りの網に捕らわれるように、世界が暗くなっていった。
薄れゆく意識の中に、ジェイ・ゼルの優しい歌声が響いている。
安らぎに身を浸しながら、ハルシャは眠りの底に落ち込んでいった。
*
手を握りしめたまま、ジェイ・ゼルはハルシャの穏やかな寝息に耳を澄ましていた。
高度な治療のお陰で、もう頬には殴打の痕は無かった。
けれど。
頬を赤く腫らしたハルシャの顔は、容易に脳裏を去らなかった。
無言で眠るハルシャを見つめる。
そのまま、ジェイ・ゼルは動かなかった。
定期的に看護師が見回りに来て、異常が無いのを確かめていく。一度は医師自らが足を運んで、ハルシャの状態を確認していた。
脳波も安定しているので、明日の退院を確約して、医師は去っていった。
再び戻った静寂の中、ジェイ・ゼルはハルシャの傍らに、ただ座り続けていた。
どの位の時が経ったのだろう。
ためらいがちなノックと共に
「今、戻りました。ジェイ・ゼル」
という声が聞こえた。
静かに扉が開き、入り口を仕切るカーテンを開けて、リュウジが姿を現わした。
「お心づくしの料理をありがとうございます」
ハルシャが眠っていることに気付いているらしい。
低めた声で彼が言う。
ジェイ・ゼルは眠るハルシャの手を離すと、そっと布団の中に入れてから立ち上がった。
ベッドの側から離れ、入り口で佇んだままのリュウジの元へ歩を進める。
「楽しんでいただけたなら、嬉しいのだがね」
ジェイ・ゼルの言葉に、
「サーシャがとても喜んでいました。美味しいお料理のお陰で、皆で楽しい時間を過ごさせて頂きました。ありがとうございます、ジェイ・ゼル」
と、律儀に礼を返す。
彼は視線をハルシャに向けながら、言葉を続けた。
「サーシャとメリーウェザ医師をご自宅に送り届けてから、その足で参りました。
ハルシャの様子はいかがですか?」
「少し目を覚ましていたが、また眠っている。鎮静剤が効いているのだろう。
医者が診に来てくれたが、異常はないそうだ。このままの状態なら、明日の朝には退院できる」
「そうですか。それは良かった」
ほっとしたように、リュウジが言う。
彼の顔を見つめながら、ジェイ・ゼルはサーシャが居たために、先ほどは言えなかったことを、リュウジに告げた。
「ラグレン警察は、ハルシャを釈放したがらなかった。色々と理由を付けて――」
大きな呼吸を一つしてから、続ける。
「君たちの考えは、間違っていないかもしれない。ハルシャは狙われているようだ」
細めた声で、ジェイ・ゼルは付け加えた。
「気を付ける必要がある。いつ何時、またラグレン警察が難癖をつけてくるとも限らない。
もう私は――」
リュウジから視線を逸らして、虚空を見つめながら呟いていた。
「ハルシャが傷つくことを、許容できない」
黙って、リュウジはその言葉を聞いていた。
「ジェイ・ゼル」
沈黙の後、彼は口を開いた。
「ご相談をしたいことがあります――明日でいいので、お時間を頂けますか」
その口ぶりから、ラグレン警察に対する対処を相談したいのだという予感がした。
「ハルシャの退院後に時間を作ろう。それで良いかな、リュウジ」
彼が頷く。
「もちろんです」
リュウジへ顔を戻しながら
「すまないが……退院後、ハルシャはこちらで一時期身柄を預からせてもらいたい。ホテルに戻れば、警察がまた探しに来るかもしれない――サーシャには寂しい思いをかけるが、事態が落ち着くまで用心させて欲しいのだ」
ジェイ・ゼルの言葉に、リュウジは考えてから再び頷いた。
「あなたがそれを最善と考えるのなら、僕は信頼いたします」
リュウジの口から、信頼という言葉が出たことに、少なからぬ驚きが湧き上がってくる。
彼の態度が軟化しているとは思っていたが、自分のことを認めてくれているようだ。
何故だろう。
不思議に心強かった。
「ありがとう、リュウジ」
素直に想いを返したジェイ・ゼルに、優しいリュウジの笑みがこぼれた。
「ハルシャが退院した後、落ち着かれたらご連絡をください。そうですね、話し合いにはあなたの事務所が良いでしょうか?」
「また、場所も含めて連絡しよう」
言葉の遣り取りを終えて、リュウジがハルシャへ視線を向けている。
「すまないが、リュウジ」
ジェイ・ゼルは時刻を確かめてから声をかけた。
「少し、ハルシャの傍にいてあげてくれるだろうか」
もう夜の九時を過ぎている。
「一度、事務所へ戻ろうと考えていた。用事を済ましたらすぐに戻ってくるが、それまでハルシャについていてくれるか。
目が覚めた時君が横にいてくれたら、ハルシャは安心するだろう」
ハルシャはリュウジを信頼している。
その事実だけを、ようやくジェイ・ゼルは受け入れた。
「解りました」
リュウジは明確な言葉で答える。
「ヨシノも呼んでおきます。もし、ラグレン警察が妙な動きをしても、ここで食い止めておきますから、ご安心ください」
リュウジの勘は鋭い。
もし、病院内でハルシャに対して何らかの動きをラグレン警察がしたら……と考えて、ジェイ・ゼルは彼の側を離れることが出来なかったのだ。
自分の代わりにリュウジに居てもらえれば、安心できる。
彼の静かな微笑みに、
「とても助かる」
と、ジェイ・ゼルは再び心のままの言葉を返した。
ベッドで眠るハルシャへ視線を向けてから、ジェイ・ゼルは身体の向きを変えた。
「すぐ戻る。ハルシャを頼む、リュウジ」
「お気をつけて」
短い挨拶を交わし、ジェイ・ゼルはリュウジに後を託して病室を出た。
屋上の駐車場で待機していたネルソンの元へ行き、事務所への移動を告げる。
「すまないね、私に付き合わせて」
夜のラグレンを滑って行きながら、ジェイ・ゼルの言葉にネルソンが静かに返す。
「お気になさらないでください。ジェイ・ゼル様」
意外なことに、ネルソンはその後続けて、ハルシャの容体を尋ねてきた。心配をしていたようだ。
ハルシャの入院に自分は付き合うので、戻っていていいとネルソンに伝えていたのだが、何かあってはいけないと、彼はネストピア病院の屋上で待機してくれていたのだ。
入院するほど重篤な状態かと、気をもんでいたらしい。
「それほど深刻な状態ではないよ。ただ、頭部を強く打っているから、大事を取って入院させてもらっただけだ。
六時間経っても異常がないから、大丈夫だろうと医者は言っていた。明日には退院できるだろう」
「それは良いことです。安心いたしました」
あまり、私見を述べないネルソンにしては、珍しいことだ。
「心配をかけたね、ネルソン」
「いえ、かえって僭越なことを」
詫びた後、ネルソンはいつものように沈黙を守り、細心の注意を払って飛行車を駆っていく。
「明日」
ぽつりと、ジェイ・ゼルは呟いていた。
「退院後に、ハルシャを自宅に連れて行こうと思っている。少し、人目を避けたい事情があってね」
リュウジにはどことは告げなかったが、自宅が一番安全かもしれないと、ジェイ・ゼルは考えていた。
セキュリティが万全な上に、部屋の実際の所有者の名前は、ジェイ・ゼルとは別名義にしてある。警察が探すまでには時間が稼げるだろう。
「病院を出る時に、後ろをつけられていないかだけ、気にしておいてくれるか。ネルソン」
「承知いたしました。警戒しておきます」
「厄介をかけるが、お願いするよ」
今日は一旦、ハーベル警察署長は引いたが、このままで終わるとは、ジェイ・ゼルは考えていなかった。
自分が警察署に不法に侵入したことを理由に、身柄を拘束してくるかもしれない。そういう眼付きで、自分を見送っていた。
どんなに恨みを買ったとしても、あの場にハルシャを残していくことは出来なかった。
頬を赤く腫らしたハルシャの顔が、再び脳裏をよぎる。
守り切れなかった後悔が重く胸を締め付けた。