ほしのくさり

第160話  煉獄の炎-02





 突然、背中に冷や水を浴びせかけられたようだ。
 酷い言葉に、額を抱きしめたまま、ハルシャはジェイ・ゼルを見つめ続ける。

「どうしてだ、ジェイ・ゼル。どうして、逢ってくれないんだ。どうして!」
 感情を荒げて叫んだハルシャに、静かにジェイ・ゼルが首を振った。
「君と私は、住む世界が違う」
 穏やかな声で、ジェイ・ゼルが呟く。
「私の世界に来てはならない。君は――光の中を歩むことが出来る。ヴィンドース家の家長として、君は輝かしい人生をこれから進んで行ける。
 私と君の人生は、今後は、もう二度と触れ合うことはないだろう。だから」
 痛みをこらえるような笑みを浮かべると、ジェイ・ゼルが静かに言った。
「もう、私のことは忘れなさい」

 額を抱きしめたまま、ハルシャは、衝撃のあまり、思考が停止してしまった。
「忘れるなと……ジェイ・ゼルは言ったではないか。
 唇の温もりを忘れないでくれと――だから、今も、決して忘れていない」
 無意識に、ハルシャは呟いていた。
「なのに、どうして、そんなことを、言うんだ」

 ジェイ・ゼルの眉が寄せられた。
「君は借金を返済した。もう、君に関わる理由が、私にはない」
 理由?
 初めて聞く言葉のように、ハルシャは眉を寄せた。
「ジェイ・ゼルに逢いたい。それが理由だ。どうして、それではだめなんだ」
 彼の心が掴み切れない。
 衝撃から立ち直れないままに、必死にハルシャは言っていた。
 ジェイ・ゼルが微笑みを深めた。
「だめだよ、ハルシャ。もう、私は君を――穢したくない」

 穢す。
 驚きに見開いた目に、ジェイ・ゼルが静かな言葉を滴らせた。

「君は立派だった。両親の債務を恐れずに背負い、卑怯な逃げも打たずに、妹を守って誠実に生き続けた。
 そんな君を、私は借金を理由に、自分の毒に浸し続けた」

 だが。
 それが、ジェイ・ゼルの、唯一の愛情表現だったのだろう。
 そう。
 教えてくれたではないか。

 喉で、言葉が凍り付く。

「君には、何の罪もない」
 灰色の眼を細めて、ジェイ・ゼルが呟く。
「君は、私に支配され、身を開かされた――望まぬ性交を強いられ、無理やりに男に抱かれていただけだ」
 なぜ、こんなことを、突然ジェイ・ゼルは言うのだろう。
 目を瞠るハルシャに、優しい声でジェイ・ゼルが告げる。
「君は何一つ穢れていない。その額を所持するにふさわしい、偉大なヴィンドース家の家長だ。
 汚点をつけたのは、私だ」
 小さく、笑みが浮かぶ。
「全ての罪は、私のものだ。男に抱かれていた罪は、私が背負う」
 灰色の瞳が、真っ直ぐにハルシャを見つめた。
「煉獄へは、私一人で行く。君は炎に焼かれる必要はない――全ての罪は、私のものだ、ハルシャ。
 君は、罪を重ねる必要はない」

 衝撃が、再びハルシャの身を襲った。
 あの時。
 リュウジのことを問いただされた時――
 君も低俗だと、投げつけられたジェイ・ゼルの言葉に打ちのめされ、思わず本音をこぼしてしまった。
 男に抱かれるような者は、煉獄の中で、炎に焼かれるのだと――
 母親に植え付けられた倫理観に、ジェイ・ゼルに抱かれながら、蝕まれ続けていた。
 苦しかった。
 その想いを、吐露してしまった。
 それを……。
 ジェイ・ゼルは覚えてくれていたのだ。
 重ねる罪に身を捩るハルシャの苦しさを、彼は心に刻んでくれていたのだ。

 男に抱かれるのは、嫌か。

 尋ねられた言葉が、胸を突く。
 倫理に反することをさせていると、彼は自覚をしていたのだ。
 それでも、求めずにはいられなかったと、彼は懺悔のように呟いていた。
 借金があることが、ジェイ・ゼルにとっては、理由だったのだろう。
 その正当な理由がなくなった今、彼はハルシャに触れることすら、自分自身に禁じているようだった。
 部屋に入ってから、一度も身を触れ合わせてくれない。
 通話装置を外すときも、極力触れないようにしていた。


 ジェイ・ゼルは、自ら身を引いたのだと思うよ。
 君の本当の幸せを、考えてね。


 ぽつりと、こぼれたミア・メリーウェザ医師の言葉が、耳元で聞こえた。
 煉獄で焼かれる罪に怯えるハルシャのために、彼はもう、二度と逢わないと、言ってくれているのか。
 身の内側が震える。

「ジェイ・ゼルが、煉獄に行くのなら」
 勇気を、必死に呼び起こす。
 顔を上げて、ハルシャはジェイ・ゼルを真っ直ぐに見つめたまま、声を放った。
「私も、一緒に行く」

 はっと、ジェイ・ゼルの顔が動いた。
「炎に焼かれても悔いはない」
 彼の動揺を見つめながら、ハルシャは懸命に言葉を絞りだした。
「――ジェイ・ゼルは教えてくれた。
 肌を通じて、想いを交わすことを。
 愛し合うことを。
 その中で、永遠を感じることが出来た――それが、罪に値するほど、間違った行為であるというのなら、私は、喜んで罪人になる」

 灰色の瞳が驚愕に見開かれる。
 ファルアス・ヴィンドースの額を抱きしめながら、ハルシャはひたむきに、想いを口にする。
「一人で、行かないでくれ。ジェイ・ゼル」
 魂がよじれるほど、苦しみながら、ハルシャは本当の心を言葉に乗せる。
「置いて行かないでくれ――もう」
 見つめ続ける瞳から、思いが溢れて、涙となった。
「私を、一人にしないでくれ。お願いだ」
 ぽろぽろと、寂しさが、涙になってこぼれ落ちる。
「お父さまやお母さまのように……私を置いて、行かないでくれ。一緒に、罪を背負わせてくれ――お願いだ、ジェイ・ゼル」

 目を逸らさずに、ハルシャは真っ直ぐにジェイ・ゼルを見つめ続ける。
 抑えきれない涙が、頬を滑り落ちる。
 祖先の額を手にしても、恥など微塵も感じなかった。
 彼は――
 ハルシャにとって、一番大切なものが何かを理解して、五年間守り続けてくれていた。
 一言も、ハルシャに告げることなく。
 黙って、借金を返済し終えた時に、手元に戻してあげるつもりで、私財を投げて祖先の宝を守ってくれた。
 そういう人なのだ。
 自分が愛した――ジェイ・ゼルは。
 彼を愛していることに、一片の恥辱も感じなかった。
 むしろ、誇らしかった。
 彼を愛し、彼に求められたことが――
 胸を張って、祖先に告げたい気持ちになる。
 あなたの詩を、私の愛する人は守ってくれたのです、と。

「君は――」
 静かなジェイ・ゼルの声が、ほころんだ口元から響いた。
「いつも、私の忍耐を試してくるね。ハルシャ」

 かすかな震えを帯びた声で、彼は呟く。

「今、どれほど私が衝動を抑えているか、きっと君は理解すら、出来ないのだろうね」
 うっすらと、汗が額に浮いている。
「君のために、どれだけ――」
 言葉が途切れ、手がきつく握り込まれる。

 大きく、ジェイ・ゼルが息を吐いた。
「踏み出せば、君はもう戻れなくなる。私の世界に来ることはない。
 戻りなさい、ハルシャ」
「どうして!」
 ハルシャは叫んでいた。
「どうして、ジェイ・ゼルの傍にいてはいけないんだ!」
「それが、君の幸せだ」
「どうして、ジェイ・ゼルが私の幸せを決めるんだ!」
 悔しさと悲しみに、涙がこぼれる。
 これだけ懇願しても、ジェイ・ゼルは譲ってくれない。
 想いを、受け取ってくれない。
「ジェイ・ゼルがいない世界で、どうして、私が幸せになれると思うんだ!」
 荒ぶる感情のままに、ハルシャは叫んでいた。
「どうして!」
 祖先の額を握りしめて、ハルシャは声を絞っていた。
「最初から、捨てると解っていたのなら、どうして!」
 苦しさに、声が震える。
「どうして、私を抱いたんだ!」

 この部屋で。
 契約という名で縛りながら。
 引き裂かれた記憶が蘇る。

 ジェイ・ゼルは、眉をきつく寄せて、黙り込んだ。
 両手を固く握り込み、決してハルシャに触れまいとするように、自分の脇に引き寄せている。
 あれほど勇気を振り絞った言葉を、すげなく拒まれた悲しみが、ハルシャを困惑の極みに追い込んでいった。
 涙が喉に伝い、塩辛い味がする。
 『エリュシオン』で交わした口づけが、蘇る。
 涙を舐め取ったジェイ・ゼルの唇は、自分の塩辛い味に満ちていた。
「ジェイ・ゼル――」
 見つめる彼の体が、細かく震えている。
 内側の衝動を、必死に押さえ込んでいるように。
 どうして。
 触れてくれないんだ。
 どうしても、彼の心を自分に向けたかった。
 鉄の自制を突き崩したかった。
 涙を啜りながら、ハルシャは、動いた。
 傍らのソファーの上に丁寧に額を置くと、身を立てて、ジェイ・ゼルに向き合った。
 無言で見つめ合う。
 ジェイ・ゼルは眉を寄せたまま、ハルシャへ視線を向けていた。
 ハルシャは、歯を食いしばった。
 覚悟を決めると、涙をこぼしながら、自分の服に手を触れる。
 かつて。
 色気がない脱ぎ方だと、言われた。
 今もどれだけ、ジェイ・ゼルの基準に達しているか解らない。
 けれど。
 精一杯の努力をしながら、ゆっくりと、自分の服を、ハルシャは脱いでいった。
 服を肩から滑らせて、床に落とす。
 ジェイ・ゼルの表情は動かなかった。
 何をしているのだろう。
 と、内側から疑問が湧き上がってくるが、全てを握りつぶして、ハルシャは、懸命に服を脱ぎ続ける。
 下穿きを片足ずつ引き抜いて、床に服を横たえる。
 一糸まとわぬ姿になり、ジェイ・ゼルに向き合った。
 昼間から素肌をさらす恥辱に、顔が真っ赤になる。
 それでも、怯まずにハルシャは、ジェイ・ゼルを見つめた。
 覚悟を再び搔き集めて、口を開いた。

「五年をかけて――」
 言葉を喋ると、涙がこぼれてしまう。
 啜りあげながら、ハルシャはそれでも、続けた。
「ジェイ・ゼルが、変えていった体だ」
 途切れそうになる言葉を、必死に励まして、ハルシャは語り続ける。
「ジェイ・ゼルが触れただけで、喜びが身の内に走る――そうやって、五年間、育てられてきた。ジェイ・ゼルだけを相手をするようにという言葉を、私は守り続けた。この身体は、あなたしか知らない」
 想いが、涙になって、頬を伝う。
 最初は皮膚と同じだった胸の尖りも、大切に口に含まれ指で慈しまれて、刺激を受けただけで達するようになった。
 何一つ、性的な行為を知らなかった自分は、ジェイ・ゼルの手で、官能を覚え込まされた。
 彼の前で服を脱ぐことにすら、ためらいを覚えないほどに。

「もう、ジェイ・ゼルしか、受け入れられないのに」
 溢れる涙が止められない。
「どうやって、ジェイ・ゼルのいない世界で、生きていけばいいんだ。
 教えてくれ。
 ジェイ・ゼル。
 もう、あなたに逢えないのなら、誰に抱かれればいいんだ――」

 一瞬、苦しげに、ジェイ・ゼルは顔を歪めた。
「――ハルシャ」
 押し殺した声で呟いてから、彼は素早く、羽織っていた軽い上着を脱いだ。
 服を手にしたまま、彼が動く。
 はっと気づくと、ふわりと肩に服が触れ、ハルシャの裸体が、ジェイ・ゼルの上着で包まれていた。
 そのまま、彼の腕に抱きしめられていた。
「無垢な君を、こんな風に変えてしまったのは、私なのだな――」
 後悔の滲んだ声が、耳元で呟かれる。
「私は、許されないほどに、罪深い」
 包む腕の力の強さに、胸が締め付けられる。
 押し付けられた胸から、ジェイ・ゼルの鼓動が伝わってきた。
 早鐘をうつ音を聞きながら、待ち望んだジェイ・ゼルの腕の中にいることに、ハルシャは不思議な安堵を覚えていた。
 馴染んだ香りが、鼻孔をくすぐる。

 ハルシャの髪に頬を触れてから、彼は呟いた。
「君を、捨てたのではない。違う、決してそうではない」
 感情に翻弄されるように、珍しくジェイ・ゼルが言葉を乱している。
 細かな身の震えが、触れた場所から伝わってくる。
「君を、私から遠ざけたかった。罪深い私から――君を、守りたかった」
 切ないほど強い力で抱きしめながら、温もりのある息と共に、言葉が呟かれる。
「許してくれ、ハルシャ」
 一瞬腕に力を込めてから、彼は静かに言葉を滴らせた。
「私はずっと、君を欺いてきた」

 耳から入った言葉が、じわじわと内側に沁み込んでいく。
 欺いていた。
 まさか。
 彼が今、告げようとしているのは、両親の死の真相だろうか。
 借金を申し出て、ラグレン政府と手を組み、スクナ人を使って両親は殺されたと、リュウジが告げていた。
 突然突き付けられた事実に、ハルシャは、困惑した。
 だが。
 ジェイ・ゼルが勇気をふり絞って告げようとすることなら、何でも受け入れようと、覚悟を決める。
 伝えるように、彼の胴に腕を回して、ぎゅっと、抱きしめ返した。
 一瞬、身を震わせてから、彼は
「ハルシャ」
 と小さく名を呼んだ。
 髪に、優しく頬が触れている。
 身を引き寄せてから、ジェイ・ゼルは小さく呟いた。
「私は――人間ではないんだ」

 人間では、ない?

 意味が理解できないままのハルシャの耳に、消えそうなジェイ・ゼルの声が、再び響いた。

「私は、惑星アマンダで作りだされた」
 わずかな沈黙の後、苦みを帯びた言葉を、ジェイ・ゼルは呟いた。
「帝国法で禁じられている人工生命体――『愛玩人形ラヴリー・ドール』なんだよ。ハルシャ」









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