言い切ってから、リュウジは自分で笑い、首を振った。
「我儘で、自己中心的な言葉ですね。きっと、僕には理解できない深さで、ジェイ・ゼルは、ハルシャを慈しんできたのでしょう」
視線を落としながら、リュウジは苦い言葉を呟く。
「彼らを見守って来たドルディスタ・メリーウェザが、仰っていました。ジェイ・ゼルは、ハルシャの健康にとても気を配っていた。ハルシャの身を、この上なく大切にしていたと」
暴力的な性行為を強いられたというのに、おいでというジェイ・ゼルの呼びかけに、彼の身は反応していた。
蘇る記憶に、眉が寄る。
「一方的に隷属させられていると僕は考えていましたが、ジェイ・ゼルなりの愛し方をしていたのだと思います。ハルシャも、それに気付いて、彼を求めているのでしょう。
身体が馴染めば、心も馴染む。警部の仰っていた通りです。
僕はどうやら、勝ち目のない闘いを仕掛けているのですね。
ジェイ・ゼルは、あれほど執着していたハルシャを、あっさりと手離した。ハルシャは理解できずに混乱していましたが、僕には解りました。
彼は、自分よりも、ハルシャの方が大切だった。だから、身を引いたのです」
頬から滑り落ちる涙が、膝に染みを作る。
それも気にせずに、リュウジは続けた。
「別離を意識していたのでしょう。ジェイ・ゼルは、借用書に日付を入れ忘れていました。
あれほどの人物が、あり得ないことです。そんな初歩的なミスを犯すほどに、彼は動揺していたのでしょうね。それでも、ハルシャに気取らせまいと、彼は、微笑み続けていました」
同じ場面に立ち会っていたマイルズ警部は、ただ、無言だった。
「警部も気付かれたのでしょう」
リュウジは呟いて、笑みを浮かべた。
そうすると、新しい涙が、頬をこぼれ落ちた。
「ジェイ・ゼルは、心からハルシャを愛している。自分の手元に引き留めるよりも、彼が自由を得ることを、何よりも喜べるほどに。
僕とは違う。
僕は――」
顔を歪めながら、リュウジは笑いを作った。
「どんなに言葉を尽くしても、結局、ハルシャが欲しいのです。
彼を、自分のものにしたい。
それが叶わないのなら、彼を攫ってしまいたいほどに――彼が、欲しいのです」
醜いものをさらした反動で、身が震え出した。
「我が子を殺す、親と同じですね。警部はいつも、僕の心の奥底を見抜いてくれます。
本当に、ありがたい」
微笑むリュウジに、警部は静かに言った。
「俺に、気を遣うな」
シララル酒を口に運びながら、彼は呟いた。
「俺が殺したいぐらい憎いだろう。醜い心の中を暴きやがって、土足で心に踏み入るなと、罵りたいのだろう。当然だ。俺はお前の嫌なところを、白日のもとにさらしているんだからな」
さっと、リュウジは表情を消した。
警部は、シララル酒を、口に含んだ。
「いいぜ。罵れよ――お前は何一つ、悪くない」
ヘイゼルの眼が、真っ直ぐに自分を見つめる。
「リュウジは、ハルシャのために、必死に努力し続けた。何の見返りも求めずに、ハルシャとサーシャを自由にしようと、俺たちまで呼び寄せて、彼らの不遇を何とか正そうとした。
お前は、本当に優しくて、強い子だ。
どうして、ハルシャに、その思いが伝わらないんだろうな。
辛いな、リュウジ」
静かな言葉が、耳朶を撫でる。
「この世は、思い通りにならないな。それが解りながら、どうして自分に言わせるんだと、俺を罵ればいい。
内側に溜めるな――自分でも言っていただろう。お前さんは、そんなに強い人間じゃない。優等生にならなくていいんだ。俺しかお前の話を聞いていない。
吐き出しちまえ。醜いものを、全部」
瞳を交わしたまま、リュウジは、ぼろぽろと涙をこぼし続けた。
マイルズ警部は、自分の内側の毒を、吐き出させようとしている。
嫌な役を買って出て、誰にも言えないことを口にしてくれている。
きつい言葉を吐きながらも、彼の目は限りなく優しく、包むようにリュウジを見つめていた。
彼が救うことが出来なかった両親の代わりに、自分に寄り添おうとしてくれているのだ。
マイルズ警部には、何の責任もないことなのに。
助けられなかった命の重さを、彼は黙って背負いながら生き続けてきたのだろう。
先ほど話してくれた、犠牲になった幼い命と、愛する存在を手にかけてしまった親の命の分も、きっと。
どうしようもないことを、それでも正面から見つめながら、彼は優しく微笑むのだろう。
彼の強さに、これまで、自分は救われてきた。
それを、当たり前に思い、甘えてきたのかもしれない。彼は、激務の中、時間を割いて、自分の要請に応えようと、惑星トルディアまで来てくれたというのに。
どれだけの優しさに包まれていたのか、改めて気付かされる。
渡された、真っ白なマーガレットの花束のことが、不意に脳裏に浮かんだ。
彼は自分の妻になる人に、話してくれていたのだ。両親を失った少年のことを。
幸せになるように願っていてくれていたのは――ディー・マイルズ自身だったのかもしれない。
「ありがとうございます、ディー」
小さい時と同じように、彼を名前でリュウジは呼んだ。
「僕の幸せを、あなたは一番に考えてくれているのですね」
罵る代わりに、素直な感謝の心を、リュウジは呟いた。
照れたように、少し顔を赤らめて、マイルズ警部が笑う。
「嫌なことを言いに来ただけだ。坊に、誰も意見が出来ないようだからな」
一気にグラスを呷ってから、彼は呟く。
「坊の幸せを、一番に考えている人間なら、別にいる」
ヘイゼルの瞳が、リュウジを見つめた。
「そいつを、忘れてはいけいないよ、坊」
リュウジは瞬間悟る。
吉野だ。
彼が今、どんな気持ちでいるのか、警部は知っているのだろう。
長い沈黙の後、リュウジは口を開いた。
「このシララル酒は、吉野が購入したものなのですね」
リュウジの言葉に、マイルズ警部は静かに首を揺らした。
「なら」
リュウジは小さく呟いた。
「どんな味か、吉野にも、確認させてあげても良いですか」
マイルズ警部は、眉を片方上げた。
「良い考えだな。吉野なら酒癖は悪くない。二人よりも、三人で飲む方が、楽しいかも、な」
マイルズ警部は鋭い。
いつも、自分の気持ちをすぐに、察してくれる。
それが愛情からなせる業だと、やっと、リュウジは気付くことが出来た。
舌先で、歯の通信装置を入れる。
「
呼びかけに、すぐさま、彼の声が聞こえた。
『
かすかに、息を飲む気配がする。無視して、リュウジは続けた。
「今、どこにいる」
一瞬の間の後、
『駐車場です』
と、彼にしては、歯切れの悪い言葉が返って来た。
ハルシャの帰りを、彼は駐車場で待っていたのだろうか。
自分の行動の責任を取るように。
すっと息を吸い込むと、
「シララル酒を、今、警部と部屋で飲んでいる」
と、静かな声で呟く。
「グラスを一つ持って、ここへ合流してくれ。
言葉の意味を、彼はしばらく考えているようだった。
沈黙に向けて、言葉を続ける。
「ハルシャは必ず帰ってくる。大丈夫だ。ラグレンの夜は冷える――駐車場で、もう待たなくてもいい。自分用のグラスを持って僕の部屋へ来てくれないか。
警部も、二人より三人の方が賑やかでいいと仰っている」
ようやく、吉野に意図が通じたらしい。
『
と、喉を詰まらせたような声が、聞こえた。
彼に、心労をかけていたのだと、はっきりと自覚する。
「大丈夫だ。ハルシャは、必ず帰ってくる。彼は僕に約束をした。
『
「
ずっと、自分を見守ってくれていた存在に向けて、リュウジは呟く。
「もう気にせずに、部屋に来てくれ。
一瞬、息を飲んでから、歩き始めた音がする。
『すぐ、お側に参ります』
「うん」
リュウジは瞬きをした。
「待っている」
呟いてから、通信を切る。
前で、マイルズ警部が自分のグラスに、新しく注ぎながら
「その泣き顔を見たら、吉野は肝を潰すかもな」
と、笑いを含んで言う。
「涙は良いもんだ。心の澱を流し出してくれる――俺は、坊の泣き顔が見られて、嬉しいよ」
ハルシャと出会ったことで、取り戻した涙。
リュウジは、視線を落とした。
たぶん。
五年前に出逢っていても、きっと、これほどハルシャに惹かれることは、なかっただろう。
苦しみの中で磨き抜かれたような、彼の心根の優しさに、自分は魅せられたのだから。
今のハルシャを作ったのは、ジェイ・ゼルとの五年間なのだろう。
ふっと、リュウジは、視線を虚空に向けて思う。
今、ハルシャは――
ジェイ・ゼルの側で、笑っているのだろうか。
彼が幸せならそれで、いい。
痛みを覚えながらも、リュウジは心の中に、言い聞かせるように小さく呟いた。
*
「全く」
憤りの混じる言葉を、トーラス・ラゼルは呟いた。
「お坊ちゃまの気まぐれにも、参るな」
クラハナ地域にある工場では、まだ明かりが灯っていた。
深夜を過ぎても、まだ仕事が終わっていなかったからだった。
「突然辞めやがって、こっちに尻拭いがくるって、解ってやがるのか」
憎々し気に呟いた言葉に、賛同を込めた呟きが返される。
「ジェイ・ゼルさんに贔屓されているから、我儘が許されるんだよ」
ラゼルの横で、カイン・シーヴォウが冷めた声で言う。
「俺たちとは別格なんだろうさ。なんせ、ヴィンドース家のいとやんごとなき御方だからな」
ハルシャ・ヴィンドースが工場を辞めたことは、ガルガー工場長の口から、朝礼で唐突に告げられた。
やはりという呟きが、多く人々の口から漏れる。
奴は違法なものを作っていたらしいと、噂がまことしやかに囁かれ、その責任を取ったのだろうと、皆はしたり顔にうなずく。
警察が、あれほど押し寄せるなど、かつてないことだった。
お坊ちゃんが、思い切ったことをしたもんだ、と、皆は小声で言い合っていた。
ハルシャが辞めた、ということが、現実として皆にのしかかって来たのは、彼が担っていた仕事を、分担しなくてはならないとガルガー工場長が告げたときだった。
あれほど危険な仕事を、誰が好き好んでするものか、と、いう小さな呟きがもれる。
声が聞こえたのかもしれない。
ガルガー工場長は表情を引き締め、業績を維持するためにはどうしても必要だと、厳しい声で告げる。
他人事だったハルシャの辞職が、一気に不満へ向けて弾けた瞬間だった。
不満は今も続いている。
トーラス・ラゼル達は、正規の仕事を終えた後残されていた。
ハルシャが担っていた駆動機関部の作成を、ガルガー工場長から命じられたからだった。
誰かがやらなくてはならないとは、解っていた。
確かに給金は上がる。
だが、きつく命の危険のある仕事を、誰もが避けたがっていた。
指名を受けた三人の工員たちも、思いは同じだった。
深夜まで残される不服を、工員たちは、辞めたハルシャに向けてぶつけ続けることで、鬱憤を晴らしていた。
「いい気なもんだ」
今もロッカー室で着替えながら、けっと、トーラス・ラゼルは呟く。
もう、仕事は一段落し、ガルガー工場長は既に帰っていた。
残されていた者たちも、帰り支度をし始めている。
「ジェイ・ゼルさんも、奴に甘すぎる」
ラゼルの言葉に答えて、レン・バフェットが、眉を下げてしたり顔に呟いた。
「奴のケツの具合が、よほど良いのだろうよ」
瞬間、野卑な笑いが上がる。
「じゃ、お先な」
一しきり笑ってから軽く手を振って、レン・バフェットが、ロッカー室を出て行った。
ふっと、カイン・シーヴォウの口から、溜息が漏れる。
「この先も、残業が続くんだろうな。まったく」
ぶつぶつと、シーヴォウは不満を口にする。
着替える手を止めて、ふと、トーラス・ラゼルは呟いた。
「俺たちがこんなに迷惑を被っているのに、奴が気楽に暮らしているのは、どうも納得がいかないな」
探るような視線を、ラゼルは、シーヴォウに向けた。
「お前――口は堅いか」
二人しかいない部屋に、声が妙に虚ろに響く。
その口調に、シーヴォウは緊張したように、唇を引き結んだ。
「どうしたっていうんだ、ラゼル」
彼の問いかけに、ラゼルはひそめた声で、
「今、工場に大金があるのを、知っているか? この前の駆動機関部の売り上げだ。シヴォルト前工場長との引継ぎや、警察沙汰でごたごたして、まだ、工場の金庫に入ったままなんだ」
と、呟く。
シーヴォウは、目を瞬かせた。
「金庫は、声紋認証式だろう? しかも、パスワードを十日ごとに変えていると聞いている。ガルガー工場長以外、開けないだろう」
シーヴォウの冷静な声に、ラゼルは、にやっと笑った。
「実はな。録音してあるんだよ――いつもは用心して鍵をかけているが、シヴォルト前工場長がガルガー工場長へ引き継ぐのは、急なことだったろう?
手が回っていなかったんだろうな、シヴォルト前工場長が、声紋認証を書き換える場に、偶然行き合わせて、な」
トーラス・ラゼルは、にやりと笑った。
「これはいい機会だと、とっさに録音したんだよ」
思慮深いカイン・シーヴォウは、偶然というラゼルの言葉を信じなかった。
そう都合よく、物事が進むはずがない。
声紋認証の書き換えを、引継ぎの時にすると踏んで、ラゼルは機会をうかがっていたのだろう。慌ただしい中で、手薄になると思っていたのかもしれない。
そうでなければ、段どりよく録音装置を持っているはずがなかった。
意図することを、感じ取りながらもシーヴォウは沈黙していた。
トーラス・ラゼルは金庫を開けるチャンスを、録音してからずっと狙い続けていたのだろう。
十日すれば、パスワードが書き換えられる可能性がある。
もう、日にちがない。
「工場長も、もう帰った。ここには、俺たち二人だけだ――チャンスだと思わないか」
「だが」
実利的なシーヴォウが、異を唱えるように呟く。
「すぐに、足がつくぞ。俺たちが残っているのは、みんな知っている。それに、監視カメラがいつも動いている」
ラゼルは笑みを深めた。
「そうだ。監視カメラがある。だから、さ」
余計に顔を寄せて、静かに呟く。
「ハルシャ・ヴィンドースは、特徴的な赤毛だ。もし、赤毛がカメラに映っていたら警察はどう判断するだろうな」
驚きに、シーヴォウの目が、見開かれた。
まさか。
と、声にならない声が響く。
彼の驚愕を見つめながら、トーラス・ラゼルは言葉を続けた。
「ハルシャは、工場の金庫を開ける方法を知っていた。そして、辞めた後、こっそりと忍び込んで、金庫から金を盗んだ。
奴が作った駆動機関部の収益だからな、辞める手土産代わりに持ち出した――」
にやりと、笑みが深まる。
「シーヴォウ。お前の体形は、ハルシャ・ヴィンドースと似ている。暗い中の監視カメラだ。顔を映さないようにして、赤毛の髪を被れば通用するだろう」
沈黙の後、シーヴォウが呻くように言った。
「特徴のある赤毛だ。どうやって髪を偽装するんだ」
トーラス・ラゼルは目を細めて、呟いた。
「心配するな、手立てはある」
その瞬間、ラゼルは随分前から、このことを計画していたのだという確信めいた予感が、カイン・シーヴォウの中を走り抜けた。
紛れもない、ハルシャ・ヴィンドースに対する憎しみが、ラゼルの顔を歪めていた。
「成功すれば、笑えるほどの大金が手に入る――どうだ。話に乗るか?」
ラゼルは、罪をハルシャ・ヴィンドースになつりつける機会を、密かにうかがっていたのかもしれない。
だが、彼の体形ではあまりに違い過ぎて、偽装が成り立たない。
そのために、自分が引き込まれたのだと、シーヴォウは気付く。
爬虫類のような、冷たい眼が自分を見ていた。
嫌だと言えば、自分が難癖をつけられる可能性があると、冷静なシーヴォウは判断する。ここまで聞いて断ることは、難しい。
ハルシャ・ヴィンドースが引き受けてくれていた、きつい仕事に対する鬱憤のはけ口が、次は誰に向かうか解らない。
執拗な嫌味を吐く、トーラス・ラゼルの口元を、シーヴォウは無言で見つめ続けていた。
「どうだ、シーヴォウ。乗るか?」
拒否できない口調で、トーラス・ラゼルが、呟いている。
シーヴォウの頭が縦に揺れることを確信している眼差しが、ぴたりと自分に向けられ、微動だにしなかった。