突然、背中に冷や水を浴びせかけられたようだ。
酷い言葉に、額を抱きしめたまま、ハルシャはジェイ・ゼルを見つめ続ける。
「どうしてだ、ジェイ・ゼル。どうして、逢ってくれないんだ。どうして!」
感情を荒げて叫んだハルシャに、静かにジェイ・ゼルが首を振った。
「君と私は、住む世界が違う」
穏やかな声で、ジェイ・ゼルが呟く。
「私の世界に来てはならない。君は――光の中を歩むことが出来る。ヴィンドース家の家長として、君は輝かしい人生をこれから進んで行ける。
私と君の人生は、今後は、もう二度と触れ合うことはないだろう。だから」
痛みをこらえるような笑みを浮かべると、ジェイ・ゼルが静かに言った。
「もう、私のことは忘れなさい」
額を抱きしめたまま、ハルシャは、衝撃のあまり、思考が停止してしまった。
「忘れるなと……ジェイ・ゼルは言ったではないか。
唇の温もりを忘れないでくれと――だから、今も、決して忘れていない」
無意識に、ハルシャは呟いていた。
「なのに、どうして、そんなことを、言うんだ」
ジェイ・ゼルの眉が寄せられた。
「君は借金を返済した。もう、君に関わる理由が、私にはない」
理由?
初めて聞く言葉のように、ハルシャは眉を寄せた。
「ジェイ・ゼルに逢いたい。それが理由だ。どうして、それではだめなんだ」
彼の心が掴み切れない。
衝撃から立ち直れないままに、必死にハルシャは言っていた。
ジェイ・ゼルが微笑みを深めた。
「だめだよ、ハルシャ。もう、私は君を――穢したくない」
穢す。
驚きに見開いた目に、ジェイ・ゼルが静かな言葉を滴らせた。
「君は立派だった。両親の債務を恐れずに背負い、卑怯な逃げも打たずに、妹を守って誠実に生き続けた。
そんな君を、私は借金を理由に、自分の毒に浸し続けた」
だが。
それが、ジェイ・ゼルの、唯一の愛情表現だったのだろう。
そう。
教えてくれたではないか。
喉で、言葉が凍り付く。
「君には、何の罪もない」
灰色の眼を細めて、ジェイ・ゼルが呟く。
「君は、私に支配され、身を開かされた――望まぬ性交を強いられ、無理やりに男に抱かれていただけだ」
なぜ、こんなことを、突然ジェイ・ゼルは言うのだろう。
目を瞠るハルシャに、優しい声でジェイ・ゼルが告げる。
「君は何一つ穢れていない。その額を所持するにふさわしい、偉大なヴィンドース家の家長だ。
汚点をつけたのは、私だ」
小さく、笑みが浮かぶ。
「全ての罪は、私のものだ。男に抱かれていた罪は、私が背負う」
灰色の瞳が、真っ直ぐにハルシャを見つめた。
「煉獄へは、私一人で行く。君は炎に焼かれる必要はない――全ての罪は、私のものだ、ハルシャ。
君は、罪を重ねる必要はない」
衝撃が、再びハルシャの身を襲った。
あの時。
リュウジのことを問いただされた時――
君も低俗だと、投げつけられたジェイ・ゼルの言葉に打ちのめされ、思わず本音をこぼしてしまった。
男に抱かれるような者は、煉獄の中で、炎に焼かれるのだと――
母親に植え付けられた倫理観に、ジェイ・ゼルに抱かれながら、蝕まれ続けていた。
苦しかった。
その想いを、吐露してしまった。
それを……。
ジェイ・ゼルは覚えてくれていたのだ。
重ねる罪に身を捩るハルシャの苦しさを、彼は心に刻んでくれていたのだ。
男に抱かれるのは、嫌か。
尋ねられた言葉が、胸を突く。
倫理に反することをさせていると、彼は自覚をしていたのだ。
それでも、求めずにはいられなかったと、彼は懺悔のように呟いていた。
借金があることが、ジェイ・ゼルにとっては、理由だったのだろう。
その正当な理由がなくなった今、彼はハルシャに触れることすら、自分自身に禁じているようだった。
部屋に入ってから、一度も身を触れ合わせてくれない。
通話装置を外すときも、極力触れないようにしていた。
ジェイ・ゼルは、自ら身を引いたのだと思うよ。
君の本当の幸せを、考えてね。
ぽつりと、こぼれたミア・メリーウェザ医師の言葉が、耳元で聞こえた。
煉獄で焼かれる罪に怯えるハルシャのために、彼はもう、二度と逢わないと、言ってくれているのか。
身の内側が震える。
「ジェイ・ゼルが、煉獄に行くのなら」
勇気を、必死に呼び起こす。
顔を上げて、ハルシャはジェイ・ゼルを真っ直ぐに見つめたまま、声を放った。
「私も、一緒に行く」
はっと、ジェイ・ゼルの顔が動いた。
「炎に焼かれても悔いはない」
彼の動揺を見つめながら、ハルシャは懸命に言葉を絞りだした。
「――ジェイ・ゼルは教えてくれた。
肌を通じて、想いを交わすことを。
愛し合うことを。
その中で、永遠を感じることが出来た――それが、罪に値するほど、間違った行為であるというのなら、私は、喜んで罪人になる」
灰色の瞳が驚愕に見開かれる。
ファルアス・ヴィンドースの額を抱きしめながら、ハルシャはひたむきに、想いを口にする。
「一人で、行かないでくれ。ジェイ・ゼル」
魂がよじれるほど、苦しみながら、ハルシャは本当の心を言葉に乗せる。
「置いて行かないでくれ――もう」
見つめ続ける瞳から、思いが溢れて、涙となった。
「私を、一人にしないでくれ。お願いだ」
ぽろぽろと、寂しさが、涙になってこぼれ落ちる。
「お父さまやお母さまのように……私を置いて、行かないでくれ。一緒に、罪を背負わせてくれ――お願いだ、ジェイ・ゼル」
目を逸らさずに、ハルシャは真っ直ぐにジェイ・ゼルを見つめ続ける。
抑えきれない涙が、頬を滑り落ちる。
祖先の額を手にしても、恥など微塵も感じなかった。
彼は――
ハルシャにとって、一番大切なものが何かを理解して、五年間守り続けてくれていた。
一言も、ハルシャに告げることなく。
黙って、借金を返済し終えた時に、手元に戻してあげるつもりで、私財を投げて祖先の宝を守ってくれた。
そういう人なのだ。
自分が愛した――ジェイ・ゼルは。
彼を愛していることに、一片の恥辱も感じなかった。
むしろ、誇らしかった。
彼を愛し、彼に求められたことが――
胸を張って、祖先に告げたい気持ちになる。
あなたの詩を、私の愛する人は守ってくれたのです、と。
「君は――」
静かなジェイ・ゼルの声が、ほころんだ口元から響いた。
「いつも、私の忍耐を試してくるね。ハルシャ」
かすかな震えを帯びた声で、彼は呟く。
「今、どれほど私が衝動を抑えているか、きっと君は理解すら、出来ないのだろうね」
うっすらと、汗が額に浮いている。
「君のために、どれだけ――」
言葉が途切れ、手がきつく握り込まれる。
大きく、ジェイ・ゼルが息を吐いた。
「踏み出せば、君はもう戻れなくなる。私の世界に来ることはない。
戻りなさい、ハルシャ」
「どうして!」
ハルシャは叫んでいた。
「どうして、ジェイ・ゼルの傍にいてはいけないんだ!」
「それが、君の幸せだ」
「どうして、ジェイ・ゼルが私の幸せを決めるんだ!」
悔しさと悲しみに、涙がこぼれる。
これだけ懇願しても、ジェイ・ゼルは譲ってくれない。
想いを、受け取ってくれない。
「ジェイ・ゼルがいない世界で、どうして、私が幸せになれると思うんだ!」
荒ぶる感情のままに、ハルシャは叫んでいた。
「どうして!」
祖先の額を握りしめて、ハルシャは声を絞っていた。
「最初から、捨てると解っていたのなら、どうして!」
苦しさに、声が震える。
「どうして、私を抱いたんだ!」
この部屋で。
契約という名で縛りながら。
引き裂かれた記憶が蘇る。
ジェイ・ゼルは、眉をきつく寄せて、黙り込んだ。
両手を固く握り込み、決してハルシャに触れまいとするように、自分の脇に引き寄せている。
あれほど勇気を振り絞った言葉を、すげなく拒まれた悲しみが、ハルシャを困惑の極みに追い込んでいった。
涙が喉に伝い、塩辛い味がする。
『エリュシオン』で交わした口づけが、蘇る。
涙を舐め取ったジェイ・ゼルの唇は、自分の塩辛い味に満ちていた。
「ジェイ・ゼル――」
見つめる彼の体が、細かく震えている。
内側の衝動を、必死に押さえ込んでいるように。
どうして。
触れてくれないんだ。
どうしても、彼の心を自分に向けたかった。
鉄の自制を突き崩したかった。
涙を啜りながら、ハルシャは、動いた。
傍らのソファーの上に丁寧に額を置くと、身を立てて、ジェイ・ゼルに向き合った。
無言で見つめ合う。
ジェイ・ゼルは眉を寄せたまま、ハルシャへ視線を向けていた。
ハルシャは、歯を食いしばった。
覚悟を決めると、涙をこぼしながら、自分の服に手を触れる。
かつて。
色気がない脱ぎ方だと、言われた。
今もどれだけ、ジェイ・ゼルの基準に達しているか解らない。
けれど。
精一杯の努力をしながら、ゆっくりと、自分の服を、ハルシャは脱いでいった。
服を肩から滑らせて、床に落とす。
ジェイ・ゼルの表情は動かなかった。
何をしているのだろう。
と、内側から疑問が湧き上がってくるが、全てを握りつぶして、ハルシャは、懸命に服を脱ぎ続ける。
下穿きを片足ずつ引き抜いて、床に服を横たえる。
一糸まとわぬ姿になり、ジェイ・ゼルに向き合った。
昼間から素肌をさらす恥辱に、顔が真っ赤になる。
それでも、怯まずにハルシャは、ジェイ・ゼルを見つめた。
覚悟を再び搔き集めて、口を開いた。
「五年をかけて――」
言葉を喋ると、涙がこぼれてしまう。
啜りあげながら、ハルシャはそれでも、続けた。
「ジェイ・ゼルが、変えていった体だ」
途切れそうになる言葉を、必死に励まして、ハルシャは語り続ける。
「ジェイ・ゼルが触れただけで、喜びが身の内に走る――そうやって、五年間、育てられてきた。ジェイ・ゼルだけを相手をするようにという言葉を、私は守り続けた。この身体は、あなたしか知らない」
想いが、涙になって、頬を伝う。
最初は皮膚と同じだった胸の尖りも、大切に口に含まれ指で慈しまれて、刺激を受けただけで達するようになった。
何一つ、性的な行為を知らなかった自分は、ジェイ・ゼルの手で、官能を覚え込まされた。
彼の前で服を脱ぐことにすら、ためらいを覚えないほどに。
「もう、ジェイ・ゼルしか、受け入れられないのに」
溢れる涙が止められない。
「どうやって、ジェイ・ゼルのいない世界で、生きていけばいいんだ。
教えてくれ。
ジェイ・ゼル。
もう、あなたに逢えないのなら、誰に抱かれればいいんだ――」
一瞬、苦しげに、ジェイ・ゼルは顔を歪めた。
「――ハルシャ」
押し殺した声で呟いてから、彼は素早く、羽織っていた軽い上着を脱いだ。
服を手にしたまま、彼が動く。
はっと気づくと、ふわりと肩に服が触れ、ハルシャの裸体が、ジェイ・ゼルの上着で包まれていた。
そのまま、彼の腕に抱きしめられていた。
「無垢な君を、こんな風に変えてしまったのは、私なのだな――」
後悔の滲んだ声が、耳元で呟かれる。
「私は、許されないほどに、罪深い」
包む腕の力の強さに、胸が締め付けられる。
押し付けられた胸から、ジェイ・ゼルの鼓動が伝わってきた。
早鐘をうつ音を聞きながら、待ち望んだジェイ・ゼルの腕の中にいることに、ハルシャは不思議な安堵を覚えていた。
馴染んだ香りが、鼻孔をくすぐる。
ハルシャの髪に頬を触れてから、彼は呟いた。
「君を、捨てたのではない。違う、決してそうではない」
感情に翻弄されるように、珍しくジェイ・ゼルが言葉を乱している。
細かな身の震えが、触れた場所から伝わってくる。
「君を、私から遠ざけたかった。罪深い私から――君を、守りたかった」
切ないほど強い力で抱きしめながら、温もりのある息と共に、言葉が呟かれる。
「許してくれ、ハルシャ」
一瞬腕に力を込めてから、彼は静かに言葉を滴らせた。
「私はずっと、君を欺いてきた」
耳から入った言葉が、じわじわと内側に沁み込んでいく。
欺いていた。
まさか。
彼が今、告げようとしているのは、両親の死の真相だろうか。
借金を申し出て、ラグレン政府と手を組み、スクナ人を使って両親は殺されたと、リュウジが告げていた。
突然突き付けられた事実に、ハルシャは、困惑した。
だが。
ジェイ・ゼルが勇気をふり絞って告げようとすることなら、何でも受け入れようと、覚悟を決める。
伝えるように、彼の胴に腕を回して、ぎゅっと、抱きしめ返した。
一瞬、身を震わせてから、彼は
「ハルシャ」
と小さく名を呼んだ。
髪に、優しく頬が触れている。
身を引き寄せてから、ジェイ・ゼルは小さく呟いた。
「私は――人間ではないんだ」
人間では、ない?
意味が理解できないままのハルシャの耳に、消えそうなジェイ・ゼルの声が、再び響いた。
「私は、惑星アマンダで作りだされた」
わずかな沈黙の後、苦みを帯びた言葉を、ジェイ・ゼルは呟いた。
「帝国法で禁じられている人工生命体――『