ほしのくさり

第162話  最後に伝えたいこと-01





 肌を触れ合わせると、相手の真実の声が聞こえる。
 それは。
 ジェイ・ゼルが、教えてくれたことだ。
 人は言葉で嘘をつけても、合わせた身体では、欺けないと。
 なら。
 確かに伝わるこの想いが、ジェイ・ゼルの真実なのだろう。
 なのに。

 もう二度と、逢ってはいけない、と。

 離れがたく――
 固く抱き締めながら、ジェイ・ゼルが別れの言葉を呟いている。


 別れる辛さに、魂が慟哭しているのに。
 それでも、手を離そうとしている。
 もう二度と、逢わないと、彼は言い聞かせるように、幾度も呟く。
 過酷な過去を、教えてくれたのも、ハルシャを諦めさせるためなのだと、ぼんやりと感じ取る。
 一緒に生きられない理由を、彼は懸命に告げているのだ。
 全ての言葉は、ハルシャが幸せになって欲しいという、祈るような気持ちから出ているのだろう。
 自分のために、ジェイ・ゼルは、辛い決断をしようとしている。
 ふと。
 メリーウェザ先生の話してくれた言葉が、耳元によぎった。
 彼女の叔父は、禁忌の想いに気付いた後、二度と姪に会おうとしなかった。
 一度も顔を合わせないままに、彼はたった一人、宇宙で命を散らした。
 それが、キルドン・ランジャイルの愛し方だった。
 生きている間に、秘めた想いを伝えることなく、肌身離さず持ち続けた手紙だけを、愛した人に残して。
 彼が命を失った宇宙を、今もミア・メリーウェザは、見上げ続けている。
 もう二度と。
 言葉を交わすことが出来ない人を、ずっと、胸の中に想いながら。


 ハルシャは、ぎゅっと、ジェイ・ゼルの服を握りしめた。
「もう二度と、逢わないことが」
 涙を止められないままに、ハルシャは問いを口にした。
「私の幸せなのか? ジェイ・ゼル」

 短い沈黙の後、ごくりと喉を動かしてから、ジェイ・ゼルが応えた。
「そうだよ、ハルシャ」
 優しい声だった。

 言葉が途切れる。
 ハルシャは、柔らかいジェイ・ゼルの服を、強く掴んだ。

「二度と、私に逢わないことが――」
 魂から絞り出すように、再び、彼に問いかける。
「ジェイ・ゼルの、幸せなのか?」

 答えは、返ってこなかった。
 長い静寂の後、ジェイ・ゼルはただ、腕の力を強めた。
 口に出来ない言葉の、代わりのように。

「私と逢わないことで、あなたが、幸せになるのなら」
 涙が、こぼれ落ちる。
 服を濡らしながら、ハルシャは言葉を続ける。
「ジェイ・ゼルが言う通り、ここを去って、もう、二度と逢わないようにする」

 ハルシャの言葉に、ジェイ・ゼルはただ、沈黙していた。

「でも」
 ぎゅっと、温もりを抱きしめながら、ハルシャは想いをぶつけるように言葉を滴らせた。
「違うのなら」
 言葉と一緒に、涙がこぼれ落ちる。
「私は――ジェイ・ゼルの傍にいる」


 かつて、同じようなことを問いかけたことがある。
 ギランジュが去った後の、部屋の中で。
 ジェイ・ゼルが自分を去らせようとしたときに。
 帰るのか、残るのか。
 どちらが本当にジェイ・ゼルの望むことなのかを尋ねたとき、彼は本心を教えてくれた。
 その時と同じように、彼の本当の心を、伝えて欲しかった。
「教えてくれ、ジェイ・ゼル」
 想いを込めて、問いを口にする。
「ジェイ・ゼルは、私と離れたら、幸せになれるのか」

 ジェイ・ゼルは、応えなかった。
 包む腕が、微かに震えている。
 長い静寂の後、彼が口にしたのは、答えとは全く違うことだった。
「以前に、私の様子がおかしいと、気付いた時があっただろう。心配をして、ハルシャが自分から動いてくれた時だよ」
 触れた場所から、彼の声が響く。
 昔語りをする口調で、彼は静かに言葉を呟いていた。
 サーシャと食事に招いてくれた次の日、会った時のことを、ジェイ・ゼルは言っているのだ。
 そうだ。あの時、彼は常になく疲労をしているような気がした。
 愛し合ったときの記憶が蘇る。
 もう。
 随分遠い昔のように思えて、胸が痛んだ。

 淡々と、ジェイ・ゼルの言葉が続く。
「君には見抜かれてしまったね。実はあの時、借金の回収に向かった先で、幼い子どもを抱えた母親が、自ら命を絶とうとした。
 私たちの借金の取り立ての厳しさに、追い詰められ――部屋の窓から身を投げた。幼い子どもを腕に抱えたままでね」
 ぽつり、ぽつりと、静かな声で彼は辛い現実を、告げる。
「幸い、二人とも命を取り留めたが、生き残ったことを母親は悔いていた。
 借金の上に、医療費が加算され、全ては彼らが背負わなくてはならない。この世の地獄だと、怨嗟の声を、絞っていた」
 短い沈黙の後、彼は、何の感情もこもらない声で、呟いた。
「借金で縛り上げ、相手を不幸に陥れる……それが、私の仕事なんだよ。ハルシャ。君もよく知っているだろう。
 その苦しみは」


 とくん、とくんと。
 ジェイ・ゼルの鼓動が押し当てた場所から響いている。
 きつくない仕事などないよ、と、微笑みながら、かつて答えてくれた。
 幼い命とその母親を、死の淵まで追い詰めたことに、誰よりも傷つきながら、彼はそれを、仕事だと言い切る。
 だから。
 側に居るなと、彼は伝えようとしている。


「帰りなさい、ハルシャ」
 長い静寂の後、彼は、最後通告のように、呟いた。
「私たちの生きる世界は違う。もう二度と、触れ合ってはならないんだよ」


 ハルシャは、ぐっと、指に力を込めた。
「ジェイ・ゼルは、私の質問に答えてくれていない」
 最後まで食い下がる。
 涙が、止められない。
「私と離れることが、ジェイ・ゼルの幸せなのか? 教えてくれ。お願いだ」
 自分のために、内側の醜いものを全て見せてくれている。
 そこまでして――ジェイ・ゼルは別れを納得させようとしている。
 解っていた。
 けれど。
 どうしても、彼の口から、聞きたかった。
「二度と逢わないことで、ジェイ・ゼルが幸せになるのなら、言う通りにする」

 彼の口から直接聞かなければ、どうしても、得心出来なかった。
 それで、幸せになるのだと。
 嘘でもいいから、聞かせてほしかった。

 震えるハルシャの身体を腕に包んだまま、ジェイ・ゼルの唇が、優しく髪に触れた。
「君が幸せになることが、私の幸せだよ。ハルシャ」
 温かな息と共に、言葉が呟かれる。
「聞き分けておくれ」


 呟かれた言葉から、ジェイ・ゼルの想いが、こぼれ落ちていく。
 身に浴びながら、ハルシャは彼の優しさを、ただ、受け取った。

 ああ。そうか。
 もう、ここまで言っても、ジェイ・ゼルの気持ちは変わらないのだ。
 再び訪れた静寂の中で、ハルシャは彼の立てる音に耳を澄ます。
 呼吸と、鼓動と。
 ジェイ・ゼルが生きている音がする。
 彼は――
 性の道具として生み出され、わずか七歳で、物としての人生を強いられた。
 きっと、口には出せないような、非道な扱いを受けてきたのだろう。
 自由となった後も、自分の出自を隠し続け、人間になろうと、果てしない努力を重ね続けた。
 心と身体に傷を受けながら、彼はここまで、生きてきたのだ。
 彼は、笑う。
 瞳の奥の孤独を、誰にも悟られないように。
 過酷な過去を、微塵も相手に気取らせないように。
 全てを、優しい笑いで覆いつくす。

 彼は自分のことを、物、だと、言った。
 温もりがあるのに。
 脈打つ熱い鼓動があるのに。
 誰よりも優しく繊細な心を、内に秘めているのに。
 全てを否定するように、自分自身を切り捨てた。

 ハルシャは、耳をジェイ・ゼルに押し当てる。
 彼の命の音を聞く。
 とくん、とくんと、響きが耳に届いてきた。
 ジェイ・ゼルを生かしている、愛しい音に、しばらく耳を傾ける。
 逢わないことで、幸せになるとは、彼は口にしようとしなかった。
 それでも、別離を切り出している。
 自分のために、ジェイ・ゼルは、辛い決断を下したのだ。
 それが彼の、精一杯の優しさなのだ。
 なら。
 もう、これ以上言い募っても、ジェイ・ゼルを苦しめるだけなのだろう。
 言葉に従うことが、彼の思いに応える、最後の感謝の示し方なのかもしれない。
 切なさに新たにこみ上げてくる涙を、ハルシャは飲み込んだ。

「解った。ジェイ・ゼル――あなたの言葉に従う」
 不意に、彼の鼓動が早くなった。
 早鐘を打つ、心臓の音。
 決して、その音を忘れないように、記憶の中に、刻み込む。
「ここを出て、もう二度と、あなたに逢わない」

 柔らかな静寂の中に、ジェイ・ゼルの声が響いた。
「いい子だ、ハルシャ」
 幾度も、幾度も。
 耳にしてきたその言葉。
 きっと、これが最後になるのだろう。
 ぎゅっと、ジェイ・ゼルの胴を抱きしめてから、ハルシャは呟いた。
「我儘を言って、すまなかった。逢ってくれて、ありがとう、ジェイ・ゼル」

 震えるジェイ・ゼルの腕が、ハルシャから離れた。
 ゆっくりと、解放される。
 距離を取り見上げたジェイ・ゼルは、穏やかに微笑んでいた。
 記憶に、刻み付ける。
 何年後でも。
 何十年後でも――
 決して、忘れないように。
 微笑む彼の全てを、自分の中に鮮明に残す。
 涙に濡れたハルシャの頬に、優しく彼の指が触れる。
 長く優美な指が、塩辛い液体をそっと、頬から拭った。
 ハルシャは、視線をジェイ・ゼルから動かさなかった。
 彼はちょっと、口角を上げると静かに手を引いた。

 そのまま身を屈め、ハルシャが脱いだ服を床から丁寧に拾いあげ始めた。
 精一杯色気のあるようにと、床に落とした記憶に、ハルシャは不意に顔が赤くなる。
 ジェイ・ゼルは服を整えると、言葉もなく、ハルシャの前に差し出してくれた。
 羞恥に頬を染めながら、脱いだ服を、彼の手から受け取る。
 様子に目を止めてから、彼はすっと、動いた。
 ゆったりとした歩調で部屋を横切っていく。
 ハルシャは、手渡された服を、顔を真っ赤にしたまま、手早く身に着けた。
 脱ぐ時よりも、着る時の方が、数十倍も恥ずかしいのだと、初めて知った。
 もう。
 こんなことは、自分の人生の中で起こらないだろうと、心に呟く。
 誘惑するように、相手の前で服を脱ぐなど。
 ジェイ・ゼルの前だから、出来たことだった。
 渾身の勇気を、自分は振り絞った。
 全てをさらけ出して、彼を求めた。
 けれど。
 自分のどんな懇願よりも、彼の意思は強かった。
 もう、引くしかないのだろう。
 これ以上言い張っても、ジェイ・ゼルを困らせるだけだ。
 考え抜いて、彼が自分のために下してくれた決断なのだから。
 受け入れようと、覚悟を決める。
 彼に命じられたことに、従うのではない。
 自分自身が納得した上で、選び取ったことだ。
 悔いてはならないと、服を着ながら、思う。

 ハルシャが服を着終える頃に、ジェイ・ゼルが静かに戻って来た。
 彼は、布で出来た手提げ袋を、持ってきていた。
 ソファーの上にハルシャが置いた、ファルアス・ヴィンドースの詩の額を片手で取り上げると、丁寧な手つきで袋に収めてくれている。
 見ていることに気付いたのだろう、彼が視線をハルシャへ向けた。

「偉大な祖先の詩を、サーシャにも、教えてあげてくれないか」
 微笑みを含んだまま、彼は優しい声で言う。
「きっと、喜ぶだろう」

 差し出された袋を受け取り、着せかけてくれていた、長い上着をジェイ・ゼルに戻す。
 無言で、物だけが互いの間を行き来する。
 受け取ったら、この部屋を出なくてはならないと、ハルシャは理解していた。
 袋越しに、ファルアス・ヴィンドースの額の形を、手の平に感じる。
 服から手が離れ、二人の距離が開く。

 何かを言わなくてはならない。
 五年間の二人の時間を集約するような、心に残る言葉を。
 もう。
 これで、最後なのだから。

 思いながらも、言葉が出ない。
 帰りなさいと、ジェイ・ゼルにもう一度言われる前に、想いを伝えておきたい。
 濁流のように、思いを巡らせながらも、喉が詰まって、何も言えない。
 袋に入った額を、身に引き寄せて抱きしめる。
 視線を落として、新しい涙が滲みそうになるのを、必死に堪える。

「ジェイ・ゼルは」
 言葉が、不意に、口から滑り落ちた。
「『俺』と自分を呼ぶことを、本当は嫌悪していたことに、気付いてくれた」

 想いを掻き立てながら、顔を上げる。
 ジェイ・ゼルの灰色の瞳が、自分を見ていた。
 上着を手に持ち、腕を固く組んで、小首を傾げるようにして、言葉に注意を払ってくれている。

「ずっと、どうしてなのかと、思っていた」
 まとまりのない、行き当たりばったりの、言葉しか出ない。
 それでも、懸命に想いを伝えようと、話し続ける。
「どうして、気付いてくれたのだろうと」
 長く黒い睫毛に縁どられた、灰色の瞳を見つめる。
「やっと、解った。自分自身で居られない苦しさを、ジェイ・ゼルは、誰よりも知っていた。だから、私が苦しんでいることを見逃さなかった。
 そして、言ってくれたんだ。
 本当の自分自身で居て、良いのだと。
 どんな私でも受け入れてくれる、決して軽蔑しないと言ってくれたから――ジェイ・ゼルの前では、ありのままの自分でいることが、出来た」
 一瞬、言葉を切ると、唇を噛み締める。
「でも」
 歯の間から、絞り出すように、言葉を呟く。
「ジェイ・ゼルは、ありのままの姿でいることを、自分自身に、禁じてきたんだな。ずっと、ずっと――」
 抑えようとした涙が、どうしようもなく、溢れだした。
「独りで、苦しんできたんだな」

 ジェイ・ゼルの眼が、微かに見開かれた。
 瞳の奥の孤独な影を、彼はいつも他人には隠していた。
 帝国法で禁じられている人工生命体であることを、誰にも悟られないように、彼は人間として、生きようとしていた。

「そのジェイ・ゼルが」
 涙が喉に詰まる。
 啜りあげてから、ハルシャは言葉を、何とか続けた。
「私には、ありのままの姿で、接してくれようとしていたのに――あまりにも、生きてきた常識と異なっていたために、私は、あなたの想いが、理解出来なかった。恥辱に満ちた行為を、ただ、強いられていると思っていた」
 ぽろぽろと、涙が頬を滑り落ちる。
「解らなかったんだ、ジェイ・ゼル。
 身を繋げることが、あなたの知る、たった一つ相手を幸せにする方法だったのだと。ずっと、五年間、解らずに、心で拒み続けた。
 必死に生きてきた、ジェイ・ゼルの人生の全てを、否定してしまった」

 快楽を与えることが、ジェイ・ゼルの存在の全てだったのに。
 自分は意趣返しのように、彼の心を踏みにじり、存在を否定し続けた。
 何を自分がしてしまったのか、今、はっきりと悟る。

「罪深いのは、私だ。
 許してくれ。私はあまりにも幼く、世間知らずだった」

 五年間。
 彼が与えてくれたものを、この身体は確かに受け取っていたというのに。
 誰が愛してくれていたのか。
 誰が慈しんでくれていたのか。
 他の者を拒んでしまうほどに、彼の身からの快楽を、刻み込まれているというのに。
 素直になることが出来ずに、自分自身の反応すら、拒否した。

「人間のまがい物などと、言わないでくれ。お願いだ、ジェイ・ゼル」

 伝えたい思いを、上手く言葉に出来ない。
 言い損ない、余計彼を傷つけてしまうかもしれない。
 それでも、伝えずにはいられなかった。

「まがい物ではない。あなたは――本物の『愛玩人形ラヴリー・ドール』だ」







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