ほしのくさり

第171話  遠い歌声-02





 約束通り、『アルティア・ホテル』の駐車場でハルシャを下ろしてから、ジェイ・ゼルは夕食のことを念押ししてから去っていく。
 鮮やかな別れ際だ。
 もっと、時間を費やすかと思ったが、あっけないほどあっさりと、ジェイ・ゼルは事務所へと向かった。
 夕方にまた会えると思っているからだろうか。
 ハルシャは、遠くなっていく黒い飛行車の行方を目で追う。

 気持ちが重かった。
 ジェイ・ゼルには大丈夫だと言い切ったものの、リュウジにどう釈明すればいいのか正直何も解らない。
 リュウジの怒りを受けるのは覚悟している。約束を反故にしてしまった。
 あれほど何度も念押しをされていたのに。
 叱責を受けても仕方がないほどのことを自分はしてしまった。
 吐息が、口から漏れる。
 どうして、あんなに酔っぱらってしまったのだろう。
 今後二度と酩酊するまいと、ハルシャは心に誓った。
 どうやら酔うと自分は、ジェイ・ゼルでも口が重くなるほどのことをしてしまうらしい。
 想像するとかあっと、顔が赤くなる。
 首を振ってハルシャは歩き始めた。

 今、リュウジたちはどこにいるだろう。
 取り敢えず部屋へ戻ろうと、駐車場からチューブで部屋の階まで降りる。
 ずっと胸には、ジェイ・ゼルが守ってくれていた、大切な祖先の詩を抱えていた。
 そこから勇気を吸い上げようとするかのように、ぎゅっとハルシャは胸に小さな額を押し当てる。

 ジェイ・ゼルと、無事に会うことが出来た。
 昨夜は話し込んで、その上飲酒をして、戻ることが出来ずに、大変申し訳なかった。
 さぞ、心配しただろう。
 連絡も寄越さずに、すまなかった。
 サーシャを預かってくれて、本当にありがとう。

 道中、それだけのことを懸命に練習しながら廊下を進む。
 どんなにのろのろ歩いても、足を運んでいくうちに泊っている部屋に着いた。
 番号を確かめてから、全身の勇気を奮い起こし、ドキドキしながら手を上げて、扉を叩いた。
 すぐに、返事が無かった。
「遅くなってすまなかった。今戻った」
 上ずる声で、何とかハルシャはそう告げる。
「お兄ちゃん!」
 サーシャの声と走ってくる足音が続く。
 バンっと、扉が開いて
「おかえりなさい!」
 と、サーシャが飛びついてきた。
 思わず、よろけるほどの勢いだった。

「昨夜は、ジェイ・ゼルさんと話し込んでしまって、戻れなくなってしまった。寂しい思いをさせてすまなかったな。サーシャ」
 見慣れぬ服をまとった妹が、ハルシャを見上げて、ぶんぶんと首を振った。
「マイルズ警部たちと一緒にご飯を食べて、楽しかったよ」
 そして、ハルシャの手を取ると、
「それより! お兄ちゃんに見せたいものがあるの! リュウジが探し出してくれたんだよ!」
 と弾んだ声で言いながら、ぐいぐいと引っ張っていく。
 よほど嬉しいものらしい。
 頬を真っ赤に染めて、弾む足取りでサーシャが部屋の奥へと自分を導いていく。

 部屋には、リュウジとそしてヨシノさんがいた。
 二人はソファーに腰を下ろして、机の上の何かを見ているところのようだった。
 視線を上げて、自分を迎えるように、リュウジが微笑んだ。
「おかえりなさい、ハルシャ」

 何のとがめる色もない優しい言葉に、それまで抱いていた危惧が溶けていく。
「リュウジ」
 ほっとしながら、声をかける。
「遅くなって、すまなかった」
 彼の視線が、まとっている服に向かう。
 リュウジは勘が鋭い。
 大きさと色から、自分が着ているのがジェイ・ゼルのものだと、確信したようだ。
 眼が、わずかに鋭くなる。
 なぜだか、ハルシャは、顔が赤くなっていった。
「服を、貸してもらったんだ――ジェイ・ゼルから。着てきた服を、洗濯に出すから、と……」
 何を言い訳しているのだろう、と思いながら、ハルシャはそれでも、言葉を口にしていた。
 リュウジは、目の棘を誤魔化すように、にこっと笑っただけだった。
 ぐいぐいと、手を引かれるままに、近づいたソファーの側で、ハルシャは思わず足を止めた。
 どうして、これほどまでにサーシャが嬉しそうにしているのか、その理由をはっきりと悟る。

 机の上に、広げられていたのは、印刷されたタイプの写真だった。
 画像に目が釘付けになり、動かせない。
 固まるハルシャに、
「リュウジが、図書館で昔のニュースから探してくれたんだって」
 と、弾むサーシャの声がする。

 リュウジが探し出してくれたのは、両親が映っている写真だった。
 サーシャに良く似た、母が満面の笑みを湛えて立つ横に、エスコートする父の姿がある。
 若い頃のものだ。
 もしかしたら、サーシャが生まれる前かもしれない。
 あまりに懐かしい画像に、一瞬、脳が全ての動きを停止した。
 時間が巻き戻っていく。

「お父さまとお母さまのお顔が、はっきりと解るね!」
 妹の声を聞きながら、ハルシャはようやく顔を動かした。
 リュウジは、静かに笑っていた。
「良かったですね。サーシャ」
 と、優しく労うように声をかけている。
 きっと。
 全てを失った自分とサーシャのために、彼は両親の写真を、古い記録から探し出してくれたのだろう。
 時間と、手間をかけて。
「ありがとう、リュウジ」
 思わず、感謝の言葉がこぼれる。
 リュウジが自分へ顔を向けた。
「サーシャが、鏡ばかりを見ているのはかわいそうですから」

 笑みを含んで言ってから、不意に、彼の顔が凍り付いた。
 何だろう。
 強く違和感を覚えるほど、長い時間見つめてから、ゆっくりとリュウジが口を開いた。
「ヨシノさん」
 傍らに座るヨシノさんに、目を動かさないまま、リュウジが告げる。
「ハルシャはどうやら、虫にかまれたようです。お手持ちの医療キットから、パッチを出して頂けませんか」
「虫?」
 ハルシャは思わず問い返していた。
「リュウジ。ラグレンには、虫はいない」

 一瞬、リュウジの顔が険しくなった。
「なら、どこかにぶつけたのかもしれませんね。用心のために、パッチで覆っておいた方が良いでしょう」
 サーシャがハルシャを見上げる。
「本当だ、お兄ちゃん。首のところが、赤くなっているよ。痛くない?」
「いや。全く痛くはない――どこだ」
「ここだよ、お兄ちゃん」
 背伸びをして、サーシャが首元を指さす。
「真っ赤だよ」
 サーシャのうながす場所に、指で触れた途端、思い当たる。
 出がけに、ジェイ・ゼルが唇を押し当てていた場所だ。

 きつく吸われた痕が、赤く残っているのだととっさに悟る。

 かあっと、顔が燃えるように熱くなってきた。
「ど、どうしたの、お兄ちゃん」
 突然の兄の表情の変化に、戸惑ったようにサーシャが言う。
 微かな、舌打ちが聞こえたような気がした。
 音の方向へ顔を向けたとき、リュウジと目が合った。
 彼は――赤くなっている理由を、知悉しているようだった。
 宇宙の色をした瞳が、じっと自分を見つめている。
 心の底を、見透かされているようだった。
 ハルシャはただ、顔を羞恥に燃やし続けた。

「パッチを張っておきますね」
 二人の視線の間に入るように、ヨシノさんが姿を現わした。
 手に、肌色の円形のパッチを持っている。
 首に素早く張り付けると
「しばらく、剥がさない方がいいでしょう」
 と、小声で呟いてから、すっと身を引いた。

 無意識に、ハルシャは首筋に触れていた。
 まだ、顔の赤みが引かない。
 借りた服は、シャツ形式で首元が露わになっている。
 それが解っていて、ジェイ・ゼルは、わざと、唇で痕をつけたのだろうか。
 こんなことを、これまでされたことなどなかった。
 思いがけない事態に、ハルシャはただひたすら戸惑っていた。

「大丈夫、お兄ちゃん」
 サーシャが心配そうに問いかける。
 うろたえながらも、なんとかハルシャは言葉を返した。
「大丈夫だ。どこかに知らない間に当たってしまったのかもしれない」
「気を付けてね、お兄ちゃん。首に怪我をすると危ないって、メリーウェザ先生がおっしゃっていたよ」
 母に似ている瞳を、ハルシャは見つめる。
 母と、父の写真。
 首筋に痕をつける息子を、写真の目が見ているような気がした。

「何を、お持ちなのですか」
 唐突に、リュウジが問いかける。
「ジェイ・ゼルのところで、渡されたのですか?」
 自分が腕に抱えているものを目にして、訊ねているようだった。
 奇妙な警戒の滲む言葉に、ハルシャは
「これは、昔、家にあったものなんだ」
 と、彼の疑念を解くように言葉をかける。
「とても貴重なもので――」

 ジェイ・ゼルが入れてくれた袋から取り出し、皆に見えるように掲げてみせる。
「祖先のファルアス・ヴィンドースが書いた詩だ」
 ええええっ! と、サーシャが目を見開いた。
「本物なの!」
 彼女の驚きっぷりに、ハルシャは優しい笑みを浮かべた。
「そうだよ、サーシャ。私たちの祖先の直筆だ」
 えええええっ! と、仰け反らんばかりにして、サーシャが驚愕に目を開く。
「ど、どうして、お兄ちゃんが持っているの?」

 妹に、ハルシャは事情を語った。
 昔、自分たちが住んでいた家に、この額はずっと飾られていた。
 売りに出され、本来なら別の人の所有になるものを、ジェイ・ゼルさんが買い上げてくれて、ずっと家で大事に保管してくれていたのだと。
「借金を返し終えたお祝いにと、下さったのだよ」
 語り終えたハルシャを、大きな青い瞳が見上げる。
「ジェイ・ゼルさんが?」
「そうだよ。昨日、渡して下さった」
 サーシャの眼が、潤みだした。
「良かったね、お兄ちゃん」
 声を詰まらせながら、サーシャが言う。
「ジェイ・ゼルさんは、優しい人だね」

 感極まる妹の髪を、ハルシャは撫でた。
「ジェイ・ゼルさんが、今晩一緒に食事をどうかと、おっしゃっている」
 涙に潤んだ眼が大きく見開かれる。
 ハルシャは視線をリュウジに向けた。
 彼は無言で自分たちを見ていた。
「リュウジも、一緒に誘いを受けている。今晩は、四人で食事をしよう」

 さっと、リュウジの表情が変わった。
 感情のままに口を開こうとしたリュウジは、眉を寄せて感情を飲み込んだようだった。
 沈黙の後、
「僕が行っても、ジェイ・ゼルは、喜ばないでしょう」
 と、低めた声で呟いた。
「サーシャとハルシャだけで、行ってきてください。僕には……しなくてはならない用事が、ありますから」

 拒絶の言葉に、ハルシャはとんと、胸を突かれたような、痛みを覚えた。
「そんなことはない。リュウジは私を世話してくれた人だと、ジェイ・ゼルも言っていた」
 何とか誘いを受けてほしいという一念で、ハルシャは言葉を続ける。
「きっと、リュウジとジェイ・ゼルは、話が合うと思う――もし、どうしても外せない用事でなければ、一緒に食事が出来ればとても嬉しい」

 朴訥な誘いの言葉しか出ない。
 じっと表情を見守る。
「サーシャも」
 側で、小さくサーシャが呟いた。
「リュウジとジェイ・ゼルさんと、お兄ちゃんと……四人で一緒に、お食事が出来たら、嬉しいな」

 小さな呟きに、ようやくリュウジの眉がほどけた。
「解りました」
 いつもの彼の笑みが、顔に浮かんだ。
「夕方までには、用事を切り上げることにします」
 ほっと、ハルシャは息を吐いた。
「無理を言ってすまない、リュウジ」
 サーシャと視線を合わせて、ハルシャは微笑みを交わした。
 良かった。
「夕方に、このホテルの駐車場に迎えにきてくれることになっている。時間はまだ、解らないが……」
「了解しました」
 リュウジは頭を揺らした。
「少なくとも、午後四時までには戻って来ます」
「解った。ジェイ・ゼルにも、そう言っておく」
 ハルシャの口からジェイ・ゼルの名が出るたびに、リュウジの表情が、一瞬険しくなる。
 ジェイ・ゼルもそうだった。
 どうして、こんなに彼らは、いがみ合うのだろう。
 この夕食で、打ち解けてくれたら嬉しいとハルシャは心ひそかに祈った。

「お兄ちゃん」
 おずおずと、サーシャが問いかける。
「この額を、持ってみてもいい?」
 先ほどから、興味津々の顔で、サーシャは額を見ている。
 居間にずっとかけていたが、六歳のサーシャの記憶には残っていなかったのだろう。
「もちろんだよ、サーシャ」
 手渡した額を、とても大切そうに両手でサーシャが受け取る。
 その様子を見ていたリュウジが、突然口を開いた。
「すみません。ヨシノさんと一緒に行く約束をしていて、もう時間が来てしまいました。
 出てきますね」

 あまりに唐突な言葉に、ハルシャはやや、面食らったまま
「ああ、解った。リュウジ」
 としか、答えられなかった。
「行っちゃうの?」
 うろたえたようなサーシャの言葉に、リュウジの語気が優しくなった。
「お約束の時間までには、必ず戻ります。済まさなくてはならない用事があるのです。すみません、サーシャ」
 詫びの言葉に、ぶんぶんとサーシャが首を振る。
「忙しいんだね、リュウジ。気を付けてね」
 やっと、彼は心からの笑みを浮かべた。
「ハルシャたちも、外に出る用事があるかもしれませんから、現金を少し置いておきますね。
 何かあったら使って下さい」

 そう言って、服の隠しから一ヴォゼル札を十枚出すと、机の上に置いた。
 信じられない額だというように、サーシャがびっくりして置かれた金額を見ていた。
「そんなに驚かれると、こちらが照れてしまいます。用心のために、多めにお渡しするだけですよ。ご安心ください」
 優しい声で言ってから、彼は立ち上がった。
「お待たせしました、ヨシノさん。参りましょうか」

 どこへ、とも。
 何のため、とも。
 告げることなく彼は、真っ直ぐに部屋を出て行った。
 影のように、ヨシノさんが従って出て行く。
 ハルシャはそのうしろ姿をしばらく見送っていた。
「――リュウジは、怒ったの?」
 不意に、サーシャが問いかけてくる。
「恐い顔を、していたね」
 不安そうに、自分を見上げている。

 たぶん。
 自分が怒らせたのだ。
 約束を守らなかったことで。
 ジェイ・ゼルの傍にいたことで。
 彼を裏切ったことで。

「リュウジには、急ぐ用事があったのだと思う」
 ハルシャは、彼女の危惧を取り除くように、優しく言った。
「私の帰りを、ぎりぎりまで待っていてくれたのだろう。大丈夫だ。怒っているのではないよ」
 まだ疑念の解けないままに、サーシャが眉を寄せる。
「なら、いいけど」
 唇を引き締めて、サーシャはファルアス・ヴィンドースの詩を見つめる。
 一心に読み解こうとするうちに、次第にリュウジのことが頭から離れて行ったようだ。
 この言葉の意味は何か、と、ハルシャに問いかけてくる。
 ハルシャは、かつて父がしてくれたように、丁寧に妹に詩の意味を語った。
 いたく感動しながら、サーシャはぎゅっと、詩の額を胸に抱きしめた。
「すてきな詩だね」
「そうだな。素朴で飾りのない言葉だ。ファルアス・ヴィンドースの人柄そのままだと、言われている」


 良い詩だった――
 君の先祖は、詩人だな。


 紫の森の木漏れ日の中で、ジェイ・ゼルはそう言った。
 自宅で大切に守る詩を心に思いながら、あの時、彼は呟いていたのだろうか。
 彼は、ハルシャにとって、何が一番大切かを、誰よりもよく、知っていてくれていた。

「ねえ、お兄ちゃん!」
 何かを思いついた、はしゃいだ声をサーシャが出している。
「この詩と、お父さまとお母さまの写真を、メリーウェザ先生に見せてあげたいのだけど、ダメかな?」
 青い大きな瞳が、自分を見上げている。
「大事なものだから、持ち歩くのは危ないかな……?」

 自分の大切なものを、大事な人に見せてあげたいのだ。
 両親の写真と、祖先の貴重な直筆を、メリーウェザ医師が喜んでくれると考えたのかもしれない。
 このまま、ホテルの部屋にいても、他にすることはない。
 なら、妹の希望を叶えてあげる方が、いいのかもしれない。
「注意していれば大丈夫だろう」
 ハルシャは、うなずきながら応えた。
「リュウジが現金を置いてくれているから、バスでオキュラ地域に戻れば早い」
 その言葉に、サーシャは歓声を上げた。
 学校へ挨拶に行かなくてはならないと、ハルシャは思っていた。
 ちょうど、良い機会かもしれない。
 夕方まで、自由な時間があるのだと、改めて思い返す。
 自分はもう、危険な仕事をする必要はないのだ。

 まだ喜びを全身で表現する妹に向かって、ハルシャは思わず笑いを含んで言った。
「なら、準備をして、これから出かけようか。サーシャ」








Page Top