「よう」
明らかに二日酔いの青ざめた顔を上げて、医療室で、メリーウェザ医師がハルシャたちを迎えてくれた。
何とか笑みらしきものを浮かべようと努力しながら、
「コンテナ三つと布団は引き受けた。もう、サーシャと一緒に、ヨシノがさっさと倉庫にいれてくれたようだ。安心してくれ」
と、教えてくれる。
言い終えた途端、ミア・メリーウェザは顔を歪めた。
相当ひどい頭痛らしい。
昨晩は、店からハルシャとサーシャの二人で、メリーウェザ先生の両脇を抱えて医療院まで送り届けて帰ったのだが、無事に眠れたのだろうか、と、ハルシャは危惧してしまった。もしかしたら、廊下でそのまま寝入ったかもしれない。
「大丈夫か、先生」
思わず問いかけた言葉に、うっすらと彼女は笑みを浮かべる。
「どうして、昨日の内にメドック・システムに入っておかなかったと、サーシャに責められた」
片目を器用につぶって、メリーウェザ先生が言葉を続ける。
「残念ながら、医者は一人ではメドック・システムに入れないんだと、説明しておいた。遠隔操作が出来ないからね。誰かいないと蓋を閉じることも出来やしない。蓋の閉じないメドック・システムに朝まで横たわっていても、不毛だろう?」
「調子に乗って、飲み過ぎなんですよ、先生!」
横から、サーシャが大声を上げる。
きゅっと、メリーウェザ先生が肩をすくめて、苦笑いをした。
「ああ、解ったから。そう怒鳴るな、サーシャ。脳に響く」
手酷い頭痛も、何だかメリーウェザ先生は楽しんでいるようだった。
そう言えば、宇宙船に乗っていた頃は、いつも酔いつぶれた彼女を叔父さんが自室へと運んでくれたと言っていた。
彼女にとっては、二日酔いの頭痛も馴染みがあるものなのだろうか。
宇宙船乗りには、酒豪が多いという話はよく聞く。
名だたる伝説的な船長たちも、その手の話に事欠かない。
「ご体調はいかがですか、ドルディスタ・メリーウェザ」
ゆったりとした歩容で近づきながら、リュウジが微笑む。
「脳内で、相当アセトアルデヒドが悪さをしているようですが、随分とご機嫌ですね」
リュウジの眼には、青ざめた顔のメリーウェザ先生が、上機嫌に見えるらしい。
にやっと、ミア・メリーウェザが笑う。
「そうだね。昨日は上手い飯と酒が飲めたからね。リュウジは平気だったか」
そうだ。
メリーウェザ先生と同じぐらいの量を、リュウジも飲んでいた。
「お陰さまで、大丈夫ですよ。あれはシララル酒で、ファグラーダ酒ではありませんでしたから」
「なるほどね」
リュウジは言葉を切ると、メリーウェザ先生の顔をしばらく見つめる。
「お昼をどうせならご一緒に、と思ったのですが……どうやら、ご無理のようですね」
メリーウェザ先生はきゅっと、茶色の眉を両方上げる。
「ああ。胃に優しいパウチがせいぜいだな。せっかくの心遣いを、すまないね」
笑いを含んだ声に、静かにリュウジはうなずいた。
「では、またの機会に。ぜひ、お食事を一緒にさせてください」
瞳が真っ直ぐに彼女を見つめる。
ふっと、彼女は笑う。
「その時は、もうシララル酒は止めておくよ。飲み口は柔らかいが、後が強烈だ」
メリーウェザ先生が、肘をついてリュウジを見上げる。
「シララル酒ってのは、まるで君みたいだな、リュウジ。花の香を漂わせて、当たりの柔らかさに度を超してしまうと、飲んだ後痛い目に遭う」
また、彼女は優雅に片目を瞑《つぶ》る。
「そうは思わないかい?」
リュウジは楽しそうに笑う。
「ファグラーダ酒みたいだと言われるよりはましですね。褒め言葉と取っておきます。ドルディスタ・メリーウェザ」
その言葉に、メリーウェザ先生はちょっと眉を上げて見せた。
*
荷物をメリーウェザ医師の倉庫に託し、短時間でハルシャたちは、オキュラ地域を後にした。
飛行車を長く路上に放置するのは危険だと、リュウジが判断したからだった。
狭い通路に、器用にヨシノさんは飛行車を停めている。
「これから、どこへ行くの?」
ふわっと浮いた飛行車の中で、発したサーシャの問いかけに、リュウジが丁寧に答えを返している。
「お腹が空いたでしょう。昼食を兼ねて、これから僕たちが泊まることになる『アルティア・ホテル』へ参りましょう」
ええっ! と、サーシャが驚いていた。
「ホテルに泊まるの?」
「これからの落ち着き先が決まるまで、便宜上滞在するだけです」
お金がいるのではないかと気にしているサーシャに、
「同じホテルに、サーシャを助けて下さった、マイルズ警部たちも泊まっています。警部たちは、あなたのその後を心配していましたから、元気なお顔を見せると、喜ばれると思いますよ」
と、温かな声で告げている。
さらにリュウジは、サーシャを直接あの場から連れ出してくれたのは、アンディ・コナーズという巡査部長ですよと、少し小声になって教えている。
なら、お礼をきちんと言わなくてはならないと、サーシャは考え始めたようだ。
「今は、外へ出ていますが、夕方には皆さんお戻りになると思います。今夜は警部たちと一緒に、夕食を頂きましょう」
リュウジの提案に、サーシャは目を輝かせた。
「今晩も、お外で食べるの!?」
とんでもないプレゼントをもらったように、弾んだ声で言う。
切り詰めた家計の中で、やりくりしながらなんとか食費を捻出してきた生活が、サーシャにその言葉を言わせているようだ。
たぶん、ハルシャと同じ痛みを、リュウジも感じたのだろう。
微笑みを浮かべて、優しい声で呟く。
「住む場所が決まるまで、しばらく外食生活です。好きなものを食べていいのですよ、サーシャ」
とっさに、サーシャが自分へ視線を向けてくる。
兄に、許可を得ようとするような態度に、再び胸が痛んだ。
「お父さまが、残してくれた遺産があるようだから」
ハルシャは、思わずサーシャに言っていた。
「心配しなくても大丈夫だ、サーシャ」
やっと、それで納得したらしい。
膝の上に置いていたぬいぐるみ生物を、嬉しそうに抱きしめている。
五年間、懸命に身に着けた生活が、変化を始めている。
対応しなくてはならないと、解りながらも、不思議な痛みのような感覚が、内側から湧き上がってくる。
五年前まで、当たり前だった生活に、リュウジはゆっくりと自分たちを、戻そうとしてくれている。
食事を外ですることも、ふかふかのベッドで眠ることも、日常だった。
けれど。
かつての暮らしは、どれほど贅沢な生活だったのかを、五年で思い知った。
立場が弱い者の痛みも、貧しさの辛さも、自分たちはオキュラ地区で教えられた。
けれど。
人は豊かさにすぐに慣れてしまう。
あれほど懸命に身に着けたものが、あっさりと身から失われていくような気がする。
リュウジは、オキュラ地域で過ごした五年間を、悪夢だと言い切った。
ジェイ・ゼルと過ごした時間のことを――吐き捨てるように。
それが、どうしようもなく、苦しかった。
困難と屈辱に満ちた日々だったが、その中で痛みと弱さに寄り添ってくれる、人の心の温かさを知った。
ハルシャは、楽しそうにリュウジと話す妹を視界に捉えながら、唇を噛んだ。
いつか――
流されていく中で、大事なものを喪失してしまいそうな予感が、ハルシャの胸を締め付けていた。
*
ホテルに着き、部屋に向かうチューブの中で、笑顔でリュウジが言った。
「引っ越し作業で、さぞおくたびれでしょう。ルームサービスを頼んでおきましたから、食事にしましょう」
サーシャが、小声で自分に、ルームサービスの意味を尋ねてくる。
ホテルの部屋に食事を運んでくれるのだと答えると、大喜びをしていた。
サーシャは、はじめて見るホテルの内部に、昂奮が隠せないようだった。
ぎゅっと、ハルシャの服をつかんで、せわしなく辺りに視線を向けながら、歩いていく。
「サーシャ。あまりきょろきょろするのは、みっともない」
と、つい、ハルシャはたしなめてしまった。
注意を受けてからは、真っ直ぐに前を見て歩くが、目がキラキラと輝いている。
部屋に入ると、サーシャは思わず歓声を上げていた。
「すっごく広いお部屋だね!」
わぁーと、嬉しそうに、サーシャが入口に立ちすくんで部屋を見つめる。
そうだ。
これまで、三人寝れば一杯の部屋で、五年間過ごしてきた。ここは、以前の部屋が軽く三つは入るほどの広さがある。これまでの部屋に比べれば、別天地のように見えるのだろう。
「気に入って頂いて、とても嬉しいです」
と、リュウジが我がことのように喜んでいる。
「ここで、しばらく過ごすことになります。お家と思って、くつろいでくれたらいいのですよ、サーシャ」
ハルシャの服を握りしめたまま、しばらくサーシャは入口から動かなかった。
「ここからだと、学校は遠いね」
ぽつりと、サーシャが呟いた。
家、というリュウジの言葉に、反応したらしい。
引越しをして、オキュラ地域に家がなくなってしまったことを、今ようやく、現実としてサーシャは受け入れたのかもしれない。
「そうだな」
ハルシャは、サーシャに視線を向け、言葉を返す。
「生活が落ち着くまで、数日間お休みを頂くことも考えていた。また、リュウジと相談しよう」
漠然とした中に道を示したことで、ちょっと、サーシャは落ち着いたようだ。
いつもの笑顔を浮かべて、
「そうだね、お兄ちゃん」
と、明るい声で言う。
不安をこうやって彼女は一人で飲み込んできたのだと、気付かされる。
わがままも反抗も、オキュラ地域で暮らし始めてから、彼女はほとんど口にしていない。
自分が、言わせなかったのだ。
黙って耐えさせていたことが、辛かった。
「また後で、今後のこともリュウジと話し合おう」
ハルシャの言葉に、こくんとうなずいてから、やっとサーシャは部屋に足を踏み入れた。
ベッドが広くてふかふかなことに感動し、照明の豪華さに嘆息し、窓からの眺めに歓声を上げ、サーシャは短い時間で部屋の中を探索して歩いていた。
その姿をソファーに腰を下ろして、にこにこしながらリュウジが見守っている。
「夜になると、もっと窓の外の眺めがきれいですよ」
外を見るサーシャの背中に、リュウジが声をかけている。
ハルシャはリュウジと向き合うソファーの位置に座り、居心地の悪さを何となく、感じていた。
昨日、座っていた場所と同じだ。
傍らにいたリュウジが前にいるだけで……そのことが、記憶をまざまざと蘇らせる。
「何だか、夢みたい。本当にここでしばらく暮らすの?」
サーシャが、振り向いてリュウジに問いかけている。
「そう長くならないと思いますよ」
愛想よく、リュウジが応えている。
「なので、お部屋での暮らしを満喫してください」
言葉が途切れた後、軽く扉が叩かれる音がした。
「失礼します。お食事をお持ちいたしました」
声に反応したのは、ヨシノさんだった。
さっと立ち上がると、迷いのない動きで扉へ向かう。
微笑んだままリュウジが
「サーシャ。お待ちかねの昼食が来たようですよ。人数が多いので、ソファーに座って頂きましょう」
と、声をかけている。
部屋に備え付けられているテーブルに椅子は、二つしか置かれていない。ツインの部屋なので、二人客を想定しているのだろう。
制服に身を包んだ給仕が、ワゴンを押しながら入って来た。
「ありがとうございます。この上に置いてください」
と、リュウジが声をかけて、ソファーの前の小卓を示している。
「かしこまりました」
給仕は、よく躾けられた動きで、ワゴンから銀色の丸盆を滑らせるようにして、取り出す。
そこには、半円球状のこれも銀色の蓋がされていた。
丁寧に小卓に置くと、彼は移動時の塵除けだった蓋を、さっと外した。
瞬間、ハルシャは現れた料理から目が離せなくなった。
それは――
表面をこんがりと焼いたホット・サンドウィッチだった。
不意打ちのように、記憶が蘇る。
おいしいかい、ハルシャ?
優しい、ジェイ・ゼルの問いかけが、耳の奥に響いた。
焼きたてのこうばしい香りを漂わせるサンドウィッチから、ハルシャは目を外すことが出来ず、ただ、動きを止める。
サーシャが隣に腰を下ろし、小さな歓声を上げている。
給仕は飲み物も四つ、机の上にセッティングし、来た時と同じように、優雅な動作で礼をしてから、辞去していく。
ヨシノさんが、見送り戻ってきても、まだ、ハルシャは動けなかった。
「軽くつまめるものを、とサンドウィッチにしたのですが、お気に召したら嬉しいです」
笑顔でリュウジが言う。
「ありがとう、リュウジ! とっても美味しそうだよ」
サーシャの弾んだ声が聞こえる。
「お腹が空いたでしょう。早速いただきましょうか」
「うん!」
サーシャが食事前の祈りを捧げている。
それでも、ハルシャは凍り付いたように、ただ、ホット・サンドウィッチを見つめ続ける。
ジェイ・ゼルの声が、耳に響き続けていた。
静かに微笑みながら、彼は呟いていた。
それほど、君がおいしいと感じるのなら――
私にも、それを食べさせてくれないか、ハルシャ。
長く深く愛し合った後、彼と過ごした時間が蘇る。
優しい呟きと、愛しげな微笑みと、重ねた唇の熱と――
全てをまだ、憶えている。
愛し合いたいと求めた自分の言葉だけで、彼は瞳の色を変じてくれた。
あの時は、確かに永遠を感じたというのに。
どうして。
どうして、もう――
ジェイ・ゼルに、逢えないのだろう。
「ハルシャ」
不意に、リュウジの声が響く。
静かな問いが、呼びかけの後に続いた。
「なぜ、泣いているのですか」
泣いている?
自分が?
ようやく、ハルシャは視線をサンドウィッチから上げて、リュウジへ向けた。
頬を、温かな液体が滑り落ちた。
自分は――泣いているのか。
「お兄ちゃん……」
戸惑ったサーシャの声が聞こえた。
兄の涙を初めて見たことに、彼女は動揺している。
何かを言わなくては。
大丈夫だ。
少し、心が乱れただけだ。
言わなくては――解っているのに。
言葉が、喉から出ない。
「サーシャちゃん」
声をかけながら、ヨシノさんが立ち上がった。
「ホテルのレストランへ参りましょうか。そこで、私と一緒に食事にしましょう」
「え? でも……」
妹が、困惑したままハルシャへ視線を向けてくる。それでも、ハルシャは反応出来なかった。
「大丈夫ですよ。さあ。参りましょう」
机を回り、ヨシノさんがサーシャを立たせた。
腕を取り、彼女を優しく誘導して、静かに部屋を出て行った。
二人が去った静寂の中で、ハルシャはただ、無言でリュウジを見つめ続けていた。
長い沈黙の後、リュウジが口を開いた。
「なぜ、泣いているのですか、ハルシャ」
優しい問いが、彼の口からこぼれ落ちる。
ようやく、ハルシャは動いた。
小さく、首を横に振る。
「解らない」
かすれた声が、喉から絞り出すように出る。
「解らないんだ、リュウジ」
小さく、首を振り続ける。
「ジェイ・ゼルと、最後に一緒に食事をしたのが、ホット・サンドウィッチだった。それだけなんだ――それが」
喉が詰まって、声が出ない。
どうして。
あの時、ジェイ・ゼルが望むことをしなかったのだろう。
口移しで食べさせてくれと、彼は言ったのに。
なぜ、自分は拒んでしまったのだろう。
もう、二度と逢えないと知っていたら――決して、拒みはしなかったのに。
あれが、彼との最後の食事になるなど、あらかじめ知らされていたら、どんなことでも為したのに。
そんなことすら、後悔として胸を掻きむしる。
なぜ、自分は泣いているのだろう。
しかも、妹の前で――皆に心配をかけると、解っているのに。
どうして。
涙を止めることが出来ないのだろう。
ぽろぽろと、頬を滑り落ちる涙を見つめてから、リュウジが口を開いた。
「ジェイ・ゼルに、会いたいですか、ハルシャ」
こぼれ落ちる涙を拭うことすらせずに、ハルシャは目を上げてリュウジを見つめた。
逢いたい。
喉から出そうになった言葉を、ハルシャは歯を食いしばって堪えた。
荒ぶる感情を押さえつけてから、歯の間から絞り出すように、呟く。
「ジェイ・ゼルは、ここへ来るなといった」
言葉が、心を抉る。
「もう、私に、彼は逢ってくれない」
一度言い出したら、彼は自分の考えを押し通す。最後に譲るのは、いつもハルシャだった。その積み重ねの五年間だった。
「ジェイ・ゼルには、逢えない」
言い終えた後、涙が、溢れた。
逢いたい。
言葉にならない声で、ハルシャは心の奥底に叫んでいた。
ジェイ・ゼルに、逢いたい。
静寂の中、ただ、ハルシャは、黙したまま頬を濡らし続けていた。
落とした視線が、きれいに並べられた、ホット・サンドウィッチを捉える。
あの時、彼は旅先から、わざわざ料理を運んでくれたのだ。
給仕の出入りを気にしていたハルシャのことを、彼は覚えていてくれた。
その上で、自分を喜ばせようとしたのだ。
彼はいつも、行為の前に自分を食事に招いた。
食事中に手を止めて、一心に自分を見つめていた眼差しが、蘇る。
監視されていると、それまでずっと思っていた。
だが。
違った。
今も昔も、彼は同じ眼差しを、自分に注いでくれていたのだ。
命の糧を口にする自分を――彼は、慈しむように、ひたむきに見つめ続けていた。真意を悟られることを恐れるように、マナーに見惚れていたと、違う言葉にすり替えながら。
太陽の温もりに包まれるように、それと知らずに、自分はジェイ・ゼルの優しさに守られてきていた。この五年間、ずっと。
もう会えない今になって、どうして、そんなことに気付かされるのだろう。
「ジェイ・ゼルに、会いたいですか?」
長い沈黙の後、リュウジが再び同じ問いを口にした。
ハルシャは、視線を上げた。
笑みを消し、真剣な眼差しで彼は自分を見つめていた。
リュウジのこの顔を、かつて見たことがある。
そうだ。
自由になりたいかと、問いかけられた時だ。
借金があるから無理だと答えたハルシャに、あなたの本心を聞かせてくれと、リュウジは再び問いかけた。
あの時と同じ、強い視線で彼が見つめる。
あなたの本心を教えてください。
ハルシャは、ジェイ・ゼルに、会いたいのですか?
声にならない、彼の言葉が聞こえた。
リュウジが聞こうとしてくれている。
自分が言えない心の奥深くを――さらしてくれと。受け入れると。
眼差しの強さが、ただ、ハルシャの心を打った。
「ジェイ・ゼルは――」
逢ってはくれない。
と、言おうとして、言葉が詰まる。
出せない言葉の代わりに、涙があふれて、頬を伝い落ちる。
整理しきれない、感情の嵐が内側に荒れ狂う。
「ハルシャは、ジェイ・ゼルに、会いたいのですか?」
三度目の問いが、思わぬ優しい口調でリュウジの口から、こぼれた。
歯を食いしばると、ハルシャはただ一回、頭を縦に揺らした。
逢いたい、と。
言葉には、出来なかった。
「そうですか」
静かにリュウジが呟いた。
「今のままでは、あなたが苦しいだけですね」
内側に向けたような言葉だった。
短い沈黙の後、視線を落とすと、
「
と、小さくリュウジが呟いた。
「今どこにいる」
通話装置の影も見えないのに、リュウジはどうやら、ヨシノさんと話をしているようだった。
「今から、ハルシャをジェイ・ゼルの事務所へ連れて行ってあげてくれないか。必ず、一緒に帰ってきてくれ。うん。サーシャの注文はそのままにしてくれないか。僕が代わりにそちらに行く」
事態を飲み込めないハルシャの前で、リュウジは通信を切ったらしい、顔を上げてハルシャを見た。
「今、
僕はサーシャと一緒に、レストランで食事をします。
ハルシャは、ジェイ・ゼルの事務所へ行って下さい。そこで、彼としっかりと話をしてきてください」
驚きが、涙を止めた。
「リュウジ」
さっと彼は顔を逸らした。
「大変不本意です。ですが――このままでは、ハルシャの心が壊れてしまいます。ジェイ・ゼルに会ってきてください。
あなたの思うような人物なのかどうか、もう一度きちんと、ご自分の目で、しっかりと確かめてきて下さい」
最大の譲歩を、リュウジが示してくれていることだけは、理解出来た。
黙り込むハルシャに、リュウジが言葉を続ける。
「ただ、一つだけ、お約束ください」
呟いてから、彼は顔を戻して、ハルシャへ視線を向けた。
藍色の瞳が、自分を真っ直ぐに捉える。
「必ず、僕の元へ、戻ってきてください」
発せられた言葉の真剣さに、ハルシャは一瞬気圧されてから、覚悟を決めて頷いた。
「解った、リュウジ」
ふうっと、大きくリュウジが息をついた。
「サーシャは、僕が責任を持ってお預かりしておきます。
念を押す言葉に、頷きながらハルシャは答えた。
「解った。ありがとう、リュウジ」
逢ってはもらえないかもしれない。
けれど。
逢いたいという気持ちは、ジェイ・ゼルに伝えることが出来る。
それだけでも、ハルシャにとって希望のように思えた。
鍵を手に取ると、リュウジは立ち上がった。
「行きましょうか、ハルシャ」
言いながら歩き出したリュウジの背に、ハルシャは従った。
その足が信じられないほど軽いことに、自分でも驚くほどだった。
※リュウジは、ハルシャの涙に弱いようです。
次はいよいよ……(ドキドキ)