マシュー・フェルズは、ゆっくりと驚きを消して、真面目な顔になった。
「かしこまりました、ジェイ・ゼル様。ご予定が立ち次第、なるべく早くお知らせ下さるとありがたいです」
と、実務的な声で、応える。
「解ったよ、マシュー。解り次第、伝えよう」
もう。
ハルシャは、『ダイモン』の支配下にはない。
彼は、自由になったのだ。
『アイギッド』を訪れたとしても、『遊戯』に供されることはない。
この上ない喜びと共に、ジェイ・ゼルはハルシャの身の自由を噛み締めていた。
今なら、ハルシャを妹のエメラーダに会わせてあげることが出来る。
エメラーダも、きっとハルシャを気に入ってくれるだろう。
三人で語りながら、クラヴァッシュ酒を楽しむ。
そんな未来を、静かにジェイ・ゼルは思い描いた。
胸が痺れるほどに、幸福な感情が湧き上がってくる。
これほどの喜びに満たされることがあるなど、思いもしないことだった。
耳の中に、自分の本当の名を呼ぶ、ハルシャの声が不意に蘇った。
あれほど深い歓びを、自分は知らなかった。
快楽の向こうにある、信頼に満ちた情愛の境地を――そのために、自分が生まれて来たと思うほどに、深く静かな愛の交歓を。
永劫の闇のような身に抱えた孤独が、彼の中で溶けていくようだった。
あの時確かに、彼と一つになれた。
ハルシャの荒い息遣いの中に、何故か自分は、永遠を聞いたような気がした。
会話が、途切れる。
ジェイ・ゼルの作業の音だけが、部屋の中に響いていた。
「これで、全部かな」
サインを終えると、書類にもう一度目を通してから、ジェイ・ゼルはまとめてマシューに向けて差しだした。
「君は仕事が早くて、とても助かる」
マシュー・フェルズは、穏やかな眼差しで自分を見つめていた。
「ご処分の件、よろしくお願いいたします」
書類を受け取りながら、念を押すように、彼が言う。
最初に自分の元を訪れた時も、彼はこんな瞳で自分を見ていた。
死を避けられないものと覚悟しながら、それでも、我が子を一度でも腕に抱きたいと、絞り出すように、自分に告げながら。
強い瞳だった。
彼の、親としてのひたむきな想いが、胸を揺さぶった。
命は――
何かの目的のためでなく、愛され祝福されるために、この世に生まれてくる。
生まれてくる子が、親の顔を知らずに、生きていく未来が辛かった。
これほど愛されていたことを、知らないままに育っていくのは――
恐らく、その一念が、自分を動かしたのだろう。
自分が取った行動を、マシューは今でも恩義に感じてくれていた。
「また、考えておくよ」
彼の強い眼差しへ笑みを与えて、ジェイ・ゼルは答えておいた。
それで納得したようだ。
マシューは辞去の挨拶をして、静かに部屋を出て行った。
静寂が戻った部屋の中で、ジェイ・ゼルは沈黙を続けていた。
ハルシャのことを、
思いが内側を巡る。
イズル・ザヒル様は、自分がハルシャと関係を続けることを、快く思っていないようだった。
契約が切れた今、ハルシャと関係を断ったのは英断だったとまで、彼は告げた。
額に手を当てて、ジェイ・ゼルは目を閉じた。
自分はハルシャを切り捨てられない。
それを危険だと彼は言い切った。
言葉以上の圧力を、ジェイ・ゼルは感じていた。
それでも――
もう、自分はハルシャを手離すことは出来ない。
どんなに先に困難が待ち受けていたとしても。
彼は、自分と生きることを選んでくれた。
闇の世界に身を浸す、人間ですらない自分を――全てを知りながら、受け入れてくれた。
彼の居ない世界で、自分は生きることなど、出来ない。
小さく息を吐くと、ジェイ・ゼルは目を開いた。
イズル・ザヒル様に、ハルシャを伴って『アイギッド』を訪れる許可を得なくてはならない。
近々連絡を入れよう。
その時に、全てを話そうと心を決める。
決断を下すと、ジェイ・ゼルは机に向き合い、マシューが訪れるまでしていた仕事に戻ろうとした。
不意に、服に収めている通話装置が、着信を告げた。
眉を一瞬上げて、素早く取り出し、画面を見る。
ハルシャからだった。
ジェイ・ゼルは、瞬きをした。
彼からかけてくるのは、珍しい。
食事会のことで、問い合わせをして来たのだろうか。
軽く推察し、微笑みを思わず浮かべながら、ジェイ・ゼルは通話を繋いで耳元に装置を当てた。
「ハルシャか。どうした」
声が、すぐに聞こえなかった。
ジェイ・ゼルは眉を寄せた。
声の代わりに、別の音が聞こえる。
はっと、眉を解き、目を瞠る。
すすり泣きの声が、通話口から響いていた。
ハルシャは、泣いているのか。
何があったんだ。
「どうしたんだ、ハルシャ。泣いているのか」
思わず尖りそうになる言葉を丸めながら、ジェイ・ゼルは冷静に問いかけた。
返って来たのは、意外な声だった。
『ジェ……ジェイ・ゼルさん?』
涙声が、問いかけるように自分の名を呼んでいる。
幼い少女の声だった。
思い当たり、ジェイ・ゼルは問い返す。
「サーシャか?」
『はい、ジェイ・ゼルさん』
すんすんと、鼻をすすり上げる音が響く。
どうして、サーシャがこの通話装置で連絡を寄越したんだ。
怯えさせないように、穏やかな口調でジェイ・ゼルは、再び問いかけた。
「どうしたのかな、サーシャ? どうして、この通話装置からかけてきたのかな? ハルシャはそこにいるのかい」
一瞬息を飲んでから、通話装置の向こうのサーシャが、声を乱して叫ぶように言った。
『お、お兄ちゃんが!』
ただ事ではない。
悟ると、ジェイ・ゼルは、なだめる声でサーシャから話を引き出そうと穏やかに声をかける。
「ハルシャがどうかしたのかな? 大丈夫だよ、サーシャ。落ち着いて話してくれないか。一体、どうしてサーシャは泣いているのかな」
ハルシャの身に、何かがあった。
妹が泣きじゃくるほどのことが。
事故にあって、動けないのか。
それとも――
最悪の事態が脳裏をよぎり、ジェイ・ゼルは立ち上がっていた。
扉に向けて歩き始めたジェイ・ゼルの耳に、サーシャの震える声が、泣いている原因を告げる。
『お、お兄ちゃんが、さっき警察に、連れて行かれて――悪いことをしったって』
しゃくりあげながら、サーシャが言葉を続ける。
『何かあったら、ジェイ・ゼルさんに連絡しなさいって、お兄ちゃんが……』
後は、押し殺した泣き声になった。
ジェイ・ゼルは、頬が緊張するのを、覚えた。
ハルシャが、警察に?
駆動機関部の件は、決着しているはずだ。
また、何かで捩じ込んできたのか。
ジェイ・ゼルは、虚空を睨んでいた。
警察署長に、早急に確認する必要がある。
「よく知らせてくれたね。もう大丈夫だよ」
進む足を止めずに、ジェイ・ゼルは通話装置の向こうのサーシャに、語りかけた。
「サーシャは今、どこにいるのかな? うん、『アルティア・ホテル』だね。そこのどこかな――玄関に居るんだね。
そうか、一人なんだね」
扉を開き、大股に歩いていく。
事務所にいた部下に、ネルソンを呼べと、表情で指示する。
部下が素早く動いた。
ジェイ・ゼルのただならぬ様子に、皆が集まって来た。
周りを気に止めず、事務所の玄関へ向けて、ジェイ・ゼルは足を運び続ける。
「サーシャ、今から私が迎えに行くから、そこを動いてはいけないよ。誰が誘っても、私が行くのを待っいてくれるかな」
ジェイ・ゼルの声に、わかりました、ジェイ・ゼルさんと、懸命にサーシャが答えている。
「いい子だね、サーシャ。すぐ行くから、大丈夫だよ。
お兄さんも、すぐに警察から取り戻してあげるからね、安心してそこで待っているんだよ」
ハルシャが戻るという言葉に、ひどく安堵したようで、明るい声でサーシャが返事をする。
ジェイ・ゼルは、玄関にたどり着いた。
その前に、ネルソンが素早く車を回して、ぴたりとつけた。
部下が開いてくれる飛行車の扉の中へ、ジェイ・ゼルは通話を続けたまま乗り込んだ。
「これからそちらへ向かう。一度通話を切るよ、サーシャ。
何かあったら、すぐにかけてきなさい。いいね」
わかったという、サーシャのはきはきした声を聞いてから、ジェイ・ゼルは通話を切った。
指示を待つネルソンに、厳しい声でジェイ・ゼルは告げた。
「『アルティア・ホテル』だ、ネルソン。急いでくれ」
浮き上がる飛行車の中で、ジェイ・ゼルは眉を寄せた。
駆動機関部の件なら、ディー・マイルズ警部の尽力のお陰で、無罪放免になったはずだ。
どんなことで、ハルシャが引っ張られたというのだ。
サーシャが一人というのも、気になった。
オオタキ・リュウジは側に居なかったのだろうか。
それとも、この前と同じに、二人とも警察に連れて行かれたのだろうか。
サーシャの泣きじゃくっていた声が、まだ耳朶に残っている。
かわいそうに。
目の前で兄を警察に連れて行かれたのだ。
どれほど、心細かっただろう。
詳細が解らない中、ジェイ・ゼルは眉を寄せて考えていた。
リュウジが、こぼしていた言葉が妙に心に引っかかる。
惑星トルディアの名家、ヴィンドース家の名が、厄介だと感じる者たちがいるとリュウジは明言した。
成人したハルシャを、危険視する勢力がラグレンの中にあるのだと。
詳細を知っているのではないかと、リュウジは刃物のように鋭い眼差しを注ぎながら、自分に迫った。
彼の意図することが、ジェイ・ゼルには呑み込めなかった。
どうして、ハルシャを排斥しようと政府が動くのか、理解出来なかったのだ。
けれど。
偶然が重なったとは思えない不自然さで、二度もハルシャは警察に連れていかれた。
ハルシャは、狙われているのか。
ラグレン政府から――
ジェイ・ゼルは歯を食いしばった。
迂闊だった。
ハルシャから目を離すべきではかった。
重い後悔が胸を締め付ける中、ネルソンが操る飛行車は、凄まじい速度で、ラグレンの空を駆け抜けた。