ほしのくさり

第186話  ロッカーの落書き





「ああ、よしよし」
 ミア・メリーウェザは、自分に縋りついて泣きじゃくる、サーシャの頭を撫でていた。
 昼休憩に入った医療室に、おんおんと泣くサーシャの声が響き渡る。
「よく一人で辛抱したな。えらかった。えらかった」
 昼前に帰ったサーシャが、ヨシノに伴われてやってきたとき、最初は忘れ物でもしたのかと思った。
 どうした、サーシャと、声をかけた瞬間、顔を歪めて走り寄り、自分にかきついて泣きじゃくり始めた。
 何が起こったのか解らず、よしよしと頭を撫でていると、サーシャは喉をひきつらせながら、懸命に説明を始めた。
 ハルシャが、家屋侵入と窃盗の容疑でホテルから連行されたらしい。
 しかも、サーシャの目の前で。

 酷いことを。

 敬愛する兄が、目の前で警察に容赦なく連れて行かれたことに、サーシャは激しいショックを受けていた。号泣するサーシャの背中を撫でながら、ミアは表情が険しくなるのが抑えられない。
 ハルシャは法を犯すような子ではない。
 何かの間違いだ。
 それでも、ラグレン警察は令状を取ってハルシャを逮捕しに来たらしい。
 ラグレン警察は検挙率を誇っていたが、それには、無実であっても罪に問われた者がいるのではなかと、ミアは思っていた。
 厄介な事件が起こると、オキュラ地域の者たちにそれらしい罪状をつけて、犯人に仕立て上げることもあると、患者たちが噂をしていた。
 まさか、と思っていたことが、現実になりそうで、サーシャを撫でる手に力が籠る。

「昨夜の内に、犯行があったと言っていたね」
 取り留めもないサーシャの訴えを総合して、ミア・メリーウェザは事件の全容を何とか掴んでいた。
 サーシャがまだ顔を自分の服に埋めたまま、うなずた。
「なら、大丈夫じゃないか」
 柔らかいサーシャの金色の巻き毛を撫でる。
「ハルシャはずっと、ジェイ・ゼルと一緒に居たんだろう?」

 午前中に、ファルアス・ヴィンドースの貴重な手書きの詩を、兄妹はわざわざ自分に見せに来てくれた。
 その時に、聞いた話だった。
 仕事の引継ぎでジェイ・ゼルのところにいた、とハルシャは早口に語っていた。
 その時に、彼が保管してくれていた祖先の詩を受け取ったのだと。
 サーシャの手前、仕事のことだと理由をつけているのだろう。
 口調と赤く染まった頬から、別の用件だったのだろうと察してしまったが、ミアは、そうかい、ハルシャの仕事は特殊だからね、と話を合わしておいた。
 昨日から今朝まで、ハルシャはジェイ・ゼルと一緒にいた。
 ジェイ・ゼルなら、警察に顔が利く。
 話はすぐに通るだろう。

「なら、大丈夫だよ、サーシャ。ハルシャは自分の側に居たと、ジェイ・ゼルが証明してくれる。すぐに誤解が解けて、ハルシャは帰ってくるよ」

 涙に濡れた顔を上げて、サーシャが自分を見上げてくる。
「それに、リュウジもジェイ・ゼルと一緒に、警察に向かったのだろう?」
 なだめる様に髪を梳く。
「あの二人がいれば大丈夫だよ。任せておけば安心だ」
 リュウジとジェイ・ゼルが何かをしようとすれば、阻止する方が難しいだろうと、ミア・メリーウェザは微笑みながら考える。
「ハルシャはすぐに戻ってくる。大丈夫だ。シーガージェン社の大型宇宙船に乗った気持ちでいればいい」

 言い切った言葉に、サーシャはやっと笑顔らしきものを浮かべた。
「はい、先生」
 身を起こしてごしごしと顔をこすっている。
「ごめんなさい。大泣きしてしまって」
 よほど不安だったのだろう。
「目の前で、ハルシャが連れていかれたら、そらショックだ。それでも一人で判断して、きちんとジェイ・ゼルに連絡をしたんだね。えらかった、えらかった。賢かったな、サーシャ」
 あえるように髪を撫でると、すんと鼻をすすりながら、
「先生はそうやって、すぐに子ども扱いするんだから」
 と、少し拗ねたように言う。
 十分子どもだよ、とは言わずに
「そりゃ悪かった。ゆるしてくれ、サーシャ」
 と、詫びると、途端に笑顔になる。

 身を立てて、袖で涙を拭う仕草を見守りながら
「サーシャ。落ち着いたらお茶を入れてくれないか」
 と穏やかに依頼をする。
 午前中と午後からの診察の間の、短い休憩時間に今は当たっていた。
 もう少ししたら、患者たちがやってくるだろう。
「少し、喉を潤したい。頼めるかな」
 ミアの言葉に、サーシャはぶんぶんと頷いた。
「わかりました、先生」
「ああ、ヨシノも入れて三人分な。よろしく頼む」
 涙でてかてか光る頬が笑顔になり、サーシャは
「はい、了解です」
 と明るい声で答える。
 待っていてくださいね、と言い置いてサーシャが医療室を出て行った。

「さて」
 後姿を見送ってから、入り口近くに佇んでいたヨシノへ顔を向ける。
 彼はそこで、泣きじゃくるサーシャの様子を見守っていた。
 静かに、ミアは問いかける。
「ハルシャに何があったんだ。教えてくれないか、ヨシノ。前にも警察沙汰になったようだが、今回は令状付きでやけに厳重じゃないか」
 彼の表情は動かなかった。
「サーシャの護衛として、リュウジがついて行くように指示したんだろう? サーシャも単独で動かすのは危ないと、リュウジは判断したんだな」
 黒髪に黒い瞳の青年は、無言でミア・メリーウェザを見返していた。
「私は、勝手にハルシャとサーシャの親代わりを任じていてね」
 机に肘をついて手の平に顎を預けながら、静謐な雰囲気を湛えるヨシノを見つめ続ける。
「二人のことに、無関心でいられないんだ」

 ゆっくりと青年が瞬きをした。
 ミアは、にこりと笑った。
「出来れば、サーシャがお茶を持ってくるまでに、話を終えてくれると嬉しいな」
 再び、ヨシノが瞬きをする。
「リュウジには私が無理矢理に聞き出したと、詫びておく。
 教えてくれないか、ヨシノ。
 どんな厄介なことに、ハルシャは巻き込まれたんだ」
 静かな声で、ミア・メリーウェザは呟く。
「リュウジは以前、ハルシャをこのままラグレンに置くのは危険だと言っていたが――それと無関係ではないだろう。教えてくれ、ヨシノ」
 真剣な目で、彼を見つめる。
「うちの子たちは、どうしてラグレン警察に睨まれているんだ」

 彼は静かに瞬きをした。
 睫毛を伏せて、彼は床へ視線を落とした。
 懸命なミアの説得にも、やはり、表情は動かない。

「このことは、他言無用にお願いします」
 何の前触れもなく、ヨシノが口を開いた。
 視線が動き、ミアへ真っ直ぐな眼差しが注がれた。
「ハルシャ・ヴィンドース様を狙っているのは、警察ではありません」
 深く思慮深い声で、彼は穏やかにミアが知りたいことを告げる。
「ラグレン政府です。ドルディスタ・メリーウェザ」
 揺るぎない視線のまま、彼は続ける。
「正確に言えば、ラグレン政府の最高責任者、レズリー・ケイマンです」
 ミアは静かに片頬を歪めた。
「面白そうな話だね。続けてくれないか、ヨシノ」


 *


 リュウジは、金庫のある工場長室の前に、ロッカー室を見たいとジェイ・ゼルに告げた。
 どんなふうに侵入したのか、確認したかったのだ。
 ロッカー室には、入り口のエントランスから直接行くことが出来る。
 仕事を終えた職員が、着替えてそのまま退出できるような構造になっていた。
 リュウジの言は聞き入れられ、ガルガー工場長を含む、総勢八人でエントランスからロッカー室へと動く。
 職員の数だけ並ぶロッカーの群れの中に、ハルシャが使っていたものがあった。
 それを目にした瞬間、ジェイ・ゼルが足を止めた。

 リュウジは目だけを動かして様子を見る。
 ハルシャがこの工場で、どんな扱いを受けていたのか、彼のロッカーに施された落書きが物語っていた。
 卑猥な言葉で、ジェイ・ゼルとの関係を匂わせているものが殆どだ。
 ロッカーに書かれた言葉は、実際にハルシャが工場内でぶつけられて来たものだ。
 五年もの間、ハルシャはこの仕打ちに耐え続けて来た。
 最初に落書きを目にした時、リュウジは怒りを抑えられなかった。
 すぐに除去しましょうと提案した言葉を、ハルシャは笑って流した。
 消してもすぐ書かれる。取り去るだけの労力と時間が無駄になる。良いんだよ、リュウジ。実害はない。
 そう言って、憤るリュウジをなだめてくれる。
 ありがとう、リュウジ。そう言ってくれるだけで、私は嬉しい、と。

 思い出して、リュウジは唇を噛んだ。
 卑劣な言葉に、心が傷つかないはずがない。
 それでも、受け入れざるを得ないほど、ハルシャは劣悪な環境に置かれていたのだ。
消すことを諦めた落書きから彼の孤独が伝わってくる。
 こんな場所にハルシャを置きたくないと、その瞬間強く思った。

 ジェイ・ゼルは、落書きが彩るハルシャのロッカーを、黙したまま見つめ続けていた。
 彼が自分の愛人として扱う傍らで、ハルシャがどんな境遇にあったのかを、初めて理解したのだろうか。
 静かな表情の奥に、深い悲しみが揺らめいたような気がした。

 視線に気付いたのだろう、ガルガーが慌てていた。
「すみません、このような……お見苦しいことで」
 落書きまみれのロッカーに、ガルガーは顔色を失っていた。

 職員の横暴を放置していたのは、実際はシヴォルトだ。だが、ガルガーは責任を感じたように謝罪を口にしていた。
「これが、ハルシャが使っていたロッカーなのかな」
 冷静な声で、ジェイ・ゼルが問いかける。
 その眼はまだ、じっと落書きを見つめていた。
「……はい」
 小さく、ガルガーが答えた。

 ジェイ・ゼルは気付いたのだろう。
 この落書きを、警察も見た。
 そして、工場の中の人々も知っているのだと。
 知らなかったのは、ジェイ・ゼルだけだった。

 小さな吐息が、彼の口から漏れた。
「この中に、君の音声を録音した機械があったのだね」
「そうです。ジェイ・ゼル様」
「荷物の中かな?」
「いえ、上に置いてあったようです。ロッカーの中身は、全て警察の方が持ち去られました」
 なら、中身は空ということか。
 リュウジは言葉を聞きながら考える。
「なるほど」
 ジェイ・ゼルが小さく呟いた。
「それで――犯人はどこから、侵入したのかな」
 語調を変えて、ジェイ・ゼルは問いを再び発した。
「こちらです」
 ガルガーが動いて案内をしようとする。

 足を踏み出そうとしたジェイ・ゼルは、ふと動きを止めて、静かに顔を巡らせハルシャのロッカーへ視線を向けた。
 落書きの一つ、一つを見つめている。
 目を細めて、静かな表情で――ハルシャが受けた心の傷を、記憶に刻むように。

 ふっと顔を前に向けて、ジェイ・ゼルは歩き出した。
 ハルシャの現状を知って、彼は深く傷ついているような気がした。
 向けられた背中から、想いが伝わってくる。
 大切な人を、自分の浅慮のせいで守り切れなかった。
 深く切ない後悔が、背中に滲む。
 自分だけが、彼の想いを読み取っているのかもしれない。
 ジェイ・ゼルは懸命に、自分の受けた衝撃を他に悟らせまいと努力しているようだった。
 努めて平然と歩いていく。

 ロッカー室の奥は、断熱服を保管している鍵付きの場所になっている。
 整然と並んだロッカーが切れ、断熱服の収容場所までの壁に、採光用の小窓がある。
 工場内部の窓には対衝撃用の強化ガラスを使っているようだが、ロッカー室ということか、ここにはごく一般的なガラスがはめ込まれていた。
 人一人が出入りできる大きさの窓は、目線より少し上にある。
 ガラスがきれいに壊されて、空間がぽっかりと空いていた。
 そこから、青い空が眺められた。
 壊された窓を見上げてから、リュウジは屈んで床を見た。
 足元で、砕けたガラスの欠片が、じゃりっと音を立てる。
 リュウジと同じことを考えていたのだろう、マイルズ警部が側に来て、腰を下ろした。
「破片が少ないな、坊」
 しばらくして、小さく警部が呟く。
 リュウジは窓を見上げる。
 窓のガラスは人が通れるように、ほとんど取り除かれていた。
 犯人がしたのだろう。
 立ち上がると、ロッカー室に備え付けの折り畳み椅子を運んできて、窓の側に据えると座面に乗る。
 椅子から身を乗り出すようにして、壊された窓の外へ視線を向けた。
 地面には、ガラスの破片が散乱していた。
「警部」
 リュウジは声をかけて、椅子の上を交代し、彼にも外に散らばったガラス片を見てもらう。
 確かめた後、
「なるほど」
 と呟きながら、警部は椅子から床に降り立った。
「ほとんど外にあるな」

 リュウジは椅子を畳みながら、
「大体解りました。工場長室に参りましょう」
 と、ジェイ・ゼルに声をかける。
 彼はリュウジと警部の動きを、腕を組んで眺めていたが、軽く頷いて動き出した。

 部屋を出る瞬間、ジェイ・ゼルは振り向いて、ハルシャのロッカーへ視線を再び向けていた。
 目を細めてから、前を向く。
 彼の苦悩を、ふと手触りのようにリュウジは感じた。








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