ほしのくさり

第168話  マーガレットの花束-01





 

 深夜を過ぎても、ハルシャが戻らない。


 リュウジは、無言で虚空を見つめていた。
 明かりを落とした部屋の中に、穏やかなサーシャの寝息が響いている。
 いつもなら、心安らぐその響きですら、リュウジの内側のどす黒い感情を鎮めてはくれなかった。

 サーシャには、仕事の引継ぎに手間取っているのでしょうと、ハルシャが遅い理由を説明し、彼女が眠りに着くまでは何とか平静を保つことが出来た。
 けれど、一昨日ハルシャが眠った同じ場所で、サーシャが眠り込んだ途端、リュウジは笑顔を消した。

 ハルシャが、戻らない。
 自分の元へ帰ってくると、あれほど約束をしていたのに。

 ハルシャはたった一人で、ジェイ・ゼルの自宅へ行った。
 控えめな彼にしては、珍しいほど積極的な行動だ。
 それほど、会いたかったのかもしれない。
 熱意に折れて、ジェイ・ゼルは彼を、家に招き入れたのだろう。
 彼らがこの時間まで、ただ話し込んでいるだけだと考えるほど、リュウジは、世間知らずではなかった。
 ハルシャが、自分との約束を反故にするとは、考えにくい。
 彼は、律儀に言葉を守る人だ。
 誠実で、優しい人柄を、リュウジは信頼していた。
 とすれば、考えられることはただ、一つ。
 ジェイ・ゼルが、ハルシャを帰さないのだ。

 視線が、落ちる。
 ハルシャの幸せのためなら、自分の痛みなど無視できる。
 会えば、離れがたさを再確認させるだけだと、切ないほど覚悟しながらも、彼をジェイ・ゼルの元へ行かせざるを得ないほど、やはり自分は彼の幸せを願ってしまうのだろう。
 自分にとっては、ハルシャが笑っていることが、何ものにも代えがたいほどの幸福なのだと、彼の涙に思い知った。
 たとえこの想いが、ハルシャに伝わることが永遠に無いとしても。
 ジェイ・ゼルの腕の中に、今、ハルシャがいると想像するだけで、胸の奥にどす黒い炎が渦巻くとしても。
 ハルシャの涙に、抗う術はなかった。


 今。
 ハルシャは。
 笑っているのだろうか。


 虚空を見つめながら、リュウジは心に呟く。
 その笑顔が、ジェイ・ゼルのものだという事実が、胸を焼く。
 苦しかった。
 ただ。
 苦しかった。
 リュウジは、両手で顔を覆った。

 ハルシャが、戻らない。
 彼は今、ジェイ・ゼルの側にいる。

 顔を手で覆ったまま、リュウジは浅い呼吸を繰り返し、じっと、内側の痛みに耐え続けていた。

 サーシャの寝息だけが響くしじまに、扉が叩かれる音がした。
 はっと、顔を上げる。

 まさか。
 ハルシャが、戻ってきたのか。

 衝動的に立ち上がったリュウジの耳に
「坊。まだ起きているか?」
 と、馴染んだマイルズ警部の声が響いた。
 落胆を、思わず顔に滲ませながら、リュウジは唇を噛み締めると、大股に扉へと向かって行った。
 今夜の夕食は、サーシャに約束していた通り、マイルズ警部と彼の部下たちと一緒にとった。
 彼らは、保護した子どもが元気であることを、手離しで喜び、賑やかな食事会にサーシャも楽しそうにしていた。
 夕食の席に、ハルシャが居ないことに、警部は気付きながらも何も訊ねなかった。
 けれど、自分の表情から、全てを読み取っていたのだろう。
 ハルシャは、今、ジェイ・ゼルの元にいる、と。
 自分を心配して、部屋へ様子を見に来たのだと推理する。

「起きていますよ、警部」
 鍵を解放し、取り繕った笑顔を浮かべながら、リュウジは扉を開けながら言った。
 警部は、グラス二つと、シララル酒の瓶を手に扉の向こうに立っていた。
「よう、坊」
 マイルズ警部は、片目を器用につぶって見せた。
「サーシャちゃんの前では、優等生でいたようだからな。飲み足りなかっただろう。どうだ」
 と、シララル酒の瓶を掲げて見せる。
「俺の部屋でも、ここでもどちらでもいい。飲みたい気分なんだ。付き合ってくれないか」

 リュウジは、今度は心からの笑みを浮かべた。
「目が覚めたとき、知らない部屋で一人だとサーシャが怯えるでしょう。この部屋でお付き合いします」
 リュウジは扉を大きく開いた。
「もうサーシャは寝ていますから、静かにお願いします」
 中にマイルズ警部を招き入れながら、小声で呟く。
「もちろんだよ、坊」
 大げさに忍び足で部屋に入ってくる警部に、小さくリュウジは笑った。
 何とか、自分の心を解きほぐそうとしているのかもしれない。
 部屋の一番奥にある、ソファーで、向き合った位置に座を占める。
 前の小卓に警部はグラスを二つ置き、シララル酒の栓を抜くと、無言で注いだ。
 無色の酒で満たされたグラスを互いに取り、軽く縁を合わせてから、一気に呷る。
 飲み乾したグラスに、警部は二杯目を、黙って注ぐ。
 満たされていく液体を見つめながら、リュウジはシララル酒を美味しそうに飲んでいたハルシャのことを、思っていた。
「ジェイ・ゼルのところか」
 瓶を置きながら、警部が何の前触れもなく、口を開いた。
「ハルシャくんは」

 瞬きを一つしてから、黙したままリュウジはグラスを手に取った。
「美味しいシララル酒ですね」
 にこっと、笑う。
「どこで手に入れられましたか?」

 ふふっと、警部が笑う。
「吉野が、探し出した酒だ」
 警部の笑みが柔らかく、深まる。
「坊を、心配していた――本当はな、吉野がここへ来ようとしていたんだが、俺が止めたんだ」
 グラスを手に取ると、一口飲んで笑みをこぼす。
「美味い酒だ。坊と一緒に、グラスが交わせて嬉しいよ」

 人生の、醜い面を見続けて来た、強い瞳がリュウジを映す。
 そうだ。
 自分の記憶の最初は、抱き上げてくれる、警部の力強い腕だった。

 坊。
 もう、大丈夫だよ。

 そういって、ディー・マイルズ刑事は、腕に包んでくれた。
 抱き上げられ、力強い動きで運ばれていく。
 肌に触れた温もりが、途切れそうな意識を、かろうじて繋いでくれているような気がした。

 えらかったな。坊。

 歩きながら、彼は言った。
 視線を合わせて微笑む彼の笑顔を、リュウジは今でも覚えていた。
 血だまりの中から救い上げた自分の命を、警部はとても、大切にしてくれている。
 そのことを、痛いほど、感じていた。
 両親を失ってしまった少年へ、彼は、家族のような思い遣りを、注ぎ続けてくれていた。マイルズ警部はなんと、自分の結婚式にも、リュウジを招いてくれたのだ。
 彼の妻になったマチルダは、式の後、リュウジに手ずから、花嫁のブーケを渡してくれた。
 あなたに、必ず幸せが訪れますように、と。
 飾りのない、純白のマーガレットの花束だった。
 素朴で温かなものを、その時貰ったような気がした。
 記憶が蘇る。
 あの時と同じ、労りに満ちた目で見つめながら、マイルズ警部は呟いた。

「様子がおかしかったからな、俺が無理矢理、吉野から聞き出してしまった」
 静かな口調で彼が切り出す。
「話したことで、吉野を責めないでやってくれないか、坊。
 ハルシャくんが帰らないことで、彼は十分過ぎるほど自分を責めている」

 夕食の時も、サーシャの世話をしながら、吉野はずっとハルシャが帰らないことを気にしていた。
 リュウジの命令に背き、ハルシャを連れて戻らなかったことが、この結果に繋がっていることを、吉野は重く受け止めていた。責任を、感じているのだろう。
 リュウジはすぐに、言葉を返せなかった。
 黙り込む耳に、警部の深い声が響いた。
「自分から、ハルシャくんを、送り出したそうだな」
 優しい響きを持つ言葉が、穏やかに耳に届く。

 透明な液体を湛えるグラスを握りしめると、リュウジは内奥を、吐露した。
「そうしないと――ハルシャの心の中に、ジェイ・ゼルが永遠に住みつくと判断したからです」
 手の震えが伝わったのだろう、シララル酒の表面が、細やかに波打つ。
「納得できない別離は、心に残ります。僕はもう一度ジェイ・ゼルと会って、気持ちを整理してほしいと願っただけです」
 揺れるグラスの水面を見ながら、言葉を続ける。
「二人を、会わせたかった訳ではありません」

 吐き捨てるような言葉を受けて、マイルズ警部は静かにうなずいた。
「それでも、坊は、自分の気持ちよりも、ハルシャくんの心を大切にしたのだろう」
 なだめるような口調で、彼は呟く。
「えらかったな。坊」

 あの時と、同じ言葉を、警部が呟いている。
 どうして。
 泣きたいような気持になるのだろう。

 シララル酒の澄んだ液体を見つめながら、長くリュウジは沈黙していた。
 やっと口を開くことが出来たのは、警部が三杯目を、手酌で注いでいる時だった。
「どうして」
 ぽつんと、呟く。
「こんなに、不安になるのでしょうね」
 痛みを堪えるように、リュウジは笑わざるを得なかった。
「誰かを大切に思えば、思うほど――どうして、これほど、自分の醜さが浮き彫りになるのでしょう」

 自らを嘲るように、リュウジは小さく笑った。
「ジェイ・ゼルは、ハルシャを誰よりも大切に思っています。これからのハルシャの人生にとって、自分が側に居ることは悪影響を及ぼす。ヴィンドース家の家長として、輝く未来を歩いて行ってほしい。彼がそう、強く願っていることを、僕は感じ取りました。
 だから、ハルシャを送り出したのかもしれません」
 抑えようがないほどに、グラスが波打つ。
「ハルシャを、大切に思っているジェイ・ゼルなら、きっと、会いに行ったとしても、彼を追い返すだろう。
 もう一度、ジェイ・ゼルの口から直接、別離を切り出されたら、さすがのハルシャも納得して、自分と生きる道を選んでくれるかもしれない。
 あの瞬間、僕はとっさに計算したのです。
 僕は、恋敵が、ハルシャを強く想う気持ちを信じて、あの時ハルシャを送り出したのです。彼ならきっと、ハルシャに二度と逢わないと言うだろうと。
 卑怯で醜く、計算高い――」
 眉を寄せて、リュウジは静かに笑う。
「それが自分なのだと、浅ましさを思い知らされます。愚かで……度し難い人間です、僕は」

 苦渋を滴らせる言葉を、マイルズ警部は黙って聞いていた。
 リュウジは黙して、しばらくシララル酒を見つめていたが、一気に飲み干した。
 空いたグラスに、新しい酒を注ぎながら、マイルズ警部が口を開いた。

「それだけハルシャくんが好きなんだろう。恋をすると、人は無様になるものだ。俺も経験済みだよ」
 静かに、警部が笑う。
「相手の幸せを心の底から願いながらも、とにかく自分の側に居てほしくなる。
 矛盾しているよな。
 自分と居るのが、相手の幸せとは限らない。それでも、相手が欲しくてたまらない。無様でみっともなくて、どうしようもないもんだよ。恋ってやつはな」
 優しい声が、視線を伏せたマイルズ警部から響く。
「いいんじゃないか、リュウジ。その苦しさが、心を持って生きるということだよ。ただ」
 視線が上がり、真っ直ぐに、自分を見つめる。
「相手を、自分のものにしたいという思いが高じると、人は自己中心的な行動に出てしまうことがある。誘拐事件は、もちろん犯罪がらみの物もあるが、愛憎が引き金となることも多くてね」

 言葉を切ると、警部もグラスを乾して、手酌で再び満たす。

 そのまま机に置き、静かな声で語りを続けた。
「離婚した夫婦に子どもがいるとするだろう。
 親権を取れなかった方の親は、事情が無い限り、権利として面会をすることが帝国法で保証されている。
 そうやって、離婚後、初めて我が子に面会をした時、会いに行った親が、子どもを連れ去ってしまうことがあってね。
 時折、最悪の事態に陥ることがある」
 目にしてきた過去を思い出すように、一瞬沈黙してから、彼は言葉を継いだ。
「連れ去った我が子を殺して、自分も命を絶ってしまうんだよ」
 虚空を見つめたまま、警部は言葉を続ける。
「比率で言えば、父親が多いんだが、母親でも我が子の命を奪ってしまう時がある。大切な存在であるはずなのに、痛ましいことだ」

 言葉が空間に消えるまでの間、二人は沈黙を続けた。
 マイルズ警部は、再び口を開いた。

「愛には、二種類ある」
 静かな声で、警部が呟いている。
「相手のための愛と、自分のための愛。自分のために誰かを愛する時、相手が自分の思い通りにならないと、腹を立てて怒りを抱いてしまう。
 相手にも、自分と同じように大切な気持ちがあることが、見えなくなってしまうのだろうね。
 子どもを手離さざるを得なかった親は、子どもと一緒に居たかった。
 だから、一緒に居られるように、命を奪い、自分も後を追う。
 そうすれば、もう、別れた相手に子どもを奪われることがない。
 命を奪えば、子どもが永遠に自分のものになるのだと、勘違いしてしまうのだろうね」
 痛みを抱えるように、不意に、警部は眉を寄せた。
「我が子といえども、一個の人格だ。所有物として、自分の手元に置けないという理由だけで、命を奪うことがどれだけ傲慢かが、冷静になれば理解できるはずなんだがね。それでも、解らなくなってしまうのだろうな。
 愛がどこに向かっているのか。誰のための、愛なのかが。自分の感情に押しつぶされて、見えなくなる」
 静かに、マイルズ警部は首を振る。
「時に、離婚した相手に復讐するために、我が子の命を奪ってしまうこともある。悲しいことだ。とても」

 ハルシャに対する思いを、醜いものに変えてはいけないと、忠告してくれているのだろう。
 相変わらず、マイルズ警部は鋭い。

「警部は」
 リュウジは静かに口を開いた。
「ハルシャが、ジェイ・ゼルを選んでも、それが彼の幸せなら、見守ってやれと、おっしゃっているのですね」

 一度口から出た言葉は、もう、元には戻らない。
 解っていて、リュウジは舌先から、苦い思いを吐き出し続けた。

「闇の金融業を生業とし、『ダイモン』の手先であるジェイ・ゼルを、恋人として選ぶことを許し、命の危険がある惑星トルディアに留まりたいと言えば、したいようにさせてやれと。
 帝星に無理やりに連れて行くことは、決してハルシャのためにならないと、そう、忠告して下さっているのですね」
 一気に放った言葉に、警部は静かに笑った。
「責めている訳ではないよ、坊」
 グラスを手に取ると、彼は一口、唇を湿すように飲む。
「坊は、ハルシャくんの幸せを一番に考えている。解っているよ。吉野から聞いた時に、真っ先にそう思った。
 さすが、坊だと」

 そうだ。
 帰らないかもしれないと、本当は、予想していた。
 ハルシャの想いの強さに、ジェイ・ゼルがほだされるかもしれないと。
 サーシャがいるから、ここへ戻ることは解っていた。
 それでも、確認せずにはいられなかった。
 あなたが居るべき場所は、僕の側なのだと。
 だから、念を押した。
 必ず、僕の元へ、戻ってきてください、と。
 解ったと、ハルシャは約束をしてくれたのに。
 それでも、彼は、帰らない。
 待ち続けているのに。
 ハルシャは自分よりも、ジェイ・ゼルを、選んだのだ。

「警部」
 こらえ続けていた涙が、言葉と共に、溢れた。
「僕は、それほど、強い人間ではありません」
 吐露した心情が、胸を掻きむしる。
「今も、気が狂いそうです。ジェイ・ゼルの腕の中に、ハルシャがいるかと思うと――それを、許したのが自分だと思う度に、心臓が締め付けられるように痛みます」
 顔を上げると、真っ直ぐに、マイルズ警部を見つめる。
「ハルシャに嫌われたくない。
 ただ、僕は、それだけのために、ジェイ・ゼルの元に送り出したのです。
 彼に嫌われることが恐くて、身動き取れないだけです。
 どんな醜い自分でも、ハルシャは受け入れてくれました。それでも、恐いのです。
 彼を人生から失うことが――」

 透明な涙が、頬を伝って流れ落ちる。
「彼の恋人として愛を得られないのなら、家族としてでも側に居たいと思うほどに、僕は」
 かすれた声で、奥に秘め続けた想いを、初めて口にする。
「彼を愛しているのです――ジェイ・ゼルに負けないほどに、ハルシャを幸せにしたいと思っているのに。
 どうして」

 思いが募って、言葉が上手く出ない。
 それでも、リュウジは懸命に想いを口にした。

「ハルシャは、ジェイ・ゼルを想いながら泣くのでしょう。僕のしていることは、彼を不幸にするだけなのでしょうか。
 どうして――」

溢れた想いに耐えきれずに、一瞬、リュウジは言葉を切った。
 沈黙の後、虚空を見つめて呟く。

「どうして、僕は五年前に、ハルシャに出会えなかったのでしょう。ジェイ・ゼルと知り合う前の彼に。あれほど、心にジェイ・ゼルが住みつく前に」
 ただ、答えのない疑問だけを、リュウジは絞り出すような声で呟き続けた。
「その機会はあったはずなのに。ハルシャがこれほど運命に痛めつけられる前に、救いの手を差し伸べることが出来たはずなのに――なぜ」

 言っても仕方がないことだと、解りながらも、納得できないままに、言葉を絞り続ける。
 マイルズ警部はただ、黙したままリュウジの言葉を聞いていた。
 身を震わせながら、リュウジは心の奥に隠していた思いを、さらけ出した。

「なぜ、僕は、ジェイ・ゼルでは、ないのでしょう」





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