目にしているものが、ハルシャは信じられなかった。
戸口にジェイ・ゼルが佇んでいる。
黒い服をまとい、後ろに部下を従えて――
あまりにも切望したために、幻を見ているのかもしれない。
一瞬、自分自身の視覚を疑う。
ジェイ・ゼルが鋭い眼差しを、射るように部屋へ向ける。
中央に置かれた机を見て、すぐに視線が倒れているハルシャの方へ落ちる。
自分を認めた途端、ジェイ・ゼルが動いていた。
瞬間、覆いかぶさっていた刑事の体が、自分から引きはがされるように離れた。
「ハルシャに、何をしている」
凄まじい怒気のこもる声で、低くジェイ・ゼルが呟きながら、刑事の襟首を掴んで引き立てている。
ああ、やはり。
幻ではなかったのだと、その時になってやっと得心する。
彼は来てくれたのだ。
自分を……見捨てなかった。
それだけでもう、幸福に似た感覚が体中を巡る。
打たれた頬と打撲した肩と頭が痛むのに。
受けた暴力の衝撃すら、薄らいでいくようだ。
刑事から解放されて、痛みを堪えながらハルシャは何とか上半身を起こした。
「何だ、貴様!」
襟首を掴まれながら刑事がもがく。
部屋に居たもう一人は、ジェイ・ゼルの部下が捕えていた。
刑事たちの咆哮のような怒声を制するように
「金庫から金を盗んだ者たちを連れてきた」
と、ジェイ・ゼルが低い声で呟く。
「さっさとハルシャを解放しろ」
「何だと!?」
刑事の反発に、ジェイ・ゼルは顔を寄せて呟きを続ける。
「計画を立てたのはトーラス・ラゼル。彼に窃盗を強要されたのは、カイン・シーヴォウ。二人は警察に全てを話すと言っている」
襟首を離さずに、ジェイ・ゼルが語っている。
耳にした言葉に、ハルシャは衝撃を受けた。
ラゼルとシーヴォウが、犯人だった。
二人が結託して、自分の犯行に見せかけたというのか。
動揺するハルシャの耳に、ジェイ・ゼルの言葉が響く。
「証拠の盗んだ金と、ハルシャに偽装した時に使用したカツラも持ってきた。ハルシャは無実だ。今すぐ拘束具を外せ」
ジェイ・ゼルが、刑事を揺さぶる。
「今すぐだ!」
怒号が部屋に響く。
「ジェイ・ゼルさん、困りますな」
突然、二人の間に割り込むように、戸口から別の声が聞こえた。
全てのものの動きを止めさせるだけの、底力のある声だった。
「警察には手順というものがあります」
入り口に、声の主が佇んでいた。
紺色の上質な警察官の正装に、胸にいくつもの記章を付けている四十代後半ぐらいの年齢の男性だった。
恰幅が良く、なまじのことでは動じないような雰囲気をたたえている。
彼は冷たく見えるほどの冷静な視線を、ジェイ・ゼルに向けていた。
「そう勝手に取調室に入って頂いては――捜査を混乱させるだけです」
ジェイ・ゼルは戸口に立つ人物を見てから、刑事を掴んでいた手を緩めた。
「ハーベル警察署長」
ジェイ・ゼルは片頬を歪めて笑った。
「勤勉なラグレン警察の捜査官の手間を省いて上げようと思ってね。犯人をお届けに来ただけだよ。
警察署長にわざわざお出まし願うまでもないことだ」
ジェイ・ゼルの言葉に、ラグレンの警察署長が静かに笑った。
彼の後には、数人の警察官の姿が見える。
ジェイ・ゼルの部下と、何かやり取りをしている様子が、戸口の向こうに見えた。
笑いを浮かべたまま、ハーベル警察署長が言う。
「あなたが制止を振り切って、取調室に直行したと伺いましたものでね。警察組織の秩序を攪乱されては困りますな」
ジェイ・ゼルは刑事から手を離すと、警察署長に向き合った。
「ラグレン警察が、最善を尽くしてくれているということは、解っているよ」
穏やかともとれる口調で、ジェイ・ゼルが真っ直ぐに警察署長を見ながら言う。
「だが、犯行が行われた時刻、ハルシャは私と一緒にいた。
窃盗を犯すなどあり得ない――どうやらそう言っても、信じてもらえないようだったからね。
私たちで、事の真偽を調べさせてもらった。結果、身内の犯行だった――私の工場で働いているトーラス・ラゼルが犯行を計画し、実行を強要される形で、カイン・シーヴォウが金庫から金を盗んだ。
二人は正直に警察に話すと言っている」
ジェイ・ゼルが顎で合図をすると、廊下からマシュー・フェルズに伴われてカイン・シーヴォウと、トーラス・ラゼルが姿を現わした。
彼らは視線を床に落とし、気まずそうに黙り込んでいる。
「証拠の品もある」
ジェイ・ゼルが合図をしたのだろう、部下の一人が黒い鞄とハルシャの髪の色によく似たカツラを持って現れた。
「盗んだ現金と、ハルシャに偽装するために使ったカツラだ」
部下は動いて、取調室の机の上に手にしていた物を置いた。
「証拠品としてお渡しするよ」
ハーベル警察署長は、証拠の品を見ていなかった。
細めた目で、ジェイ・ゼルへ視線を注ぎ続ける。
「もう一度言う」
ジェイ・ゼルは静かな声で告げる。
「ハルシャは昨日の昼から今朝まで、私の傍から離れなかった。彼がクラハナの工場から盗みをすることは、あり得ない。
ハルシャは、今回の犯罪とは無関係だ」
宣言する言葉に、ハルシャは身の内の震えが抑えられなかった。
あの刑事の言葉は、やはり偽りだったのだ。
ジェイ・ゼルは、そんな人ではなかった。
これほどはっきりと、自分と一緒に居たと証言してくれている。
それだけで、安堵が広がり意識が薄れそうになる。
どんな暴力よりも、ジェイ・ゼルが見捨てたかもしれないということが、一番辛かったのだと思い知る。
ジェイ・ゼルは、来てくれた。
今も――自分を窮地から救おうと最善を尽くしてくれている。
もう。
それだけで十分なような気がした。
「拘束具を外してくれ。ハルシャは罪人ではない」
ジェイ・ゼルの言葉に、ハーベル警察署長は静かに微笑んだ。
底知れない笑みだった。
「捜査へのご協力に感謝します、ジェイ・ゼルさん」
言葉遣いは穏やかで何の嫌味もないはずなのに、耳にする響きはなぜか悪意に満ちているような気がした。
「ご自身の工場のことを、ご自分で始末をつけられるとは、素晴らしい。経営者の鑑ですな、実に立派だ――ですが」
笑みを深めて彼は続けた。
「残念ながら、釈放にはそれなりの手続きを必要とします。
あなたの言葉を疑う訳ではありませんが、警察には捜査上、踏むべき手順があります。確かにこの二人が実行犯だと、こちらの調査で確定するまで――わずかでも疑いがある状態では、被疑者を釈放することはいたしかねます。
彼に惑星外へ脱出されては、捜査に支障をきたしますのでね」
自分がラグレンを出るための手続きをしていたと、警察署長は知っているようだ。そのために、自分の逮捕を急いだのだろうか。
ハーベル警察署長は、揺るぎない壁のように両手を後ろに組んで、静かに戸口に佇んでいた。
「あなたのご尽力には、心から感謝いたします。
それでは、証拠の品と被疑者二人を置いて、お引き取り願っても良いですか。ジェイ・ゼルさん」
したたかな笑みを浮かべて、警察署長が言う。
「もちろん、ハルシャ・ヴィンドースの無実が確定した段階で、すぐに釈放いたします。
その折には、あなたにご連絡いたしましょうか? ジェイ・ゼルさん。迎えにいらっしゃりたいでしょう」
含みのある言葉を言ってから、温和に見える笑みを浮かべて、警察署長はジェイ・ゼルと視線を交わし合っていた。
ジェイ・ゼルは、無言だった。
自分はまだ、取り調べを受けなくてはならないのだろうか。
警察署長の口ぶりでは、どうやらそうらしい。
でも、ジェイ・ゼルがここまでしてくれたのだ。
大丈夫だと、心の中に言い聞かせるように呟く。
彼は、自分を釈放するために手を尽くしてくれた。
今も、誰にはばかることなく、一緒に時を過ごしたと宣言してくれた。
それだけで、取り調べにも耐えられるような気がした。
ジェイ・ゼルは無言で警察署長を見つめ続けていた。
が。
不意に踵を返すと、床に座ったまま上半身を起こして座るハルシャの元へ、歩いてきた。
無言で膝を折ると、真っ直ぐにハルシャの顔を見つめる。
左頬に視線を注いでいる。
衝撃が去り、今は熱と痛みがズキンズキンと押し寄せてきていた。
右手を上げて、ジェイ・ゼルが熱い頬に触れる。
冷たい手の平が、そっと包むように頬を覆う。
「あの刑事にやられたのか」
怒気のこもった言葉に、ハルシャは
「だ、大丈夫だ」
と、慌てて嘘を吐く。
「それほど痛みはない」
ズキンズキンと体験したことのない痛みが頬から押し寄せる中、懸命に表情を崩さないように気を付けながら、ジェイ・ゼルに告げる。
すっと、彼の手が動き、髪をさらりと撫でた。
その時――
乱暴に髪を掴まれたところが痛み、無意識にハルシャは顔を歪めてしまった。
「どうした。痛むのか」
ジェイ・ゼルの表情が険しくなる。
「何をされた――ハルシャ」
言えば……ジェイ・ゼルが同じことを、刑事にしそうな予感がして、ハルシャは事実を口にすることが出来なかった。
「大丈夫だ。少し、痛んだだけだ」
痛みには慣れていると思っていたが、そうではなかったようだ。
ジェイ・ゼルから与えられたのは、思慮が施された痛みだった。
自分から虚偽の証言を引き出すためだけに、刑事は圧力のように暴力を振るった。
これが、自分が信頼していたラグレン警察なのだろうか。
両親の死を、ラグレン警察は誠意を持って調べてくれたと思ったからこそ、犯人が見つからなかったことも、何とか納得できたというのに。
こんな風に――自分たちの思うように真実を捻じ曲げてしまうのが、ラグレン警察の体質なのだろうか。
気付いてしまった事実が、耐えようもなく辛かった。
ただ一つの正しいものに縋るように、ハルシャはジェイ・ゼルの腕を掴んだ。
「大丈夫だ、ジェイ・ゼル」
先ほどよりも優しく、そっとジェイ・ゼルの手が髪を撫でる。
「立てるか、ハルシャ」
顔を寄せて、ジェイ・ゼルが呟く。
「ここを出よう」
え?
ハルシャは驚きと共に顔を上げた。
「だ、だが、ジェイ・ゼル……」
まだ釈放できないと、ラグレン警察の署長は言っていた。
静かにジェイ・ゼルが微笑む。
「頬以外にも痛めているかもしれない。病院で怪我を診てもらおう。立てるか」
促されて、身を起こされる。
「困りますな、ジェイ・ゼルさん。被疑者を勝手に連れ出されては」
鋼のような声で、ハーベル警察署長が言う。
ジェイ・ゼルは顔を彼に向けずに、
「ラグレンの法律では」
と、むしろ穏やかとも言うべき口調でジェイ・ゼルが話はじめた。
「令状をもって身柄を確保した後、権限のある司法警察員のもとへ強制力をもって、連れて行くことが出来る」
ゆっくりと首を動かして、ジェイ・ゼルが警察署長へ視線を向けた。
「つまりここ、ラグレン警察本庁へ――引致《いんち》することが、法で定められている。
だが」
静かな声でジェイ・ゼルは続ける。
「引致後、アリバイ等で被疑者の潔白が証明されれば、即時釈放しなくてはならない。疑いなき者は罰せず。それが、ラグレンの法律だ。君たち警察もその法の下に捜査を行っている。違うかな、ハーベル警察署長」
滔滔と述べられた言葉に、警察署長は沈黙を続けていた。
否定できないという気配が、彼から漂ってくる。
ジェイ・ゼルは、立たせたハルシャの腕を取りながら、警察署長に向き合っていた。
「今回の事件は、トーラス・ラゼルが計画し、実行したのはカイン・シーヴォウだ。君たちは不当にハルシャを拘束した。しかも、証言を引き出すために、密室を良いことに、彼に暴力を振るっている。
身体的な暴力による自白の強要の禁止は、銀河帝国法第百八十九条に記載されている。それが、帝国法だ」
言葉を切ると、ジェイ・ゼルはハーベル警察署長へ強い言葉を続ける。
「それでも釈放を認めないというのなら――法的な手段に訴えさせて頂こう。帝国裁判所への刑事告訴も視野に入れざるを得ない。頬に対する明確な殴打痕――ハルシャに君たちがしたことは、帝国法違反だ」
ふっと、ハーベル警察署長が笑った。
「必死ですな」
瞬きをすると、ジェイ・ゼルの部下たちにに両脇を取られていたトーラス・ラゼルへ顔を向ける。
「証言を引き出すのに、手段に訴えたのは、どうやら私たちだけではないようですが――」
嫌味な言い方だった。
「一つ確認させてください。何もラグレン警察はハルシャ・ヴィンドースを釈放しないと言っているのではないのですよ。
しかるべき手続きを踏ませて頂きたいと、申し上げているだけです。誤解をされては困りますな、ジェイ・ゼルさん」
「マシュー」
ジェイ・ゼルが不意に、声を放った。
「ハルシャの取り調べの様子が記録されているはずだ。画像記録を確認してくれ」
「はい」
指示に従い動いたマシューに対して、取り調べを行っていた刑事が、暴れて阻止しようとした。
「やめろ!」
「何を怯えているんだ」
ハルシャの腕を取ったまま、ジェイ・ゼルが静かに言う。
「ラグレン警察は公明正大な取り調べをするのだろう? だとしたら、その記録を帝国裁判所へ提出しても、何も不都合はないはずだ」
ハルシャは、この部屋の一隅にカメラが備えられていることに気付いた。
あのカメラを通じてどうやら、一連の取り調べは記録されているようだ。
全く気付かなかった。
マシューは片隅に置かれた机の上の電脳を操作して、画像を呼び出している。
彼の行動を阻止しようとする警察とジェイ・ゼルの部下の間で、少なからぬ騒動が持ち上がり始めている。
あたりが、騒めく。
「記録されています、ジェイ・ゼル様」
ジェイ・ゼルは言葉を聞いてから、顔をハーベル警察署長へ向けた。
「今、画像の存在を確認した。
ラグレン市民は、公平な取り調べを求めて、調査状況の開示を請求できる。弁護士を通じて正式に、ハルシャ・ヴィンドースの聞き取り調査の画像の提出を求める。もし、請求までに画像が消失していた時は、ラグレン警察が恣意的に消去したと判断させてもらう――」
マシューが通信装置を取り出し、どこかへ連絡を入れている。
弁護士と話をしているようだ。
「ジェイ・ゼルさん。少し、落ち着いてください」
なだめるような声で、警察署長が呟く。
「ハーベル警察署長」
薄っすらと笑いながらジェイ・ゼルが返す。
「私はこの上なく冷静だ。そして、本気だよ――君がこの場でハルシャを渡す気がないのなら、私としても対処させて頂かなくてはならない。
解るかな」
目を細めて、ジェイ・ゼルは続けた。
「君たちは、不当な手段でハルシャを拘束し、暴行を加えた。その上、無実の証明を前にしてまだ、釈放を拒否する。ラグレン警察が……どうしてハルシャ・ヴィンドースの逮捕に拘るのか……そこに何か意図的なものがある可能性すら、考えてしまうね。
だとしたら、忌々しいことだ」
低い脅しのこもった声だった。
「ハルシャ・ヴィンドースがこの先もいわれのない罪に問われる可能性が少しでもあるのなら、私は全力でそれを阻止する。言ったはずだよ、ヴィルダイン・ハーベル」
灰色の眼が静かに警察署長を見つめる。
「我々は、不名誉を喜ばない」
強い言葉が、ジェイ・ゼルの口から放たれた。
「ハルシャ・ヴィンドースに対する侮辱は、私に対する侮辱と受け取らせてもらおう。彼に害をなすものがあれば、私が相手をさせて頂く。
その覚悟でいてもらおうか。ハーベル警察署長」
束の間、ジェイ・ゼルとハーベル警察署長は無言で見つめ合っていた。
「ジェイ・ゼル様」
マシューの声が響く。
「オルセイン弁護士から、今すぐ情報開示の申請を裁判所にするとのご報告を受けました。現在オルセイン弁護士は、裁判所にいらっしゃるようです。あと、数分で申請を電信で送るとのことです」
「それは僥倖だったね」
視線を警察署長から逸らさずに、ジェイ・ゼルが呟く。
「この場で画像を頂戴して行こう。あと数分の辛抱だ」
再び無言で二人は見つめ合っていた。
「ハルシャ・ヴィンドースの拘束具を外してやれ」
口を開いたのは、ハーベル警察署長だった。
「ジェイ・ゼルさんが、犯行時のハルシャ・ヴィンドースの行動を証言してくれている」
視線に促され、ハルシャを尋問していた刑事が、服の隠しからコードバーを取り出した。
渋面を作りながらハルシャに近づき、六角柱のコードバーを光の中に差し入れる。瞬間しゅっと、光が消えて手首が自由になった。
ほっと息が思わず出る。
緑の光に手首を捕らわれているのは、罪人そのもののようでとても辛い状態だった。
「改めて、犯人逮捕にご協力いただいてありがとうございます、ジェイ・ゼルさん」
静かな声が、ハーベルの口から溢れる。
「状況に鑑み、警察署長名でハルシャ・ヴィンドースに対する釈放命令を出すことにいたしましょう。
どうぞ、お引き取り頂いて結構ですよ。ジェイ・ゼルさん」
言葉に対して、ジェイ・ゼルは静かに微笑んだ。
「甚大なご配慮に感謝するよ、ヴィルダイン・ハーベル警察署長。だが。もう少し待たせてもらおうか。
私の弁護士が、ハルシャの取り調べの様子をこちらに渡してもらうよう、今申請をしている」
わずかに、ヴィルダイン・ハーベルの表情が動いた。
瞬間、マシュー・フェルズから通話装置の着信音が響いた。
「マシュー」
音を聞きながら、ジェイ・ゼルが言う。
「オルセイン弁護士にこちらに来るように依頼してくれないか。
カイン・シーヴォウとトーラス・ラゼルの弁護を頼みたい。彼ら二人が正当に裁判を受けられるように、尽力をお願いすると」
「はい、ジェイ・ゼル様」
応えてマシューが通話を取った。
「はい、ありがとうございます、オルセイン弁護士」
要領よく内容を伝え、マシューは通信を切った。
「申請を出したそうです」
「ありがとう、マシュー」
ジェイ・ゼルは視線をハーベル警察署長へ向けた。
「申請が届いているかどうか、確認してもらえるだろうか、ハーベル警察署長」
彼は表情を消して、ジェイ・ゼルを見つめていた。
僅かに顎を動かして、指示する。
側に居た警察官が、動いた。
しばらくして戻って来た彼は、警察署長に耳打ちをしている。
「申請は、届いているようです。ジェイ・ゼルさん」
「なら」
微笑んでジェイ・ゼルは言う。
「画像を貰って帰るよ。記録媒体はすぐにお戻しする。そこは安心しておくれ」
取り調べを記録しているのは、自白をしたとき、証言する様子を証拠として使うためだったのだと、後からハルシャは教えられた。
もし虚偽の自白をしていたら、真犯人を提示してもひっくり返すのは難しかったかもしれないとも、言われた。
あの暴行が長時間続いたら、自分の理性はもたなかったかもしれない。
マシュー・フェルズが電脳から記録を抜き取り、ジェイ・ゼルに渡す。
もう、警察たちは止めなかった。
「マシュー、少し残ってオルセイン弁護士に説明をしておいてくれないか」
「はい、解りました、ジェイ・ゼル様」
「私はこの足でハルシャを病院に連れていく。アイゼンたちは、この場に残して行こう」
「了解いたしました。私どもは処理が終わったら戻ります」
打ち合わせをしてから、ジェイ・ゼルが顔をハルシャに向けた。
「行こうか、ハルシャ」
足を一歩進めると、椅子から落ちた時に痛めたのか、右脚にじんと痛みが走った。思わず顔を歪めた時、
「痛むのか」
と、ジェイ・ゼルが問いかける。
「だ、大丈夫だ、ジェイ・ゼル」
慌てて告げ、数歩を懸命に歩く。
冷たい視線が警察官たちから放たれていた。
いつの間に、こんなに人が集まっていたのだろう。廊下まで人が溢れていた。
大騒ぎになっていたのだと、気付く。
その中を、人波を割る様にしてジェイ・ゼルは前を向いて歩いていく。
ハルシャの背中に手を添えて、促すようにして進む。
警察署長が無言で自分たちを見送っていた。
チューブで降り、ジェイ・ゼルの飛行車に転がり込んだ時は、肩の痛みが限界だった。
「ネルソン。ネストピア病院へやってくれ」
と、ジェイ・ゼルがいつもメディカルチェックの時に訪れる病院の名前を告げる。
「ハルシャ」
ふわりと浮いた飛行車の中で、ジェイ・ゼルの腕の中に包まれていた。
「遅くなってすまなかった」
言葉が抱きしめられた場所から響く。
「辛い思いをさせた。許してくれ」
なぜ、ジェイ・ゼルが許しを乞うのだろう。
「ありがとう、ジェイ・ゼル」
ハルシャは、ようやく身から緊張を解き、呟いた。
「嬉しかった」
何が嬉しかったのかを、上手く伝えることが出来ない。
証言してくれたことなのか。
ラグレン警察のトップと一歩も譲らず自分を釈放してくれたことなのか。
ハルシャに対する侮辱は自分への侮辱だと言ってくれたことなのか。
ただ単に、側にいてくれることなのか。
あまりにも一度に多くのことが起こり過ぎて、感情の整理がつかない。
ただ。
ジェイ・ゼルの香りに包まれていると、心から安心した。
身の力を抜き、ジェイ・ゼルに体を預ける。
そうすると、受けた暴力の痕がずきずきと痛みだした。
「すまない、ハルシャ」
呟きを耳にしていると、抑えようもなく体が震え出した。
理不尽な言葉と暴力に傷つけられた心と身体が、今頃になって悲痛な叫びのように震えて訴えている。
「――恐かった」
小さくハルシャは、呟いた。
「恐かった。ジェイ・ゼル。何を言っても信じてもらえなかった。でも」
カタカタと震える身を、温もりが包んでくれる。
その優しさに向けて、ハルシャは呟いた。
「ジェイ・ゼルを心に呼んだら、来てくれた――それが、嬉しかった」
結局。
自分が助けを求めるところは、ジェイ・ゼルしかないのだ。
彼の意志でギランジュの相手をさせられた時も――自分は心の中で、ジェイ・ゼルに救いを求めた。
その声を、彼は聞き取ってくれた。
限りない信頼が胸の中に湧き上がってくる。
ジェイド。
口には出来ない、彼の本当の名前を心に呟く。
ありがとう、ジェイド。
ジェイ・ゼルの唇が、優しく髪に触れた。
「大丈夫だよ、ハルシャ」
柔らかく腕に包んだまま、ジェイ・ゼルが呟く。
「もう君を、誰にも傷つけさせない――もう、二度と――」
誓いのように呟いてから、ジェイ・ゼルは沈黙した。
まだ震える身を彼に預けて、ハルシャは目を閉じた。
目指す病院に着くまで、静寂の中二人はただ身を寄せ合っていた。