ほしのくさり

第173話  最後に呼ぶ名-01






「メリーウェザ先生!」
 医療院の、診療前の札のかかる扉を押し開けて、サーシャが走っていく。
 よほど早くメリーウェザ医師に、自分の両親の写真と祖先の詩を見せたいようだ。
 弾む足取りで、抜けそうな床を踏みしめている。

 あまり動きが大きいと建物を傷めると言いたかったが、妹の嬉しそうな様子に、ハルシャは言葉を控えた。
 まだ、診察を始めるのには早い時間だ。
 待合に患者の姿は一人もない。
 それでも医療室からは、明かりが漏れていた。
 メリーウェザ医師は、もう部屋で診察の準備をしているのだろう。
 彼女は時々、医療室で書類を整理しながら、そのまま寝入っていることもあると、サーシャが教えてくれていた。
 パジャマ姿なのを忘れて、患者さんを診始めてから、指摘されることもあるそうだ。
 昨日は、きちんと彼女は眠ったのだろうか。
 そんなことを思いながら、消毒薬の香りが漂う医療院の扉をくぐり、ハルシャは妹の背を追った。

 『アルティア・ホテル』から、飛行バスでロンダルド駅まで行き、徒歩でここまでやってきた。
 道中の眺めを、身を乗り出すようにしてサーシャは楽しんでいる。めったに乗らない飛行バスからの眺めが、よほど楽しかったようだ。
 無邪気に喜ぶ妹の姿に、ハルシャは先ほどまでの心の苦しさがほんのり和らいでくるのを感じていた。

「お兄ちゃんと、朝からずっと一緒にいられるなんて」
 ラグレンの街並みを見つめながら、サーシャが呟いた。
「何だか、不思議な感じがする」
 街から目を逸らさずに、サーシャが続ける。
「きついお仕事を辞められたのは――リュウジのお陰なんだね」

 ぽつりと、彼女が呟いた。
 大人びた口調に、サーシャなりに色々考えていたのだと、気付かされる。
 すぐに言葉を返せなかったハルシャに、不意にサーシャが笑顔を向けた。
「ジェイ・ゼルさんとの、昨日のお仕事の『引継ぎ』は、無事に終わったの?」
 ああ、そうか。
 自分がジェイ・ゼルのところへいく理由を、リュウジは仕事の引継ぎだと妹に説明してくれていたのだ。
 ハルシャが困った立場にならないように、最大限の配慮をしてくれていたのだろう。
 その彼を、怒らせてしまったことが、ひたすら悲しかった。
「急に辞めることになったので、手間取ってしまったが」
 嘘に、嘘を重ねる。
「一応済ますことができた。だが、もしかしたら、また引継ぎをしなくてはならないかもしれない」

 予防線を張るように、自分は妹に嘘を吐いている。
 また、ジェイ・ゼルの自宅で泊まっても、言い訳が立つように。
 ちくんと、胸が痛んだ。

 ふうんと、サーシャが頭を揺らす。
「お仕事は、大変だね」
 それでサーシャの中では、会話が終わったらしい。
再び窓の外へ視線を戻している。
 ロンダルド駅に着いてからは、メリーウェザ医師の話がほとんどで、幸い自分の仕事のことが話題に上ることはなかった。

 今も走っていくサーシャの背中を見つめて考える。
 もし、ラグレンにこのまま残るのなら、いつか妹に告げなくてはならない。
 ジェイ・ゼルは、単なる仕事の上司ではなく、自分の愛する人なのだと。
 告げた事実を、サーシャは、受け入れてくれるだろうか。
 軽く、ハルシャは唇を噛み締めた。
 先のことを考えると、心が揺らぐ。

 リュウジが今日は一緒に居られないと言った時、怒らせたという気持ちと共に、どこか猶予を貰ってほっとしている自分がいた。
 帝星へ一緒に行こうと、リュウジは言ってくれた。
 サーシャのためにも、それが良いのかもしれない。
 けれど。
 もう、自分はジェイ・ゼルと離れることが出来ない。

 彼の側に居たかった。
 ラグレンを去る選択肢が自分にはないことを、リュウジに告げることがどうしようもなく、辛かった。
 彼の優しさを思う度に、自分がひどく自己中心な人間なのだと思い知らされる。

 どんな理由をつけ足しても、誤魔化せない。
 結局自分は、ジェイ・ゼルの側に居たいだけなのだ。
 彼と離れて生きていくことなど出来ないと、思うほどに。

 そんな自分勝手な理由で、リュウジの好意を踏みにじるようなことを告げるのが苦しかった。

「本当にお母さんにそっくりなんだな! 大人になったサーシャかと思ったよ!」
 医療室の扉を開いた途端、感嘆の声を上げるメリーウェザ医師の言葉が、耳に飛び込んできた。
 写真を手にしてサーシャは、嬉しそうに笑っている。
 照れているのか、少し頬が赤らんでいた。
「リュウジがね、探し出してくれたの」
 キラキラした目でメリーウェザ医師を見上げながら、サーシャがリュウジの手柄を、必死に告げている。
「ヨシノさんと一緒に、昔の資料から探してくれたんだって」
「そうか。それは、本当に良かったな」
 医療室のいつもの椅子に座って、にこにことメリーウェザ医師が笑っている。もっと良く見せてくれというように、彼女は写真に向けて手を差し伸べた。
「どれ。私もご挨拶しなくてはな。サーシャのご両親に」
 片目を瞑り、笑いを含んだ声でメリーウェザ医師が言った。

 サーシャが渡した写真を両手で持つと、彼女はじっと寄り添う父と母を見つめていた。
 しばらくしてから、彼女は口を開く。
「はじめまして、ヴィンドースさん。いつもサーシャにお世話になっています。ミア・メリーウェザです」
 まるで、生きている両親を前にするように、彼女は生真面目な口調で語り掛けている。
「もう、先生ったら」
 照れくさそうに、サーシャが唇を尖らして抗議の声を上げた。
「まあまあ、挨拶ぐらいさせてくれ、サーシャ」
 笑ってサーシャをいなしながら、彼女は写真に向けて、言葉を続けた。
「あなた方の息子と娘は、とても素敵な子たちです。優しくて強くて、私の誇りです」
 優しく笑うと、彼女は小さく呟いた。
「どうか、天国でも、自慢してください」

 メリーウェザ医師も、ご両親を爆発事故で失った。
 同じ境遇にある自分たちを、彼女は家族のように、とても大切にしてくれている。寄る辺のない二人に、差し伸べてくれる確かな手を、感じた。

「――先生」
 サーシャが、震える声でメリーウェザ医師にむけて、呟いた。
 にこっと、ミア・メリーウェザが笑う。
「このご両親の元に生まれることが出来て、良かったな。何より、美男美女だ」
 静かに写真を戻しながら、彼女は優しい笑みを浮かべた。
「ありがとう、サーシャ。お会いできて嬉しかったよ。リュウジとヨシノに感謝だな」

 感情を我慢するように、口をへの字にして、サーシャは写真を受け取った。
 映る両親を見つめてから、さっと顔を上げた。
「先生」
 突然サーシャが、言葉を放った。
「ん?」
 写真を手にしたまま、サーシャはメリーウェザ医師を真っ直ぐにみつめる。
「お茶を、飲みたくないですか」
 唐突な言葉に、メリーウェザ医師が片眉を上げる。
「あ、ああ。今朝はそういえば、まだ、飲んでいないな」
「なら」
 言いながら、サーシャがぱっときびすを返した。
「お茶を入れてきます。とっても、美味しいのを――」
「あ。ああ。解った」
 写真を手にしたまま、小走りにサーシャがハルシャの脇を駆け抜けていく。
 逃げるように部屋を出て行く妹の目に、薄っすらときらめくものがあった。

 六歳で別れた両親の顔をサーシャは覚えていない。
 取り戻そうとしても、取り返せない過去が、不意に胸に迫ったのだろうか。
 泣き顔を、見せたくなかったのかもしれない。
 両親を恋しがってこぼす涙を――自分と、メリーウェザ医師には。

 サーシャの背中を見送ってから、メリーウェザ医師が小さく呟いた。
「ご両親も見たかっただろうな」
 目を細めて、静かに彼女は言葉を滴らせる。
「成長していく、愛娘の姿を」
 ゆっくりと、視線がハルシャへ向けられて、優しい声で彼女が言った。
「成人した、息子の立派な姿も、な――」
 言い終えてから、彼女は痛みを堪えるように静かに微笑んだ。

 言葉が、心に刺さった。
 父は自分の成人に合わせて、宇宙船を贈ってくれようとしていた。それだけ、成長を楽しみにしてくれていたという事実が、不意に胸に迫ってきた。
 唇を噛み締めるハルシャを見つめてから、彼女は呟いた。

「ジェイ・ゼルが、会ってくれたようだな。ハルシャ」

 まとう服から、気付かれたのだろうか。
 とっさに顔を赤らめながら、ハルシャは何とか頷いて見せた。
 メリーウェザ医師の笑みが、深まった。

「そうか」
 ふっと、遠いところへ、彼女は視線を向けた。
「良かったな、ハルシャ。想いがジェイ・ゼルに通じて」
 しばらく無言で虚空を見つめてから、
「よく、頑張ったな」
 と、労りのこもった声で、彼女が呟く。

 ジェイ・ゼルとのやりとりを、彼女は正確に見抜いているような気がした。
 捨て身で自分がジェイ・ゼルに縋ったことも、互いの醜さを見せ合って、それでも離れられないと気付いたことも。
 メリーウェザ医師が以前告げようとしたジェイ・ゼルの秘密ですら、もうすでに、自分が知っていると理解してくれているような気がした。

「ジェイ・ゼルの意志を変えさせるなど、大したものだ」

 ぽつりと、メリーウェザ医師が呟く。
 かあっと、顔が赤くなる。
 自分はジェイ・ゼルを誘惑しようとして、彼の前で服を脱ぐという痴態までさらしたのだ。本当に、捨て身だった。
 どうして自分にあそこまで出来たのか、今では信じられないぐらいだ。
 それほど、必死だった。
 ジェイ・ゼルと別れたくない――
 その一念が、自分を突き動かした。
 渾身の勇気を振り絞った。
 それでも無駄だったと、一時は心が折れてしまいそうだった。
 彼の腕の中で目覚めた朝が信じられないほどだ。

「ジェ……ジェイ・ゼルのところへ押しかけていって、自分の想いを、伝え続けただけだ」
 顔が真っ赤になる。
「最終的に、ジェイ・ゼルが譲ってくれた」

 自分の手柄ではないと告げようとしたハルシャに、不意に声を上げて、メリーウェザ医師が笑った。
 ひとしきり笑ってから、彼女は笑いを喉に引きつらせて、呟いた。
「うらやましいよ、ハルシャ」
 茶色の目が、優しく細められた。
「どうしてその勇気が、私にはなかったんだろうな」


 おどけたような言葉だった。
 なのにそこに籠るものは、重く辛い、哀哭だった。

 ハルシャを見つめて、彼女が静かに笑みを消して、呟いた。
「叔父が会ってくれなくても、私から押しかければ良かったんだな。逃げられたら、追えばいい。
 捨て身になって、相手を求め続ければ、叔父も根負けして会ってくれたかもしれないのに」
 自分自身へ語り掛けるように、ミア・メリーウェザが呟いている。
 遠い虚空へ視線を向けながら。
 胸の内に抱きしめ続ける、愛しい面影を恋い慕いながら。
「けれど、その勇気が、私にはなかった」

 艶やかに、彼女は微笑んだ。
「叔父にこれ以上嫌われたくなくて、身動きすら出来なかった」
 ふふっと、メリーウェザ医師が微笑む。
「やはり、ハルシャは叔父と同じだな。宇宙に呼ばれた、真の勇気ある者だ。私とは、違う」
 悲しみを瞳の奥に隠しながら、彼女は優しく笑みを深めた。
「良かったな、ハルシャ。ジェイ・ゼルが会ってくれて。本当に良く頑張った」

 どうしようもない過去を悔いながらも、メリーウェザ医師はハルシャの今の幸せを喜んでくれている。
 会ってはくれない人に、必死に取りすがる勇気のことを、彼女は一番よく解ってくれているような気がした。
 だから、なお、辛いのだろう。
 もしも、と、考えたら。

「メリーウェザ先生は――」
 ハルシャは、静かに言葉を滴らせていた。
「キルドン・ランジャイル叔父さんのことを、一番大切に考えていた。だから、逢いに行けなかったんだ」
 あの瞬間、ジェイ・ゼルの意志の強さに負けて、身を引こうとした瞬間の思いが、蘇ってくる。これほど大切に想ってくれているのなら、自分が譲るしかないと、ハルシャは考えた。
 それほどまでに、ジェイ・ゼルは自分の幸せだけを、祈ってくれていた。
「叔父さんがどんな思いで、自分と逢わないと言っているのかが、誰よりも解ったから……その想いを、踏みにじることが出来なかったんだ」

 茶色の瞳が、自分を見つめていた。
 その眼差しに向けて、ハルシャは語りかけた。

「メリーウェザ先生は、勇気がなかったのではない」
 あの瞬間の痛みを思い出しながら、ハルシャは懸命に言葉を続けた。
「世界で一番、キルドン・ランジャイル叔父さんのことを、大事に想っていただけだ。姪と叔父の一線を越えたくないという彼の思いを、メリーウェザ先生は、誰よりも大切にした」
 きっと、メリーウェザ先生は、自分の想いよりも何よりも。
 キルドン・ランジャイル叔父の思いが、一番大切だったのだろう。

「間違っていなかったと思う。逢いに行かなかったことの方が、私は勇気ある行動だったと、心から思う。
 メリーウェザ先生は優しい人だ。
 自分よりも相手の痛みを考える、とても優しくて強い人だ」

 だから。
 話してくれたのだ。
 彼女が毒のように内側に秘め続けた、大切な人との思い出を。

「そんな先生だからこそ、キルドン・ランジャイル叔父さんは、二度と逢わないと決めたのだと思う。
 それが、彼の愛し方だった――叔父さんはきっと、自分自身よりも、ずっと、ずっと、メリーウェザ先生のことが、大切だったのだと思う。
 自分がどんなに傷ついても、メリーウェザ先生を守ろうとするほどに」

 あの時。
 ジェイ・ゼルに問いかける勇気をくれたのは、キルドン・ランジャイルの、メリーウェザ先生への想いの強さだった。
 最後の瞬間、空間を超えて呼び声が届くほど、激しく強く愛しながらも――相手に伝えることのなかった、彼の――
 不器用で優しさにあふれた愛し方に、真実を見たような気がした。

 最後の瞬間、ジェイ・ゼルは自分の名を呼んでくれるのだろうか。
 二度と逢うことが叶わなくても。
 心の中に、互いの面影を抱きしめて、同じ宇宙を見上げるのだろうか。
 そうやって、愛し抜いて――
 体が滅ぶ瞬間に、言葉で魂に引き寄せるように、愛しい人の名を呼ぶのだろうか、と。

 思うと、言葉がほとばしり出ていた。
 最後の瞬間、ジェイ・ゼルの手を握りしめていたかった。
 瞳を触れ合わせて、互いの想いを確かめたかった。
 彼から離れたくない――想いが、口から溢れた。
 それは。
 ミア・メリーウェザへの愛だけを胸に、宇宙に散った、一人の男の生き様が、与えてくれた勇気だった。

「キルドン・ランジャイル叔父さんは、メリーウェザ先生を、誰よりも大切にしていた。自分よりも、何よりも。宇宙はきっと、そのことを知っている」
 
 彼の最期を抱きとめた漆黒の宇宙だけは、キルドン・ランジャイルの真実を知っているのだろう。
 たくさんの想いを内にはらみながら、今も宇宙は永遠の神秘を湛えているのかもしれない。

 茶色の瞳に、不意に薄っすらと涙が滲んだ。
「全く、この子は」
 呟いてから、彼女は天を仰いだ。
「自分が幸せだからって、人まで幸せにしようとしているのかい? 全く。本当に――」
 天井を見つめたまま、メリーウェザ医師が呟く。
「単に意気地なしだっただけだよ。私も叔父も――嫌われるのが恐くて、触れられなかっただけだ。似た者同士なんだよ」
 ふふっと、彼女は天を見つめて微笑んだ。
「なんせ、叔父と姪だからね」

 もしかしたら。
 メリーウェザ医師はずっと、後悔していたのかもしれない。
 自分の前から姿を消した叔父を、しゃにむに追い求めなかったことを。
 たとえ嫌われても拒まれても、会いに行けば良かったと、何度も何度も考えたのかもしれない。
 待つだけだった自分のことを、責めていたのだろうか。
 でも。
 それが、メリーウェザ先生の優しさだった。
 逢わないと決めた叔父に、追いすがらなかったことが。
 最後の瞬間、彼女は自分よりも、叔父の気持ちを大切にしたのだろう。
 キルドン・ランジャイルが世界で一番、ミア・メリーウェザを大切にしていたように、彼女もまた、彼が大切だったのだ。
 自分の想いを突き付けるよりも、そっと身を引くほどに。
 もう二度と、叔父を困らせたくないと、思うほどに。

 不器用で、切ない恋だった。
 けれど。
 きっと、幸せな恋だったのだろう。
 最後の瞬間に、たった一つの愛しい名を、キルドン・ランジャイルは口にした。
 その眼には、姪の姿が映っていたのだろうか。
 深く遙かな宇宙の向こうに居る、大切な人の姿が――

「先生が、過去を話してくれなかったら」
 ハルシャは小さく呟いた。
「これほどの勇気を得られなかった。ありがとう。メリーウェザ先生」
 ジェイ・ゼルの服を着て佇むハルシャに、静かに彼女は首を振った。
「行動に移したのは、ハルシャだ。私は何もしていないよ」
 髪をかき上げて、彼女は微笑む。
「ジェイ・ゼルを想い、信じ抜いたのは、ハルシャだ。その想いの強さが、ジェイ・ゼルを変えたんだよ」

 眼差しが、触れ合う。
「で」
 メリーウェザ医師が穏やかに問いかける。
「リュウジに、ラグレンに残ると、もう言ったのかい?」

 いきなり痛い所を突かれて、ハルシャは眉を寄せた。
「まだ――言えていない」
 メリーウェザ医師は、ゆっくりと瞬きをした。
「だろうね」
 ふうと、小さく彼女が息をする。
「リュウジは、そう簡単に納得しないだろう。かわいそうにね」
 最後の言葉は、独り言のようだった。

「お兄ちゃん、開けて!」
 と、不意に声が聞こえた。
 慌てて扉へ向けて駆けていき、開いた向こうに、お盆にカップを三人分運んできたサーシャの姿があった。
 その眼が、赤くなっているのに、ハルシャは気づいたが、
「ありがとう、サーシャ」
 と、ただ、感謝の言葉だけを述べるに止めた。
「お待たせして、ごめんなさい」
 サーシャは、以前注意を受けたことを、忘れていなかったようだ。
 慎重な足取りで歩いてくる。
 手に両親の写真を持っていたので、どうやら扉が開けられなかったようだ。
 写真の端が、ぎゅっと握りしめたように、少し痛んでいるのに、ハルシャは気付いた。
 一人になって、彼女はきっと、写真を握りしめながら、自分の悲しみと、向き合ってきたのだろう。
 今夜、リュウジも含めて、両親の思い出を語ろうと、ハルシャは静かに心に決めた。

「今日のお茶は、上手に入ったと思います!」
 元気よくいうサーシャに、にやっと、メリーウェザ医師は片頬を歪めている。
「さあて、どうかな。サーシャはあんがい乱暴だからな」
「あーっ、先生! さっきはあれほど褒めてくれたのに!」
「それと、お茶の味は、別物だからね」
「もう。厳しいんだから」
 メリーウェザ医師はお茶の味にうるさいと、サーシャはこぼしていた。中々及第点がもらえないらしい。
 練習をするにも水は貴重なので、その機会がないのが、残念そうだった。
 会話をしながら、サーシャがメリーウェザ医師にお茶を出す。
「ん~。香りは上等だね」
 笑顔で言いながら、カップを手に取り一口含んでから、メリーウェザ先生の眉が上がる。
「ちょっと、お湯の温度が高かったな、サーシャ。お茶を入れる温度は、100℃ではない。98℃だよ」
 どうやら、お眼鏡にかなわなかったようだ。
 サーシャの眉が寄る。
「今日はいけると思ったんだけどな……」
 ふふと、メリーウェザ医師が笑いをこぼす。
「でも、美味しいよ。サーシャ。君の努力の味がする」

 眉を解いて、サーシャも笑った。
「厳しい先生がいるから、がんばれます」
 笑顔のまま、ハルシャにもお茶を手渡してくれる。
「いつか、文句なしに美味いと、言わせて見せますね、先生」
「おお、楽しみにしているよ、サーシャ」

 仲の良い二人の会話を聞きながら、ハルシャは考えていた。
 これほど打ち解けているサーシャを、メリーウェザ医師の側から離しても、大丈夫だろうか、と。
 やはり。
 サーシャもラグレンに居た方が良いのではないだろうか。
 にこっと笑うサーシャの笑顔を見つめながら、考え続ける。
 もし、ラグレンに留まると言えば、リュウジはどう思うだろう。
 苦しい想いが、湧き上がってくる。
 自分は、リュウジを傷つけてばかりいる。
 彼は、何の見返りもなく、自分たち兄妹を助けようとしてくれているのに――

 楽しげに会話を交わすサーシャとメリーウェザ医師の声を聞きながら、ハルシャの胸の内は晴れなかった。




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