「おや、ハルシャ」
医療院の扉を保持しながら、メリーウェザ医師が優しく笑う。
「もう今日は来ないかと思っていたよ」
深夜を通り越した、時間だった。
自分は随分ぐっすりと、眠り込んでいたようだ。
家に戻る前に、ハルシャはどうしてもリュウジの様子が気になり、メリーウェザ医師の医療院を訪れていた。
「連絡が出来なくて、申し訳なかった。急な用事が入ってしまって――」
ぽつりと呟くハルシャに、
「もうサーシャは、帰したよ。安心しな、きちんと送り届けて上げたからね」
と、片目をつぶりながら彼女が言う。
「ありがとう、先生」
深夜に幼い子を一人で返すことを心配して、メリーウェザ医師はいつも家まで、きちんと送り届けてくれる。
本当に、ありがたい。
扉を大きく開いて、メリーウェザ医師は、ハルシャを中へと招き入れる。
「明日には、もうベッドを出ていいと、リュウジに言ってある」
優しい声で、医師がリュウジの現状を教えてくれる。
「サーシャから聞いたが、リュウジを家で引き取るつもりか?」
ハルシャは、床に視線を落とした。
事前に、メリーウェザ医師に相談もなしに決めたことだった。
「身元が分からない以上、オキュラ地域で暮らすしかない」
硬い足音の響きに紛れるように、ハルシャは呟く。
「記憶が戻るまで、どれだけ長くなるか解らない。彼は、ここで生きていく方法を学びたいと言っていた」
前を行く、メリーウェザ医師の足の動きを見つめながら、続ける。
「それに、サーシャも懐いている。女の子を一人、深夜のオキュラ地域に置いておくのが、本当はずっと不安だった。最近仕事が忙しく、側に居てやれない。リュウジが部屋に居てくれると、とても助かる」
途切れた言葉の後に、二人の足音だけが響く。
医療室を開けながら
「なるほどね」
と、メリーウェザ医師が明るい声で言う。
「一度君が心に決めたことは、他人が何を言っても、変わらないからな」
くすっと、笑いながら、彼女が言う。
「いいんじゃないのか。君も年の近い友人がいた方が、何かと気が紛れるだろう。
人柄的にも、安心できると――私も思うよ、ハルシャ」
振り向いて、ハルシャへ笑顔を向ける。
「もしかしたら、悪くない話かもしれない」
理由を述べずに、彼女は医療室に入って行った。
真っ直ぐにメドック・システムへと進み、今は沈黙する白い機械の表面に触れる。
「こいつは、長年、故障もなく働いてくれていた」
相棒に対するように、メリーウェザ医師は、メドック・システムをこいつと呼んだ。
「だが、最近ちょっと具合が悪くなってきていてね。どこがどう、という訳ではないが、診断の焦点がぼけるというか、メンテナンスがそろそろ必要だと思っていたわけだ」
ぽんと、メリーウェザ医師が、機械の白い表面を叩く。
「経年劣化に近いプログラムの揺らぎを、リュウジは見事に見抜いた」
ハルシャは、医師の側でメドック・システムを見つめていた。
「今日、廊下の往復から帰って来たリュウジが、私がメドック・システムを調節しているのを見ていたんだ。
興味があるのかと声をかけてみたら、開口一番、使いにくくなっていませんか、ドルディスタ・メリーウェザと、言ってきてね」
手の平が、機械を撫でる。
「僕がプログラムを調節しましょうと提案してきたんだ」
驚きに、ハルシャはメリーウェザ医師へ顔を向けた。
「許可を与えると、プロの手並みで操作盤を、メンテナンス画面に切り替えた。そして、数分で作業を終えて――それ以来、こいつは至極機嫌よく動いてくれている」
「記憶がないのに、それをこなしたのか?」
「ああ。そうだ。私も問い詰めたら、本人もどうして出来るのか解らないと、途方に暮れたように言っていた。
ただ、そうしたら直るような気がした、と。
あんまりうろたえるので、可哀そうになって、深く追求しなかったが」
にこっと、メリーウェザ医師が笑う。
「リュウジは、信じられないほど幅広い知識と、高い知性を持っている。
もかしたら、サーシャの遊び相手兼教育係として、最適の人物かもしれないな」
自分のことは覚えていないのに、メドック・システムのプログラムのチューニングを行った。
どうして修正できたのか、本人も解らないにも、拘わらず。
ますます謎を深めながら、ハルシャはメリーウェザ医師に挨拶をして、リュウジの元へ向かった。
彼は起きていた。
上半身を起こして、医療用ベッドの枠に背中を預け、熱心に何かを書いている。
足音に顔が上がる。
ハルシャを認めた途端、リュウジの顔に笑みがあふれた。
見るたびに、彼は元気になっていくようだ。
「調子はどうだ」
椅子を引き寄せながら座るハルシャに、
「とても良いです。明日はベッドを出て良いと、メリーウェザ医師からお許しを頂きました」
と、リュウジがしっかりした声で言う。
「そうか。良かったな」
「はい」
無垢で、信頼に満ちた目が自分を見つめている。
深い藍色の瞳に向けて、ハルシャは呟いた。
「なら、明日から、家に移動だな」
パチパチと瞬きをしてから、
「本当にお世話になって、良いのですか」
と、ためらいがちに問いかける。
「医療用のベッドを、いつまでも占領しておくことはできない」
ハルシャの一言で、彼は納得したようだ。
すっと身を立てて、リュウジが挨拶をする。
「ご迷惑をおかけしますが、出来る限りのことをすると、お約束いたします」
「そんなに、気負わなくていい。君はまだ、病人なんだ」
「メドック・システムのお陰で、傷はほとんどありません。甘やかせば、体がなまりますから、容赦なく、こき使って下さい」
ふっと、ハルシャは笑った。
言葉の意味を、きちんと解って言っているのだろうか、と、一瞬おかしくなったのだ。
こき使うと言っても、こんな細い体だと、ハルシャの職場では、一日で倒れてしまう。自分は最初の頃は、とても苦労した。
「もう少し鍛えないと、仕事には耐えられないな」
独り言のように、こぼした言葉を、リュウジは聞き逃さなかった。
「ハルシャも、仕事をしているのですか?」
隠すことでもないので、ハルシャは彼の疑問に素直に答えた。
「ああ」
彼は、ハルシャの仕事に興味を覚えたようだ。食いついてきた。
「職場はどんなところですか?」
手にした光文字のメモを閉じつつ、リュウジが問いかける。
「ラグレンの郊外にある、宇宙船の部品を作る工場だ。そこで、駆動機関部を作っている」
駆動機関部という言葉に、リュウジは深くうなずく。
「大変なお仕事ですね」
「楽ではないが、やりがいはあるかもしれない。自分の作ったものが、宇宙を飛んでいると、思ったら――」
胸にこみ上げた思いに、ふと、ハルシャは言葉を切った。
そうだ。
身を縛られ、宇宙を旅できない自分の代わりに、自分が作ったものが、宇宙を渡っていく。
せめて、その一点だけでも、宇宙に携わっていたい。
願いを託し、ハルシャは心を込めて部品を作り続けてきた。
誰かの宇宙の旅が、安全であるように。きちんと、家族の元へ帰ることが出来るように。
尊い命が、宇宙で、散らないように――
ふっと視線を上げると、リュウジが自分を見ていた。
沈黙するハルシャに、静かな眼差しが注がれていた。
深い藍色の瞳の中に、なぜか、いつもハルシャは宇宙を感じる。
あまたの星々で成り立つ銀河を全て取り込んで、果てしなく広がる虚空の色。
不思議な深さが、リュウジの眼の中には、あった。
「お仕事に、誇りを持っているのですね、ハルシャは」
思わぬ優しい口調で、リュウジが言う。
深い藍の瞳が細められる。
「僕もいつか、ハルシャの作った駆動機関部が搭載された宇宙船《ほしふね》に、乗ってみたいです」
アルデバランは、五つの小さな恒星を従えて、回っている。
雄大な姿を、間近で見るのが、かつての夢だった。
失ったはずの夢が、不思議な熱を持って、ハルシャの中を駆け巡る。
壮大で、脅威にみちた大宇宙。
果てしない虚空は声なき声で、今も自分を呼んでいた。
ここへ――おいで、と。
「その時は、一緒に宇宙《そら》を翔けましょう」
優しい眼差しで、リュウジが言葉をかける。
借金がある――俺には無理なんだ。
とは、ハルシャは言わなかった。
ただ、微笑みを浮かべて、彼の言葉を受ける。
「そうだな。作ったものが、次元航法に耐えられているのか、実際に確かめたいとは思っていた。シミュレーターでは確認しているが、現実は、不測の事態が多い」
「宇宙幽霊とか、いるそうですからね」
え、とハルシャはリュウジへ顔を向けた。
今、とても意外なことを、彼は口にした。
宇宙幽霊。
なんだ、それは。
おや、とリュウジが首を傾げながら、屈託なく問いかける。
「ハルシャは知りませんか? 高次元航法の時に、よく駆動機関部に出るそうですよ。とっても美人な幽霊だそうです」
にこにこしながら、リュウジが言う。
「幽霊に、美人とか、あるのか」
「よくわかりませんが、そう言い伝えられています。必ず高次元航法時に現れて、駆動機関部に、赤い手形を残して行くそうです」
「手形を?」
「はい、血塗られた手形――と言われていますが、残念ながら、血液ではないそうです」
「気味が悪いな」
「でも、宇宙船の船長には、大歓迎なんですよ」
「手形を付けられるのに、か?」
「はい。実は、この幽霊たち、結構好みがうるさくて、高性能で優秀な駆動機関部でないと、姿を見せないそうなんです」
「妙な、幽霊だな」
「宇宙幽霊ですから」
微笑みながら、リュウジは続ける。
「つまり、手形がついている駆動機関部の宇宙船は、幽霊たちから、優秀だと太鼓判を押されたようなものなんです。それを船長は自慢するんです。手形が多いのは、いっそう箔がつくそうですよ」
知らなかった。
絶句するハルシャに、優しく目を細めたまま、リュウジが続ける。
「ハルシャの設計した駆動機関部は、きっと幽霊たちの好みに合っていると思いますよ。
一緒に乗って、駆動機関部に手形がないか、確めて見ませんか? どこの宇宙船に使われたのか、仕事場のデータを見れば、検索できると思います。探してみましょう」
ワクワクしますね、といって、リュウジが笑った。
ハルシャは、無言で、藍色の瞳を見つめる。
遠いと思っていた宇宙のことが、ひどく身近に感じられる。
リュウジと一緒なら、宇宙を旅する船で――自分が作った駆動機関部を、チェックできるような気になる。
不思議だ。
手離したと思ったはずの夢が――まだこの手の中に、あるような錯覚さえ、覚える。
きっと、この瞳のせいだ。
深い宇宙の色の瞳が……ハルシャに、夢を見させる。
自分は、地上に縛り付けられているというのに。
さっきまで、借金のために、男に身を任せていたというのに――
ハルシャは、微笑んだ。
「自分の名前は憶えていないのに、宇宙幽霊の記憶はあるんだな」
「あ、本当ですね」
リュウジは自分でも驚いたように、声を上げる。
「ハルシャと話していると、ふっと蘇ってきました」
不意に彼の眼が、キラキラと輝き出した。
「こうやって、ハルシャと話をしていたら、昔のことが蘇ってくるかもしれません!」
大発見を喜ぶ子どものように、華やいだ声で彼が言う。
「一緒に生活をさせて頂けるのが、二重の意味でありがたいです」
無邪気な笑顔を見ながら、ハルシャは静かに微笑んだ。
「思い出せると、良いな」
手離しでそう言っている訳ではないが、喜色を浮かべるリュウジの思いをくじくつもりはなかった。
メドック・システムのプログラムも、彼は無意識に修正した。
数多くの物事に当たることで、彼の過去の手がかりがつかめるのかもしれない。
「明日、仕事帰りに、寄る」
椅子を引いて、ハルシャは立ち上がった。
「その時に、家に案内するよ」
リュウジがうなずく。
「はい、お願いします」
ハルシャは、話しを切り上げ、早く休むように彼に言ってから踵を返した。
不思議と心の中が、穏やかになっている。
もしかしたら、自分はリュウジと言葉を交わしたくて、立ち寄ったのかもしれない。彼の側に居ると、殺伐とした心の棘が、消えていく。
ジェイ・ゼルに受けたひどい仕打ちさえ、なんだか遠いことのように思えてくるから、不思議だ。
理由はわからない。
彼は、メリーウェザ医師と同じ、惑星ガイアに降り注ぐ、天の恵みの水のように、ハルシャは思えた。
乾いた大地を潤して、命を育む、優しい雨に――
*
「リュウジは、起きていたか?」
机の前に座り、書類を書きながら、メリーウェザ医師がハルシャへ顔を向けた。
「ああ」
ハルシャは彼女の側ではなく、メドック・システムの横へと、足を運んだ。
白い円筒状の機械の操作盤を見つめる。
書類作業に戻りながら、メリーウェザ医師が声をかけてくる。
「どうした。メドック・システムに入りたいか?」
言い方にくすっと笑うと、ハルシャは、
「一つ、訊きたいことがある」
と、医師へ問いかけた。
「なんだ?」
「メリーウェザ先生は――」
言いかけてから、不意にハルシャはためらった。
「どうした? 何が聞きたい」
促すような言葉に背を押されるようにして、ハルシャは最後まで質問を言い切った。
「宇宙船に、乗っていたことがあるのか?」
メリーウェザ医師の動きが止まった。
からんと、筆記具を机の上に転がすと、彼女は立ち上がって、メドック・システムの側へと、歩いてきた。
ハルシャの隣に立つと、じっと白い自分の相棒を見つめる。
「そうだよ、ハルシャ。憧れてやっとつかみ取った、資格だった」
緩やかに手を延ばして、メドック・システムに触れる。
「だが、引退した。こいつは、同僚たちがお金を出し合って、引退祝いに、私にくれたものだ」
優しく表面を撫でていたが、手を引っ込めると、ハルシャへ彼女は視線を向けた。
「どうした、急に――何か、あったのか?」
メリーウェザ医師は、鋭い。
ハルシャは、静かに首を振った。
「ふと、疑問に思っただけだ。質問に答えてくれてありがとう、先生」
ハルシャは時間を見た。
もうそろそろ、サーシャの待つ家に帰らなくてはならない。
「明日の帰りに、リュウジを連れて行く。長い間、本当にお世話になった」
「困ったことがあったら、いつでも言っておいで」
メドック・システムに触れていた手を延ばし、メリーウェザ医師がくしゃっと、ハルシャの髪を撫でた。
「一人で、あんまり頑張るなよ、ハルシャ」
でも、先生。
誰かに頼ってしまったら、私は、もう、一人で立てなくなってしまいます。
誰かに、身を預けてしまったら――
だから。
どんなに苦しくても、一人で、立ち続けるしかないのです。
こぼしたい本音を飲み込んで、ハルシャは、笑った。
「ありがとう、先生」
手を引きながら、ミア・メリーウェザ医師が、ハルシャを見つめていた。
「宇宙へ行きたいか、ハルシャ」
かけられた突然の言葉に、ハルシャは動揺を隠せなかった。
「なっ!」
短い悲鳴のような言葉が、口からもれる。
メリーウェザ医師の目が、ハルシャから動かなかった。
「君は、
痛みを必死にこらえる様な、歪めた笑みを浮かべながら、彼女は呟いた。
「私の叔父と、同じ眼だ」
口元に笑みを湛えたまま、彼女は小さく首を振った。
「宇宙に焦がれ、宇宙に散った、キルドン・ランジャイル叔父に――君はよく似ている、ハルシャ」