ほしのくさり

第158話  振り絞る勇気





 『アルティア・ホテル』から、ジェイ・ゼルの事務所があるバルドラムへは、飛行車で二十分ほどかかる。
 その時間を全て、ハルシャは事務所についてから、どうやって話を切り出すかという練習に、費やしていた。

 たった一つ、ハルシャは、ジェイ・ゼルに面会を求める理由を、持っていた。
 借りっぱなしだった、白い通話装置だ。
 これをジェイ・ゼルに返却するという理由をつけて、何とか彼に会いたいと考えていた。
 飛行車の後部座席に座って、ぶつぶつと口上の練習を繰り返す。
 会社の備品である、大切なウェアラブル端末の通話装置を、長期間お借りして大変申し訳なかった。
 また、借金を清算した時には、気が動転していて、返却を失念していたことを、丁寧に詫びる。
 それから、寛大な心で貸してくれたジェイ・ゼルに、ぜひとも感謝を述べたい。その折に、手渡しで謝意と共に、通話装置を返却したいのだと、文言を修正しながら、懸命に小さな声で呟き続ける。
 きっと、ヨシノさんは呆れているだろうが、話すことが苦手だと自身を知っているハルシャは、どうしても準備をしておきたかった。
 何度も言葉を呟きながらも、心臓が口から出てきそうなほど、激しく打っていた。
 手の平が濡れたように、汗ばんでくる。
 緊張のあまり、微かな目眩すら覚えるほどだった。
 それでも、ハルシャは、ジェイ・ゼルに会いたい一心で、口上を繰り返した。
 五回、詰らずに続けて言葉を言えた時、やっと一息つくことが出来た。
 何とかこなせそうな手ごたえを掴んで、ようやく心を落ち着ける。

 ヨシノさんは、巧みな運転でラグレンの空を滑っていく。
 ごくりと唾を飲み込んで、酷使した喉を潤してから、ハルシャは一瞬窓の外へ視線を向けた。
 最後に見た、ジェイ・ゼルの後姿が蘇ってくる。
 彼は椅子を回して、背を向けていた。
 あの時、ジェイ・ゼルの前に広がっていたと同じ青空が、今もラグレンの空を覆っている。
 彼は――ここへ来てはならないと、言った。
 自分はどうしようもなく、愚かな行動をしているのかもしれない。
 ジェイ・ゼルが、会ってくれる保証など、どこにもなかった。
 それでも、会いたい一念が、ハルシャを突き動かしていた。

 あの時に話せなかったことを、きちんと話したかった。
 利息を充填してくれたことにも、サーシャの救助にすら、自分は感謝の言葉を、満足に告げられていない。
 至らなさが、胸に刺さる。
 自然と視線が床に落ちた。
 ジェイ・ゼルは、何の見返りも求めずに、救いの手を差し伸べてくれていたのに、その好意にすら、自分は気付いていなかった。
 今さらながら、自分が世間知らずで浅はかなことを、思い知る。
 どうして。
 手の中から失われてからしか、人は本当の価値に気付けないのだろう。
 自分の人生の中で、どれだけジェイ・ゼルが大きな意味を持っていたのか、離れてはじめて、気付かされる。
 彼との別離を思うだけで、体の一部をもぎ取られるようだった。
 こんな思いを抱えたままでは、帝星へ移り住む決断など、下せそうになかった。

 ふわっと、ヨシノさんが操る飛行車が垂直に降りていく。
 着いたのだ。
 上げた視線の向こう、車の窓越しにジェイ・ゼルの事務所の姿があった。
 鼓動が一気に跳ね上がる。

 無意識に、手が動く。
 いつの間にか、ハルシャは左手首にある通信装置に触れていた。服の下の硬い感触に、懸命に勇気を振り絞る。
 飛行車をジェイ・ゼルの事務所の前に下ろすと、無言でヨシノさんが座席から降り、思わぬ速度でハルシャの扉の側に立っていた。
 ハルシャのために、彼は扉を開いてくれた。
「あ、ありがとう、ヨシノさん」
 言いながら外に出たハルシャは、ヨシノさんが建物の奥に視線を注いだままなのに気付いた。
「私たちの来訪に気付いたようです。人が出てきます」
 静かな声で、彼が告げる。
「マシュー・フェルズたちです。ジェイ・ゼル氏は居ません」

 彼の言う通り、奥の事務室から、マシュー・フェルズを先頭に、三人の人達が玄関先に佇むハルシャの元へとやってくる。
 やはり、ジェイ・ゼルの事務室には、玄関を見張るモニターのようなものがあるのかもしれない。
 近づく人影に、心臓がバクバクと高鳴る。
 汗の滲む手を、ハルシャは握りしめて、練習してきた言葉を、もう一度口の中で呟いた。

 迷いのない足取りで、マシュー・フェルズが真っ直ぐに玄関に進み、淀みない動きで扉を押し開いた。
 彼に、言わなくては。
 息を吸い込み、ハルシャが言葉を発しようとしたとき
「あなたには、もう、ここに来る用事はないはずです」
 と、先を切るように、マシュー・フェルズが口を開いていた。
「お引き取り下さい。ハルシャ・ヴィンドース」

 あからさまな拒否を含んだ言葉をいきなり叩きつけられて、ハルシャは怯んだ。
 あれほど車内で練習してきた言葉が、とっさに口から出ない。
「ジェ……ジェイ・ゼルに逢いにきた」
 動揺のあまり、全く違うことを、たどたどしくしか口に出来なかった。
「彼に逢わせてほしい」
 綿密に理由を説明するはずが、呆れるほど単純なことしか言えない。
 かっと、頬が羞恥に赤らんだ。
 ハルシャの言葉に、ぴくっと、マシュー・フェルズの眉が上がった。
「ジェイ・ゼル様は、ご不在です」
 取り付く島もない口調で、マシューが言う。
「生憎でした。どうか、お帰りを」

 ハルシャは、ぎゅっと通話装置を上から握りしめた。
「ジェイ・ゼルに、借用しているものがある」
 マシューの眉がさらに上がる。
「通話装置ですか」
 彼はすぐにハルシャの考えを見切ったようだ。あれほど考え続けて来た言葉を、あっさり切られてしまった。
「それは、会社の備品です。ジェイ・ゼル様個人の物ではありません」
 マシュー・フェルズは、ゆったりとハルシャの前に手を伸ばす。
「お預かりしておきましょう。私が戻しておきます」

 これを渡してしまったら、もう、ジェイ・ゼルに会う理由がなくなる。
 とっさに拒否を示して、ハルシャは左手首を自分に引き寄せた。
「私がジェイ・ゼルから、お借りしたものだ。謝辞と一緒に、彼に直接手渡したい」
 まるで駄々っ子のように、懸命にハルシャはマシューに言っていた。
 みっともないとは、解っていた。
 だが、他の方法が見当たらない。
 この機会を逃したら、永遠にジェイ・ゼルに会えないような予感がする。
 必死に食い下がって、言葉を続ける。
「ジェイ・ゼルが不在なら、彼が戻るまで、邪魔にならないところで待たせてほしい」

 ハルシャの言葉に、マシューは眉を寄せると、差し出していた手を下ろした。
 短い沈黙の後、彼は口を開いた。
「ジェイ・ゼル様は、本日事務所にお戻りにはなられません」
 驚いて顔を上げたハルシャに、彼は淀みなく言葉を続けた。
「明日、再びお訪ねになったとしても、ジェイ・ゼル様は、お会いにならないと思います」
 拒絶の言葉が重ねられる。
 来ても無駄だと、マシューは告げている。

 受けた衝撃を、何とか顔に出さないように、ハルシャは唇を引き結んだ。
 マシューとまともに視線がぶつかり合う。
 彼は、揺るぎない壁のように、自分の前に立ちふさがっていた。
 マシュー・フェルズの言葉と態度から、自分をもうジェイ・ゼルに会わせたくないという、意思が滲んでいる。
 そうだ。
 借金を返済した時も、彼は怒っていた。
 ジェイ・ゼルは、自分の借金の利子をかぶってくれていた。
 それほどの温情を受けながら、非礼な態度で借金を返済したと思われたのだろう。
 向き合うマシューからは、拒否しか感じられない。
 ジェイ・ゼルが、ハルシャが来ても追い返せと、命じているのかもしれない。
 もしかしたら、奥の事務所にジェイ・ゼルは居て、不在と告げるように指示を出したのだろうか。
 ハルシャが来たのを知りながら、姿を見せないのなら、自分の来訪はきっと、迷惑なのだろう。
 疑念が湧き上がってくる。
 相手に受け入れられないことが、これほどまでに、辛い。
 ジェイ・ゼルに言われた通り、ここに二度と来なかったほうが、良かったのだろうか。
 泣きたいような気分が、内側からこみ上げてきた。
 その瞬間、なぜか、リュウジの優しい問いかけが、耳の奥に聞こえた。


 ハルシャは、ジェイ・ゼルに、会いたいのですか?


 藍色の瞳が、自分を見ていた。
 恐らく、聡明なリュウジはこうなる事態を、十分過ぎるほど予測していただろう。それでも、逢いたいかと訊ね、意思を確認すると、ヨシノさんに連絡をつけてくれた。
 そうだ。
 自分はジェイ・ゼルに、逢いたい。
 そのために、ここに来たのだ。
 もう、後ろには引けなかった。
 覚悟を決めると、ハルシャは口を開いた。

「五年間、ジェイ・ゼルが利子を補填し、助けてくれていたことを、私は全く知らなかった。その礼を、まだ私は、ジェイ・ゼルにきちんと伝えられていない」
 もし、モニターでジェイ・ゼルが見ているのなら、彼にも伝わるようにと、祈るようにハルシャは言葉を続けた。
「彼に、心からの感謝を述べる機会を与えてほしい」

 ハルシャは、ぐっと、通話装置を包む手に、力を込めた。
 逢いたい。
 ジェイ・ゼルに逢いたい。
 その想いだけを握りしめて、ハルシャは懸命に言葉を続けた。

「ジェイ・ゼルは私に逢いたくはないかもしれない。けれど、私は彼にどうしても、直接逢って話したいことがある」

 最初に、彼に言われた。
 彼が望む行為を、どんなことでも拒んではならないと。
 それから五年間、ジェイ・ゼルの言葉に従うように、身の内に行為が刻み付けられてきた。
 長く続いた習慣が、ジェイ・ゼルの言葉に服従させようとする。
 歯を食いしばって、ハルシャは自分の内側に湧き上がる衝動と闘った。
 もう、自分はジェイ・ゼルの言葉に従う必要はないはずだ。
 どこにも、契約などは存在しない。
 だから――
 自分の心のままに、彼を求めて良いはずだ。
 懸命に、自分自身に言い聞かせる。
 ジェイ・ゼルは、自分に会いたくないのだろう。
 だが。
 自分は会いたいのだ。
 想いを押し通す強さを、体中から搔き集める。
 ハルシャに出来る、それが、精一杯の勇気の示し方だった。

「彼には、言葉に尽くせないぐらいの恩義を受けている。ジェイ・ゼルに対して、私なりの礼を尽くしたい。
 お願いだ、マシュー・フェルズ。借用した通話装置を、どうか私の手から直接、ジェイ・ゼルに渡させてほしい。無理を言っているのは解っている。
 だが、どうしても、彼に逢って伝えたいことがあるんだ。
 頼む。お願いだ」

 ハルシャは、みっともないほどなりふり構わずに、ジェイ・ゼルに会える可能性を掴み取ろうと、もがき続けた。
 会う機会を奪い取られたくなかった。
 勇気を振り絞って伝えた言葉を、黙ってマシュー・フェルズは聞いていた。
 左の手首を掴むハルシャを見つめながら、彼は、何かを考えているようだった。
 大きく息を吸うと、マシューは静かに嘆息した。
「ジェイ・ゼル様は、今日は一日ご自宅でお過ごしになっています」
 溜息と共に、彼は言葉を告げた。

 マシュー・フェルズが譲歩を示して、情報を与えてくれたことに、ハルシャは表情が輝くことが押さえられなかった。
 自宅。
 確か、セイラメに在ったはずだ。
 住所を聞けば、ヨシノさんが連れて行ってくれるかもしれない。

 ハルシャの考えを読み取ったのか、マシュー・フェルズはもう一度吐息をついてから、
「ですが、ジェイ・ゼル様のご自宅の所在を、他人にもらすことは出来ません」
 と、厳しい口調で言い切った。
 ハルシャは瞬きをした。
 補足をするように、マシューが言葉を続ける。
「個人宅の所在が知られれば、ジェイ・ゼル様の身の安全が脅かされます。そのような危険な情報を、教えることは出来ません」

 ジェイ・ゼルは自宅に居るが、その場所は教えられないと、彼は言っている。
 個人的な情報が知られれば、ジェイ・ゼルの身が危険にさらされるのだ。
 そういえば。
 ハルシャは思い至る。
 いつも食事の時には、個室の前に武器を剥き出しにした警備の人達が、物々しく立っているのが常だった。

 どうすれば良いのだろう。
 明日、もう一度、この事務所へ来ればいいのだろうか。
 考えながら黙り込むハルシャの耳に、思いもかけない言葉が響いた。
「それほどまでに、ジェイ・ゼル様にお会いになりたいというのなら、ネルソンに送らせます」
 物思いから浮上して、ハルシャは目の前のマシュー・フェルズへ視線を上げた。
 彼は、実に不本意だというように、眉をきつく寄せてハルシャを見つめていた。
「もちろん、ジェイ・ゼル様が拒否される可能性は、とても高いですが。それでも良ければ」

 息が詰まる。
 ジェイ・ゼルに、会える可能性が、出て来たことに、嬉しさのあまり動揺してしまう。
「あ、ありがとう、マシュー・フェルズ」
 驚喜が声に、滲み出る
「お手数をおかけして、申し訳ない」
 マシュー・フェルズは、ますます眉を寄せて、
「その代わり、あなたがご同伴された方には、お帰りいただいても良いですか」
 と、静かな声で言った。
「万が一、ネルソンの後をつけて、ジェイ・ゼル様のご自宅を突き止められても困ります。
 お帰りになったことが確認できてからしか、ここから出発いたしません。
 よろしいですか、ハルシャ・ヴィンドース」

 ヨシノさんを帰せと、マシュー・フェルズは言っていた。
 リュウジはヨシノさんの飛行車で確実に戻ってきてくれと言ったのに。
 当惑しながら、ハルシャは傍らに佇む黒髪の青年に顔を向けた。
「ヨシノさん……」
 切れ長な眼で、ヨシノさんがハルシャを見下ろしていた。
「ジェイ・ゼル氏にお会いになるのには、私の存在が邪魔なようですね」
 静かな声で、現状を確認するかのように彼が呟く。
 申し訳ない気持ちが湧き上がってきて、ハルシャは眉を寄せた。
「リュウジは、ヨシノさんの飛行車で必ず戻ってくるようにと、言っていた」
 そういう約束だった。
 リュウジの想いを踏みにじることになる。
 戸惑うハルシャに、
竜司リュウジ様には、私から事情を説明しておきます。この好機を逃しては、ジェイ・ゼル氏に会うことは難しいでしょう。
 行ってきてください、ハルシャさん」
 穏やかな深みのある声が、少し上の方から響く。
 見上げた彼は、微笑んでいた。
「必ずお戻り頂けるという、言質を頂戴すればそれで十分です」
 リュウジの気質を知り抜いている彼が、大丈夫だと後押ししてくれているような気がした。
「もちろんだ。ジェイ・ゼルとの話が済めば、必ずリュウジたちのところに戻る。約束をする」
 ヴィンドース家の家長として、約束を違えるようなことは、決してしないという、誓いを込めてハルシャは言葉を告げた。
 ヨシノさんが優しく微笑んだ。
「お言葉、確かに承《うけたまわ》りました」
 彼は瞬きをしてから、一言付け加えた。
「お帰りを信じて、お待ちしております。竜司リュウジ様も、私も」
 やんわりと、念を押されたような気がする。
 ヨシノさんは小さく会釈をすると、視線を上げて、マシュー・フェルズに向き合った。
「ハルシャ・ヴィンドース様を、よろしくお願いいたします」
 丁寧に頭を下げると、彼はマシューの言葉を待たずに、身を翻すように鮮やかな動きで飛行車の運転席に戻った。
 瞬きの間に飛行車は浮かび上がり、来た時と同じ軌道を描いて、静かにラグレンの空に消えていった。
 一人残されたハルシャは、その姿をしばらく見送っていた。
「こちらへ」
 マシュー・フェルズが声を掛けながら、事務所の玄関の扉を開いた。
「今、ネルソンを呼びます」

 
 *


 ネルソンの操る飛行車に身を託しながら、ハルシャは緊張のあまり、呼吸が出来なくなりそうだった。
 ジェイ・ゼルは、逢ってくれないかもしれない。
 けれど、自分が逢いに来たということだけは、彼に伝わる。
 それで、もう、十分かもしれない。
 ぎゅっと、唇を噛み締めながら、緊張に耐え続ける。

「二度目ですね」
 突然飛んで来た声に、ハルシャはすぐに対応できなかった。
 普段は無口なネルソンが、運転をしながら、自分に語り掛けていた。
「ご自宅へ行かれるのは」

 ハルシャは、驚きを口調に出さないように注意しながら、
「よく覚えていてくれたんだな、ネルソン」
 と、話しかけられたことで、わずかに緊張を解きながら返事をした。
「はい」
 穏やかなネルソンの声が、響く。
「ジェイ・ゼル様が、他人をご自宅に招いたのは、私が知る限り、あなたしか、いらっしゃいません。だから、記憶に残っているのです」

 言葉の意味が、しばらくハルシャには理解できなかった。
 ジェイ・ゼルが、自宅に招いたのは、自分だけだと、彼は言っているのだろうか。まさか。
 じわじわと、意味が身の内に沁み込んでいく。
「ジェイ・ゼルは、自宅に人を入れないのか?」
 気付けば自分は問いを口にしていた。
「はい」
 ネルソンは静かに答えた。
「極めて私的な場所に、他人が立ち入ることを、ジェイ・ゼル様はお好みではありません」
 意味を問う前に、ネルソンは一度見たことのある場所に、ふわりと飛行車を停めた。
 あの時は夜で、散りばめられた星屑のような街並みしか見えなかったが、昼過ぎの今は、ここがとても高級な住宅街の一角であるのが見て取れた。
「ありがとう、ネルソン」
 ドキドキと、再び心臓が躍り出す。
「いつも送ってくれて……心から感謝している」
 言いながら扉を開けたハルシャへ、ネルソンが静かに首を巡らせて、顔を向けた。
「いってらっしゃいませ」
 穏やかな笑みと共に、彼は優しい言葉を呟いた。
 まるで、応援するような、励ましのこもった声だった。
「ありがとう」
 一言礼を残して、ハルシャは、飛行車から降り立った。
 ジェイ・ゼルが、五年前に自分を連れて行った記憶を手繰りながら、駐車スペースの片隅にある飛び出た建造物へと向かった。
 四角い無機質な立体は、各部屋へと続く、転移装置だった。
 あの時、ジェイ・ゼルは表面にある、指紋認証装置に触れていたが、来訪者《ヴィジター》のハルシャには出来ない。その代わりに、マシュー・フェルズから教えてもらった、部屋番号を、認証装置の横にある数字キーから打ち込んだ。
 一二八七号室が、ジェイ・ゼルの部屋の番号だった。
 打ち込んだ後、番号確定のキーを押すと、わずかな呼び出し音が聞こえた。
 ジェイ・ゼルの部屋に、繋がったのだ。

 突然、心臓が、弾けそうなぐらい、強く打ち始めた。
 手の平に、冷たい汗が滲む。
 緊張したまま待ち続けるハルシャの耳に、呼び出し音が途切れたのが、聞こえた。
 ジェイ・ゼルが出たのだろうか。
 喉が、カラカラになっていく。

 一瞬の沈黙の後、
「――ハルシャか」
 という、驚きを含んだジェイ・ゼルの声が、認証装置の上部から響いた。
「ジェイ・ゼル!」
 もっと、冷静に会話をしようと思っていたのに、ハルシャの口が、勝手に彼の名を叫んでいた。
 わずかな沈黙のあと、
「なぜ、ここへ来た」
 と、ジェイ・ゼルの硬い声が響いた。
「ジェイ・ゼルに、逢いに来た」
 自分でも呆れるぐらい、単刀直入に言葉を発していた。
 慌てて、ハルシャは、その後を、続ける。
「ウェアラブル端末の通信装置をお借りしたままだった」
 練習の成果か、言葉が口から滑り出た。
「遅くなって、大変申し訳なかったが、返却させてくれないか」

 どうやら、こちらから相手の姿は見えないが、ジェイ・ゼルには自分の姿が確認できるようだ。
 きっとどこかに、画像を送る装置があるはずだ。

「サーシャの時に、とてもお世話になったのに、動揺してしまってほとんどお礼が言えていない。とても失礼なことをしてしまった」

 ハルシャは言いながら、装置の所在を探した。
 指紋認証装置の上部に、小さな黒い丸いものがある。
 少し角度を変えると、きらりと光った。
 そうか、ここが小さなレンズになっていて、画像を取り込んでいるのか、と、心に呟く。
 あたりをつけると、ハルシャはそのレンズに真っ直ぐに視線を向けて、言葉を続ける。
「お礼とお詫びを、直接ジェイ・ゼルに伝えたい。部屋に入れてくれないだろうか」

 すぐに、返事は聞こえなかった。
 長い沈黙の後、ようやくジェイ・ゼルの言葉が聞こえた。
「礼は受け取った。通話装置は、マシューに渡してもらえばいい。
 それが用事なら、もう戻りなさい。ハルシャ」

 拒絶の言葉だった。
 通話が切られる予感がした。
 ハルシャは慌てて、背伸びをすると、レンズに顔を近づけた。
「待ってくれ! ジェイ・ゼル!」
 叫んだものの、次の言葉が見つからない
 彼にかける言葉をあれほど色々考えていたのに、一切が頭から飛んでしまった。
「ジェイ・ゼル……」
 何を言えばいいのか、混乱のあまり、解らなくなってくる。
「ジェイ・ゼル」
 必死に彼の名を呼ぶことしか出来ない。


 どうして、逢ってくれないんだ。
 借金の返済が終わったら、どうして別れなくてはならないんだ。
 なぜ。
 一言も、説明をしてくれないんだ。
 二人で過ごした時間は、何の意味もなかったというのか。
 教えてくれ、ジェイ・ゼル。


 荒れ狂う感情に飲まれかける。
 こぼれそうになる涙を堪えながら、顔を歪めてハルシャは呟いた。
「ジェイ・ゼルに、逢いたい――」

 朴訥な言葉しか、口から出ない。
 きっとジェイ・ゼルなら、上手に自分の感情を言葉に乗せるのだろう。なのに、想いを、真っ直ぐに伝えることしか、ハルシャには出来なかった。

 黒い丸いレンズに、少しでも近づこうと、つま先立ちになり顔を寄せる。
「逢いたいんだ、ジェイ・ゼル!」
 魂から、絞り出すように、ハルシャは叫んでいた。
「一度でいい、逢ってくれ……決して、迷惑はかけない」
 なりふり構わず、懇願することしか出来ない。
 レンズの向こうに居るはずの、ジェイ・ゼルを必死に見つめる。
 想いが溢れるあまり、言葉がつまって、中々出ない。
 つっかえながら、ハルシャは何とか、言葉を絞る。
「あなたに、逢いたい……お願いだ……ジェイ・ゼル」


 長い沈黙の後、大きく息が吐かれる音がした。
 瞬間、部屋番号が表示されていた認証装置の画面に、『承認』という文字が浮かび、光があふれた。
 急激な変化に、思わずハルシャは目を閉じた。
 転移装置が働いたらしい。身がふっと動く。
 足元が不安定になり、しばらくしてから、硬い床を踏んでいることに気付いた。
 眩しさに閉じていた目を開くと、そこは、一度だけ見たことのある、室内だった。
 落ち着いた色調で統一された家具が、品よく配置された――ジェイ・ゼルの自宅。
 ハルシャは、瞬きをした。

 少し離れた場所に、ジェイ・ゼルが立っていた。
 認めた途端、心臓が、信じられないほどの強さで、内側から叩きつけるように、鳴る。
 あまりに切望し続けたために、実際に彼を目にした途端、ハルシャは凍りついたように、動けなくなってしまった。
 思考が止まり、呼吸まで停止しそうになる。
 ジェイ・ゼルは、腕を固く組んで、ハルシャを見下ろしていた。
 その姿を瞳に映して、ハルシャは、ただ、黙し続けた。

 長い静寂の後、静かに、ジェイ・ゼルが微笑みを浮かべた。
「せっかく、自由の身になったというのに」
 柔らかく目を細めて、彼は穏やかに呟いた。
「なぜ、私に逢いにきたんだ。ハルシャ――」






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