誰かが、泣いている。
ハルシャは幾重にも幕がかかったような薄ぼんやりとした意識の中で、押し殺した嗚咽を聞いていた。
魂から絞り出すように、何か言葉が耳元で呟かれている。
上手く、聞き取れない。
ハルシャは、目が開けられなかった。
泥のように、体が重い。
別の物体に変わってしまったように、身動きが出来ない。
指一本、動かすことすら適わない。
ハルシャの意識は波のように、覚醒と混濁の間を行き来する。
覚めた感覚の中に、静かなすすり泣きの声が響く。
サーシャ?
ハルシャは薄れる意識の中で、ぼんやりと呟く。
オキュラ地域に暮らしはじめたころ、サーシャは夜になると母を求めて泣いた。突然両親を失った現実が理解できなかったようだ。
ハルシャは、幼いサーシャを自分の温もりで包みながら、慰撫したことを思い出す。
泣かないで、サーシャ。兄さまが側に居る。大丈夫だ。
髪に唇を付けながら、ハルシャは、サーシャの悲しみを腕に抱きとめる。
母が教えてくれた子守唄を、サーシャの耳元で低く歌う。
そうすると、彼女は落ち着いた。
子守唄を聞きながら、涙を頬に残したまま、サーシャはいつも眠りについていた。
ぎゅっと、ハルシャの服を握りしめ身を寄せながら。
あどけない寝顔に刻まれた涙を、ハルシャは指でぬぐう。
サーシャが生活に馴染むまで、そうやって眠るのがハルシャの日常だった。
妹が、泣いている。
ハルシャは、混濁した意識の中で呟く。
泣かないで――サーシャ。
ゆっくりと、ハルシャの髪が撫でられる。
ひどく穏やかな動きに、ハルシャは、再び眠りの中に引きこまれていく。
兄さまが、側に居る。大丈夫だよ、サーシャ……
闇に呟きながら、ハルシャは虚ろな中に落ち込んでいった。
*
はっと、目が覚めた時、一瞬自分がどこにいるのかハルシャには解らなった。
見慣れない天井を見つめてから、がばっとハルシャは起き上がる。
『エリュシオン』の、一室だった。
真っ白なシーツが身にかけられていた。
素早く、辺りへ視線を向ける。
部屋にジェイ・ゼルの姿はなかった。
来た時に見た、電脳も全て撤収されている。
彼は、帰ったのだろうか。
身を起こし、ハルシャはそろそろと膝を自分に引き寄せて、安定した形に座った。
全身が、痛かった。
下腹部に妙な感覚がある。打ち身のような痛みだ。
二度目に達した時、世界が真っ白になったことをハルシャは思い出す。
その衝撃の残滓が、身の内にあった。
自分は意識を失ってしまったのだ。拷問のように長時間与えられた快楽の末に。
さあっと、記憶が蘇る。
気を失うまでの間に何があったのかを、ハルシャはありありと思い出した。
聞かれてしまった。
自分の、高まりに絞る声を。
頬が、知らず知らずに赤くなる。
心の準備がないまま与えらえた過酷な刺激に、ハルシャは我を忘れて叫んでいた。
ジェイ・ゼルは執拗だった。
今も、喉がうっ血したように痛んでいる。
衝撃が内側を去らない。
ジェイ・ゼルの手と舌によって、かつてない場所へ自分は連れて行かれた。
心と体がバラバラになるような感覚だった。
一度達したというのに、内側から次から次に快楽が押し寄せて来て、ハルシャは耐えることが出来なかった。
それは、責め苦だった。
白濁した汁が先端から絞り出された時に、意識が遠のいたのを覚えている。
自分を手離して発した声が、今も耳の中に響いていた。
ジェイ・ゼルには自分の反応を見せまいと、これまで鉄の自制で押さえていたというのに。
脆くも、彼によって、その壁が突き崩されてしまった。
苦い屈辱が広がる。
頬を赤らめたまま、シーツをそっとめくり自分の状態を確かめる。
身が拭われていた。
ジェイ・ゼルがしてくれたのだろうか。
後孔に痛みはなかった。
そこだけは、彼は約束を守ってくれたらしい。
気を失うハルシャの体を清め、ベッドに寝かしてから彼は立ち去ったのだ。
それだけのことを確認しながら、ハルシャは、動くことが出来なかった。
頬が赤らんだまま、熱が引かない。
嬌態をさらした現実が、誇りを掻きむしる。
今ここにジェイ・ゼルがいないことがありがたかった。顔を突き合わせていたら何を口走ったかわからない。
ハルシャは、黙したまま時が過ぎていくのに身を任せた。
現実を受け入れるのに、ひどく時間がかかる。
サーシャが、待っている。
心に何度もつぶやきながら、動き出す勇気をかき集める。
自分はまだまだ甘かったのだ。
ジェイ・ゼルは、あらゆる性的な知識を持っている。自分などが、太刀打ちできるはずがない。
きっと、彼は嬌態が見たかったのだろう。
彼の思うままに、自分は喉が枯れるまで、叫ばされた。
なら、いいじゃないか。
きっと、ジェイ・ゼルは満足したことだろう。
やっと心に整理を付けると、ハルシャは緩慢な動作で動き出した。
泥が詰まったように、体が重い。
痛む体を引き摺りながら、ベッドから床に爪先を降ろす。
瞬間、びくんと、体の奥が痛みを覚えた。
立つはずの両足が崩れて、ハルシャは床に膝をついた。
力が入らない。
腕で体を支えて、奥に響く痛みに耐える。
自分は限界まで追い込まれたのだと、悟る。
体中が悲鳴を上げていた。
しばらく同じ姿勢でいてから、ハルシャはベッドの端にすがり、自分を叱責しながら立ち上がる。
体が、思い通りに動かない。
ハルシャは歯を食い縛って歩き出した。
震える足で進む。
床に放置されている服の場所まで何とかたどり着き、椅子を支えにしながら服をまとった。
ゆっくりと現実に戻って行く安堵感が、内に広がる。
この『エリュシオン』の中でだけ、ハルシャはジェイ・ゼルの性の奴隷となる。
場所によって心を切り替える術を、既にハルシャは学んでいた。
ふと、落とした視線の先、机の上に何かが置いてあるのが目に映った。
ハルシャは椅子を手離し、机の前に進む。
置いてあったのは、食事だった。
夕食が、ハルシャのために用意されている。
側に、光る文字でメモが置いてあった。
仕事に行かなくてはならない。先に失礼をする。
食事をして帰りなさい。
――ジェイ・ゼル
彼の直筆のメモだった。
ハルシャが手を延ばし、触れた途端、机の面に留まっていた光る文字がふわっと大気に溶けた。
誰かが動かすと消えるようになっている、光文字のメモだ。
食事は、ハルシャの好みのものばかりだった。
ふと、前回の食事に出されていたものも、ハルシャが喜んで食べたものだったことを思い出す。
去り際の支配人との会話で、ジェイ・ゼルは料理長にいくつか注文を付けたようなことを口にしていた。
もしかしたら――
料理を見つめながら、ハルシャは胸に問いかける。
出会って五年を祝うための食事は、ハルシャのために、特別に用意されていたものだったのだろうか。
気付いた事実が、胸をうがつ。
惑星トルディアには雨が降らない。地下からの栄養の補給だけで、ここの植物体は成長を遂げるように進化している。
そして、地下に存在する水と思われたものは、実は、水ではなかった。
惑星トルディア特有の液体で、変質的な酸素に水素が三つ結合しているもので、ほぼ水と同じ働きをしていたが、人類はその液体を飲むことが出来なかった。
現在惑星トルディアに存在する水は全て、外から持ち込まれたものだった。
とても貴重で、高価な物――それが、トルディアにおける水だった。
そのため、惑星ガイアや帝星ではふんだんにあふれる野菜や果物は、トルディアでは貴重品だった。輸入に頼るしかないからだ。
あの時ハルシャが口にしていたサラダや、エンドウ豆は、全て惑星ガイアからの直輸入ものだと支配人が自慢げに言っていた。
ハルシャのために、ジェイ・ゼルが用意させたのだろうか。
幼い時から、ハルシャの家には、野菜や果物が料理にとりいれられていた。
今なら、とんでもなく贅沢な暮らしだったのだと解る。
それを当たり前としてきたハルシャのために、ジェイ・ゼルは料理を配慮してくれていた。
ちくんと、心の奥が痛んだ。
その場で気づけなかったことと、道具のように扱われながら不意に示される優しさに、ハルシャは翻弄される。
ハルシャは懸命に、家に帰らなくてはならないという事実を思い出す。
サーシャが待っている。
首を一振りすると、心を切り替える。
せっかく用意してくれた食事だ。頂いてからさっさと家に戻ろう。
用意されていた料理は、惑星トルディアで一般的な、加工食品だった。が、『エリュシオン』の料理人の手になるのかとても美味しい。
食事を終えた皿の位置をきちんと正し、寝ていたベッドも整えてから、ハルシャは、ボードを手に部屋を後にする。
ジェイ・ゼルがいない部屋を出ることは、初めてだった。
いつも、ハルシャが先に帰っていた。
だから――自分のために、ジェイ・ゼルがメモを残してくれることも初めて知った。
服で擦れると、下半身が痛みを覚える。
だが、足取りは随分しっかりしてきた。これなら、サーシャに感づかれないだろう。
チューブを呼び、階下へと降りていく。
地面に立ち、ボードを蹴りながら、ハルシャは、自分の心を変えていく。
ジェイ・ゼルに隷属する奴隷から、サーシャの兄へと。
道具から人間へと――内側を変容させる。