ずいぶん、深く眠ったような気がする。
肌に触れる少し冷たいような、滑らかなシーツが心地よかった。
手の平の中にある温もりが、安心感を与えてくれる。
まだ醒めきらない微睡を漂いながら、ハルシャはゆっくりと、瞼を押し上げた。
「目が覚めたか、ハルシャ」
声が、降ってくる。
ぱちっと、瞬きをする。
すぐ前に、ジェイ・ゼルの微笑みがあった。
「ジェイ・ゼル」
ハルシャに与えているのとは、反対の肘を立て、頭を預けながらジェイ・ゼルが自分を見つめていた。
「よく眠っていたね」
優しい声が、ごく近い場所で呟かれる。
もう一つ瞬きをしてから、ハルシャは全てを思い出した。
深く愛し合った後、半ば意識を失うようにして、自分は眠りに落ち込んだのだ。
眠りに入る時から今まで、ぎゅっと、彼の手を握りしめていたことに、気付く。
意識が薄れる中で、どこにも行かないでくれと、彼にすがっていたような気がする。
安心させるように言葉をかけ、ジェイ・ゼルは手を握ってくれたのだ。
自分は子どものように、無心にその手を求めて、たわいなく眠りについた。
顔が赤らんでいく。
「あ、すまなかった。手を……」
あの時は、何の恥じらいもなく取れた行動が、妙に照れくさかった。
慌てて離したジェイ・ゼルの手が、すっと、髪に動く。
「いい夢が見られたか? ハルシャ」
優しく腕を伸べて、頭を包むようにして彼が髪を撫でる。
間近で見つめる彼の目は、もう、灰色だった。
「ジェイ・ゼルと」
ハルシャが話し始めた言葉に、ちょっと、ジェイ・ゼルが眉を上げる。
深みのある、灰色の瞳を見つめながら、ハルシャは微睡の中で見ていた夢を口にする。
「ジェイ・ゼルと一緒に、惑星ガイアに行った夢を見た」
眉がさらに上がり、微笑みが浮かぶ。
指先で、梳くようにゆっくりと髪を撫でながら、
「ほう。それは豪勢だね」
と、ジェイ・ゼルが愛しげに言う。
それだけで、ハルシャの胸の奥が甘く痺れた。
目を細めて、ジェイ・ゼルが問いかける。
「惑星ガイアで、何をしたんだ?」
「海に、行った」
「ほう」
「青いきれいな水が、打ち寄せていた。そこで、海と砂浜の境目を、ジェイ・ゼルと手を繋いで歩いていた」
「なるほど、波打ち際を歩いたのだね」
さらりと、指が髪を滑る。
「ジェイ・ゼルは、楽しそうだった」
ハルシャの言葉に、彼が小さく笑う。
「そうか」
彼の微笑みを見つめながら、ハルシャは言葉を続ける。
「ジェイ・ゼルは、海の水は、辛くて飲めないのだよ、と教えてくれていた。空に雲となって、雨として降るまで飲めないのだと。
空から飲める水が降る、というのが不思議でそういうと、ジェイ・ゼルは笑っていた。
惑星ガイアは、水の惑星だからね、と」
瞬きをしてから、ハルシャも笑う。
「それだけの夢だ」
静かな眼差しを与えて、髪を優しく梳きながら彼が微笑みを深める。
「なら、夢を実現しに行こうか、いつか――」
顔が寄せられる。
「二人で、惑星ガイアに行こう」
瞳の中にある、慈しみに満ちた光に、なぜか、胸が痛くなった。
ジェイ・ゼルは目を細めて呟く。
「海を見に行こう。私たちの命を生み出した、母なる惑星、ガイアの海を。そこで一緒に手を繋いで、素足で波打ち際を歩こう――君が、夢に見た通りに。
いつか、きっと」
ジェイ・ゼルと一緒に、惑星ガイアへ行く。
思いもかけない提案に、心が震える。
「行けるだろうか」
ハルシャの問いに、ジェイ・ゼルがうっとりとするほど、美しい笑みを浮かべる。
「行けるよ、ハルシャ。君はもう、自由だ」
自由。
その言葉に感銘を受けるハルシャを見つめてから、ジェイ・ゼルが微笑む。
「天から降る雨を、口を開いて受けるのも楽しいかもしれないな」
いたずらっ子のように、目を細めて静かに呟く。
「きっと、惑星ガイアの人達は、びっくりするだろうけれどね。天からの水をたくさん飲んだ後は、二人でこうしよう――」
そして、優しく唇が覆われた。
「きっと、甘くて、美味しい水だよ。ハルシャ」
離した唇で、ジェイ・ゼルが呟く。
キラキラした目が、自分を見つめていた。
彼との未来が、広がっているのを感じる。
もう、離れなくていいのだと、教えてくれているようだ。
「ついでに、帝星に寄るのも楽しいかもしれないね。ハルシャは、王宮をみたことがあるかな? 皇帝陛下のお住まいは、素晴らしい豪華さだよ」
帝星。
という言葉に、はっと、ハルシャは我に返った。
リュウジ!
彼に、必ず帰ると約束していた。
なんてことだ。自分はリュウジとの約束のことを、すっかり忘れていた。
にわかにハルシャが慌てだしたことに、ジェイ・ゼルが眉を寄せる。
「どうした、ハルシャ」
「い、今、何時だろうか」
「午後四時過ぎだが……どうしたんだ、ハルシャ」
「戻ると、約束をしていたんだ。リュウジに」
リュウジの名前を聞いた時、微かにジェイ・ゼルの表情が冷たくなった。
「いつまでに帰らなくては、ならないんだ、ハルシャ」
「いつという約束はしていない。サーシャを預かってくれているから……」
そわそわし始めたハルシャの髪を、すっと、ジェイ・ゼルが撫でた。
「なら、まだ大丈夫だろう」
落ち着かせるような声で、彼は言う。
「食事をして、帰ったらどうだ、ハルシャ」
食事?
その一言を聞いた途端、ハルシャのお腹がぐーっと鳴った。
顔が、真っ赤になる。
にこっと、ジェイ・ゼルが笑う。
「実はね、ハルシャ。寝ている間も、君のお腹がぐうぐうと鳴っていたのだよ」
ま、まさか。
そんな恥ずかしいことになっていたとは。
「思い余って、起こそうかと考えたほどだよ。もしかして、昼食をとっていなかったのかな?」
そうだ。
お昼のサンドウィッチを前に、ジェイ・ゼルのことを思い出して泣いた自分を見かねて、リュウジが会いに行くようにしてくれたのだ。
なんと、空気を読まないお腹だろう。
寝ている間に、空腹を訴えるなど。
顔を赤らめるハルシャに、笑いを含んでジェイ・ゼルが、言う。
「さらに疲労をさせてしまったからね」
くすくすと、笑いながらジェイ・ゼルが髪を撫でる。
「空腹で返すわけにはいかないな。ぜひ、君に栄養をつけて帰ってほしい」
優しい声と、慰撫する手つきに、何となく、丸め込まれてしまう。
「迷惑ではないか?」
ハルシャの問いに、ジェイ・ゼルがくすくすと笑う。
「いや、とてもありがたいよ」
髪を撫でる手が止まる。
「ぜひ、ハルシャにも手伝ってもらいたいな」
手伝う?
「何を、だ。ジェイ・ゼル?」
まだ笑いながら頭を一撫でして、彼はゆっくりと身を起こした。
「もちろん」
白絹のシーツの間から、きれいな彼の身体が現れて、ハルシャはまた赤面してしまった。その様子を楽しそうに見つめてから、彼は呟いた。
「料理を、だよ。ハルシャ」
*
知らなかった。
まさか、ジェイ・ゼルが料理をする人だったとは。
「外食ばかりだと、栄養が偏るからね」
ウォークインクローゼットから、服を取り出しながら、彼はハルシャに片目を
「それに、料理をするのは、意外と気分転換になる。趣味と実益を兼ねて自宅で料理をよくするんだよ」
初耳だった。
ジェイ・ゼルは、黒一色の服の中から、新しい普段着を取り出している。
先ほどまで着ていたのは、ハルシャが涙でぼろぼろに濡らしてしまったので、洗濯に出すらしい。
ベッドの側に、ジェイ・ゼルの服の収納場所がある。
惜しげもなく裸体をさらしながら、彼は自分の服を選んでいた。
まだ、寝起きでぼおっとするハルシャは、ベッドに腰を下ろして、その背中を見つめる。
あくびが一つ、出る。
泣くというのは、意外と体力を消耗するらしい。
目が少し、腫れぼったい。
瞬きをしながら、まだ動き出さないハルシャの側に、ジェイ・ゼルが戻ってきた。
「この服を着るといい」
ジェイ・ゼルが、ハルシャの前に、服を差し出した。
えっ? と驚きを隠せずに、彼を見上げる。
ジェイ・ゼルは、静かに微笑む。
「着て来た服は、洗濯に出しておくよ。シャワーを浴びてさっぱりしてから、この服に着替えたらいい」
ジェイ・ゼルの服だ。
彼のサイズに合わせた、上質な手触りの服。
「シャワーを、浴びておいで」
にこっと笑いながら、否を唱えられない口調で彼が言う。
「だが、ジェイ・ゼル」
ハルシャは、抵抗を試みた。
服が上等すぎる。
それに、きっと、サイズが大きい。
「大丈夫だよ」
全てをまるっと、説得する口調で彼が言う。
「シャワーは向こうだよ、ハルシャ。残念ながら風呂はないが、我慢しておくれ」
もちろんだ。一般家庭で水を張る風呂があるほうがどうかしている。
「いいのか、ジェイ・ゼル」
まだためらうハルシャに、ジェイ・ゼルは笑みを深める。
「いいんだよ。遠慮せずに、甘えておくれ」
彼の視線の優しさに、ふっと肩の力が抜ける。
遠慮のない関係に、これからなっていこうと、彼が無言で依頼しているようだ。
きっと――
家族のような。
互いが苦痛にならない、空気のような関係に。
「ありがとう、ジェイ・ゼル」
素直に、彼の心を受け取り、礼を言った言葉に、彼は嬉しそうに笑った。
身をさっぱりさせてまとったジェイ・ゼルの服は、やはり、とても大きかった。
裾も、袖も余って、折りこまないと、着られない。
生地がするすると滑らかで、とても手触りがいい。
そして、やはり、黒かった。
「ありがとう、ジェイ・ゼル」
声をかけながら、台所に立つジェイ・ゼルの側へと、歩いて行った。
ジェイ・ゼルは、着替えた普段着の上に、長い腰だけのエプロンをしめて、料理をしていた。
まな板の上に、骨付きのラム肉が置いてあり、ハルシャは驚きに目を見開く。
しかも、それは、ブロック状態から、先ほど切り取られたものらしかった。
ジェイ・ゼルは、保存庫の中にブロックのラム肉を置いているのだと、発見に驚きを隠せない。
本格的だ。
彼は切ったラム肉に、下ごしらえをしていたところだった。
手を止めてハルシャへ、視線をむける。
彼の服を、袖を折りこんで、何とか着ているハルシャの様子に目を止めると、静かに微笑んだ。
「黒も似合うね、ハルシャ」
そういえば、黒い服など、着たのは両親の葬儀のときぐらいだった。
ジェイ・ゼルは、黒しか着ない。
なぜだろう、と、今更ながら考えてしまった。
「さっぱりしたかい?」
ジェイ・ゼルの問いかけに、ハルシャが答える前に、ぐうっと、お腹が鳴った。
顔が、真っ赤になる。
「お腹が空くのは、元気な証拠だよ。なによりだ」
くすっと、ジェイ・ゼルが笑う。
「君に早く食事をさせてあげられるように、努力をしよう。手伝ってくれるか、ハルシャ」
「もちろんだ」
鳴ったお腹のことをうやむやにするように、ハルシャは元気よく答えて彼の側に立った。
「何をすればいい?」
「そうだね」
彼はさっさと、保存庫から材料を取り出していく。
ハルシャは、目を剥いた。
貴重な生のトマトと、白身の魚、それに香草が広い台所の上にてきぱきと乗せられていく。
「白身魚を使った、トマト風味のスープのようなものを、作ってくれるかな。
味や、調理方法は君に任せるよ」
トマト風味のスープなら、得意な料理の範疇に入る。
「わかった」
「魚は、タラだよ。好きだろう」
ジェイ・ゼルの言葉に、ふっと、ハルシャは顔を向ける。
彼は、ラム肉の仕込みを続けていた。
「以前、ムニエルを、美味しそうに食べていたね」
作業から視線を逸らさずに、小さく、彼が呟く。
その後、言葉が途切れた。
彼は、自分のことに、それほどまでに注意を払ってくれていたのだと、改めて気付く。
「好きだ」
ハルシャは、言葉を返す。
「ありがとう、ジェイ・ゼル」
作業を続けながら、ジェイ・ゼルが静かに微笑む。
温かいものを胸に抱きしめながら、ハルシャも視線を戻して作業に取り掛かった。
ジェイ・ゼルは、原始的なものが好きらしい。
トマト風味のスープなら、味付けしたパウチが売ってあるが、基礎から作るのが彼の流儀のようだ。
タラを先に軽く炒めてから、一度皿に取りあげ、刻んだトマトを使って、スープを作っていく。
ハルシャが欲しいと思う調味料が、口に出す前に、さっと調理台の上に乗っている。
ジェイ・ゼルは、自分の作業をしながらも、常に視界に自分のことを置いてくれているようだ。
半時間もする頃には、台所に良い香りが立ち込め、ハルシャのお腹が盛大にぐうぐう鳴り始める。
上から押さえても、抗議をするように鳴り、ハルシャはひたすら顔を赤らめた。
「もうすぐだから、辛抱するんだよ。空腹は、最高のソースというからね」
くすくすと、ジェイ・ゼルが笑う。
ジェイ・ゼルは、何と調理に本物の火を使っている。
今まで居たオキュラ地域では、サーシャが使うこともあり、用心のために電磁波の調理器具にしていた。
だが。
重量感のあるフライパンの上で、骨付きのラム肉を焼くジェイ・ゼルは、香りのいいお酒を振りかけて、そこに火をつけ冷静に振っている。
火がフライパンの中で燃え上がった瞬間、ハルシャは思わず叫んでいた。
「大丈夫だよ」
なだめる様に、ジェイ・ゼルが言う。
「余分な脂を飛ばしているだけだ。火事にはならないよ」
それでも、突然燃え上がり、青白い炎を上げたことに、ハルシャはまだ心臓をドキドキと躍らせていた。
「お酒には、こんな使い方もあるんだよ、ハルシャ。面白いだろう」
ジェイ・ゼルは、とても、楽しそうだった。
二人で並んで料理をしているのが、何だか、妙だった。
ひどく親密で、それまでの自分たちからは、想像できない。
けれど。
きっと、これが普通になっていくのだろう。
ハルシャは、考えながら、料理に戻った。
煮詰めて良い頃合いになったトマトに、炒めたタラを戻して、味の最終調整をする。味見をしてから、少し小首を傾げてしまう。
何か、足りないような気がする。
「ジェイ・ゼル」
一匙すくってから、彼に呼びかける。
「ちょっと、味を見てくれないか。何か、ぼんやりとした味なんだ」
彼は、フライパンの火を止めたところだった。
「もう、完成するのかな、君は作業が早いね」
褒めてから、顔を寄せる。
「いいよ、味を見ればいいんだね」
差し出す匙からすっと顔がそれて、はっと気づくと唇が覆われていた。
「んー! んんっ!」
抗議の声を上げたハルシャに、微笑みを与えながら、彼が顔を引く。
「すまない、ハルシャ。こちらを味見するのかと思ったよ」
何をバカなことを言っているんだ、と叫びたいのを、ぐっと抑える。
微笑んだまま、彼は匙を口に含み、ゆったりと飲み下した。
その仕草に、なぜか、ドキンと胸が鳴った。
「塩、かな」
柔らかい声で、彼がいう。
「ハルシャがいつも使っているのと、塩の種類が違うから、分量が少なかったのかもしれない。あと少し塩を入れれば、味が引き締まると思うよ」
的確な指示に、ハルシャは妙に感動する。
「私は、惑星ガイアの岩塩を使っているからね」
自分の作業に戻りながら、彼が言う。
料理をする彼の横顔を、ハルシャは、見つめる。
今日一日で、随分彼のことを、たくさん知ったような気がする。
過去をもう一度やり直し、本当の名前を教えてくれて――
恐らく誰にも見せたことのないジェイ・ゼルを、自分は今、目にしているのだろう。
彼の人生の中に、招き入れてもらったような気がする。
惑星ガイアへ一緒に行って、海を見ようと、彼は言ってくれた――
「ハルシャ」
考えに耽るハルシャに、優しい声がかけられる。
「こちらは準備が出来たよ。さあ、食事にしようか」
ハルシャが答える前に、再び空気を読まないお腹が、ぐうと鳴って、返事をした。
*
盛り付けるお皿を選び、食卓まで運び、一緒に席につく。
本当に、家族のようだ。
台所からすぐの場所にある食卓で、ジェイ・ゼルと向かい合った位置に座って、ハルシャは妙にドキドキしていた。
ジェイ・ゼルは、とっておきのクラヴァッシュ酒の封を開けている最中だった。
「私の妹が持たせてくれたもので、最上のクラヴァッシュ酒だよ」
説明するジェイ・ゼルに、ハルシャは視線を向ける。
妹のことを口にするとき、とても優しい声になっているのにハルシャは気付いた。
「妹は、エメラーダと言ってね、私と同じ緑の瞳になる。宝石のエメラルドから名前をつけられて」
瓶から栓を抜き終えて、彼は微笑む。
「とても美しく優しい人だよ。いつか、君にも会わせてあげたい。私の、たった一人の肉親だからね」
語る彼の目の奥に、過去の傷が再び滲んだ。隠しきれない痛みと共に。
ハルシャは想いを受け止めて、微笑みを返す。
「ぜひ、逢わせていただきたい。楽しみにしている、ジェイ・ゼル」
言葉に、ジェイ・ゼルが笑みを深める。
「きっと、君たちは気が合うと思うよ。すぐに、打ち解けるのではないかな」
少し、妹のことを考えたのだろう。言葉を切って、彼は虚空へ視線を向けた。
すぐに彼は、意識をハルシャへ戻した。
「私が好きなのを知っていて、クラヴァッシュ酒を贈ってくれるんだ。
今日は特別だからね、一緒に飲もう。ハルシャ」
特別。
という言葉を、ひどく大事そうに彼は口にした。
自分を信じて、妹のエメラーダのことも話してくれたのだと、思う。
彼は今、本当の自分でいてくれているのだろうか。
優雅な動作で、丁寧にグラスにクラヴァッシュ酒を注いで、いく。
瓶をテーブルに置くと、彼の手はそのまま、グラスに動いた。
「乾杯しよう、ハルシャ」
グラスを持ち上げるジェイ・ゼルの動きに促されるように、ハルシャもグラスを手にした。
視線を合わせる。
にこっと笑うと、彼は身を乗り出すようにして、ハルシャのグラスの縁に、軽く自分のものを触れ合わせた。
献辞を、彼は口にしなかった。
きっと、言葉し尽せない思いを込めて、今、グラスを合わせているのだろう。
それは。
ハルシャも、同じだった。
離れたグラスが、互いの口へと向かう。
眼差しを交わしたままで、赤く芳醇な香りを湛える、クラヴァッシュ酒を口に含んだ。
思ったよりも、美味しい。
幸せそうな顔になっていたのかもしれない。
「美味しいかい?」
と、ジェイ・ゼルが問いかける。
「とても」
ハルシャは嬉しくて、もう一口、口に含む。
「飲みやすいクラヴァッシュ酒だな、ジェイ・ゼル」
「そうだね。気に入ってもらって、とても嬉しいよ」
にこっと、ジェイ・ゼルが笑う。
「お祝いだからね、たくさん飲んでくれると、嬉しいな。ハルシャ」
ジェイ・ゼルが焼いてくれたラム肉のローストは、とても美味しかった。
タラのトマト風味のスープも絶妙だと、ジェイ・ゼルが褒めてくれる。
「サーシャの話を聞いたとき」
スープを飲みながら、ジェイ・ゼルが話しかける。
「一度、ハルシャの手料理を食べてみたいと思っていたが」
手を止めて、彼が視線を上げる。
「念願が叶ったよ。サーシャが感銘を受けるはずだね。とても美味しいよ」
褒め言葉に、何だか、顔が真っ赤になる。
「ジェイ・ゼルは、ラム肉が好きだな」
話を逸らすように、ハルシャは口早に言う。
「今までも、よく、ラム肉を頼んでいる」
ジェイ・ゼルが眉を上げて笑う。
「観察されていたとは、知らなかったよ。関心がないかと思っていたからね」
言葉の奥に、微かな痛みがあるのに、再び、気付く。
五年間、彼の心を傷つけていたのだと、改めて、思わざるを得なかった。
視線を落としてから、自分自身で機嫌を直すように
「サーシャの作文の結果は、まだ出ていないのかな?」
と、彼は話を変えた。
そこから、サーシャの話題に移る。
なんの屈託もなく、気が向くままに話をすることは、とても楽しかった。
「ハルシャは」
会話が少し途切れたとき、ジェイ・ゼルが小さく呟いた。
「翡翠を、実際に見たことがあるのかな?」
ちくんと、胸が痛んだ。
「母が、持っていた宝飾品の中に、きれいな翡翠があったんだ。透明で深い緑の――母の祖母の持ち物だったらしい。
指輪にしていたけれど、よほどの時でないと着けなかった」
はっと、ジェイ・ゼルが顔を上げた。
その表情が物語るものを、ハルシャは悟る。
彼は、競売にかけた宝飾品の中には、その翡翠がなかったと気付いたのだろう。
再びちくんと、胸が痛みを発する。
何気なく聞こえますように、と祈りながら、会話を続ける。
「都心ラグレンの創設記念の式典に、たぶん母は、翡翠の指輪を着けていったのだと思う。いつもそうしていたから。
惑星トルディアの父を祖に持つヴィンドース家の妻として、式典のためには最上の装いをするのが礼儀だと母は考えていた。だからあのとき、左の指には、翡翠の指輪をしていたのだと思う」
だから。
心を励まして、言葉を続ける。
「翡翠は、モース硬度が7程度で、それほど硬い石ではない。恐らく、爆発の衝撃に耐えられなかったのだろう。
身に着けた母の指から、砕け散っていた」
いや。
指そのものも、形を残していなかった。
瞬間的に、記憶が残酷な瞬間に、戻る。
ジェイ・ゼルが、静かに手にしていたナイフとフォークを置き、椅子を引いて、立ち上がった。
机を回って、一点を見つめるハルシャを、そっと腕に包んだ。
「残っていれば、良かったのだが」
彼の温もりを得ながら、ハルシャは、何とか明るく言う。
「ジェイ・ゼルの瞳の色によく似た、とてもきれいな翡翠だった」
回してくれる腕を、ぎゅっとハルシャはつかむ。
「でも、大丈夫だよ、ジェイ・ゼル。それ以上に美しいものを、今は見ることが出来るから」
髪に、優しくジェイ・ゼルの唇が押し当てられた。
「君の両親を爆破した犯人は残念ながら、まだ、見つかっていない」
言葉が、息と共に優しく降り注ぐ。
「私も独自に調べてみたが、ほとんど手がかりがない。情報が極端に少ないんだ。
外部からの突発的な犯行だと、考えた方がいいかもしれない」
静かな、ジェイ・ゼルの声が聞こえる。
「出来れば、犯人を見つけてあげたい。せめて、それだけでも」
ジェイ・ゼルは。
やはり、知らないのだ。
政府が手を下したとしたら、情報を隠すなど簡単な事だろう。
隠蔽され、決して明るみに出ない自分の両親の死を、彼は何も言わずに調べてくれていた。
それだけで、もう。
十分なような気がした。
「ありがとう、ジェイ・ゼル」
ぎゅっと、腕を抱きしめて呟く。
「でも、両親の死が無ければ、ジェイ・ゼルと出会えなかった」
想いを込めて、ハルシャは言葉を呟く。
「私は、不幸ではない。ジェイ・ゼル」
ジェイ・ゼルの腕に、力が籠った。
そう言わしてくれたのは、あなたのお陰だと。
想いが溢れる。
たとえ罪人になっても悔いがないほどに、自分はジェイ・ゼルを愛していた。
「ジェイ・ゼルは」
抱き締めてくれる彼に、問いかける。
「どうして、ジェイ・ゼルなんだ」
話を変えるように、言う。
ちょっと、腕が解けた。
「ジェイ・ゼルのジェイは、ジェイドのジェイなのか?」
問いかけに、ちゅっと、髪に唇を触れてから、彼が顔を話した。
「そうだよ。ジェイドの頭文字、Jからだね」
「なら、ゼルは?」
「私を養子にして下さった、イズル・ザヒル様のザヒルの頭文字Zから頂戴している。イズル・ザヒル様の母星では、Zをゼルと呼ぶそうだ」
意外だった。
「そしたら、ジェイ・ゼルの本当の名前は、ジェイド・ザヒルなのか?」
ふふと、彼は笑う。
「そうだよ。自由になった時に、本名の頭文字、J・Zを自分の名として、生きていくことに決めたからね。
ジェイドという名を持つ過去を忘れないために、敢えて頭文字だけは残したんだよ」
見上げるハルシャの髪を、彼は優しく撫でた。
「これを知っているのは、ハルシャの他には、妹とイズル・ザヒル様だけだよ」
大切なことを、教えてくれたのだと、気付く。
「誰にも言わない」
ハルシャは、表情を引き締めると、誓うように言った。
「約束する」
その様子に、ジェイ・ゼルが目を細めて、笑いを浮かべる。
「ハルシャは、約束を守る子だからね、信じているよ」
ゆっくりと、顔が近づく。
「二人だけの、秘密だ」
秘密、という言葉を、とてつもなく色めいた声で、ジェイ・ゼルが言う。
優しく唇が覆われていた。
彼の口は、クラヴァッシュ酒と、ラム肉のローストと、トマト風味のスープが交じり合った味がする。
きっと、自分も同じなのだろう。
じっくりと味わってから、彼は口を離した。
「食事がまだ、終わっていなかったね」
きらめく眼で見つめながら、彼が言う。
「すぐにお腹が減ってはかわいそうだから、しっかり食べなさい、ハルシャ」
髪を一撫でしてから、ジェイ・ゼルはハルシャを解放した。
何となくざわつく心で、食事を再開する。
ジェイ・ゼルは、ハルシャのグラスが空くと、すぐにクラヴァッシュ酒を注いでくれる。
あまり飲めないと言っても、お祝いだから、と微笑みながら言われると、何となく、口に運んでしまう。
明らかに、自分の酒量を超えているような気がするが、美味しい料理と、ジェイ・ゼルとの楽しい会話が、お酒を勧めていく。
いつもなら置いてくれる水がないので、喉が渇くと水代わりに、ハルシャはクラヴァッシュ酒を口にした。
「コーヒーを飲むかい?」
食事を終えて、食器を下げながら、ジェイ・ゼルが問いかける。
それは、良いかもしれない。
酔いが回ったせいか、頭がぼうっとする。
こくんと、頭を揺らしたハルシャを見て、くすくすと、ジェイ・ゼルが笑った。
「顔が、真っ赤だよ。ハルシャ」
瞬きをして、ジェイ・ゼルへ視線を向ける。
なぜか、彼が二人いるような気がする。
どっちのジェイ・ゼルに、話しかければ良いのだろう?
考え込んでいると、ジェイ・ゼルが側に動いてきた。
「大丈夫か、ハルシャ?」
大丈夫だという、思いを込めて、頷く。
「そうか」
優しい声で、ジェイ・ゼルが言う。
「なら、立つことが出来るか? ハルシャ」
酔っているかどうか、試されているのだろうか。
大丈夫だと、意思を込めて、机の端を掴みながら、ハルシャは立ち上がった。
が。
身体がふらふらする。
「危ないよ、ハルシャ。ほら、足元がおぼつかない。椅子にきちんと腰を下ろして」
ジェイ・ゼルの声と、動きを誘導する手を感じる。
そうか、座った方が良いのか。
ハルシャは、もとあった椅子へ腰を下ろした。
だが。
何か、さきほどとは、感覚が違う。
ん?
と振り向くと、そこに、ジェイ・ゼルの姿があった。
自分が腰を下ろしたのは、ジェイ・ゼルの膝の上だったのだと、気付く。
「……ジェ、ジェイ・ゼル?」
なぜ、ジェイ・ゼルが?
と、状況が飲み込めずに、ハルシャは問いかけるように、彼の名を呼んだ。
座ったハルシャの背を、よしよしと、彼が撫でている。
「ハルシャ。まだ、グラスにクラヴァッシュ酒が、残っているようだよ」
赤い液体を揺らしながら、彼が呟く。
「飲ませてあげようか?」
とろんとした目で、ジェイ・ゼルを見る。
やはり、二人いるような気がする。
二人のジェイ・ゼルが微笑み、グラスを手に取ると、そっと持ち上げて、ハルシャの唇に優しく当てた。
「美味しい、クラヴァッシュ酒だね。飲んでごらん」
グラスが、傾けられる。
注がれた液体を、ハルシャはこくんと飲み干した。
ふわっと香りが喉の奥に広がる。
「もう一口、飲むかい?」
言葉が終わると同時に、グラスが再び傾けられる。
それも、素直にハルシャは飲み込んだ。
途端に、眠気が急激に襲ってくる。
瞼が持ち上がらない。
支えるジェイ・ゼルの腕に身を預けるようにして、落ちそうになる意識を、懸命に立てようとする。
「眠くなってしまったのかな? ハルシャ」
眠い。
けれど。
自分には、何かしなくてはならなかったことが、あったはずだ。
どこかへ、行かなくてはならなかった。
「水を飲むと、いいよ。ほら、ハルシャ」
押し当てられた新しいグラスの縁から、ハルシャは水をごくごくと飲んだ。
満足して口を離すと、より一層、眠さが、まとわりつく。
でも。
行かなくては。
待っている。
でも。
誰が?
そうだ――
「リュウジ……」
小さく、ハルシャは呟いた。
彼に帰ると、約束していた。
サーシャも待っているはずだ。
帰らなくては。
「でも、こんなに酔っては、帰ることができないね。ハルシャ」
ジェイ・ゼルの声がひどく近いところで聞こえる。
「どうだろう。少し眠って、酔いを醒ましてから帰っては。きっと、リュウジも納得してくれるよ」
そうだろうか。
彼は、必ず帰ってくるように、言っていたのに。
「眠って、しまったのかな? ハルシャ」
身体が重くて、応えることが出来ない。
うとうととするハルシャの身が、強い力で抱き上げられて、運ばれていく。
やがて、柔らかいものの上に横たえられた。
ぼんやりする意識の下で、ハルシャはそのことを感じていた。
少し冷たくて、気持ちがいい。
「熱いのかい?」
ハルシャが服を脱ごうとしたのかもしれない。
優しい手で、身から服が取り去られる。
ひんやりとしたシーツに身を浸して、ハルシャは至福の笑みを浮かべていた。
「気持ちがいいんだね。ハルシャは、かわいいな」
髪がさらっと撫でられてから、身が滑らかな布団で覆われた。
「おやすみ、ハルシャ。よい夢を」
自分の息がひどく熱いことを感じながら、心地良い肌触りの布団に身を預ける。
リュウジに、少ししたら、戻ると伝えなくては――
思いながらも、ハルシャは眠りの中に、引き込まれていった。