ほしのくさり

第174話  最後に呼ぶ名-02





 *


 午前中一杯を、メリーウェザ医師の医療院で過ごし、午後からハルシャはサーシャと一緒に、通う学校へと足を運んでいた。
 先日騒がせた詫びと、色々状況が変化したことを説明するためだった。
 しばらく、お休みをさせてほしいと告げた言葉に、ダーシュ校長は心配をしていた。仕事を辞めたという一言に、過剰に反応してくれたようだ。
 決して悪い状況ではないと説得し、今後の見通しがついたら、必ず連絡を入れると、約束をして、学校を辞去した。
 お昼を、アルバイト先の『福楽軒』でとろうとサーシャが提案し、二人は手を繋いで、小さな料理店へと向かった。
「こんにちは! 大将」
 元気よく扉を開けて、サーシャが店へと入った途端、
「サーシャちゃん!」
 と大きな声が店中に響いた。
 お昼時で、満員だった店の客が、一斉に入り口に居る自分たちへ視線を向けた。
 声の主は、『福楽軒』の店の主人だった。
「よく来てくれたね!」
 仕事を放り出して、カウンターの奥から出てきてくれる。
 六十代後半の店の主人は、サーシャのことを、とても可愛がってくれていた。
「アルバイトをお休みしていて、ごめんなさい」
 律儀に礼を言うサーシャに、歳には見えない、艶やかな頬に笑顔を浮かべて、主人が首を振った。
「サーシャちゃんは、気にしなくても大丈夫だよ。今は、親戚の子が、手伝いに来てくれているからね」
 彼が向けた視線の先には、二十代らしい男の子が、不慣れな様子で注文を取っていた。
 サーシャは、まばたきをして、店の中に居る青年を見ている。
「また、落ち着いたら、アルバイトに来ておくれ。みんな、サーシャちゃんがいないと、寂しがっているよ」
 その言葉に、サーシャは笑顔になった。
「落ち着いたら、またよろしくお願いします」
 ハルシャも、先般騒がせた詫びを込めて、兄として挨拶をした。
「お兄ちゃん」
 挨拶を終えた後、サーシャが、ハルシャの袖を引いて小声で言った。
「あまり、長居をすると、ご迷惑かな」
 来る前は、一緒にご飯を食べようと言っていたが、どうやら、考えを変えたようだ。
「サーシャがお店にいると、大将が気になってお料理が出来ないみたいだから」
 作りかけの料理を放って、出てきていることを、気にしているようだ。
「そうだな。今は一番忙しい時だろう。失礼しようか」
「うん」
 二人でこそこそと話をしてから、サーシャが
「大将、また来るね!」
 と、明るい声で言った。
「もう、帰るのかい? サーシャちゃん」
「うん。お忙しいみたいだから。また連絡をします」
 しばらくアルバイトを休むと、以前ヨシノさんと来た時に、話していたとサーシャは言っていた。
 そのこともあって、店の主人は親戚に応援を頼んだのだろう。
 ひょろりと背の高い青年は、よく見ると、『福楽軒』の主人に顔が似ていた。
 注文を終えて、青年が近づき、客の言葉をぼそぼそと告げている。
 潮時かもしれない。
 丁寧に辞去の挨拶をして、ハルシャとサーシャは、店を後にした。

 しばらく歩いてから
「お仕事って……自分でなければならないって、ことは、ないんだね」
 と、ぽつりとサーシャが呟いた。
「サーシャが居なくなっても、誰かが代わりのお仕事を、してくれるんだね」
 最初から、サーシャは『福楽軒』の大将が、客あしらいをするのが大変だと、気にしていた。
 今日、新しいアルバイトの人が入っているのを見て、何かを感じたのだろう。
「そうだな」
 ハルシャは、手を繋いで歩きながら、思いを受け止めるように呟いた。
「仕事は、誰かがいなくても、続けて行かなくてはいけない。人がいなければ、別の人を雇うしかなくなる。
 そういうものだ。
 サーシャが行けないから、別の人に助けを求めただけなのだろう」
 前を向いて、ハルシャは呟いた。
「サーシャが、必要ないと言う訳ではないよ」

 ぎゅっと、握りしめる手に力が籠った。
 そのまま黙って、二人で歩いていく。
「サーシャがラグレンに居なくても」
 長い沈黙の後、妹が不意に口を開いた。
「別に、誰も困らないのかな」
 視線を落としたままで、サーシャが呟いている。
「メリーウェザ先生は、寂しがるかな」
 独り言のように、彼女が呟く。
「サーシャは、帝星に行きたいのか?」
 と、ハルシャは、問いかけてみた。
 ぎゅっと手を握りしめたまま、サーシャは黙々と足を運ぶ。
 唇を尖らせてから、
「リュウジがね」
 と、小さく呟く。
 リュウジ?
 ハルシャは、視線をサーシャに向けた。
 眼差しに気付いたのか、妹は視線を上げて、真っ直ぐにハルシャを見上げた。
「サーシャたちがラグレンに残るのなら、一緒にここで暮らすと言っていたの」

 驚いたのかもしれない。
 ハルシャの表情を見て、サーシャが眉を寄せた。
「リュウジのご家族は、帝星にいるのでしょう?」
 問いかける言葉に、ハルシャは頭を縦に振ることしか出来なかった。サーシャにはまだ、リュウジが本当は誰なのか、話せていない。
 ハルシャの答えに、サーシャは眉を寄せた。
「サーシャとお兄ちゃんには、もう他の家族はいないから、どこへ行ってもいいけど、リュウジには待ってくれる家族がいるのでしょう。サーシャたちがラグレンに残ると言ったら、リュウジを大切な人たちから引き離してしまうことになるね」
 困り顔で、彼女が呟いている。
 サーシャが、独りで悩んでいたことを、ハルシャは初めて知った。
「リュウジが、サーシャにそう言ったのか」
 こくんと妹はうなずいた。
「昨日のお昼に。リュウジはサーシャたちといっしょに居られれば、それでいいと言っていた。故郷は、大切な人がいる場所のことだと。だから、サーシャたちが選んだ場所が、自分の故郷だって――とっても、とっても、寂しそうな目で、リュウジは言っていたよ、お兄ちゃん」

 瞳の奥の、隠しがたい痛みと孤独。
 ジェイ・ゼルとリュウジはどこか似ていると、彼らの孤独に気付いたときに思った。

 自分がラグレンを選べば、リュウジもここに留まると言い張るのだろう。
 カラサワ・コンツェルン次期総帥の重責を、常に担う身でありながら。
 違う悩みが、ハルシャの中に湧き上がって来た。
 リュウジが側にいてくれるのは、嬉しい。
 けれど。
 大切な彼の人生を、自分たちのために、曲げさせることは出来ない。
 彼と自分たちは、生きる道が違う。
 帝星では、たくさんの人間がリュウジの帰りを待ちわびているはずだ。
 彼を、帝星に戻さなくてはならない。
 けれど、ふと、思い至る。
 ジェイ・ゼルも、そう信じて、別離を切り出していた。
 別れることが、ハルシャにとっての幸せだと。
 でも。
 自分の幸せは、ジェイ・ゼルと一緒に生きることだった。
 今、自分がリュウジの幸せだと思うことは、本当に彼の幸せなのだろうか。
 帝星に一人戻り、カラサワ・コンツェルン次期総帥として、生きていくことは――
 彼は自分たちを、家族だと、言ってくれた。一度失った家族を、もう一度与えてもらったのだと。

 どうすれば、いいのだろう。

 苦しみが、胸の奥から湧き上がってくる。
「大丈夫? お兄ちゃん」
 心配げに、サーシャが問いかけてくる。
 ハルシャは、妹と繋ぐ反対の手に持っていた、ファルアス・ヴィンドースの詩と、両親の写真を、抱え直した。
「大丈夫だよ、サーシャ」
 笑顔を向ける。
「お昼を食べ損ねてしまったな」
 サーシャは、兄の言葉に
「ホテルのオムライスは美味しいよ」
 と、笑顔になって言った。
「そうか」
 ハルシャは、前を向いて、ロンダルド駅に向かう足を速めた。
「なら、ホテルに戻って、お昼にしよう。その後は、部屋に戻って――学校で渡してもらった、宿題を一緒にしようか」
 サーシャの笑顔が消えた。
「はい、お兄ちゃん」
 殊勝な声で、何とかサーシャが答えている。
 学校に行ったときに、休む間の補習教材を、サーシャは渡されている。
 宿題のほとんどは、数学だった。
 受け取りながら、サーシャが顔を引きつらせていたのを、ハルシャはきちんと見ていたのだ。宿題が入った袋を、サーシャは手に持って力なく振った。
「帝星に行っても、宿題はあるのかな?」
 心の底から問いかける妹の言葉に、ハルシャは思わず笑い声を上げてしまった。
「もちろんだとも。サーシャ」


 *


 飛行バスからの眺めは、やはり楽しいようだ。
 サーシャは、今度は一人でも乗っていけそうだとハルシャに告げた。
 ホテルから学校やメリーウェザ医師のところへ、一人で出かけることを考えているのだろう。
「お兄ちゃんも、一緒にメリーウェザ先生のところで、働けばいいのに」
 と、サーシャがふと、思いついたように言う。
「先生は喜ぶと思うよ」
「それは、ご迷惑だろう」
「どうして?」
「働いたら、お給料を払わなくてはならない。メリーウェザ先生は、サーシャを雇ってくれているので、精一杯だと思う」
 サーシャの眉が寄った。
「精一杯?」
 意味を尋ねているが、答え方が難しい。
 考えているうちに、飛行バスがホテル前に着いた。
「また、後で教えてあげよう。宿題が終わった後に」
 途端にサーシャは嫌そうな顔になった。
「宿題は、リュウジに教えてもらおうかな――」と、ぶつぶつ言っている。
「医者を目指すのなら、数学と理科はしっかり学んでおかないといけない」
 と、忠告するハルシャに、サーシャは驚愕を顔に浮かべた。
「ど、ど、どうして」
「専門知識として、必要だからだよ、サーシャ」
 えええっ! と、サーシャが軽く声を上げる。
 料金を支払い、バスを降りても、サーシャの驚きは止まらなかった。
「メリーウェザ先生が、方程式を解いているところなんか、見たことがないよ」
 数学をしなくてもいい理由を必死に告げるように、サーシャが食い下がる。
「サーシャぐらいの歳の時には、きちんと勉強をなさっていたと思う。その基礎があるから、今の職業についているんだよ」
 ハルシャの言葉に、サーシャは難しい顔になった。
「数学を、しないと、いけないのか……」
 ぶつぶつと呟く妹を見ながら、ハルシャは微笑みを浮かべていた。
 彼女は、医者向きではないと思っていた。
 それよりも、違う才能を伸ばしてあげたいと、以前、ジェイ・ゼルも言っていた。
 そういえば。
 ホテルの玄関へ足を踏み入れながら、ハルシャは問いかけた。
「以前、サーシャが話していた、作文のことを、ジェイ・ゼルさんが訊ねていた。まだ、結果が解らないのか、と」
 サーシャは難しい顔のまま、ハルシャへ視線を向ける。
「もう少ししたら、発表があるって、校長先生がおっしゃっていたよ」
「そうか――なら……」
 今日の夕食会で、ジェイ・ゼルさんに、そのことを話してあげてほしい、と言いかけて、ハルシャは言葉を途切れさせた。

 玄関から入って右手の方に、ホテルのフロントがある。
 受付をするその場所に、数人の男たちが、何かを尋ねるように、たむろしていた。
 彼らの醸し出す雰囲気に、見覚えがあった。
 足を止めて、ハルシャはその場に立ち尽くす。
 急に動きを止めた兄へ、サーシャが視線を向けた。
「どうしたの? お兄ちゃん」

 フロントで、ホテルの従業員を相手に話をしていた彼らは、玄関に入って来たハルシャたちの姿を認めると、ぴたりと会話を止めた。
 ホテルの従業員が自分を指さして、何かを言っているようだ。
 小さくうなずいてから、男たちが動いた。

 嫌な、予感がする。
 彼らの雰囲気は見覚えがある。
 ――ラグレン警察だ。

 予感は当たったようだ。
 玄関に佇んだままのハルシャの側に、獲物をしとめる肉食獣の目で、ゆっくりと、三人の男たちが近づいてくる。
「ハルシャ・ヴィンドースさんですか」
 低い声で名が呼ばれる。
 サーシャが異変を鋭く感じ、自分に身を寄せて来た。ハルシャは腕で妹を庇うようにしながら、
「そうですが。何か」
 と、問い返す。
 にやっと、一番前にいる男が片方の頬だけを歪めて笑った。
「少し、おうかがいしたいことが、ありましてね」
 服から身分証を出すと、彼はハルシャに見えるように掲げた。
 高い建物が浮き彫りになったエンブレムは、ラグレン警察の刑事のものだった。
 警察が、なぜ。
 戸惑うハルシャへ笑いを含んだ声で、刑事が告げた。
「ラグレン警察本庁まで、ご同行願えませんか。ハルシャ・ヴィンドースさん」








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