「ああ、よしよし」
ミア・メリーウェザは、自分に縋りついて泣きじゃくる、サーシャの頭を撫でていた。
昼休憩に入った医療室に、おんおんと泣くサーシャの声が響き渡る。
「よく一人で辛抱したな。えらかった。えらかった」
昼前に帰ったサーシャが、ヨシノに伴われてやってきたとき、最初は忘れ物でもしたのかと思った。
どうした、サーシャと、声をかけた瞬間、顔を歪めて走り寄り、自分にかきついて泣きじゃくり始めた。
何が起こったのか解らず、よしよしと頭を撫でていると、サーシャは喉をひきつらせながら、懸命に説明を始めた。
ハルシャが、家屋侵入と窃盗の容疑でホテルから連行されたらしい。
しかも、サーシャの目の前で。
酷いことを。
敬愛する兄が、目の前で警察に容赦なく連れて行かれたことに、サーシャは激しいショックを受けていた。号泣するサーシャの背中を撫でながら、ミアは表情が険しくなるのが抑えられない。
ハルシャは法を犯すような子ではない。
何かの間違いだ。
それでも、ラグレン警察は令状を取ってハルシャを逮捕しに来たらしい。
ラグレン警察は検挙率を誇っていたが、それには、無実であっても罪に問われた者がいるのではなかと、ミアは思っていた。
厄介な事件が起こると、オキュラ地域の者たちにそれらしい罪状をつけて、犯人に仕立て上げることもあると、患者たちが噂をしていた。
まさか、と思っていたことが、現実になりそうで、サーシャを撫でる手に力が籠る。
「昨夜の内に、犯行があったと言っていたね」
取り留めもないサーシャの訴えを総合して、ミア・メリーウェザは事件の全容を何とか掴んでいた。
サーシャがまだ顔を自分の服に埋めたまま、うなずた。
「なら、大丈夫じゃないか」
柔らかいサーシャの金色の巻き毛を撫でる。
「ハルシャはずっと、ジェイ・ゼルと一緒に居たんだろう?」
午前中に、ファルアス・ヴィンドースの貴重な手書きの詩を、兄妹はわざわざ自分に見せに来てくれた。
その時に、聞いた話だった。
仕事の引継ぎでジェイ・ゼルのところにいた、とハルシャは早口に語っていた。
その時に、彼が保管してくれていた祖先の詩を受け取ったのだと。
サーシャの手前、仕事のことだと理由をつけているのだろう。
口調と赤く染まった頬から、別の用件だったのだろうと察してしまったが、ミアは、そうかい、ハルシャの仕事は特殊だからね、と話を合わしておいた。
昨日から今朝まで、ハルシャはジェイ・ゼルと一緒にいた。
ジェイ・ゼルなら、警察に顔が利く。
話はすぐに通るだろう。
「なら、大丈夫だよ、サーシャ。ハルシャは自分の側に居たと、ジェイ・ゼルが証明してくれる。すぐに誤解が解けて、ハルシャは帰ってくるよ」
涙に濡れた顔を上げて、サーシャが自分を見上げてくる。
「それに、リュウジもジェイ・ゼルと一緒に、警察に向かったのだろう?」
なだめる様に髪を梳く。
「あの二人がいれば大丈夫だよ。任せておけば安心だ」
リュウジとジェイ・ゼルが何かをしようとすれば、阻止する方が難しいだろうと、ミア・メリーウェザは微笑みながら考える。
「ハルシャはすぐに戻ってくる。大丈夫だ。シーガージェン社の大型宇宙船に乗った気持ちでいればいい」
言い切った言葉に、サーシャはやっと笑顔らしきものを浮かべた。
「はい、先生」
身を起こしてごしごしと顔をこすっている。
「ごめんなさい。大泣きしてしまって」
よほど不安だったのだろう。
「目の前で、ハルシャが連れていかれたら、そらショックだ。それでも一人で判断して、きちんとジェイ・ゼルに連絡をしたんだね。えらかった、えらかった。賢かったな、サーシャ」
あえるように髪を撫でると、すんと鼻をすすりながら、
「先生はそうやって、すぐに子ども扱いするんだから」
と、少し拗ねたように言う。
十分子どもだよ、とは言わずに
「そりゃ悪かった。ゆるしてくれ、サーシャ」
と、詫びると、途端に笑顔になる。
身を立てて、袖で涙を拭う仕草を見守りながら
「サーシャ。落ち着いたらお茶を入れてくれないか」
と穏やかに依頼をする。
午前中と午後からの診察の間の、短い休憩時間に今は当たっていた。
もう少ししたら、患者たちがやってくるだろう。
「少し、喉を潤したい。頼めるかな」
ミアの言葉に、サーシャはぶんぶんと頷いた。
「わかりました、先生」
「ああ、ヨシノも入れて三人分な。よろしく頼む」
涙でてかてか光る頬が笑顔になり、サーシャは
「はい、了解です」
と明るい声で答える。
待っていてくださいね、と言い置いてサーシャが医療室を出て行った。
「さて」
後姿を見送ってから、入り口近くに佇んでいたヨシノへ顔を向ける。
彼はそこで、泣きじゃくるサーシャの様子を見守っていた。
静かに、ミアは問いかける。
「ハルシャに何があったんだ。教えてくれないか、ヨシノ。前にも警察沙汰になったようだが、今回は令状付きでやけに厳重じゃないか」
彼の表情は動かなかった。
「サーシャの護衛として、リュウジがついて行くように指示したんだろう? サーシャも単独で動かすのは危ないと、リュウジは判断したんだな」
黒髪に黒い瞳の青年は、無言でミア・メリーウェザを見返していた。
「私は、勝手にハルシャとサーシャの親代わりを任じていてね」
机に肘をついて手の平に顎を預けながら、静謐な雰囲気を湛えるヨシノを見つめ続ける。
「二人のことに、無関心でいられないんだ」
ゆっくりと青年が瞬きをした。
ミアは、にこりと笑った。
「出来れば、サーシャがお茶を持ってくるまでに、話を終えてくれると嬉しいな」
再び、ヨシノが瞬きをする。
「リュウジには私が無理矢理に聞き出したと、詫びておく。
教えてくれないか、ヨシノ。
どんな厄介なことに、ハルシャは巻き込まれたんだ」
静かな声で、ミア・メリーウェザは呟く。
「リュウジは以前、ハルシャをこのままラグレンに置くのは危険だと言っていたが――それと無関係ではないだろう。教えてくれ、ヨシノ」
真剣な目で、彼を見つめる。
「うちの子たちは、どうしてラグレン警察に睨まれているんだ」
彼は静かに瞬きをした。
睫毛を伏せて、彼は床へ視線を落とした。
懸命なミアの説得にも、やはり、表情は動かない。
「このことは、他言無用にお願いします」
何の前触れもなく、ヨシノが口を開いた。
視線が動き、ミアへ真っ直ぐな眼差しが注がれた。
「ハルシャ・ヴィンドース様を狙っているのは、警察ではありません」
深く思慮深い声で、彼は穏やかにミアが知りたいことを告げる。
「ラグレン政府です。ドルディスタ・メリーウェザ」
揺るぎない視線のまま、彼は続ける。
「正確に言えば、ラグレン政府の最高責任者、レズリー・ケイマンです」
ミアは静かに片頬を歪めた。
「面白そうな話だね。続けてくれないか、ヨシノ」
*
リュウジは、金庫のある工場長室の前に、ロッカー室を見たいとジェイ・ゼルに告げた。
どんなふうに侵入したのか、確認したかったのだ。
ロッカー室には、入り口のエントランスから直接行くことが出来る。
仕事を終えた職員が、着替えてそのまま退出できるような構造になっていた。
リュウジの言は聞き入れられ、ガルガー工場長を含む、総勢八人でエントランスからロッカー室へと動く。
職員の数だけ並ぶロッカーの群れの中に、ハルシャが使っていたものがあった。
それを目にした瞬間、ジェイ・ゼルが足を止めた。
リュウジは目だけを動かして様子を見る。
ハルシャがこの工場で、どんな扱いを受けていたのか、彼のロッカーに施された落書きが物語っていた。
卑猥な言葉で、ジェイ・ゼルとの関係を匂わせているものが殆どだ。
ロッカーに書かれた言葉は、実際にハルシャが工場内でぶつけられて来たものだ。
五年もの間、ハルシャはこの仕打ちに耐え続けて来た。
最初に落書きを目にした時、リュウジは怒りを抑えられなかった。
すぐに除去しましょうと提案した言葉を、ハルシャは笑って流した。
消してもすぐ書かれる。取り去るだけの労力と時間が無駄になる。良いんだよ、リュウジ。実害はない。
そう言って、憤るリュウジをなだめてくれる。
ありがとう、リュウジ。そう言ってくれるだけで、私は嬉しい、と。
思い出して、リュウジは唇を噛んだ。
卑劣な言葉に、心が傷つかないはずがない。
それでも、受け入れざるを得ないほど、ハルシャは劣悪な環境に置かれていたのだ。
消すことを諦めた落書きから彼の孤独が伝わってくる。
こんな場所にハルシャを置きたくないと、その瞬間強く思った。
ジェイ・ゼルは、落書きが彩るハルシャのロッカーを、黙したまま見つめ続けていた。
彼が自分の愛人として扱う傍らで、ハルシャがどんな境遇にあったのかを、初めて理解したのだろうか。
静かな表情の奥に、深い悲しみが揺らめいたような気がした。
視線に気付いたのだろう、ガルガーが慌てていた。
「すみません、このような……お見苦しいことで」
落書きまみれのロッカーに、ガルガーは顔色を失っていた。
職員の横暴を放置していたのは、実際はシヴォルトだ。だが、ガルガーは責任を感じたように謝罪を口にしていた。
「これが、ハルシャが使っていたロッカーなのかな」
冷静な声で、ジェイ・ゼルが問いかける。
その眼はまだ、じっと落書きを見つめていた。
「……はい」
小さく、ガルガーが答えた。
ジェイ・ゼルは気付いたのだろう。
この落書きを、警察も見た。
そして、工場の中の人々も知っているのだと。
知らなかったのは、ジェイ・ゼルだけだった。
小さな吐息が、彼の口から漏れた。
「この中に、君の音声を録音した機械があったのだね」
「そうです。ジェイ・ゼル様」
「荷物の中かな?」
「いえ、上に置いてあったようです。ロッカーの中身は、全て警察の方が持ち去られました」
なら、中身は空ということか。
リュウジは言葉を聞きながら考える。
「なるほど」
ジェイ・ゼルが小さく呟いた。
「それで――犯人はどこから、侵入したのかな」
語調を変えて、ジェイ・ゼルは問いを再び発した。
「こちらです」
ガルガーが動いて案内をしようとする。
足を踏み出そうとしたジェイ・ゼルは、ふと動きを止めて、静かに顔を巡らせハルシャのロッカーへ視線を向けた。
落書きの一つ、一つを見つめている。
目を細めて、静かな表情で――ハルシャが受けた心の傷を、記憶に刻むように。
ふっと顔を前に向けて、ジェイ・ゼルは歩き出した。
ハルシャの現状を知って、彼は深く傷ついているような気がした。
向けられた背中から、想いが伝わってくる。
大切な人を、自分の浅慮のせいで守り切れなかった。
深く切ない後悔が、背中に滲む。
自分だけが、彼の想いを読み取っているのかもしれない。
ジェイ・ゼルは懸命に、自分の受けた衝撃を他に悟らせまいと努力しているようだった。
努めて平然と歩いていく。
ロッカー室の奥は、断熱服を保管している鍵付きの場所になっている。
整然と並んだロッカーが切れ、断熱服の収容場所までの壁に、採光用の小窓がある。
工場内部の窓には対衝撃用の強化ガラスを使っているようだが、ロッカー室ということか、ここにはごく一般的なガラスがはめ込まれていた。
人一人が出入りできる大きさの窓は、目線より少し上にある。
ガラスがきれいに壊されて、空間がぽっかりと空いていた。
そこから、青い空が眺められた。
壊された窓を見上げてから、リュウジは屈んで床を見た。
足元で、砕けたガラスの欠片が、じゃりっと音を立てる。
リュウジと同じことを考えていたのだろう、マイルズ警部が側に来て、腰を下ろした。
「破片が少ないな、坊」
しばらくして、小さく警部が呟く。
リュウジは窓を見上げる。
窓のガラスは人が通れるように、ほとんど取り除かれていた。
犯人がしたのだろう。
立ち上がると、ロッカー室に備え付けの折り畳み椅子を運んできて、窓の側に据えると座面に乗る。
椅子から身を乗り出すようにして、壊された窓の外へ視線を向けた。
地面には、ガラスの破片が散乱していた。
「警部」
リュウジは声をかけて、椅子の上を交代し、彼にも外に散らばったガラス片を見てもらう。
確かめた後、
「なるほど」
と呟きながら、警部は椅子から床に降り立った。
「ほとんど外にあるな」
リュウジは椅子を畳みながら、
「大体解りました。工場長室に参りましょう」
と、ジェイ・ゼルに声をかける。
彼はリュウジと警部の動きを、腕を組んで眺めていたが、軽く頷いて動き出した。
部屋を出る瞬間、ジェイ・ゼルは振り向いて、ハルシャのロッカーへ視線を再び向けていた。
目を細めてから、前を向く。
彼の苦悩を、ふと手触りのようにリュウジは感じた。