瞬間、ジェイ・ゼルの表情が、消えた。
傷つけたかもしれない。
それでも、伝えたい思いがあった。
「あなたと身を合わせている時、見たことのない地平へ、連れて行ってもらっているような気がした」
初めての快楽を得たとき、遙かな高みを漂うようだった。その時の感覚が蘇る。
「何の手管も私に使わずに、ジェイ・ゼルは、ただその身だけで、私に接してくれた」
媚薬を使おうとしたギランジュを、激しい言葉でジェイ・ゼルは、止めた。
自身が辛い思いをした媚薬を、ハルシャには使うまいと、彼は思い遣りを巡らせてくれたのだ。
ただ。
快楽を得させるためなら、一番手早い方法だったろうに。
彼の優しさに気付かないほど、自分は無知で愚かだった。
「ジェイ・ゼルは嫌いかもしれないが、緑に変わるあなたの瞳は、本当にきれいだ」
思い出して、涙をこぼしながら、ハルシャは微笑みを浮かべた。
「永遠に見つめていたいと思うほどに、とてもきれいな色なんだ、ジェイ・ゼル」
わずかに、ジェイ・ゼルは眉を寄せた。
言葉を切ると、ハルシャはごしごしと、手の甲で、涙を拭った。
腕に抱える、ファルアス・ヴィンドースの詩の額へ、束の間、視線を落とす。
「あなたの、心にずっと気付けなくて、申し訳なかった」
優しさに包まれていることすら解らずに、五年間彼に甘えていた。
苦しめ続けたのだろう。
愛撫に反応をせず、心で拒み続けることで。
それでも、彼は自分を見捨てなかった。
今。
契約が終了すると同時に、関係を切られるのも仕方のないことだ。
彼は、自分に倫理に反することをさせていると、理解していた。
自分を抱きながら、酷い行為を強いていると、罪の意識を抱き続けていたのかも、しれない。
だから、言ったのだ。
煉獄へは、自分一人で行くと。
ハルシャに罪を、背負わせまいとして。
彼の内面の懊悩すら知らずに、自分は彼に反抗し続けていた。
もう。
彼を、自分から自由にしてあげるべきだ。
守られていた心地良さから、歩み出すべきだ。
これ以上、彼を苦しめては、いけない。
顔を上げる。
「ジェイ・ゼルが安心できるように、きちんと幸せになる」
約束するように言ってから、笑みを浮かべる。
「ありがとう。言葉に出来ないほど、感謝している」
笑うんだ。
自分に命じる。
ジェイ・ゼルが最後に見た自分の顔が、笑顔であるように。
きちんと、笑っていよう。
五年間かけて手に入れた笑顔だと、彼は宝物のように、言ってくれていた。
だから。
笑っていよう。
ずっと、笑顔を、憶えてもらえるように。
「あなたの想いに相応しくない私を、大事にしてくれて、ありがとう」
ぎゅっと、詩を抱きしめる。
灰色の瞳を見つめる。
その向こうに、緑に変じた彼の顔を思い描く。
幸福が湧き上がってくる。
「出会えて、嬉しかった」
もう、行かなくてはならない。
解っている。
ネルソンはきっと、駐車場で待ってくれている。
会うだけだと、そういう、約束だった。
もう、十分過ぎるほど、ジェイ・ゼルは自分のために時間を使ってくれている。
別れの言葉を切り出す前に、ハルシャは、震える唇で、思いを告げる。
「あなたは、素晴らしい人だ」
彼が手を尽くして守ってくれた大切な祖先の想いを抱きしめながら、ハルシャは、言葉を続けた。
「私はジェイ・ゼルを、誇りに思う」
もっと、伝えたい言葉があった。
けれど、口に出せばまた、泣き叫んでしまいそうになる。
どうして、二度と逢ってはならないのだと、みっともなく迫ってしまう。
滲んだ涙を見せまいと、ハルシャは慌ててジェイ・ゼルから、顔を背けた。
「会ってくれて、ありがとう」
床を踏む、きれいな彼の足の形を見ながら、呟く。
「ジェイ・ゼルの幸せを、祈っている。ずっと」
振り切るように、背を向けた。
「前に一度見たから、玄関からの帰り方は解る。だから、大丈夫だ」
言い訳のように呟いてから、ハルシャは足を進めた。
せっかく別れようと思っているのに、側に居ると、彼にすがってしまいそうになる。
足早に玄関へ向かう。
ジェイ・ゼルはその場から、動かなかった。
それで良かった。
たどり着いた玄関は、五年前にみたのと何一つ変わっていない。
玄関は転移装置になっている。
扉はついているが、実際に使われたことはないようだ。
玄関の壁にある装置の前に立つ。
駐車場と書かれた文字に触れるだけで、上階へ戻れる。
手を伸ばして、触れようとした指先が、震える。
顔を向けて、ジェイ・ゼルを見たら、きっと、駆け戻ってしまう。
だから、文字を見つめたまま、ハルシャは言葉を口にした。
「あなたを忘れない。ありがとう、ジェイ・ゼル」
唇を噛み締めて、文字に触れる。
光があふれる。
身が浮き、自分は駐車スペースに立っていた。
終わったのだ。
もう、ここに来ることは、二度とないのだ。
泣くな。
命じながらも、涙が頬をこぼれ落ちる。
ジェイ・ゼルは。
最後に見た自分の笑顔を、憶えていてくれるだろうか。
額をぎゅっと抱きしめて、ハルシャは足を前に出した。
別れたときと同じ場所に、ネルソンの乗る黒い飛行車が停まっていた。
そこまでの間に、涙が止まればいいと思いながらも、何度拭っても、頬を滑り落ちる。
ゆっくりと、飛行車にたどり着く。
黒く磨き抜かれた飛行車の表面に、自分の姿が映っていた。みっともないほど、泣いている。
ネルソンにはすぐに気付かれるだろう。
でも。
仕方がない。
もう一度ごしごしと顔を拭ってから、飛行車の扉を開く。
「お待たせして、申し訳ない、ネルソン」
大きく開いた扉から乗り込もうとした時――
背後から足音が聞こえたと思った瞬間、腕が引かれて、強い力で、抱き締められていた。
嵐に、さらわれたようだった。
驚きに目を見開いた視界を、黒く柔らかな生地が、覆う。
馴染んだ、爽やかな香りが、鼻孔をくすぐった。
腕に包まれ、髪に頬が押し当てられる。
「――ハルシャ」
魂から絞り出すように、自分の名が呼ばれた。
信じられない思いが、胸を揺さぶり、涙となって、溢れだした。
腕を回して、温もりを抱きしめ返す。
「ジェイ・ゼル!」
叫んでいた。
堪え続けてた涙が、とめどなく流れ落ちた。
「ジェイ・ゼル……ジェイ・ゼル……」
呼んだ名の、最後は嗚咽になっていた。
彼は、追いかけて来てくれたのだ。
あれほど、帰れと言っていたのに。
引き留めようと、走ってきてくれたのだ。
服を掴んで泣きじゃくるハルシャの背に、優しくジェイ・ゼルの手が滑る。
「このまま行かせるのが、正しいことだと解っていた。なのに――」
言葉が髪に触れる。
「許してくれハルシャ。私は愚かな選択をしている。君を不幸にしてしまうのに――」
服を掴むと、ハルシャは叫んでいた。
「不幸は、ジェイ・ゼルと一緒に居られないことだ!」
後は言葉にならずに、嗚咽になった。
なだめる様に、ジェイ・ゼルの手が背中を滑る。
「すまない、ネルソン。一旦、戻っていてくれるか」
ハルシャが開いた扉に向けて、ジェイ・ゼルが運転席のネルソンに、言葉をかけている。
「また、呼び出すと思う。それまで、自由にしていてくれ」
解りました、ジェイ・ゼル様と、柔らかい言葉が返る。
すまないね、と、呟いてジェイ・ゼルが、飛行車の扉を閉じる。
飛行車が発車する時の、風圧の影響のない位置まで、身が寄せられる。
ふわっと、空気が動き飛行車が飛び立つ気配がする。
ハルシャは身を震わせながら、ジェイ・ゼルの服に顔を押し当てて、声を放って泣いていた。
風圧が消えたあとも、身をジェイ・ゼルに預けたまま、内から湧き上がる感情に翻弄されるように、涙をこぼす。
「ハルシャ」
頬に、ジェイ・ゼルの唇が降りてくる。
涙を拭うように、優しく頬に唇が、触れる。
軽く数度触れ合ってから、離した唇で彼が名を呼ぶ。
「――ハルシャ」
泣きじゃくりながら、ハルシャは言葉を絞っていた。
「独りにしないでくれ、ジェイ・ゼル」
ジェイ・ゼルの腕に力が籠った。
「側に居させてくれ」
唇が、髪に滑る。
「君に、罪を重ねさせたくはなかった。自由にして、あげたかった」
まだ、悔いるように、彼が呟く。
「お願いだ、ジェイ・ゼル。独りにしないでくれ」
幼い子どものように、ハルシャは言葉を繰り返す。
「罪なら、一緒に背負う。煉獄へも、ジェイ・ゼルと行く」
しゃくりあげながら、内側の想いを集める。
震える声で、必死に、思いを伝える。
「――愛しているんだ、ジェイ・ゼル」
わずかに身を強張らせた後、ゆっくりと腕の力が緩んだ。静かにジェイ・ゼルが身を屈めて、ハルシャの瞳を覗き込んだ。
涙に濡れる瞳で、ハルシャは彼を見返す。
さっきの言葉が、聞き間違いでないかと、確かめるような眼差しに、ハルシャは同じことを、告げた。
「愛している。ジェイ・ゼル」
ジェイ・ゼルの瞳が、揺れた。
唇を震わせてから、彼は静かに微笑んだ。
「ハルシャ」
深い場所に痛みを得たように、眉を寄せながら、優しい声でジェイ・ゼルが呟いた。
「私もだよ」
長く見つめ合った後、顔が近づき、静かに唇が覆われた。
交わした唇は、塩辛い味がした。
流した涙の味だった。
涙は――人類が生まれた頃の、太古の海の成分に似ていると、言われている。
ジェイ・ゼルの中に、原始の海が宿っているようだ。
はるかな
永遠だ、と。
ハルシャは思った。