振り向いて驚愕を浮かべたのは、シーヴォウではなく、トーラス・ラゼルだった。
間髪入れず
「君は出ていいよ、ラゼル」
とジェイ・ゼルが首を捻じ曲げるようにして、こちらを見るトーラス・ラゼルに言葉をかける。
「ああ、でも、ちょっと君にも聞きたいことが出来るかもしれない。どうかな。そう時間はかからないと思うから、廊下で待っていてもらおうか。
ケイバー」
ジェイ・ゼルは、先ほどナイフの名手だと告げた部下に声をかける。
無礼なラゼルの物言いに、一番に反応していたのは彼だった。
優しい声でジェイ・ゼルが告げた。
「ラゼルについていてくれないか。すまないが、私が声をかけるまで、廊下で待機しておいてくれ」
「解りました、ジェイ・ゼル様」
低く、金属がこすれたような声で答えてから、ケイバーが動く。
拘束に慣れているのか、容易くラゼルの腕を捕え、強い動きで促すように歩き出した。
ケイバーに伴われ、問答無用でラゼルは工場長室の扉をくぐって出る。
理解しかねて軽い混乱状態に陥りながら、ラゼルは連れ出された。
その鼻先で、スタッドが扉を閉めた。
静かになった部屋の中で、歩を進めようとした姿勢のまま、カイン・シーヴォウは固まっていた。
「カイン・シーヴォウ」
柔らかい発音で名前を呼んで、ジェイ・ゼルが招く。
「机の前に戻ってくれないか。先ほど言いかけた話の続きを、聞かせてほしい」
ぎこちなく身を動かして、何とかカイン・シーヴォウはジェイ・ゼルの指示に従った。
怯えるシーヴォウに、努めて穏やかな声で、ジェイ・ゼルが声をかけた。
「先程君は、ハルシャのロッカーから録音装置が発見されたと教えてくれたね。
その中に――何が入っていたのかな」
音がしそうなほどカクカクした動きで、シーヴォウが顔を上げる。
「あ……」
自分が何か、まずいことを口走ったことだけは理解しているらしい。
不用意な一言が、経営者に疑念を抱かせたのだと、気付いたシーヴォウは瞳を揺らしながら、ジェイ・ゼルを見つめ続ける。
瞬きを一つすると同じ問いを、ジェイ・ゼルは口にした。
「録音装置には、何が入っていたのかな? それで警察は犯行を確信したのだろう?」
言葉が綱のように、カイン・シーヴォウの身を縛っているようだった。
「あ……工場長の、声です」
「ほう」
間髪入れずジェイ・ゼルが問い返す。
「どうして、ガルガーの声が証拠の品になるのかな?」
質問を投げかけられた瞬間、すっと、シーヴォウの視線が金庫の方へと向けられた。
一瞬のことだった。
だが、リュウジもジェイ・ゼルも、その動作を見逃さなかった。
「今、君は金庫を見たね」
言いながら、ジェイ・ゼルは立ち上がった。
彼は背が高い。
それまでリラックスして座っていたために、目線が合っていたが、立ち上がると急に上から見下ろされるようになる。体躯のいいジェイ・ゼルは、そこにいるだけで妙な威圧感がった。
「どうして、君は金庫を見るのかな?」
射すくめられたように、シーヴォウは動けなくなったようだ。
軽く開いた目をジェイ・ゼルに向けたまま、固まり続ける。
「録音装置と、金庫と……どんな関係があると、君は思っているんだ。カイン・シーヴォウ。私は金庫の開け方を他に漏らすなと、工場長にいつも伝えているのだがね。ガルガーもそれを守っているはずだ。なのに」
静かに呟きながらジェイ・ゼルが動き出した。
机をゆっくりとまわって、カイン・シーヴォウの側へと歩を進めてくる。
「君は、知っているのかな? 声と金庫がどんな関係にあるのか」
すっとシーヴォウの横を抜けて、ジェイ・ゼルは彼の背後へと歩んでいく。
不意に、カタカタとカイン・シーヴォウの身が震え出した。
微笑みながら動くジェイ・ゼルは、恐ろしい迫力があった。
黒衣をまとった、悪魔そのもののようにも見える。
真後ろに、ほとんど身を寄せるようにして、ジェイ・ゼルがたたずんだ。圧を感じるのか、シーヴォウが小刻みに身を震わせる。
背後から顔を寄せて、ジェイ・ゼルがシーヴォウの耳元に言葉を告げる。
「ガルガーの声が、どうして証拠の品になるのかな? 教えてくれないか、カイン。君は何を知っているんだ」
ブルブルとシーヴォウの身が揺れる。
「盗まれたのは、私の金だ。解るかな、カイン・シーヴォウ」
優しい声で、ジェイ・ゼルがなおも耳元に口を寄せて呟く。
「我々は非礼を好まない。私の現金に手を付けた者は――代価をもって、贖《あがな》ってもらわなくてはならない。わかるかな、カイン。
身体の一部か、それとも命か――」
あからさまな脅しの言葉に、シーヴォウは青ざめていく。
ふっと笑いの息を吐きながら、ジェイ・ゼルが言葉を続ける。
「私の金に手を付けると言うことは、それほどの大罪なのだよ」
それなりの覚悟はあったのだろう。
シーヴォウは震えながら
「警察は、ハルシャ・ヴィンドースの犯行だと、断定しています。ジェイ・ゼル様」
と、懸命に言葉を呟く。
そう言い張れと、ラゼルからきつく言われているのかもしれない。まじないを唱えるように、懸命にカインが言葉を口にする。
「君も、そう思うのかな、カイン」
柔らかい言葉で、ジェイ・ゼルが囁く。
「は、はい。ジェイ・ゼル様」
身を震わせながらカイン・シーヴォウは応えていた。
「そうか」
ジェイ・ゼルは両手を上げると、背後から手を伸ばし、シーヴォウの腕から肩へと身を撫であげた。
急に触れられたシーヴォウは、憐れなほど身をびくっと震わせた。
ジェイ・ゼルはそのまま、彼の肩に両手を置き、微笑みを浮かべた。
「君は――」
ジェイ・ゼルは、再び耳元へ口を寄せて囁く。
「ハルシャと背格好がよく、似ているね」
肩を捕えられたまま、シーヴォウの表情が凍る。
「さっきから気になっていたのだけれど」
ジェイ・ゼルが囁く声で続ける。
右手を肩から離し、ジェイ・ゼルはシーヴォウの髪をすうっと指先で摘むように触れた。
「君の髪に混じる、この赤い毛は何かな?」
明らかな驚愕を浮かべて、ジェイ・ゼルが触れた場所を、狂ったようにシーヴォウがはたく。
その手首をジェイ・ゼルは、素早く掴んだ。
「何を、慌てているんだ、カイン・シーヴォウ」
後ろを向かせるように、手首をひねる。
「そんなに恐いのか? 君がハルシャのふりをして、金庫を開けたことが露見するのが」
上から見下ろしながら、ジェイ・ゼルが呟く。
「この工場の防犯カメラは優秀でね――画像を細密に見ていけば、すぐに解る。
ハルシャ本人なのか、それとも、ハルシャに偽装した別人なのか――動き方も体形の差異も手に取るように明らかだ」
思わせぶりに、手首を捕えている反対の手で、ジェイ・ゼルは再びシーヴォウの髪に手を触れた。
「君の髪に残る、この赤い毛を照合するまでもなく、ね」
突然、カイン・シーヴォウが叫んだ。
恐怖の声だった。
「お、俺は、頼まれただけです!」
手首を掴んだまま、ジェイ・ゼルが問い返す。
「誰に、何を」
はっと、カイン・シーヴォウが我に返った。
大きく目を見開いたまま、ジェイ・ゼルを見つめている。
言ってはならないと、気付いたのかもしれない。
カタカタと身が再び震え出す。
ジェイ・ゼルの眼が、シーヴォウを見下ろす。
「私から盗みを働いたものを、許すことは出来ない。解るかな、カイン・シーヴォウ」
冷徹な声だった。
恐れを隠そうともせずに、激しい呼吸をシーヴォウが繰り返す。
「消えたのは大金だ。私の
身体の一部か命をもって、己の犯した罪を贖う。
それが、我々の流儀だ。
解っていて、犯人は私から金を盗んだのだろう――なら、当然の処罰だね」
静かに、ジェイ・ゼルが呟く。
手首を握られたまま、ガクガクとシーヴォウの身が震え続ける。
「だが」
不意に語気を緩めて、ジェイ・ゼルが顔を寄せながら呟く。
「君が、誘われただけだというのなら、その処罰も軽くなる――もちろん、罪を速やかに告解すれば――その分も、軽減される。
解るかな。
どれだけの処罰で済ますことが出来るのかは……」
灰色の瞳が、近い場所でシーヴォウを見つめ続ける。
不意に目を細めて、ジェイ・ゼルが吐息のように囁く。
「君次第だ。カイン・シーヴォウ」
まるで睦言のような甘やかな声で告げてから、ぞっとするほど艶やかに、ジェイ・ゼルは微笑んだ。
「教えておくれ。誰にそそのかされたのかな? 君が主犯でなければ罪はもちろん軽くなる。解るね、カイン」
瞳を交わしたまま、耳元で言葉が滴る。
「全てを教えてくれたら、君のしたことを割り引いて考えよう。考えてご覧、どちらにつくのが得かな。カイン。
我々なのか、君を罪に引き込んだ者なのか――答えはおのずと明らかだ」
深い灰色の瞳が、巻き付くように相手を見る。
息も忘れたように、シーヴォウはジェイ・ゼルへ視線を注ぎ続けていた。
「このまま黙っていれば、君も同罪と見なさざるを得ない」
突然冷たい言葉で言い放ってから、ジェイ・ゼルは再び微笑んだ。
「けれど、君はそんな愚かな選択はしないだろう」
優しい問いかけが、口からこぼれ落ちる。
「君を犯罪に巻き込んだ人は、誰か――たった一言で済む。ほんの少しの勇気で、君の未来は変わるんだよ。
教えておくれ、カイン。誰が君に、卑劣な犯罪を持ちかけたのかな?」
艶めいた視線が、カイン・シーヴォウの魂を絡めとっているようだった。
魅入られたようにジェイ・ゼルへ視線を向けたまま、
「――トーラス・ラゼルです」
と、ほとんど無意識にカイン・シーヴォウが、呟いた。
自分が共犯者の名を告げたことにも、もしからしたら気付いていないかもしれないと思うほど、彼は一心にジェイ・ゼルへ視線を向け続ける。
静かにジェイ・ゼルは笑みを深めた。
「そうか。彼に誘われたんだね」
呟いた後、ジェイ・ゼルが目を細めてカイン・シーヴォウへ柔らかく言葉を吐く。
「詳しいことを、教えてくれないか」
悪魔は――
人々を堕とすとき、彼のように凄まじく魅力的なのだろう。
リュウジは、カイン・シーヴォウの口から、真実を吐き出させるジェイ・ゼルを見つめながら考えていた。
ハルシャといる時には、穏やかな笑みを浮かべる彼の、もう一つの顔を見たような気がした。
意識を根こそぎさらわれるほど、ジェイ・ゼルは妖艶な笑みを浮かべて、犯罪を語る相手に眼差しを向けている。
ジェイ・ゼルの灰色の瞳に囚われながら、カイン・シーヴォウは、自分が為した罪を語り続けていた。
まるで魔術にかけられたように、半ば恍惚として犯行を告白する。
――昨夜。
シーヴォウは不意にトーラス・ラゼルに犯行を持ち掛けられた。
彼はハルシャ・ヴィンドースに対する不満を口にし、金庫の金を盗む罪をハルシャに擦り付ければ、自分たちの身は安全だと力説する。
拒めばひどい目に合わせると言外に脅され、自分は従うしかなかった。
その場で赤毛のカツラを被せられ、一人で工場長室へ忍び込み、音声録音装置を使って金庫を解錠した。
金庫から盗んだ現金は鞄に詰め込んだ。
ラゼルは鞄をシーヴォウから受け取ると、ハルシャの犯行に見せかけるために、彼のロッカーに録音装置を入れ、ロッカー室の窓も破壊するようにシーヴォウに指示して、姿を消した。
しばらくしてラゼルは戻って来た。
後で金を渡す、今は二人で帰ろうと言われるままに、工場を出た。
そこでラゼルと別れて家に戻った。
それだけの説明を、彼は口早に告げる。
カインのすぐ側に顔を寄せて、ジェイ・ゼルは言葉に耳を傾けていた。
リュウジはすぐに、彼の話の矛盾点に気付いた。
ラゼルは帰ったのは午前一時だと言っていた。
今のカイン・シーヴォウの話だと、ラゼルは帰る前に金庫を破ったと言っている。それだと、犯行時間は午前一時前のはずだ。
けれど、ガルガー工場長が警察と防犯カメラを確かめた時、犯行が行われたのは午前二時過ぎだったと言っていた。
おかしい。
どうして、時間が食い違っているのだろう。
「話してくれてとても嬉しいよ。カイン」
嫣然と微笑みながら、ジェイ・ゼルが呟く。
「そうだね。今回の事件の真相を、直接トーラス・ラゼルに確かめてみよう――君を犯罪に巻き込んだ男からね」
すっと顔を離すと、まだシーヴォウの手首を取ったままジェイ・ゼルが口を開いた。
「スタッド。ラゼルを呼んでくれ」