ほしのくさり

第170話  遠い歌声-01






 遠い歌声を聞いたような気がした。

 微睡まどろみの中で、ハルシャはその歌の行方を追っていた。
 初めて聴く曲のはずなのに、不思議に懐かしい感じのする旋律が耳に残る。
 歌を追い求めるままに、いつしか、目を開いていた。

 薄闇が、辺りに広がっている。
 一瞬、自分がいる場所が、解らなかった。
 ここは、どこだろう。
 完全に目が覚めやらぬままに、ハルシャはぼんやりと風景を眺めていた。 
 それにしても、身がとても温かい。
 ハルシャは、うつ伏せの状態で眠っていたようだ。
 穏やかな上下するリズムに包まれているような、不思議な感覚に捕らわれる。
 とても、心地良かった。
「目が、覚めたのかな」
 もぞもぞと動いたことに、気付いたのだろう。声が耳元に響いた。
「まだ夜明け前だよ。もう少し、お休み。ハルシャ」
 顔を動かすと、すぐ側に、ジェイ・ゼルの横顔があった。
 ものすごく、距離が近い。

 はっと、意識が覚醒すると共に、自分がとんでもない場所に寝ているのに気が付いた。
 ジェイ・ゼルの身体の上だ。
 柔らかく身が上下していたのは、下に敷いていたジェイ・ゼルの身が、呼吸によって動いていたためだった。
 慌てて起き上がろうとするハルシャの体が、布団の上からジェイ・ゼルに抑えられた。
「大丈夫だよ、ハルシャ」
 何がどう大丈夫かを一切説明せずに、全てを納得させる口調で、ジェイ・ゼルが言う。
「あと少し、眠るといい」

 そう言われても、あまりの衝撃に目が覚めてしまった。
「だ、だが、ジェイ・ゼル」
 寝起きのために、かすれる声でハルシャは呟く。
「重いだろう」

 ふふっと、ジェイ・ゼルが笑う。
「軽いよ」
 嘘だ。
 異を唱えようとしたハルシャの先を取るように
「こうやっておかないと、ハルシャは大変だからね」
 と、笑いを含んだ声で言う。
 大変?
「何がだ、ジェイ・ゼル?」
 問いかけた言葉に、彼の笑みが深まった。
「酔っぱらいのハルシャは、こうやって腕に包んでおく方が、安心なのだよ」

 はっと、昨日のことを思い出す。
 そうだ。
 自分はクラヴァッシュ酒を、酩酊するまで飲んでしまった。
 ま、まさか……
「酔っぱらって、私はジェイ・ゼルに、迷惑をかけたのか?」
 声が、ひっくり返ってしまいそうになる。
 ふふふと、ジェイ・ゼルは笑い続ける。
「迷惑ではないよ。とても、ハルシャはかわいかったからね」

 言葉に籠る響きに、段々と顔が赤くなっていく。
「な、何を私はしたんだ?」
 ちらりと、ジェイ・ゼルが視線をハルシャに向けた。
 しばらく無言で見つめてから、
「ハルシャの名誉のために、私は沈黙しておくことにするよ」
 と、思わぬ優しい声でいう。

 相当のことを、してしまったのかもしれない。
「な、何をしたんだ」
「さあ。何かな」
 はぐらかす口調に、ハルシャは、次第に顔が青ざめて行く。
「く……口に出来ないようなこと、なのか?」
 ジェイ・ゼルすら、言うのをためらうような痴態を、自分は演じてしまったのだろうか。
 泣きそうになるハルシャの髪を、ジェイ・ゼルがさらりと撫でた。
「私にとっては、とても嬉しいことだけれど……。そうだね、ハルシャ。忠告しておくよ。私がいないところで酩酊するのは、君にとって、とても危険なことだよ」
 にこっと、ジェイ・ゼルが、笑う。
「今後は、気をつけようね」

 な、何を一体、自分はしてしまったのだ。

 ふるふると震えるハルシャの髪に、優しくジェイ・ゼルの手が触れている。
「ハルシャの新しい面が見られて、私は楽しかったけれどね……」
 ちゅっと、頬に唇が触れた。
「大丈夫だよ、ハルシャ。誰にも言わないよ、二人だけの秘密だ。安心しておくれ」

 そういう問題ではない。
 何があったのかを、必死に聞き出そうとしてもジェイ・ゼルは笑って取り合ってくれない。
 もう少しお休み、と言いながら、ぽんぽんと布団越しに背中を叩かれる。
 まるで、子どもにするような態度だ。
 納得できないものを抱えながら、ハルシャはぐぬぬと、歯噛みをする。
 意識を失ってしまうほど飲むなど、これで二度目だ。
 まさか。
 リュウジと一緒の時にも、自分はとんでもない醜態を演じたのだろうか。
 にわかに不安になってきた。
「どんなことを、したんだ、ジェイ・ゼル、頼むから、教えてくれ」
 まだ諦めずに、懸命に聞き出そうとするハルシャに、微笑みながらジェイ・ゼルが顔を向ける。
「私を悦ばそうとしていた。それだけだよ」

 がーんと、顔に書いていたのかもしれない。
 あまりの驚愕ぶりに、ジェイ・ゼルが笑いを引っ込めた。
 眉を寄せて、問いを口にする。
「何をそんなに動揺しているんだ、ハルシャ」

 あまりにうろたえたために、ハルシャは、意識を失うほど以前飲んだ時、自分は今回のように、リュウジに妙なことをしていなかっただろうかと考えなしにジェイ・ゼルに告げていた。
 ハルシャの告白を耳にした途端、ジェイ・ゼルの表情が引き締まった。

「そうだったね、前にリュウジと飲んだ時、君は酔って眠ってしまったと言っていたね。つまり、酔いつぶれるまで、リュウジが君に飲ましたんだね」
 怒気を含んだ静かな声に、慌てて、いつもはきちんと酒量を守る。
 あの時は、サーシャが誘拐された後で、とても疲労していたから、少ない量で酩酊したのだと懸命に告げる。
 どうして、自分は言い訳をしているのだろうと、ハルシャはいぶかしがりながらも、とりあえず、説明を続ける。
 ぴくっと、ジェイ・ゼルの眉が、痙攣するように動いた。
「――その時、サーシャは、メリーウェザ医師のところにいて」
 妙に低い声で、ジェイ・ゼルが呟く。
「リュウジと二人きりで宿に泊まったと、以前、ハルシャは教えてくれたね」

 言葉に籠る冷たい響きに、ハルシャはなぜかひどく狼狽えた。
「だ、大丈夫だった」
 気のせいだ、ジェイ・ゼルが酔ったら自分は嬌態を演じると言ったので、不安になっただけだと、付け加えて話しを断ち切ろうとする。
 だが、ジェイ・ゼルの表情は冷たいままだった。
 よく解らないが、彼はハルシャがリュウジに飲まされたことに対して、腹に据えかねているようだった。
 深く静かに、怒っている。
 伝わる感情に、ハルシャはひどく動揺してしまった。
 おかしい。
 どうして、彼はこんなに怒っているのだろう。

 何とかして、彼の怒りを解かなくてはならない。
 とっさに判断して、懸命にハルシャは話題を変えようとした。
「い、いつも思っていたんだが」
 ジェイ・ゼルの身の上に乗せられたままで、どうしてこんなに必死になっているのだろう。一瞬、思いながらも話し続ける。
「ジェイ・ゼルは、爽やかな香りがする」

 ハルシャの言葉に、ジェイ・ゼルはきつく寄せていた眉を、わずかに緩めた。
 彼の感情が穏やかになりつつあることに勇気を得て、ハルシャは
「どんな香水を使っているのだろうと、思っていた。よかったら、教えてくれないか」
 と、問いを投げかける。
 父も母も、たしなみとして香水を使っていた。
 香りと個人が結びつくほど、懐かしい思い出が、急に胸に湧き上がって来た。
 花束を抱きしめているような、甘く華やかな母の香り。
 そして、レザーのような父の香り。

 ふっと、ジェイ・ゼルは、口元に笑みを浮かべた。
「意外なことを、訊ねるんだね。ハルシャ」
 いつもの、穏やかな表情に戻って、彼がハルシャの髪に手を滑らせた。
「香水に興味があるとは、思わなかったよ」
「良い香りだから、何かな、と思っていただけだ」
 何か、とんでもなく恥ずかしいことを指摘されたように、ハルシャは顔を赤らめる。
 急に頬を染めたハルシャを見つめてから、ジェイ・ゼルはふっと視線を逸らした。

「香水は使っていない」
 穏やかだが、何かを秘めた言葉が、虚空へ呟かれる。
「香りがするように、私たちは作られているだけだよ」

 一瞬、意味が解らなかった。
 小首を傾げるハルシャに、笑いを含んで彼が言葉を続ける。
「芳香体質というかな、生まれつき体から芳香を放つように、計算された上で作られている。私たち『愛玩人形』はね」
 微笑んでから、彼は逸らしていた目を、ハルシャへ戻した。
「持ち主が愛でてくれるように――香りを体から発するんだよ。ハルシャ」

 緑の眼と同じように。
 彼は自分のその体質を、嫌っているような気がした。

 短い沈黙の後、ハルシャは口を開いた。
「良い香りだ」
 ジェイ・ゼルが、笑みを浮かべたまま眉を寄せた。苦しみに耐えるような表情を見つめながら、ハルシャは想いを滴らせた。
「この香りをかぐと、ああ、ジェイ・ゼルの側にいるんだと、なぜかとても安心する」
 ずっと浮かせていた首の力を抜いて、ハルシャは、ジェイ・ゼルに身を預けた。
 そうすると、鼻孔をくすぐる、彼の匂いがする。
「私は好きだよ、ジェイ・ゼル」

 ハルシャは、目を閉じた。
 きっと。
 彼は作られた身を、恥じているのだろう。
 こんなにいい香りなのに、彼は自分自身の身から放つ匂いを嫌っていた。
 それがただ、悲しかった。

 瞼を閉じるハルシャの髪に、ジェイ・ゼルの手が触れた。
「そうか」
 明るさを帯びた声に、ハルシャは目を開いた。
 微笑みながら、ジェイ・ゼルが自分を見つめていた。
「ハルシャは、この香りが好きか」
 問いに、こくんと頭を揺らす。
 嬉しそうに、ジェイ・ゼルが笑いを深めた。
「――そうか」

 無言で交わす視線の内に、彼の苦しみが見える。

 灰色の瞳を、ハルシャは見つめ続ける。
 緑に色を変じるジェイ・ゼルも。
 今の灰色の瞳の彼も。
 どちらも、自分の大切なジェイドだった。
 身を通じて愛を交わすことを教えてくれた大事な人。
 なのに、彼は――『愛玩人形』であることに、ずっと、傷つき続けていた。
 過去を封印してもなお、人間でない自分に苦しんでいた。

「惑星アマンダで」
 無意識に、ハルシャは呟いていた。
 惑星の名前に反応したのか、ジェイ・ゼルの表情が厳しくなった。
 生まれた故郷を嫌悪し続ける彼の過去を見つめながらハルシャは続ける。
「誰かが作ってくれなければ、ジェイ・ゼルは、生まれなかったんだな」

 たぶん。
 自分は、ひどく厳しいことを言っている。
 さっきの言葉で、作られた存在であることを、ジェイ・ゼルに突きつけている。
 解っていても、言葉が止まらなかった。
 長い沈黙の後、ようやくジェイ・ゼルは口を開いた。
「そういうことに、なるね。ハルシャ」

 その後も、見つめ合ったまま、沈黙する。
 灰色の瞳がわずかに揺れている。
 全てを話してくれてもなお、彼はやはり、自分自身に負い目を抱いているのだ。

「なら、私は感謝しなくてはならないのだな」
 ハルシャは、彼の心の揺らぎを見つめながら、言葉を紡ぐ。
「惑星アマンダの科学者たちに――」

 彼の動揺が、痛いほど伝わってくる。
 作られた身を、彼は、恥じていた。
 頬を彼の身に寄せて、言葉を続ける。
「ジェイ・ゼルを作り出してくれて、ありがとう、と」

 彼らがいなければ、ジェイ・ゼルは生まれなかった。
 その事実が不意に胸に迫ったのだ。
 誰かが必要として、ジェイ・ゼルを作り出した。
 その目的がどんなものであったとしても、物として生み出されたとしても。
 彼らがいなければ、ジェイ・ゼルは生まれなかった。
 翡翠の色に目を変える、自分の愛する、ジェイドは――
 この世に存在しなかった。
 彼らがいなければ、自分はジェイ・ゼルに巡り合えなかった。

 にこっと、ハルシャは笑った。
「出会えて、良かった」

 ジェイ・ゼルは、無言でハルシャを見つめている。
 自分の言葉が、ひどく彼を傷つけたのだろうか、と思うほど長く、彼は表情を消して、自分をただ灰色の瞳に捉え続けていた。
 不意に、彼の表情が動いた。
「昔」
 過去を見つめるような遠い眼差しを、ハルシャの後ろの虚空に向けて彼が呟いた。
「私は部屋から出ることが許されなかった。常に監視下に置かれて、逃げ出さないように見張られていた」

 思いもかけない過去を、彼は静かに語り始めた。
 驚きを何とか飲み込んで、ハルシャは彼の言葉を、受け止める。

「閉鎖された空間の中で、私はずっと空を見たいと、憧れていた――青い空を、この目で直接見上げてみたいと」

 ぽつり、ぽつりと。
 過去から呼び出した記憶が滴るように、彼が言葉を呟く。

「イズル・ザヒル様から、惑星トルディアのラグレン支部を託されて、初めてこの地に降り立った時に――目にした空に、理由もなく感動した。
 きれいな青い空だった。幼い頃にずっと見たいと願っていた、澄んだ青い空。惑星ガイアの青空も見ていたはずなのに、これほどの感動はなかった」
 一度言葉を切ると、彼の目が自分へ向けられた。
 過去から現在へ、心を戻すように、彼は静かに微笑んだ。

「どうしてだろうかと、ずっと考えていた。今、その理由が解ったよ、ハルシャ」
 髪をゆっくりと撫でてから、彼は言葉を続けた。
「その空の下に、君がいたからだよ」

 言葉の響きが、胸を揺さぶる。
 愛しげに、切なげに、彼は優しく呟く。

「君が見ていた空だから、私の胸は震えた――君の祖のファルアス・ヴィンドースが不屈の闘志で、人類に道を拓いたこの惑星トルディアの空だから」
 呟きながら、彼は身を動かして顔を寄せてくる。
 灰色の瞳の奥の、きらめきが、ハルシャの心を捉えて離さなかった。
 視線を合わせたまま、ジェイ・ゼルが呟く。
「この惑星がなければ、私は君に出逢えなかった」

 かつて紫の森の最奥で、彼が呟いた言葉が唐突に耳に蘇ってきた。


 君の先祖が、諦めていたら――私たちは、この地にいなかった。


 彼の言葉が、静かに響いていた。
 紫の葉越しの光が降り注ぐ中――ファルアス・ヴィンドースの墓所の前で。
 微笑みながら、眼差しを前に向け、彼は言葉を続けた。
 父の借金がなければ、二人は出会わなかったと。


 そのことを、この場所で確認したかっただけだ。ハルシャ。
 君の先祖は諦めず、そして私たちは、出会った。それを確かめられた。もう十分だ――


 何を意図して、彼が自分を祖先の墓へ伴ったのか、あの時は全く解らなかった。
 だが。
 今なら、思いが痛いほど伝わってくる。
 彼は、感謝していたのだ――自分と彼が出会った奇跡に。
 偶然が呼び寄せた出会いに。
 君に出逢えて嬉しかったと、懸命に伝えようとしていたのだ。
 ハルシャに繋がる血を持つ、祖先にさえ限りない感謝を捧げるほどに。
 自分の命を、慈しんでくれていたのだ。

 微笑むと、ジェイ・ゼルが優しく唇を重ねた。
 ハルシャの命がここにあることを、静かに確認するように。
 肌を触れ、熱を与え合う。
 静かに背を撫でられるたびに、身の奥が震えた。
 目を閉じ、彼の愛撫に身を任せる。
 夜明け前のラグレンで――互いの命に触れ合うだけの、穏やかな時間が流れていく。
 彼の熱を受けながら、どこか遠いところに、優しい歌声が響いているような気がした。
 それは、不思議に懐かしい歌声だった。


 *


 朝食を一緒にとったあと、ジェイ・ゼルは『アルティア・ホテル』まで、送っていくと言い張って、譲らなかった。
「ネルソンにも、そう伝えてある。もうすぐ、ここの駐車場に着くそうだ」
 にこっと、笑って彼は言う。

 出かける準備を終えて、玄関近くでネルソンの到着を待っている時だった。
 昨日、玄関の小卓に置いていた、ファルアス・ヴィンドースの詩の額を手渡してくれながら、ジェイ・ゼルが神妙に言葉を続けた。
「私の口から、直接リュウジに釈明をしておこう。君が昨日、約束を反故にしたのは、不可抗力だったとね」
 優しく、指先が向き合うハルシャの頬に触れた。
「原因は私にあるようなものだ。君だけを、非難の矢面に立たすわけにはいかないからね」

 笑顔の奥に、なぜか不穏なものを感じて、
「大丈夫だ、ジェイ・ゼル」
 と、ハルシャは、声を大にして言っていた。
「もう、私も子どもではない。自分一人で処理できる」
 むしろ、ジェイ・ゼルが絡む方が、リュウジが感情を荒げそうな気がする。
「それに、酔うまで飲んだのは私だ。ジェイ・ゼルが責任を感じることはない」
 その言葉に、ジェイ・ゼルが優しく笑う。
「君は律儀だね。ハルシャ」

 ふっと、ジェイ・ゼルの眼が、ハルシャがまとう服に向かう。
 柔らかな材質の、黒一色の服だった。
 結局、着てきた服を渡してもらえずに、ハルシャはジェイ・ゼルの服を借りていた。
 彼のものは、やはり自分の体格では大きすぎ、余る袖を折って着るしかなかった。
 ハルシャの姿をしばらく見つめてから、
「まあ、それほど君が言うのなら――ホテルの駐車場までにしようか」
 と、珍しく譲るように言ってくれた。
 ほっと息を吐くハルシャに、にこにことジェイ・ゼルが笑う。
「今晩も、君をそこに迎えに行くからね」

 ええ!
 と、何とか自制してハルシャは、叫ばなかった。
 驚きを、楽しそうに見つめながら
「一緒に夕食をとろう。ハルシャ」
 と、ジェイ・ゼルが呟く。
「サーシャも来るといい。三人で以前のように食事をしよう」
 とても嬉しそうに、ジェイ・ゼルが言う。
「だとしたら、リュウジも一緒に招いてくれないか」
 ハルシャは、彼が一人になることを危惧して思いを告げた。
 以前のことが蘇る。
「彼を独りで残すのは、気の毒だ」

 一瞬、表情を固まらせてから、ジェイ・ゼルは不意に優しく笑った。
「そうだね。君が世話になった人だ」
 長く細い指が、しなやかに動きながら頬を撫でる。
「それなら、今晩は四人で食事を予約しておこう。また、連絡を入れるよ」
 言葉を呟きながら、彼は反対側の手に持っていた、白い通話装置を見えるようにして上げてくる。
「この通話装置を、もう一度渡しておこう。せっかく戻しに来てくれたが、ハルシャと連絡する方法が他にないからね」
 ハルシャの左手を取ると、彼はすっと、白い輪を手首にはめた。
 装置の横に触れると、ハルシャの手首に添う大きさになる。
「君専用の通話装置を、また手に入れておくよ。それまでの繋ぎとしてこれを使っていてくれないか」
 着けてくれていた通話装置から視線を上げて、ジェイ・ゼルを見上げる。
「会社の物を、借用してすまない」
 ハルシャの言葉に、ジェイ・ゼルが笑う。
「本当に、君は律儀だね」
 通話装置から離れた手が、さらりと髪を撫でた。
「いい子だ、ハルシャ」

 その言葉を、もう、聞くことが無いと思った記憶が、不意に蘇った。
 別れを予感した、苦しい瞬間が――

 見上げるハルシャに、ジェイ・ゼルはしばらく視線を落としていた。
 笑みを浮かべると、彼がゆっくりと身を動かした。
 唇がふさがれると思ったが、ジェイ・ゼルは違うところへ顔を持っていく。
 髪を撫でていた手で後頭部を捉え、彼はハルシャの首筋に唇で触れた。
 そんなところに、ジェイ・ゼルはあまり唇を這わしたことがない。
 不意打ちに近い動きに、びくっと身が震える。

「ジェ……ジェイ・ゼル」
 慣れない感覚に戸惑うハルシャに、
「大丈夫だよ」
 と一言呟いてから、彼は首筋に唇を押し当てて、不意に強く吸った。
 ぞわっと、毛が逆立つようだった。
「ああっ」
 強い刺激に、思わず声が口から溢れる。
 肉食獣に捕らわれた、草食動物のようだ。
 首は人類の弱点なのだろう。
 本能的に逃げそうになる身を、自分に強く引き寄せてジェイ・ゼルは、唇を当て続けている。
 きつく、吸い上げられる。
 しばらくそうしてから、痛みに近い感覚に眉を寄せるハルシャに気づいたのか、ジェイ・ゼルがゆっくりと唇を離した。
 なだめる様に、髪を撫でて呟く。
「上に、ネルソンが着いたかな。そろそろ行こうか。ハルシャ」









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