ほしのくさり

第169話  マーガレットの花束-02





 言い切ってから、リュウジは自分で笑い、首を振った。

「我儘で、自己中心的な言葉ですね。きっと、僕には理解できない深さで、ジェイ・ゼルは、ハルシャを慈しんできたのでしょう」
 視線を落としながら、リュウジは苦い言葉を呟く。
「彼らを見守って来たドルディスタ・メリーウェザが、仰っていました。ジェイ・ゼルは、ハルシャの健康にとても気を配っていた。ハルシャの身を、この上なく大切にしていたと」
 暴力的な性行為を強いられたというのに、おいでというジェイ・ゼルの呼びかけに、彼の身は反応していた。
 蘇る記憶に、眉が寄る。
「一方的に隷属させられていると僕は考えていましたが、ジェイ・ゼルなりの愛し方をしていたのだと思います。ハルシャも、それに気付いて、彼を求めているのでしょう。
 身体が馴染めば、心も馴染む。警部の仰っていた通りです。
 僕はどうやら、勝ち目のない闘いを仕掛けているのですね。
 ジェイ・ゼルは、あれほど執着していたハルシャを、あっさりと手離した。ハルシャは理解できずに混乱していましたが、僕には解りました。
 彼は、自分よりも、ハルシャの方が大切だった。だから、身を引いたのです」
 頬から滑り落ちる涙が、膝に染みを作る。
 それも気にせずに、リュウジは続けた。
「別離を意識していたのでしょう。ジェイ・ゼルは、借用書に日付を入れ忘れていました。
 あれほどの人物が、あり得ないことです。そんな初歩的なミスを犯すほどに、彼は動揺していたのでしょうね。それでも、ハルシャに気取らせまいと、彼は、微笑み続けていました」

 同じ場面に立ち会っていたマイルズ警部は、ただ、無言だった。
「警部も気付かれたのでしょう」
 リュウジは呟いて、笑みを浮かべた。
 そうすると、新しい涙が、頬をこぼれ落ちた。
「ジェイ・ゼルは、心からハルシャを愛している。自分の手元に引き留めるよりも、彼が自由を得ることを、何よりも喜べるほどに。
 僕とは違う。
 僕は――」
 顔を歪めながら、リュウジは笑いを作った。
「どんなに言葉を尽くしても、結局、ハルシャが欲しいのです。
 彼を、自分のものにしたい。
 それが叶わないのなら、彼を攫ってしまいたいほどに――彼が、欲しいのです」
 醜いものをさらした反動で、身が震え出した。
「我が子を殺す、親と同じですね。警部はいつも、僕の心の奥底を見抜いてくれます。
 本当に、ありがたい」

 微笑むリュウジに、警部は静かに言った。
「俺に、気を遣うな」
 シララル酒を口に運びながら、彼は呟いた。
「俺が殺したいぐらい憎いだろう。醜い心の中を暴きやがって、土足で心に踏み入るなと、罵りたいのだろう。当然だ。俺はお前の嫌なところを、白日のもとにさらしているんだからな」

 さっと、リュウジは表情を消した。
 警部は、シララル酒を、口に含んだ。
「いいぜ。罵れよ――お前は何一つ、悪くない」
 ヘイゼルの眼が、真っ直ぐに自分を見つめる。
「リュウジは、ハルシャのために、必死に努力し続けた。何の見返りも求めずに、ハルシャとサーシャを自由にしようと、俺たちまで呼び寄せて、彼らの不遇を何とか正そうとした。
 お前は、本当に優しくて、強い子だ。
 どうして、ハルシャに、その思いが伝わらないんだろうな。
 辛いな、リュウジ」
 静かな言葉が、耳朶を撫でる。
「この世は、思い通りにならないな。それが解りながら、どうして自分に言わせるんだと、俺を罵ればいい。
 内側に溜めるな――自分でも言っていただろう。お前さんは、そんなに強い人間じゃない。優等生にならなくていいんだ。俺しかお前の話を聞いていない。
 吐き出しちまえ。醜いものを、全部」

 瞳を交わしたまま、リュウジは、ぼろぽろと涙をこぼし続けた。
 マイルズ警部は、自分の内側の毒を、吐き出させようとしている。
 嫌な役を買って出て、誰にも言えないことを口にしてくれている。
 きつい言葉を吐きながらも、彼の目は限りなく優しく、包むようにリュウジを見つめていた。

 彼が救うことが出来なかった両親の代わりに、自分に寄り添おうとしてくれているのだ。
 マイルズ警部には、何の責任もないことなのに。
 助けられなかった命の重さを、彼は黙って背負いながら生き続けてきたのだろう。
 先ほど話してくれた、犠牲になった幼い命と、愛する存在を手にかけてしまった親の命の分も、きっと。
 どうしようもないことを、それでも正面から見つめながら、彼は優しく微笑むのだろう。
 彼の強さに、これまで、自分は救われてきた。
 それを、当たり前に思い、甘えてきたのかもしれない。彼は、激務の中、時間を割いて、自分の要請に応えようと、惑星トルディアまで来てくれたというのに。
 どれだけの優しさに包まれていたのか、改めて気付かされる。

 渡された、真っ白なマーガレットの花束のことが、不意に脳裏に浮かんだ。
 彼は自分の妻になる人に、話してくれていたのだ。両親を失った少年のことを。
 幸せになるように願っていてくれていたのは――ディー・マイルズ自身だったのかもしれない。

「ありがとうございます、ディー」
 小さい時と同じように、彼を名前でリュウジは呼んだ。
「僕の幸せを、あなたは一番に考えてくれているのですね」
 罵る代わりに、素直な感謝の心を、リュウジは呟いた。
 照れたように、少し顔を赤らめて、マイルズ警部が笑う。
「嫌なことを言いに来ただけだ。坊に、誰も意見が出来ないようだからな」
 一気にグラスを呷ってから、彼は呟く。
「坊の幸せを、一番に考えている人間なら、別にいる」
 ヘイゼルの瞳が、リュウジを見つめた。
「そいつを、忘れてはいけいないよ、坊」

 リュウジは瞬間悟る。
 吉野だ。

 彼が今、どんな気持ちでいるのか、警部は知っているのだろう。
 長い沈黙の後、リュウジは口を開いた。
「このシララル酒は、吉野が購入したものなのですね」
 リュウジの言葉に、マイルズ警部は静かに首を揺らした。
「なら」
 リュウジは小さく呟いた。
「どんな味か、吉野にも、確認させてあげても良いですか」
 マイルズ警部は、眉を片方上げた。
「良い考えだな。吉野なら酒癖は悪くない。二人よりも、三人で飲む方が、楽しいかも、な」
 マイルズ警部は鋭い。
 いつも、自分の気持ちをすぐに、察してくれる。
 それが愛情からなせる業だと、やっと、リュウジは気付くことが出来た。

 舌先で、歯の通信装置を入れる。
吉野ヨシノ
 呼びかけに、すぐさま、彼の声が聞こえた。
竜司リュウジ様』 
 かすかに、息を飲む気配がする。無視して、リュウジは続けた。
「今、どこにいる」
 一瞬の間の後、
『駐車場です』
 と、彼にしては、歯切れの悪い言葉が返って来た。
 ハルシャの帰りを、彼は駐車場で待っていたのだろうか。
 自分の行動の責任を取るように。
 すっと息を吸い込むと、
「シララル酒を、今、警部と部屋で飲んでいる」
 と、静かな声で呟く。
「グラスを一つ持って、ここへ合流してくれ。吉野ヨシノが買ってくれたシララル酒は、絶品だ。今後のためにも、味見をしておいてくれ」
 言葉の意味を、彼はしばらく考えているようだった。
 沈黙に向けて、言葉を続ける。
「ハルシャは必ず帰ってくる。大丈夫だ。ラグレンの夜は冷える――駐車場で、もう待たなくてもいい。自分用のグラスを持って僕の部屋へ来てくれないか。
 警部も、二人より三人の方が賑やかでいいと仰っている」

 ようやく、吉野に意図が通じたらしい。
竜司リュウジ様』
 と、喉を詰まらせたような声が、聞こえた。
 彼に、心労をかけていたのだと、はっきりと自覚する。
「大丈夫だ。ハルシャは、必ず帰ってくる。彼は僕に約束をした。吉野ヨシノが気にすることではない。僕とハルシャの関係のことだ」
竜司リュウジ様、ですが』
吉野ヨシノは、正しいことをした」
 ずっと、自分を見守ってくれていた存在に向けて、リュウジは呟く。
「もう気にせずに、部屋に来てくれ。吉野ヨシノが選んでくれたシララル酒の、味見をしてくれ」
 一瞬、息を飲んでから、歩き始めた音がする。
『すぐ、お側に参ります』
「うん」
 リュウジは瞬きをした。
「待っている」
 呟いてから、通信を切る。
 前で、マイルズ警部が自分のグラスに、新しく注ぎながら
「その泣き顔を見たら、吉野は肝を潰すかもな」
 と、笑いを含んで言う。
「涙は良いもんだ。心の澱を流し出してくれる――俺は、坊の泣き顔が見られて、嬉しいよ」

 ハルシャと出会ったことで、取り戻した涙。
 リュウジは、視線を落とした。
 たぶん。
 五年前に出逢っていても、きっと、これほどハルシャに惹かれることは、なかっただろう。
 苦しみの中で磨き抜かれたような、彼の心根の優しさに、自分は魅せられたのだから。
 今のハルシャを作ったのは、ジェイ・ゼルとの五年間なのだろう。
 ふっと、リュウジは、視線を虚空に向けて思う。

 今、ハルシャは――
 ジェイ・ゼルの側で、笑っているのだろうか。

 彼が幸せならそれで、いい。
 痛みを覚えながらも、リュウジは心の中に、言い聞かせるように小さく呟いた。



 *



「全く」
 憤りの混じる言葉を、トーラス・ラゼルは呟いた。
「お坊ちゃまの気まぐれにも、参るな」
 クラハナ地域にある工場では、まだ明かりが灯っていた。
 深夜を過ぎても、まだ仕事が終わっていなかったからだった。
「突然辞めやがって、こっちに尻拭いがくるって、解ってやがるのか」

 憎々し気に呟いた言葉に、賛同を込めた呟きが返される。
「ジェイ・ゼルさんに贔屓されているから、我儘が許されるんだよ」
 ラゼルの横で、カイン・シーヴォウが冷めた声で言う。
「俺たちとは別格なんだろうさ。なんせ、ヴィンドース家のいとやんごとなき御方だからな」

 ハルシャ・ヴィンドースが工場を辞めたことは、ガルガー工場長の口から、朝礼で唐突に告げられた。
 やはりという呟きが、多く人々の口から漏れる。
 奴は違法なものを作っていたらしいと、噂がまことしやかに囁かれ、その責任を取ったのだろうと、皆はしたり顔にうなずく。
 警察が、あれほど押し寄せるなど、かつてないことだった。
 お坊ちゃんが、思い切ったことをしたもんだ、と、皆は小声で言い合っていた。
 ハルシャが辞めた、ということが、現実として皆にのしかかって来たのは、彼が担っていた仕事を、分担しなくてはならないとガルガー工場長が告げたときだった。
 あれほど危険な仕事を、誰が好き好んでするものか、と、いう小さな呟きがもれる。
 声が聞こえたのかもしれない。
 ガルガー工場長は表情を引き締め、業績を維持するためにはどうしても必要だと、厳しい声で告げる。
 他人事だったハルシャの辞職が、一気に不満へ向けて弾けた瞬間だった。

 不満は今も続いている。
 トーラス・ラゼル達は、正規の仕事を終えた後残されていた。
 ハルシャが担っていた駆動機関部の作成を、ガルガー工場長から命じられたからだった。
 誰かがやらなくてはならないとは、解っていた。
 確かに給金は上がる。
 だが、きつく命の危険のある仕事を、誰もが避けたがっていた。
 指名を受けた三人の工員たちも、思いは同じだった。
 深夜まで残される不服を、工員たちは、辞めたハルシャに向けてぶつけ続けることで、鬱憤を晴らしていた。

「いい気なもんだ」
 今もロッカー室で着替えながら、けっと、トーラス・ラゼルは呟く。
 もう、仕事は一段落し、ガルガー工場長は既に帰っていた。
 残されていた者たちも、帰り支度をし始めている。
「ジェイ・ゼルさんも、奴に甘すぎる」
 ラゼルの言葉に答えて、レン・バフェットが、眉を下げてしたり顔に呟いた。
「奴のケツの具合が、よほど良いのだろうよ」
 瞬間、野卑な笑いが上がる。
「じゃ、お先な」
 一しきり笑ってから軽く手を振って、レン・バフェットが、ロッカー室を出て行った。

 ふっと、カイン・シーヴォウの口から、溜息が漏れる。
「この先も、残業が続くんだろうな。まったく」
 ぶつぶつと、シーヴォウは不満を口にする。
 着替える手を止めて、ふと、トーラス・ラゼルは呟いた。
「俺たちがこんなに迷惑を被っているのに、奴が気楽に暮らしているのは、どうも納得がいかないな」
 探るような視線を、ラゼルは、シーヴォウに向けた。
「お前――口は堅いか」
 二人しかいない部屋に、声が妙に虚ろに響く。
 その口調に、シーヴォウは緊張したように、唇を引き結んだ。
「どうしたっていうんだ、ラゼル」
 彼の問いかけに、ラゼルはひそめた声で、
「今、工場に大金があるのを、知っているか? この前の駆動機関部の売り上げだ。シヴォルト前工場長との引継ぎや、警察沙汰でごたごたして、まだ、工場の金庫に入ったままなんだ」
 と、呟く。
 シーヴォウは、目を瞬かせた。
「金庫は、声紋認証式だろう? しかも、パスワードを十日ごとに変えていると聞いている。ガルガー工場長以外、開けないだろう」
 シーヴォウの冷静な声に、ラゼルは、にやっと笑った。
「実はな。録音してあるんだよ――いつもは用心して鍵をかけているが、シヴォルト前工場長がガルガー工場長へ引き継ぐのは、急なことだったろう?
 手が回っていなかったんだろうな、シヴォルト前工場長が、声紋認証を書き換える場に、偶然行き合わせて、な」
 トーラス・ラゼルは、にやりと笑った。
「これはいい機会だと、とっさに録音したんだよ」

 思慮深いカイン・シーヴォウは、偶然というラゼルの言葉を信じなかった。
 そう都合よく、物事が進むはずがない。
 声紋認証の書き換えを、引継ぎの時にすると踏んで、ラゼルは機会をうかがっていたのだろう。慌ただしい中で、手薄になると思っていたのかもしれない。
 そうでなければ、段どりよく録音装置を持っているはずがなかった。
 意図することを、感じ取りながらもシーヴォウは沈黙していた。
 トーラス・ラゼルは金庫を開けるチャンスを、録音してからずっと狙い続けていたのだろう。
 十日すれば、パスワードが書き換えられる可能性がある。
 もう、日にちがない。
「工場長も、もう帰った。ここには、俺たち二人だけだ――チャンスだと思わないか」
「だが」
 実利的なシーヴォウが、異を唱えるように呟く。
「すぐに、足がつくぞ。俺たちが残っているのは、みんな知っている。それに、監視カメラがいつも動いている」
 ラゼルは笑みを深めた。
「そうだ。監視カメラがある。だから、さ」
 余計に顔を寄せて、静かに呟く。
「ハルシャ・ヴィンドースは、特徴的な赤毛だ。もし、赤毛がカメラに映っていたら警察はどう判断するだろうな」
 驚きに、シーヴォウの目が、見開かれた。
 まさか。
 と、声にならない声が響く。
 彼の驚愕を見つめながら、トーラス・ラゼルは言葉を続けた。
「ハルシャは、工場の金庫を開ける方法を知っていた。そして、辞めた後、こっそりと忍び込んで、金庫から金を盗んだ。
 奴が作った駆動機関部の収益だからな、辞める手土産代わりに持ち出した――」
 にやりと、笑みが深まる。
「シーヴォウ。お前の体形は、ハルシャ・ヴィンドースと似ている。暗い中の監視カメラだ。顔を映さないようにして、赤毛の髪を被れば通用するだろう」
 沈黙の後、シーヴォウが呻くように言った。
「特徴のある赤毛だ。どうやって髪を偽装するんだ」
 トーラス・ラゼルは目を細めて、呟いた。
「心配するな、手立てはある」
 その瞬間、ラゼルは随分前から、このことを計画していたのだという確信めいた予感が、カイン・シーヴォウの中を走り抜けた。
 紛れもない、ハルシャ・ヴィンドースに対する憎しみが、ラゼルの顔を歪めていた。
「成功すれば、笑えるほどの大金が手に入る――どうだ。話に乗るか?」
 ラゼルは、罪をハルシャ・ヴィンドースになつりつける機会を、密かにうかがっていたのかもしれない。
 だが、彼の体形ではあまりに違い過ぎて、偽装が成り立たない。
 そのために、自分が引き込まれたのだと、シーヴォウは気付く。
 爬虫類のような、冷たい眼が自分を見ていた。
 嫌だと言えば、自分が難癖をつけられる可能性があると、冷静なシーヴォウは判断する。ここまで聞いて断ることは、難しい。
 ハルシャ・ヴィンドースが引き受けてくれていた、きつい仕事に対する鬱憤のはけ口が、次は誰に向かうか解らない。
 執拗な嫌味を吐く、トーラス・ラゼルの口元を、シーヴォウは無言で見つめ続けていた。
「どうだ、シーヴォウ。乗るか?」
 拒否できない口調で、トーラス・ラゼルが、呟いている。
 シーヴォウの頭が縦に揺れることを確信している眼差しが、ぴたりと自分に向けられ、微動だにしなかった。










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