ほしのくさり

第164話   過去を癒す方法-01





 想いを伝えるように、柔らかく唇が触れ合っている。
 有害な大気から生命を守る、透明なドーム越しに差し込む、恒星ラーガンナの柔らかな光の元で、時を忘れたように、口づけを交わす。

 涙をこぼすハルシャの息が詰まることを懸念してか、時折口を離し、呼吸を確保しながらも、ジェイ・ゼルは長く穏やかに、唇を合わせていた。
 優しい仕草に、心が慰撫されていく。
 背中を滑る手と、想いを込めた触れ合いと、包むような穏やかな眼差し。
 激した感情が、落ち着くのを、ジェイ・ゼルは忍耐強く待ってくれているようだった。
 泣きじゃくる声が、啜り泣きに変わってからしばらくして、離した唇で、ジェイ・ゼルが耳元に呟く。
「自分から去らしておきながら、すまない。ハルシャ」
 吐息のような、声だった。

 別離を覚悟した瞬間の痛みが、再び胸の内に湧き上がってきて、ハルシャは新しい涙が滲んでくるのが、抑えられなかった。
 溢れはじめた涙に気付くと、ジェイ・ゼルがそっと、頬に触れ、涙を唇で受け取る。
 あやすように、唇が優しく悲しみを飲み込んでいく。
 ハルシャが落ち着きを取り戻してから、彼が再び口を開いた。
「君に辛い決断を迫ってしまった。許しておくれ」
 小さく、ハルシャは首を振った。
 彼は、追いかけて来てくれた。
 もう、それだけで十分なような気がした。
 ゆっくりと頭を撫でてから、軽く唇が、髪に触れた。
「部屋に戻ろうか、ハルシャ」

 促されて、歩き出す。
 ジェイ・ゼルが、支えるように肩を抱いてくれていた。
 彼の手の温もりに、ひどく安心する。
 認証装置に、軽くジェイ・ゼルが触れたとたん、二人の身体が光に包まれていた。
 次の瞬間には、ジェイ・ゼルの部屋の玄関に降り立っている。
 あれほど固く決意して訪れたのに、失意の内に去らねばならなかった。
 二度と踏むことなどないと覚悟し、後にした場所に、自分がもう一度立っていた。
 どうしようもない喜びが、湧き上がってくる。
 涙腺が緩んでしまったのかもしれない。
 たったそれだけのことで、ハルシャは、新しい涙が滲んでくるのが抑えられなかった。

 佇んだまま、ぽろぽろと泣き始めたハルシャを、ジェイ・ゼルが柔らかく腕に包んでくれていた。
「これほどの泣き顔を見るのは、初めてだな、ハルシャ」
 言葉が、上から降ってくる。
「これ……ほど、泣いたことは」
 喉を引きつらせながら、ハルシャはようやく答える。
「今まで、なかった」
 みっともないほどに、自分は声を上げて、泣きじゃくっていた。
 ヴィンドース家の長子として、節度ある態度をいつも求められていた。
 大泣きするなど、許されないことだった。
 だから、流したい涙も飲み込みながら、ここまで生きてきたというのに。
 その枷が、どこかで壊れたようだった。
 受け止めてくれるジェイ・ゼルの腕の中で、ハルシャは感情の奔流に、ただ、身を任せた。
「そうか」
 小さく、ジェイ・ゼルが呟いて、唇で、髪に優しく触れた。
「そしたら、ハルシャのこの顔は、私が初めて見るのだね」
 ぎゅっと、ジェイ・ゼルの腕に力が籠る。
「君の新しい表情を見つけるたびに、胸が躍る」
 愛しい響きが籠る声に、身を預けたまま、ハルシャは耳を澄ました。
 静かに、髪が撫でられる。
 穏やかな沈黙の後、ジェイ・ゼルが口を開いた。

「君が去った空間に一人残されて、やっと、自分の本当の気持ちに、気が付いた」
 腕に包んだまま、ジェイ・ゼルが囁くような声で、彼の真実を告げている。
「君の、色鮮やかな表情を、この先もずっと側で見守りたかった。心から滴る、君の真っ直ぐな言葉を、いつまでも聞いていたかった」
 少し距離を取ると、ジェイ・ゼルが真正面からハルシャを見つめた。
 微笑むと、彼は懺悔するように呟いた。
「もう二度と逢わないことが、君のためだと解っているのに――私は、君を失うことに、耐えられなかったんだよ、ハルシャ」

 見開いたハルシャの金色の瞳を、慈しむように眺めてから、彼は言葉を続けた。

「私は、君の質問に、答えていなかったね」
 さらりと、髪が撫でられる。
「ハルシャと離れたら、私が幸せになるのかと、訊ねていたんだね」
 灰色の瞳が細められ、静かに言葉が口からこぼれる。
「君の居ない世界は、闇のようだ。別離を思うだけで、魂が引き裂かれるようだった。この上のない苦痛だったよ。それでも」

 真剣な灰色の瞳を見つめながら、ハルシャは心の内側に呟いた。
 どんなに苦しくても、彼は別れるという決断を、下そうとした。
 それが、自分の幸せだと、信じて。
 再び、涙がこみ上げそうになる。
 飲み込むハルシャを見つめながら、ジェイ・ゼルの言葉が、滴る。

「君を、私の呪いに巻き込みたくなかった。光の中を、堂々と歩ませて上げたかった――最後ぐらいは、君のために、正しいことをしたかったんだよ。ハルシャ」

 痛みを堪えるように、眉が寄せられた。
 手が髪から離れ、ゆっくりと、ジェイ・ゼルが両手で、まだ涙に湿る頬を包む。
 眼差しを交わしたまま、彼が呟く。
「なのに、私はまた、愚かな選択をしてしまった。君に辛い選択を強いながら――自らがそれを、覆すなど」
 苦しげに、顔を歪めながら、彼は微笑んだ。
「許してくれ、ハルシャ」
 目を細め、切ないほどの笑みを浮かべて、彼は言葉を続ける。
「君を失った世界の中で、生きていけるほど、私は強くないらしい。君が消えた空間に取り残されて、そのことを、思い知った」
 真摯な眼差しが、心の奥底に、沁みとおっていく。
「君は、私の全てだ――ハルシャ」
 優しく微笑むと、彼は問いの答えを、静かに口にした。

「君と共に生きることが、私の幸せだよ、ハルシャ」


 時間も空間も、何もかもが、周囲から消えていく。
 世界に、彼と自分の二人だけが、存在しているようだ。
 視界の全てが、ジェイ・ゼルになる。
 ひたむきに見つめるハルシャへ、微笑みを与えながら、ジェイ・ゼルが顔をよせた。
 優しく、唇が再び触れ合う。
 大事な額を手に握りしめて、ハルシャはそのまま、腕をジェイ・ゼルの首に回して抱きしめた。

 傷つけても。
 傷つけられても。
 それでも、側に居たいと思う。
 悔いながら、詫びながら。
 過ちを許し合いながら、同じところを見つめて、一緒に歩いていたい。
 これほど深く誰かを愛することなど、もう、二度とないと思うほどに、彼が恋しかった。

 愛し合うと、彼が呼んだ行為は――
 本来深い愛情と信頼の上に成り立つ、情愛のこもったものだと、ジェイ・ゼルは教えてくれた。
 言葉の本当の意味を、今、ハルシャは触れるジェイ・ゼルの唇から、感じ取っていた。
 この行為を、恋を知らない自分に、形式で強いていたと、彼は言った。
 だから、本能が拒み、反応しなかったのだと。

 自分は、普通とは逆の手順を踏んでしまったようだ。
 ジェイ・ゼルとは――
 ほぼ初対面でありながら、身を合わすことから、関係が始まってしまった。
 そこから、五年をかけて、触れ合う肌から、彼を知っていった。
 拒みながら。
 抗いながら。
 知らず知らずのうちに、自分は彼を受け入れていた。
 名前を呼ばれるだけで、重く身の内が震えるほどに。
 忌避する恥辱に満ちた行為だと思っていたものは、奥底に秘め、決して人には見せなかった、ジェイ・ゼルの真実の情愛の示し方だった。
 彼の行為の奥にある優しさに気付いた時には、もう、恋に落ちていた。

 肉体から始まった関係は、いつしか心に、たどり着いていた。
 別離が痛みを覚えるほどに、彼と、深く魂が結びついているのを、感じる。
 未来がどんなに困難に満ちていても、互いの側にいるのが、幸せだと思えるほどに、ひたむきにハルシャはジェイ・ゼルを求め続ける。
 触れる場所から、ただ、愛しさが込み上げてきた。

 時間が消えた中、目を閉じ、ジェイ・ゼルの温もりだけを、合わせた場所から感じ取る。
 彼の情愛が、身の内に染みていく。
 配慮を施してくれる彼の唇を、ハルシャはかつてないほど、貪るように求めた。
 まだ涙の乾かないままに、一心に彼の温もりを、確かめ続ける。
 永遠の別れを覚悟した時の焦燥が、まだ、心を焼いていた。
 無心に求め続けるハルシャに、ジェイ・ゼルが唇を与えてくれる。
 内側の傷を癒そうとするかのように。
 切望に耐え兼ねて、わずかに口が離れた時に、ハルシャは湧き上がる想いを、口にしていた。

「あなたが、欲しい」
 灰色の瞳を見上げて、渇望を伝える。
 みっともないほどに、声が震えていた。
「愛し合いたい。ジェイ・ゼル――お願いだ」

 彼と離れなくても良いという事実を、刻み込みたかった。
 嘘ではないよと、体で教えて欲しかった。
 別離の寂寥を、彼の熱で埋めつくしてほしかった。

 震えながら呟いた言葉に、ジェイ・ゼルが目を細めた。
 彼がためらっているのが、触れる場所から、伝わってくる。
 短い沈黙の後、彼が口を開いた。

「ここは、嫌ではないか、ハルシャ」
 真摯に彼が問いかけている。
「この部屋で、私は最初に君を傷つけてしまった。思い出して、辛くならないか」
 思い遣りを巡らせながら、懺悔するように、彼は呟く。
 繊細な、彼の心を、手触りのようにハルシャは感じ取った。

 ずっと、ジェイ・ゼルは最初の行為のことを、悔いていた。
 我を忘れたあの時以外、決して傷つけまいと、丁寧に扱ってくれていた。
 もしかしたら、彼が二度とこの部屋に自分を入れなかったのは、最初の時の恐怖が蘇ると思っていたからかも、しれない。
 わざわざ『エリュシオン』に場所を移したのも、それが理由なのだろうか。
 行為自体に、恐れを抱かせたくないと、彼は考えたのかもしれない。
 静かな灰色の瞳を、見つめる。
 幾重にも施されていた、彼の優しさに改めて気付く。
 胸が、震えた。

「嫌ではない、ジェイ・ゼル」
 心に届くようにと、精一杯の想いを込めて、ハルシャは告げる。
「大丈夫だ。心配しないでくれ」
 それでも、ジェイ・ゼルはわずかなためらいを、消しきれないようだった。
 眉が寄せられる。
 これほどまでに、彼は自分自身を厳しく罰していたのだと、気付く。
 ハルシャを乱暴に抱いたことで、彼は癒しがたい傷を、心に負ってしまったようだった。
 胸が、痛んだ。
 五年前の、無知な自分の抵抗のために、ここまでジェイ・ゼルは追い詰められていたのだ。
「もう一度」
 彼の傷ついた瞳を見つめながら、ハルシャは呟いていた。
「最初から、始めよう。ジェイ・ゼル」

 言葉に、ジェイ・ゼルが眉を解いた。
 意味を尋ねるような眼差しに、想いを込めて言葉を返す。
「五年前、最初に出逢った時に戻って、やり直そう。ここで、この部屋で――お互いの想いを、もう一度きちんと、伝えあおう」
 ハルシャの提案の意味を、ジェイ・ゼルが得心してくれたようだ。
 瞳が、驚きに見開かれた。
「私は、あの時、あまりにも無知で、言葉で伝えることすら出来なかった」
 後悔が湧き上がってくる。
 自分は、優しくしたかったジェイ・ゼルの行為を拒み、彼を狂気に駆り立ててしまったのだ。
「お願いだ、ジェイ・ゼル。もう一度、やり直させてくれ」

 五年前に戻って。
 もう一度、一歩を踏み出そう。

 想いを、ジェイ・ゼルが受け止めてくれている。
 驚きが、優しい微笑みになった。
「ハルシャ」
 見つめてくれる、灰色の瞳の向こうに、深く透明な緑の眼を思い描く。
 自分を愛していると、言葉でなく語り掛ける、この上なく美しい彼の瞳の色を――
 彼の、本当の姿を見たかった。
 ジェイ・ゼルの全てを、受け止めたかった。
 彼の魂に、寄り添いたかった。

「愛してくれ、ジェイ・ゼル。ここで、この部屋で――あなたの、本当の心を教えてくれ」
 怯むことなく、瞳を見つめたままで、ハルシャは想いを伝える。
「あなたの全てを、私は、受け入れる」

 真っ直ぐなハルシャの言葉に、ジェイ・ゼルが切ないほどの笑みを浮かべた。
 瞳の深さに捉われ、見つめるままに、彼の顔が近づき、優しく唇が再び覆われていた。
「ハルシャ」
 囁くように、ジェイ・ゼルが唇に呟いた。
「愛し合いたい――今すぐに」








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