ハルシャは、戻ってきた――約束をした通りに。
吉野の操る飛行車から、ラグレンの街を見つめながら、リュウジは心に呟いていた。
サーシャに手を引かれ、申し訳なさげな顔で部屋へ入って来た姿を見て、ジェイ・ゼルの意図を感じざるを得なかった。
ハルシャは、彼の服を着ていた。
それが意味することを、リュウジに悟らせようとするかのように。
リュウジは表情を消したまま、建物が密集する都心ラグレンを見下ろす。
一度服を脱ぐようなことをしたのだと、ジェイ・ゼルは自分に告げようとしているのだ。
昨夜は、一睡もしていなかった。
マイルズ警部たちは、酒瓶からシララル酒がなくなった後、ほどなくして自分たちの部屋に戻っていった。
あまり気にせずに、ぐっすり眠るんだよ、と子どもに言い聞かせるように言葉を残してから。
マイルズ警部たちが去った後、リュウジは一人ソファーに戻り、黙したまま座り続けた。
隣にハルシャが座っていたのが、遠い昔のように思えた。
あの時、確実に心が通い合ったと思ったのに。
そのまま、リュウジはソファーの上で朝を迎えた。
夜明けのラグレンの空を見つめながら、心に一つ、決める。
どんなことがあっても、自分は、ハルシャを許そう、と。
これほど遅くなるのは、ハルシャの本意ではなかったはずだ。
やむを得ない理由があったのだろう。
壮大なラグレンの暁の空を見上げて、心に誓う。
彼は戻ってきてくれる。
そうしたら、家族として彼に接そう。何があっても受け入れて、彼の側に居ようと。
心に決めて、ハルシャを迎え入れた。
昨日の内に手に入れていたご両親の写真を、ハルシャは喜んでくれるはずだった。
ハルシャを待ちきれずにサーシャに見せた時、彼女は心から感動していた。
そうやって。
彼らが失ったものを、一つ、一つ、丁寧に取り戻してあげたいと、心から願っていた。
だから吉野の手を借りて、写真を探し出したというのに――
苦い思いが、心から溢れだす。
リュウジは、都心ラグレンを見つめる。
ハルシャは、自分の元に戻って来た。
ジェイ・ゼルに、昨夜の行為を匂わせるような痕を首につけられて。
写真を見て喜ぶハルシャに、いつも通りに話しかけようとした。
何のわだかまりもなく接そうと。
決めて口を開きかけたとき、目に飛び込んできたのだ。
彼の首筋に、ありやかに残されていたものが。
赤い花びらのような形の、内出血の痕跡。
ハルシャは、自分のものだと――
誇示するような、ジェイ・ゼルの唇の痕だった。
ハルシャ自身も気付いていなかったようだ。
サーシャの無邪気な指摘に何の痕なのかに思い至り、瞬時に彼は深紅に顔を染めていた。
兄として、羞恥を感じたのだろう。
気付いた事実に、リュウジは思わず舌打ちをしてしまった。
これは、明らかに自分に向けて発せられたメッセージだった。
ハルシャを一時的にそちらに手渡すが、本来は自分の恋人なのだと。
決して手離す気はないのだと――
言葉にならない言葉で、明確にジェイ・ゼルに宣言されたようだった。
感情が荒ぶりそうになるのを、必死にリュウジは押さえ込んだ。
これは、ジェイ・ゼルがしたことだ。
ハルシャには、何の責任もない。
彼を責めるなど、お門違いだ。
冷静に自分に言い聞かせて、その時は上手く感情を制御できたと思っていたのに。
ハルシャが携えてきたものを目にした時、自分が抑えきれなくなってきた。
ジェイ・ゼルが渡したものは、ヴィンドース家の家宝とも言うべき、惑星トルディアの父、ファルアス・ヴィンドースの直筆の詩だった。
喜ぶサーシャと、妹に由来を告げる嬉しげなハルシャの顔を見たときに、再び理由の解らない敗北感が胸の奥に広がってきた。
自分は、彼らの両親の写真を、苦心して手に入れた。
なのに、ジェイ・ゼルはそれを、上回ることを易々としてのけたのだ。
どうして、負けたように思うのだろう。
このことは、ハルシャたちにとって、喜ばしいことのはずなのに。
どうして自分は、素直に喜ぶことが出来ないのだろう。
己の狭量さに、反吐が出そうだった。
良かったですね、と、たった、一言でも、言葉にすら出来ない自分が、辛かった。
ジェイ・ゼルが、自分を食事に招いていると聞いた時、正確にリュウジは未来を予測した。
五年の時の重さを見せつけるように、ジェイ・ゼルはハルシャと親しげに振る舞うのだろう。そして、自分は、何も言えずにそれを眺めるしかないのだ。
サーシャの言葉がなければ、ハルシャの申し出を自分は固辞していた。
耐えられなかった。
二人の想いの強さを目の当たりにすることが。
今も、考えるだけで、胸が張り裂けそうだった。
だから、逃げ出した。
ハルシャの側から。
ジェイ・ゼルの香りを漂わせるハルシャの近くに、これ以上居ることが出来なかった。
我ながら情けないことだ。
あれほど、家族として接そうと心に決めたというのに。
苦渋に眉を寄せてから、リュウジは
「
と、前で飛行車を操る彼に声をかける。
「ハルシャとサーシャが帝星へ行くとしたら、惑星トルディアからの出星手続きをしなくてはならない。お役所仕事だ。恐らく時間がかかるだろう――出星申請だけでも、出しておくほうが良いだろう」
外を見つめながら、リュウジは呟く。
「書類だけでも通しておけば、後でどうとでも融通がつく」
小さな声で彼は付け足した。
「この星に残る時には、破棄すればいいだけだ――時間のかかることから、していこう」
本当は、今日は彼らと一緒に、役所で申請書類の手続きをする心づもりだった。
ラグレン中央役所で全ての申請が出来ると、吉野にもう調べてもらっている。
なのに。
全ての予定を投げ捨てて、自分はハルシャから離れた。
ジェイ・ゼルの気配をまとわりつかせたハルシャの側に、どうしても居ることが出来なかった。
自分が送り出しておきながら、情けないことだ。
「解りました、
「うん」
本人が記入する必要がある書類は、持ち帰ればいい。
そう計算してから、リュウジは眉を寄せた。
もう一つ。
ハルシャの側を離れた理由が、ある。
彼の口から、帝星には行かない。惑星トルディアに残るという明確な言葉を聞くことが自分は恐かったのだ。
ジェイ・ゼルから離れられないという事実を、ハルシャから突きつけられるのが。
自分は、こんなに弱い人間だったのだろうか。
心の中に、小さく呟く。
ハルシャに出会ってから、色々な感情と共に、人間としての弱さも覚えていくようだ。
これほど不安になることなど、今まで一度もなかった。
常に、未来を予測し、最善の道を迷いなく歩いてきたというのに。
「役所で手続きが終わったら、リンダ・セラストンに会いに行こう。彼女から、もう少し話を聞く必要がある」
「かしこまりました」
「昼に、もし予定が合えば、マイルズ警部と食事をしよう。一度、警部に打診しておいてくれないか」
「了解いたしました。伺っておきます」
吉野と会話を交わしていると、これまでの自分に戻っていくような気がする。
迷いなく、疑いもなく、自分だけが正しいと信じていた過去の自分に。
けれど――
ハルシャと出会って、自分の正しさなど、ただの思い込みだったのだと感得した。
宇宙は広い。
広くて深くて、果てしがない。
無窮の宇宙の前では、カラサワ・コンツェルン次期総帥という肩書など、何の意味も持たない。
自分は一瞬で消え去る、愚かで無力な一つの生命体に過ぎないと思い知った。
覚束ない生を生きている不安が今も、傍らにある。
それでも。
迷いが無かったころよりも、今の迷う自分の方が、なぜか生きているような気がする。
昔の自分は、精巧な機械のようだった。
カラサワ・コンツェルンに利益をもたらすために存在している、脈打つ心臓を持つだけの存在。
ハルシャへの想いが、きっと自分に心を与えてくれたのだろう。
そして。
心があるからこそ、きっと、自分は苦しいのだろう。
痛みに眉を寄せながらも、リュウジは静かに内側に呟いた。
どんなに苦しくても、醜くても、みっともなくても。
もう、以前の自分には、戻りたくなかった。
記憶と心を失うことでしか、自身を護れなかった過去の自分には――
考えながら、リュウジは荒ぶる感情を整理していく。
苦しい作業から、それでも彼は目を逸らさなかった。
小さく吐息をついてから
「ジェイ・ゼルは、シララル酒を喜ぶだろうか」
と、吉野に問いかける。
短い沈黙の後
「
と、明瞭な返事が戻ってくる。
ふっと、リュウジは想いを馳せる。
「そうだな」
目を細めて、静かに考える。
「昨日、吉野が用意してくれたシララル酒は、帝星で供されてもおかしくないほど極上の味わいだった」
流れていく都心ラグレンの風景を見つめながら、リュウジは言葉を呟いた。
「今夜、晩餐に招いて頂く礼として、ジェイ・ゼルに昨日の銘柄のシララル酒を携えていこう」
ようやく、リュウジは顔に笑みを浮かべることが出来た。
「シララル酒なら、ハルシャも好きなようだ。食事にもよるが、その場で開けてもらうのも楽しいかもしれない」
運転をしながら、吉野の頭が軽く揺れた。
「良いお考えだと思います。早速に、手に入れる算段をつけておきます」
「うん、頼んだ」
「楽しい食事会になると、よろしいですね」
優しい吉野の声に、リュウジは沈黙してから、口を開いた。
「楽しめるかどうかはわからないが、楽しめるように、出来る努力はするつもりだ。ジェイ・ゼルに招かれた責任は果たしておきたい」
ジェイ・ゼルの、少し
「サーシャが同席している。ジェイ・ゼルも配慮をするだろう」
妹が見ている前で、あからさまに兄に絡むことはないだろう。
その一点が、参加を決めさせたと言っても良いほどだ。
「――心配しないでくれ。楽しんでくるよ」
リュウジは虚空に向けて呟いた。
「これ以上、ハルシャを悲しませるようなことは、しない」
彼の約束違反をなじるように、自分は唐突に席を立ってしまった。
残されたハルシャは、きっと、気が咎めているだろう。
解っていても、行動に移ってしまった。
傷つけてしまった。
ハルシャを――
彼には、何一つ、責任がないことなのに。
あの時。
佇むハルシャの背後に、抱き締めるジェイ・ゼルの姿が、ぼんやりと見えてしまった。
彼らの関係の深さを物語るように、柔らかく腕に捕らえて、守るように唇を寄せるジェイ・ゼルの姿が。
幻影に過ぎないと解っていても、苛立ちが収まらなかった。
それほどまでに、ハルシャはジェイ・ゼルの気配を濃厚にまとっていた。
いや。
ジェイ・ゼルが、意図してそうしているのだ。
リュウジを、牽制するために。
ふと。
そこまでして、自分を警戒する意味を、リュウジは考える。
もしかしたら――ジェイ・ゼルも不安なのだろうか。
自分のところへ戻すときに、ハルシャに自分自身を刻み付けずにはいられないほど、に。
彼もまた、ハルシャを失うことを、恐れているのだろうか。
目を細めて、リュウジはしばらく考えていた。
「大丈夫だよ、
自分自身に言い聞かせるように、彼は呟く。
「心配しないでくれ」
言い終えてから、リュウジは沈黙した。
目的地に着くまで、都心ラグレンを見つめて、リュウジはただ、黙し続けた。