ほしのくさり

第161話  物としての、生





 リュウジはサーシャに、急にハルシャが姿を消した理由を、レストランの椅子に座りながら、説明をしていた。

 先ほど、ハルシャが辞めた工場から呼び出しがあり、急遽行くことになったのだと。
 業務が滞りなく進むように、仕事には「引継ぎ」という作業があり、ハルシャがこれまで手掛けていた部品のことで、元・雇い主のジェイ・ゼルと話をしに行ったのだと、丁寧に言葉を尽くす。

 仕事の用事という一言で、サーシャは全てに納得を付けたようだ。
 運ばれてきたオムライスを美味しそうに頬張りながら、食事の合間に話しかけてくる。
「お家はお片づけをしたら終わりだけど、お仕事は大変なんだね」
 大人びた口調に、リュウジは小さく笑みを浮かべる。
「そうですね。ハルシャが辞めても、ガルガー工場長たちの業務は続きますから」
 サーシャはぱちりと、瞬きを一つした。
「お兄ちゃんは、お仕事は大変そうだったけど、一度も嫌だと言ったことはなかったよ」
 青いきれいな瞳が、リュウジに向けられた。
「宇宙を飛ぶ船の、駆動機関部を作っていると、サーシャに教えてくれたの」
 ふっと、リュウジは胸を突かれた。
 ハルシャはどんなに辛くても、妹に苦労をこぼすことはなかったに違いない。
 過酷な日々の中で、ハルシャが宇宙に繋がることが出来たのは、ただ、職場で作る駆動機関部だけだった。
 だから。
 彼は、とても大切に妹に、自分の仕事のことを話したのだろう。
「そうですね」
 リュウジは頭を揺らして、彼女の言葉を肯定した。
「ハルシャは、素晴らしい技量をもつ職人です」
 褒め言葉に、サーシャが頬を赤らめて嬉しそうに笑う。
 兄のことが、誇らしくて仕方ないという、顔だ。
 サーシャの無邪気な笑みを見つめながら、こみ上げてくる感情を飲み込み、飲み込み、リュウジは言葉を続けた。
「だからこそ、彼の才能を使い潰されるような職場で、これ以上働くことが、許容できないのです」

 常とは違う、激しい感情が込められた言葉に、サーシャが笑みを消した。
 かすかに首を傾げて、自分を見る。
「――怒っているの? リュウジ」
 サーシャは、鋭い。
 慌てて笑顔を張りつかせて、リュウジは首を振った。
「いいえ。サーシャ。怒ってなどいませんよ」
「でも、恐い顔をしているよ」
 素直な少女の言葉に、平静を呼び戻そうと努力しつつ、リュウジは笑みを深める。
「だとしたら、くたびれているのかもしれません。昨日はあまり、寝ていませんから」
「そうなの?」
「はい。眠りが浅くて……サーシャたちが側にいないことが、少し寂しかったのかもしれません」
 十一歳の少女に、本音を吐露してしまう。
 みるみるサーシャの眉が寄せられた。
「寂しかったの?」
「そうですね。サーシャたちは、僕の家族ですから」
 なんの飾りもない心そのままの言葉が、口からあふれる。
 ますます眉を寄せて、サーシャが呟いた。
「リュウジのいないお部屋も、寂しかったよ。静かだね、って、お兄ちゃんと話していたの」
 自分のいないところで、話題にしてくれていたことが、妙に嬉しくて、リュウジは口元をほころばせた。
「こちらが勝手を言って、ご一緒しなかったのですから、仕方のないことですね」
 にこにこと笑うリュウジに、じっとサーシャが真っ直ぐな目を向けてくる。
「リュウジは」
 一瞬言いかけてから、しばらくためらい、やっと彼女は続きの言葉を口にした。
「お兄ちゃんとサーシャが、帝星に一緒に行ったら、嬉しい?」
 純朴な問いかけに、張り付かせていた笑みが、消えていく。

 自分は――
 ハルシャを、ジェイ・ゼルから引き離すことばかりを、必死に考え続けていた。
 距離が空けば、心も離れる。
 そう、思おうとしていた。
 けれど、自分が入り込めない時間を、ジェイ・ゼルとハルシャは持っていた。
 無理に引き剥がせば、ハルシャの心が壊れてしまう。
 だから。
 譲るしかなかった。
 彼の涙に抗う方法など、自分は何一つ持っていなかったのだと、今更ながら、気付かされる。
 あそこまで、ハルシャを追いつめたのは、自分だ。
 彼が、悲しみに涙を流すぐらいなら、心臓を生きながら抉り出される方が、ましだった。

 短い沈黙の後、リュウジはサーシャの問いに答えを呟く。
「僕は、ハルシャとサーシャと、一緒に居られれば、それでいいのです」
 自分でも思いがけないほど真剣な声で、少女に返していた。
「ハルシャたちが、惑星トルディアに残りたいのなら、僕もここで暮らす覚悟は出来ています」
 サーシャが驚いたように、目を見開く。
「ど、どうして? リュウジは帝星が故郷なのでしょう?」
 動揺を隠せない言葉に、リュウジは静かに微笑んだ。
「故郷とは、帰るべき場所のことです」
 なぜか、胸の奥に温かなものを感じながら、リュウジは呟いていた。
「生まれ育った土地ではなく――大切な人たちが待ってくれる場所のことを、故郷と呼ぶのですよ、サーシャ」
 人類が生まれ落ちた美しい惑星、母星とも呼ばれるガイアによく似た、サーシャの青い瞳に向けて、リュウジは言葉を続ける。
「僕の故郷は、サーシャとハルシャがいる場所です」

 瞬間、無意識に込めてしまった自分の孤独と渇望が、サーシャに伝わってしまったことに、気付く。
 彼女は敏感に、リュウジの心を読み取っていた。
 静かな顔が、自分を見つめていた。

 広い宇宙の中で――
 両親を不当な運命の手によって奪われた子どもたちが、偶然巡り合った。
 口に出せない孤独を抱えながら、日々を生きざるを得ない、三人が。
 内側に秘めた寂しさを嗅ぎ取り、失われたものを埋め合おうと、無心に手を伸ばし合った。
 そうして。
 すえた臭いの漂う、オキュラ地域の片隅で、肩を寄せ合って生きていこうとした。覚束ない足取りながら、家族になろうと、歩み寄った。
 その奇跡を、どれだけ自分が愛しんでいるのかを、サーシャは柔らかい心に受け止めてくれている。

 無言で見つめてから、にこっと、サーシャが笑う。
「その中に、アルフォンソ二世も入れてあげて」
 サーシャの横で、一人前に椅子を占めて座るぬいぐるみ生物に、一瞬彼女は視線を向けた。
「リュウジが頑張って、サーシャのために手に入れてくれて、本当に嬉しかった」
 再び青い瞳が、リュウジへ向けられた。
「リュウジは、サーシャの、もう一人のお兄ちゃんだよ」
 優しい声が、薄桃色の唇から響く。
「一人にはしないよ、リュウジ。ずっと、一緒に暮らそうね」
 孤独を無意識に癒そうとするように、微笑みながら彼女は続ける。
「サーシャは、リュウジのことが、大好きだよ」

 どうして。
 無垢な言葉に、自分は心を震わせているのだろう。
 これまで手にして来たどんな高価な贈り物よりも、少女の無邪気な言葉が、何よりも嬉しかった。
 心が満たされるというのは、こういうのを、言うのだろう。
 何かを話せば、思いが溢れてきそうで、リュウジは黙り込んだ。
 温もりのある瞳が、自分を見つめている。
 口を開こうとしたとき、歯の中の通話装置が
竜司リュウジ様。吉野ヨシノです。ただいま、戻りました』
 と、吉野ヨシノの声を伝えた。

 ハルシャが、戻ってきた。

 瞬間悟り、リュウジはすぐに吉野ヨシノに答えを返せなかった。
 驚きよりも、喜びの方が先に立つ。
 ハルシャは、考えていたよりも、はるかに短い時間でジェイ・ゼルの元から、戻ってきてくれた。
 彼らを、出迎えなくてはならない。
 リュウジは、手を止めて自分を見守るサーシャへ、慌てて告げる。
「すいません、サーシャ。ハルシャたちが戻ったようです。少し席を外しますね」
 突然表情を変えたリュウジに対して、戸惑いながら、
「う、うん。解った」
 と、短い言葉でサーシャが返事をしている。
 それを耳半ばに聞きながら、もう、リュウジは立ち上がり、歩き出していた。
 サーシャの言葉と、ハルシャの早い帰還と、喜びが波のように心に打ち寄せる。
「今、まだ食事中だ。駐車場に着いたのか、吉野ヨシノ
 歩を進めながら、吉野に問い返す。
『はい、竜司リュウジ様』
「思ったよりも早かったな」
 つい、声が、弾んでしまう。
「これからそちらへ向かう。この時間なら、ハルシャは食事をしていないだろう。サーシャと一緒に、レストランで食事をとろう」
 サンドウィッチは後で、部屋で食べればいい。
 軽い足取りで進むリュウジの耳に、
『申し訳ありません、竜司リュウジ様』
 と、静かな吉野の声が響いた。
 危険信号が、ひらめいた。
 レストランを抜け、廊下へ出る。
 勢いを止めずに、歩を進めながらリュウジは問いを発した。
「どうした。何があった、吉野ヨシノ
 わずかな沈黙のあと、吉野がジェイ・ゼルは事務所に不在であり、終日自宅で休養していることを説明した。
 それで、と促すと、ジェイ・ゼルの自宅の場所を、他人に知られることをマシュー・フェルズは恐れ、彼のお抱え運転手がハルシャを自宅に運ぶと提案したことを告げる。
 先を読んで、リュウジは廊下の途中で足を止めた。
「ハルシャを……まさか、一人で行かせたのか、吉野ヨシノ

 口調が、詰問するように、思わず尖る。
 吉野は静かに応えた。
『はい、竜司リュウジ様』
 瞬間、目の前が暗くなる。
 ハルシャは、一人でジェイ・ゼルの元へ向かった。それを防ぐために吉野を付けていたはずだ。耳の奥で、鼓動が高く鳴る。
 鼓動を透かして、吉野の声が聞こえた。
『ハルシャ様を運ぶにあたり、私が立ち去ることを、マシュー・フェルズは条件として出してきました。よほど、ジェイ・ゼル氏は身体に危険を伴う日常を過ごしているようです。自宅の所在を知られることを、極端に嫌っていました。ハルシャ様がジェイ・ゼル氏に会うためには、引く必要があると判断し、単身戻って参りました』

 怒りを抑えるために、リュウジは両手をきつく握りしめた。
 吉野のことだ。
 最善の判断を下したのだと、信頼はしている。
 だが。
 ハルシャが一人でジェイ・ゼルの元へ行ったことが内側に、信じられないほどの衝撃を生んでいた。

『ハルシャ・ヴィンドース様は、必ず戻るとお約束くださいました』
 目の前が真っ赤に変じそうなリュウジの耳に、吉野の静かな声が、響き続ける。
竜司リュウジ様がハルシャ様に求められていたのは、ジェイ・ゼル氏と面会し、今後の方針を決めて頂くことかと、吉野は考えました。
 ハルシャ様と共に帰れと、竜司リュウジ様に、堅く申し付けられたことに、背く結果となり、大変申し訳ありません』

 真摯な詫びの言葉を耳にしても、リュウジはすぐに言葉を返せなかった。
 沈黙の後
「食事がまだだろう、吉野ヨシノ
 と、ようやく、リュウジは呟いた。
「サーシャも待っている。一緒に食事をとろう。レストランに来てくれないか」
 と、告げる。
 もしかしたら、かすかに声が震えていたかもしれない。
吉野ヨシノが最善と考えて動いたことは、解っている。大丈夫だ」
 自分に言い聞かせるように、リュウジは呟いた。
「夕方までには、きっとハルシャも戻るだろう。食事にしよう、吉野ヨシノ
 短い沈黙の後、吉野は静かに
『いますぐ、そちらへ参ります。どうか先にお戻りください』
 と呟いた。
「わかった。あまり遅いと、サーシャが不安がる。席に戻っておく」
 言いながら、リュウジは踵を返した。
 先ほどまで、あれほど軽やかだった足が、重い。
 ハルシャは、一人でジェイ・ゼルの元へ行った。
 彼は。
 帰ってくると約束をしてくれた。
 そのことだけを思いながら、リュウジはサーシャの待つレストランへと、歩き続けた。
 爪が食い込むほどきつく、両手を握り込みながら――



 *


 『愛玩人形ラヴリー・ドール

 初めて聞く言葉だった。
 せっかくジェイ・ゼルが告げてくれていることが、知識不足で意味が捉えきれない。ハルシャは、彼が話した言葉の意味を知ろうと、懸命に持てる記憶を探り続ける。

 人工的に遺伝子を操作し、人類型の生命体を作ることは、銀河帝国法で禁じられている。
 それは、あらゆる帝国民は、すべて幸福になる権利があるという、銀河帝国の理念に基づくものだった。
 生命が生命を不当に支配することは、忌々しき人権侵害とみなされている。
 そのため、奴隷制度も帝国法では厳罰をもって、禁止されていた。
 勝手に遺伝子を操作し、人工的に人類を作り上げることを許容すれば、簡易な奴隷を大量生産することにつながる。
 事態を恐れた第十代の銀河帝国皇帝は、人類型の人工生命体の作成を禁じる法律を発令した。
 そこまでが、ハルシャの知っている知識の範疇だった。

 恐らく、告げた言葉を理解しあぐねていることに気付いたのだろう、ジェイ・ゼルは、腕の温もりに包んだまま、言葉を滴らせた。

「惑星アマンダではね」
 静かな言葉だった。
「あらゆる性に関することが、産業として成り立っている。一度話したね。媚薬もそうだ」
 不意に。
 彼が、惑星アマンダのことを、爛れた醜い星だと言った言葉が、突然蘇った。
 そうだ。
 ギランジュが自分に、媚薬を塗ろうとした時だ。
 手酷く撥ねつけてから、彼は説明をしてくれた。
 その時の口調から、惑星アマンダに、何か思い出があるのかもしれないと、考えたことを思い出す。
 深く優しい声が、触れた場所から響くようだ。
「その中で、惑星アマンダの技術の粋を集めて、遺伝子から組み上げられた生命体のことを『愛玩人形ラヴリー・ドール』と言うんだよ。
 私の眼の色が、変化したのを見ただろう?」

 優しい問いが呟かれる。
 ジェイ・ゼルは、それに対するハルシャの答えを求めてはいなかったようだ。
 すぐに言葉が続けられた。

「快楽を得ると、目の色が変じる――通常の人類ではあり得ない変化をするように、遺伝子レベルで私は、作り上げられている。それが、極めて高額で取引される『愛玩人形ラヴリー・ドール』の特徴なんだよ」

 極めて高額で、取引される。

 さりげなく呟かれた言葉に、ハルシャは身が強張った。
 まるで、商品のように、自分のことをジェイ・ゼルは告げた。

「私たちには、親という存在はない」
 淀みなく、言葉が滴り続ける。
「目的のためだけに作り出された存在だからね」
 一瞬の沈黙の後、彼は言葉を続けた。
「物心ついた時から、教え込まれたのはただ、相手を快楽に導く方法だけ――養育係は、そのまま性技を仕込む教官でもあった。
 彼らを相手に、快楽に導く方法をこの身に叩き込まれた。
 どんな状況でも、快楽に反応するように、相手を悦ばすことが出来るように。
 高級な『愛玩人形』として、恥ずかしくない食事マナーや所作、知識を学びながらも、私は性技で奉仕する奴隷として、惑星アマンダで七歳まで、育てられた」
 背中に回された、ジェイ・ゼルの手が、微かに震えていた。
「七歳になったとき――私と双子の妹は、一緒に売りに出された。
 オークションが行われてね、匿名で王侯レベルの者たちが、参加していたらしい。その中で、熾烈な競りが行われて、私と妹は、ナダル・ダハットという男に競り落とされた」

 ハルシャの身の内が、震え出した。
 ジェイ・ゼルが――
 恐らく、堅く秘めて誰にも告げていない、過去を、自分に話してくれている。
 カタカタと震える身を、ぎゅっと、ジェイ・ゼルが強い力で抱きしめてくれる。

「私と妹は、彼の所有物となった」

 オークションで競り落とされるために、育てられてきた。
 その現実を、ジェイ・ゼルはどう受け止めてきたのだろう。
 両親という存在を持たず、性の技術だけを仕込まれながら。
 高級な『エリュシオン』の部屋の中で、懺悔のように呟いていた彼の言葉が耳に蘇る。
 彼は、身体を通じて快楽を交わすことしか、学んでこなかったと、告げていた。
 それは――生まれた時から、宿命として背負わされてきたものだったのだ。

「私たちは、物と同じ扱いだったからね。物は、所有者を選べない。高額で購入した人物に、主人として仕えるしか、私たちには、生きる道が残されていなかった」
 固く身を触れ合わせ、その温もりから勇気を汲み取るように、しばらく沈黙してから、ジェイ・ゼルは言葉を続けた。
「快楽で目の色を変じる『愛玩人形ラヴリー・ドール』は希少価値がある。持ち主たちは、自分たちの所有物が、どれだけ優れているかを、競い合って楽しむのが常だった。
 私と同じ『愛玩人形ラヴリー・ドール』たちが、会場に集められてね、媚薬を仕込まれて、長時間強制的に快楽を与え続けられる――
 いかに長く、いかに美しく瞳の色を変じられるのかを、競わせ、乱れるさまを人々から鑑賞される。
 何時間でも、何日でも、極限まで、快楽を貪り続けさせられた。
 終わりのない闇の中を、さ迷うようだったよ。
 それが……私の日常だった」
 淡々とした口調で、彼は呟く。
「私にとっては、緑に変じる瞳は、身にかけられた呪いそのものだった。所有者にとっては、この上なく貴重なものだったろうけれどね」

 身に浴びるジェイ・ゼルの言葉に、ただ、体が震え続ける。
 語られる過去の凄まじい質量に、圧倒される。
 けれど。
 言葉の一つ、一つが、心の中に、ことり、ことりと落ちていくのを、ハルシャは感じていた。
 ああ。
 そうか。
 そうだったのか。
 不思議に、納得をつけながら、彼の言葉に、必死に耳を傾ける。
 理解しきれなかったジェイ・ゼルのことが、今、少しずつ、解り始めてきた。

 どうして、あれほどまでに、彼が媚薬を忌避していたのか。
 なぜ、緑に瞳が変じているとハルシャが言葉をかけたとき、驚愕を顔にうかべたのか。

 それは、ジェイ・ゼルにとって、過去の忌まわしい記憶そのものだったのだ。
 疑念が、埋められていく。
 辛い真実を、語ってくれるジェイ・ゼルの勇気によって。
 ハルシャは、腕に力を込めて、彼を自分の身に強く引き寄せた。
 顔を、ジェイ・ゼルの服に押し付ける。
 爽やかな彼の香りを吸い込みながら、黒く柔らかなジェイ・ゼルの部屋着に、新しい涙が滲んでいくのが、止められなかった。

 側に居たかった。
 大人たちの無軌道な欲望に晒されていた、幼い頃のジェイ・ゼルの側に。
 彼の魂を、抱き締めていたかった。

 想いを込めて、自分の熱を、ジェイ・ゼルに与える。
 長い沈黙の後、ぽつりと、声が、滴った。

「おぞましい行為の中でも、私の身体は快楽を拾い続けた――相手に快楽を与え、自身も快楽に酔うように巧みに作り上げられた、惑星アマンダの申し子――それが、私の本質だからね」

 自嘲を含んだ声が、耳元に響く。
 ぎゅっと、回した腕で、ジェイ・ゼルを抱きしめ続ける。
 ふと、言葉を切ると、震えるハルシャの髪を、優しい手つきでジェイ・ゼルが撫でた。
 唇が、軽く髪に触れる。

「私たちをナダル・ダハットの支配から解放してくれたのは、『ダイモン』の頭領ケファル、イズル・ザヒル様だった」
 息の温もりが、髪に触れる。
「イズル・ザヒル様は、妹のエメラーダと一緒に、私をご自身の養子として戸籍を与え、人間となる道を与えて下さった。恩義は計り知れない」
 無意識のように、髪を撫でながら、ジェイ・ゼルが言葉を続ける。
「その時から、私は『愛玩人形』であった自身を封印し、人間として生きていこうと心に誓った」

 不意に、言葉が途切れた。

 とくんとくんと、押し付けた場所から、ジェイ・ゼルの鼓動が聞こえた。
 沈黙の中、彼の手が静かにハルシャの髪を撫で続ける。
 そうやって、次の言葉への勇気を蓄えるかのように。

「イズル・ザヒル様の膝元で、私は人間として生きる手法を身に着けていった。
 今まで――快楽を貪ることしか教えられてこなかったことを、その時、初めて私は悟った。
 心など、どこにもなかった。
 私にあったのは、ただ、快楽に鳴く身体だけだった。
 人との関わり方も、距離の取り方も、一から学ばなくてはならなかった。
 けれど。
 それは、素晴らしい時間だった。何より」
 頬が、柔らかく髪に押し当てられ、言葉が呟かれる。
「私は、自由だった」


 これで、ハルシャは自由だ。


 借金の返済を終えたとき、ひどく優しい声で、彼は言った。
 心の底から、彼は喜んでくれていた。
 それは――
 自分が自由であることの喜びを、誰よりも知っていたからなのだと、涙をこぼしながらハルシャは思う。

「イズル・ザヒル様は、私が人として生きようと努力することに、全面的な協力を与えて下さった。
 当時の幹部が管理していた惑星トルディアのラグレン支部を、私に託し、事業を経営しろと命じたのは、自立を支援して下さったからだ。
 深い恩義に報いるために、私はラグレンで事業を拡大し続けた。
 眉をひそめるような方法も、平気で取って来た――私は、そういう生き方を、選んで来たんだ、ハルシャ」

 慰撫するような手で、髪を梳く。

「君の父親に借金を申し出たのも、イズル・ザヒル様の指示だった」
 声に、ぎくっと、ハルシャの身が急に強張った。
「すまない、ハルシャ。五年前、君に父親の借金を告げたとき、私は虚偽の事実を伝えた」

 ハルシャの硬直を感じながらも、ジェイ・ゼルは言葉を続ける。

「ダルシャ・ヴィンドース氏は、確かに、宇宙船の製造を考えていたのは事実だ。
 だが、借金をしてまで為したかったのは、惑星トルディアの偽水を、飲用可能な水に変える事業だった。そのための投資資金を必要として、私が提示した金額を、喜んで借用したんだ。
 返却期限は一年。必ず返すと彼は言っていた」
 どくんと、ハルシャの中で、心臓が、強く鳴る。
「高邁な思想を持つ、大らかな人物だった」
 ぽつりと、呟いてから、彼は小さく首を振った。
「もし、半年後、あの不幸な事故が無ければ――恐らく、彼は志を遂げていただろう」
 心からの追悼を滴らせながら、ジェイ・ゼルが呟く。
 ハルシャは、涙の滲んだ眼を、大きく見開いた。
「彼が命を落とさなければ、私は君から借金を、取りたてる必要はなかった――永遠に、君と人生が触れ合うことはなかっただろう。
 だが、ダルシャ・ヴィンドース氏は、命を失い、契約に従って、私は君たち兄妹から、借金の全額を取り立てざるを得なかった。
 君たちを、不幸に突き落としたのは、私だ――」

 自分の中に、大きく鼓動が聞こえる。
 リュウジは、両親を爆死させたのは、ラグレン政府だと言っていた。
 それに関わったのは、ジェイ・ゼルだと。
 だが。
 今――
 ジェイ・ゼルは、借金のことを口にしても、両親の死については、不幸な事故と、言った。
 もしかしたら。
 彼は、知らないのか。
 リュウジが調べてくれた両親の死に関する真実に、ジェイ・ゼルは無関与だったのだろうか。
 ここまで真実を述べてくれている時に、彼が嘘を吐くとは思えなかった。
 掴んだわずかな希望に、心が、ほぐれていく。
 ジェイ・ゼルは、ただ、父に借金を申し込み、死亡した事実によって、契約に基づき、借金を回収していただけなのだ――
 奇妙な安堵が広がる。
 ジェイ・ゼルが借金を申し出た事実は変わらなくても、彼が関与していなかったということが、ひどく嬉しかった。

 身の力を解いたハルシャに、ジェイ・ゼルの声が静かに響く。
「これまで、人間であろうと、私は努力を続けて来た。だが」
 優しい言葉が、耳に滴る。
「所詮、私はまがい物なのだと、君に出逢って、思い知らされた」

 苦味のある言葉に、ハルシャはかすかに顔を浮かせた。
 髪を、優しいジェイ・ゼルの手が滑り続ける。
「君に――人として、正しく関わりたかった。
 けれど。
 私に出来たのは『愛玩人形』として育てられてきた、地金そのままの行為だった。
 君の心と倫理観を無視して、身を繋げることしか、出来なかった」

 傷を負い、血が滴る魂から、こぼれ落ちたような言葉だった。
「この部屋で、私は君を蹂躙した――抑えがきかなかった。
 どんなに学んでうわべを塗り固めても、とっさの時には、本性が出る。
 結局、私には人間としての振舞は出来ないのだろうな。
 私にとって正しいことは、ただ、快楽を貪ることなのだと、思い知った。
 君たちとは違う。
 私は――」
 瞬間、髪から手が離れ、ハルシャをきつく抱き締めた。
「惑星アマンダの、性の道具なんだ。
 人間ではない。
 物、なんだよ、ハルシャ」

 言葉が、熱く耳元に滴る。

「私に関わってはならない」
 明確に告げようと、努力しながらも、彼の声が震えている。
「これ以上君を傷つけたくない。
 私に近寄らないでくれ。
 もう、君を穢させないでくれ――お願いだ、ハルシャ」

 震える声と言葉と、体と。
 全てで、ジェイ・ゼルが伝えている。

「君を、私から守らせてくれ……頼む。もう、私に逢ってはいけない。ハルシャ。もう二度と」
 拒絶の言葉と裏腹に、包み込む手は優しかった。
「私たちは、逢ってはいけないんだ、ハルシャ」

 声が聞こえた。
 ジェイ・ゼルの内側から。
 触れ合う肌から。
 声が伝わってくる。
 ひたむきに、ハルシャは彼の心の声に、耳を傾けた。
 ギランジュの時に、救いを求めるハルシャの心を、彼が聞き取ってくれたように。
 声にならないその言葉を、ハルシャは確かに彼の中から受け取った。
 魂が慟哭している。
 あらゆる言葉を使って。
 ジェイ・ゼルが伝えている。
 たった一つの想いを――


 君を
 愛していると。







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