ほしのくさり

第156話  引っ越し作業





「おはようございます! ハルシャ、サーシャ」
 元気なリュウジの声が、扉の向こうから聞こえている。
 軽いノックの音に、様子をうかがうような沈黙が続き、
「早すぎましたか? まだ、お休みですか?」
 と、ためらいがちの声がくぐもって聞こえる。
 ハルシャは、飛び起きた。

 もう、日が高くなっている。
 しまった、と、ハルシャは心の内に舌打ちをした。
 リュウジが来ることが解っていたのに、夜明け前に寝入ってから今まで、サーシャと二人で眠り込んでいた。
 そのまま起き上がり、慌てて扉に向かう。
 鍵を解放した向こうには、笑顔のリュウジと、後ろに静かに佇むヨシノさんがいた。
「すまない、リュウジ。寝過ごしてしまったようだ」
 まだぼんやりする頭を懸命に動かし、ハルシャは詫びを呟いていた。
 寝起きのハルシャの顔に目を止めてから、リュウジは眉を寄せて首を振った。
「僕が待ちきれずに、早くに押しかけてしまったのです。こちらこそ、安眠のお邪魔をしてしまい、申し訳ありません」
 リュウジの視線が、ちらっと、上に動く。
 髪を見ているのだ。
 恐らく、寝ぐせがついているのだろう。髪質のせいか、寝るたびにハルシャの髪は、独創的なはね方をする。
 顔を赤らめながら、何とか寝ぐせを静めようと、手で押さえつつハルシャは扉を大きく開いた。
「まだ布団が敷きっぱなしだが――中に入ってくれ」
「お引越し用に、コンテナを持ってきました。これに入れて、家財道具を持ち運びましょう」
 折り畳み式のコンテナと、掃除道具を携えて、リュウジとヨシノさんは来てくれたようだ。その上、ヨシノさんは、いつもの服装ではなく、ラフな作業着で来てくれている。引っ越しの手伝いへの気合のようなものを、ハルシャは感じ取った。
「ありがとう。ヨシノさんも……手伝って下さるのか?」
 ハルシャの問いかけに、リュウジが頭を揺らす。
「お時間があるので、お手伝い下さるそうです。人手がある方が、作業が早く進みますから、僕がお願いしました」
 優しい笑みが、リュウジの顔に浮かぶ。
「連絡を入れたら、マイルズ警部たちも荷物の運び出しを手伝って下さると、おっしゃっていました」
「マイルズ警部が?」
「多分、警部の部下の二人ほどを、派遣して下さるのだと思います。運び出しには、人数が居た方が何かと便利ですから」

 リュウジは、引っ越しに当たって、何から何まで、手配をしてくれているようだ。
「お掃除込みで、午前中に終わるように、頑張りましょう!」
 部屋に入りながら、リュウジが機嫌よく、ハルシャに声をかける。
「ん~、リュウジ?」
 やっと目を覚ましたらしく、布団からもそもそとサーシャが起き上がり、目を擦りながら呟いている。
声に起こされたのだろう。

「おはようございます、サーシャ。お約束通り、戻りましたよ」
 靴を脱ぎ、きちんと揃えてからリュウジが部屋に一歩を踏み出す。
「おはよう、リュウジ」
 寝ぼけまなこで、返事をしたサーシャは、その後ろにヨシノさんがいることに気付き、ぴんと背中を伸ばした。
「お、おはようございます、ヨシノさん!」
 裏返った声で言ってから、急に真っ赤な顔になり、布団を身体に巻き付けている。
 ヨシノさんにパジャマ姿を見られたことが、恥ずかしかったようだ。

「おはようございます、サーシャちゃん」
 口角をかすかに上げて、ヨシノさんが挨拶を返す。サーシャはますます、顔を赤らめている。
 寝起きの兄と妹の姿を気にすることなく、リュウジは元気に宣言した。
「まず、お布団を上げるところから、作業を始めましょうか!」
 やはり、気合十分なような気がする。


 着替えて簡単な朝食をハルシャとサーシャが終えるころには、リュウジとヨシノさんは手早く手作りの棚を分解し、重ねた状態で結束具で縛っていた。
 コンテナの中には、作業に必要な工具や梱包材も入れられていた。
 本当に、リュウジは段取りが上手だった。
「サーシャ。お台所の片づけをしましょうか」
 梱包材を手に、リュウジが言う。
「ハルシャとヨシノさんは、荷物をコンテナに入れていかれてはどうですか」
 さりげなく、リュウジが作業の指示をする。
 的確に作業を割り振ってくるので、とてもスムーズに進めることが出来る。
 ハルシャは、ヨシノさんと協力して、壁から時計を外し、服や少ない所帯道具をコンテナに詰める作業を始めた。

 台所で、サーシャとリュウジは会話を交わしながら、作業を続けていた。
 狭い部屋のため、会話がそのまま聞こえてくる。
 ヨシノさんが黙々と作業をしているので話しかけることも出来ず、ハルシャは何となく、二人の交わす言葉に耳を傾けていた。

「リュウジは、記憶が戻ったんだね。昨日、お兄ちゃんから聞いたよ」
「――はい。黙っていて申し訳ありませんでした。驚かすつもりはなかったのですが」
「いいよ。謝らなくても」
 一呼吸あってから、サーシャは努めて明るい声になって、言った。
「おめでとう、リュウジ。記憶が戻って良かったね」
 静かなリュウジの声が聞こえる。
「記憶が戻っても――サーシャとハルシャは、僕の大切な家族です」

 決意のこもった声に、ハルシャは思わず、二人へ顔を向けた。
 サーシャとリュウジは、台所の食器を梱包材で包みながら、会話をしていたようだ。
 優しい笑みを浮かべて、リュウジがサーシャに告げている。

「この先も、ずっと一緒に暮らせれば良いと、心から思っています。サーシャ」
 眼差しの深さと言葉の柔らかさに、自分の考えを相手に押し付けない一歩を引いた思い遣りを感じた。
 サーシャは、リュウジを見上げたまま手を止めていた。
「お兄ちゃんから聞いたよ。帝星へ、一緒に行こうってリュウジが言ってくれているって」
 リュウジが笑みを深めた。
「そうなると、とても嬉しいと僕は思っています」
 サーシャは、しばらくリュウジの藍色の瞳を見つめていた。
「帝星って、どんなところなの? サーシャはラグレンしか、知らないから……教えて。リュウジ」
 にこっと笑って、リュウジが頷いた。
「もちろんです、サーシャ」

 そこから、リュウジは、帝星ディストニアは、緑が溢れる美しい惑星だと、サーシャに語る。
 サーシャはびっくりしていた。
 植物を育てると言うことは、ラグレンではとんでもない贅沢な行為なのだ。
 飲み水ですら困窮しているのに、惜しみなく鉢植えに注ぐのは、富裕層にしか許されていない。それが大地に直接生えていると言うことに、目をまん丸にしている。
 リュウジはにこやかに説明を続ける。
 帝都ハルシオンには、皇帝陛下の住む大きな宮殿があり、そこで大きなお祭りがあること。
 とても治安が良く、安心して暮らせると語り、こことは違い、空には雲が浮かび、湖もあって、とてもきれいなところだと教えていた。

 ハルシャも、作業を再開しながら、リュウジの説明に耳を傾ける。
 帝星ディストニアのことは、幼い頃に何度か立ち寄った情報しか、自分は持っていない。
 サーシャは一度も訪れたことがないのだと、今更ながら気付く。

 帝星は遠い。
 一度惑星トルディアを離れたら、もう戻れないかもしれない。
 そこで暮らすことは、どうなのだろう。
 豊富な水が生活の中に当たり前のようにある、帝星。
 習慣も何もかにもが、惑星トルディアとは、違うのだろう。
 ふと、リュウジが唇を重ねてきたことを、ハルシャは思い出す。
 帝星の人はそういう習慣があると、以前にリュウジは言っていた。親愛の情を示すのに、ああいう行動に出てしまうのだと。一回、帝星の習慣とはいえ、受け入れ切れずに思わず拒否してしまった時、リュウジはひどく傷ついた顔をした。
 あの習慣は、帝星で、ごくごく一般的なのだろうか。
 もし――帝星でそれが日常なら……唇を重ねることが、親愛の情を示すのだとしたら……。
 サーシャと自分は、その習慣に馴染めるだろうか。

 思わず、前で作業をするヨシノさんに尋ねようとして、ハルシャは言葉を飲んだ。
 何を訊こうとしているんだ、と、自問自答する。
 羞恥に顔が赤らんでくる。
 もし、それが習慣なら、受け入れるしかないだろう。
 ――帝星人は、皆、ジェイ・ゼルのようだと思えばいいだけだ。
 その発想に、ふと、ハルシャの手が止まった。

 もしかしたら、ジェイ・ゼルは、帝星で暮らしたことがあるから、簡単な挨拶のように唇を覆ってくるのだろうか。
 それが日常だったと、彼は以前に言っていた。
 言葉が語られた瞬間に心が戻り、思い出に、胸が締め付けられる。
 膝の上で抱きしめられていた感覚と、耳元にこぼれる言葉と、ジェイ・ゼルのさわやかな香りが……無性に懐かしかった。

 朝、訪れてから、幾度かリュウジはハルシャの決断を聞きたがっていた。
 帝星ディストニアに行くのか、惑星トルディアに残るのか。
 明確に返事が出来ず、水を向けられるたびに、ハルシャは黙り込んでしまった。
 迷っていた。
 サーシャのためには、帝星へ行くのが良いと解りながら――
 ジェイ・ゼルに逢えなくなることが、魂が引きむしられるように辛かった。

「このお皿は、処分いたしましょうか」
 リュウジの声が聞こえた。
「端が欠けていますから――」
 帝星へ移るにしても、荷物は少ない方がいい。移動するなら宇宙船に積まなくてはならない。確か、積載規制があるはずだった。不要なものは、処分するのが妥当だ。
 そのために、廃材屋のような職業がラグレンにもあった。
「で、でも」
 リュウジの言葉に、サーシャの戸惑った声が応えた。
「これは、リュウジのために、大将が下さったお皿だよ……」
 声にこもる切迫したものに、ハルシャは再び二人へ顔を向けていた。
 サーシャは、大事そうにお皿を握りしめて、リュウジを見つめていた。
「捨てられないよ、リュウジ」

 リュウジは、無言だった。
 ひどく驚いたように、彼は目を開いていた。
「サーシャ」
 ハルシャは思わず立ち上がって、サーシャの側に歩を進めた。
「不必要な物は処分して、身軽になることも、大切だ」
 サーシャの肩に触れて、意識を向けさせる。
「取捨選択をする必要があるんだ。リュウジの言う通りにしてくれないか。サーシャ」
 ぎゅっと、サーシャの眉が寄せられた。
「でも――お兄ちゃん……」
 サーシャの言葉を、リュウジが途中で切った。
「僕が間違えていました、サーシャ」

 優しい笑みを浮かべながら、握りしめるお皿を、サーシャの手からするりと引くと、梱包材に包み始めた。

「これは、人の思いが籠った、大切なお皿ですね。持って行きましょう。引っ越し先でも、大事に使うことにいたしましょう」
 丁寧に包む指先を見つめながら、サーシャがほっと息をついた。
「ありがとう、リュウジ」

 包み終えると、彼は小さく頭を振った。
「サーシャには、いつも大切なことを、僕は教えてもらっています。ありがとうございます」
 リュウジの言葉の意味が、よく飲み込めなかったようだ。
 瞬きを数度した後、
「リュウジは、サーシャに方程式の解き方を教えてくれたよ。サーシャの方が、ありがとうだよ、リュウジ」
 と、サーシャが小首を傾げた。
 その言葉に、本当に嬉しそうにリュウジが笑った。
「では、サーシャは僕の先生でもあり、生徒でもあるんですね」
「なら、リュウジも、サーシャの先生だけど、生徒なんだね」
 顔を見合わせて、にっこりと微笑み合う。

 良く解らないが、それで二人は打ち解け、仲直りしたらしい。
 もう大丈夫だよお兄ちゃんと、明るく宣言して、二人は台所道具の梱包に再び着手した。

 調理道具は、大家さんから借りている物が多い。サーシャはきちんと覚えていたようだ。こっちは、大家さんにお返しするもの、と、仕分けをしている。
 丁寧に使い込まれた道具を見つめながら、体には大きすぎるフライパンを懸命に揺すってサーシャが料理を作っていた、かつての日々が脳裏をよぎる。
 暗黒の中を走り続けている状態だったあの頃、サーシャの屈託ない笑顔だけが自分の支えだった。

 つくんと、胸が痛んだ。
 昨日のサーシャの告白が、後からじわじわとハルシャの胸を締め付けてくる。
 何の予備知識もなく、突然叩きつけられた両親の死の真相を、この子は誰にも言うことが出来ず、自分の心の中だけに抱え続けていたのだ。
 残酷なことだ。
 このオキュラ地域で、サーシャはあきらかに毛色が変わっている。
 だから、人目を引いてしまうことは解っていた。
 ダーシュ校長はそのことも含めて、サーシャの周囲に気を配ってくれていたが、目が届かない場所はどこにでもある。
 自分が工場で受けていたような陰湿な扱いを、サーシャも味わわされていたのかもしれない。
 心配をかけまいと、兄に一言も言うことすら、出来ずに。
 そう思うと、居たたまれなかった。

 眉を寄せてサーシャへ視線を向けたまま、どうやら自分は動きを止めていたらしい。
 ふと、気付くとリュウジが自分を見つめていた。
 梱包材で、お皿を養生しながら、静かな視線が自分を包んでいる。
 藍色の、深い瞳だった。
 笑みを消し、一心に視線を注いでいる。
 ハルシャの心の動きに、懸命に耳を傾けているような表情だった。

 何の前触れもなく、昨日のソファーの上での出来事が記憶に蘇り、かっと、ハルシャの顔に朱が散った。

「あと少しで、コンテナに荷物を詰め終わる」
 ハルシャは、慌てて言葉を発していた。
 懸命に動揺を押し隠す。
 リュウジは、単に帝星の習慣に従って、親愛の情を示していただけかもしれないのに……。
 妙に捻じ曲げて考えてしまう自分自身が、恥ずかしかった。

 リュウジの顔に、再び笑みが浮かぶ。
「こちらももうすぐ終わりそうです。作業が終わったら、お掃除をして、大家さんにご挨拶に参りましょう。お返しする調理道具もありますし。お世話になったお礼を僕も一緒に申し上げます」
 昨日のことなど、何でもなかったかのようにリュウジが言う。
 顔を赤らめる自分が、ますます恥ずかしい。
「ありがとう。リュウジが一緒だと、心強い」

 自分だけだと、上手く話せないかもしれないと思っていたハルシャは、心底ありがたかった。
 リュウジの笑みが深まる。
 愛しげな眼差しに、どきんと、心臓が鳴る。
 昨日、初めて見せたリュウジの表情が、脳裏をよぎる。
「そ、それでは、向こうで作業に戻る」
「はい」
 愛想よく答えてから、リュウジがサーシャに顔を向けた。
「僕たちも頑張りましょうね、サーシャ」
「うん、リュウジ」

 二人は本当の兄妹のように、仲良く作業をしている。
 その様子に一瞬目を止めてから、ハルシャはヨシノさんの元へ戻った。
 荷物はほとんど、詰め終わっている。
 ヨシノさんは、本当に作業が早い。

「すまない、ヨシノさん……向こうで話している間に……」
「そのために来たのだから、遠慮しないでくれないか、ハルシャくん」
 ヨシノさんは部屋を見回す。
「荷物を除けた後を、掃除して行こう――それが終われば、引っ越しの準備は終了になる」
 迷いのない、落ち着いた声だった。
 ヨシノさんが、部屋からハルシャへ視線を戻した。
「掃除は得意なので、任せてもらうといい、ハルシャくん」



 言葉通り、ヨシノさんは恐ろしいほどに、掃除上手だった。
 壁から床まで、てきぱきと作業を進め、あっという間に五年間の汚れが拭いされれていく。
 元々荷物も少なかったことと、強力な助っ人のお陰で、お昼を少し過ぎるぐらいに、全ての家財道具が三つのコンテナの中に納まっていた。
 部屋は、ピカピカに磨き上げられている。
 ほぼ、ヨシノさんの功績だった。
 がらんとした部屋は、五年前、初めて足を踏み入れた時を思い出させる。
 あの時の感情までが蘇り、ハルシャは言葉を無くして、生活感がなくなった部屋を見つめ続けていた。

「このコンテナと、お布団ですが――」
 ハルシャの傍らで、リュウジが口を開いた。
「考えたのですが、一時的にドルディスタ・メリーウェザのところで、預かって頂くというのはどうでしょうか。ドルディスタの倉庫には、まだ余裕があったと思います」
 以前、備品を搬出する時に、リュウジはチェックを入れていたようだ。
 返事をしないハルシャに、にこっと笑みを向けると、
「とりあえず、ドルディスタに打診してみますね」
 と、ヨシノさんへ顔を向ける。
 通信装置を貸してくれませんかと頼み、リュウジはヨシノさんから受け取った。
 慣れた手つきで、番号を押している。
 サーシャが誘拐されたときに聞いていたメリーウェザ医師の番号を、今でもリュウジは覚えているようだった。

 通話が繋がるまでの間沈黙していたが、明るいリュウジの声が、部屋に響く。
「ドルディスタ・メリーウェザ。リュウジです。昨日は御馳走になりました。大変楽しい時間を、ありがとうございます」
 通話口の声に、リュウジが静かに微笑んだ。
「二日酔いですか? お声に元気がありませんが」
 何かをメリーウェザ医師が言ったらしい。リュウジは小さく笑った。
「そうですね。宇宙船乗りは酒豪が多いですから」
 何故か、ちらっと、笑みを含んだ視線がハルシャへ向けられた。
 すぐに視線を戻すと、リュウジは本題を切り出した。
「今、ハルシャの部屋の荷物を全てコンテナに詰め終わりました。はい。今日中にこの部屋を引き払うことになっています。
 コンテナは三つになったのですが、ハルシャたちの行く先が決定するまで、申し訳ありませんが、ドルディスタ・メリーウェザの倉庫で、彼らの荷物をお預かりいただけませんか?」
 短い沈黙の後、弾んだリュウジの声が続いた。
「ありがとうございます、ドルディスタ。ええ。もう作業は終わったので、これから大家さんにご挨拶をしてそちらへ向かいます。
 はい。
 ヨシノさんが飛行車を持ってきてくれたので、それで運びます。
 はい、気を付けます――では、後ほど」

 交渉は成立したらしい。
 笑顔でリュウジは通信を切った。
「快く引き受けて下さいました。お布団も一緒に預かって下さるそうです。ありがたいですね、ハルシャ」
 ふむ、と考えてから、
「この量だと、マイルズ警部にお願いするまでもないですね。せっかくのお申し出でしたが、お断りしておきましょう」
 と、独り言のように呟き、リュウジはヨシノさんの通信装置で簡単に連絡を済ましていた。
 リュウジは本当に段どりがいいと、ハルシャはただ、感心した。


 *


 大家さんへの挨拶も滞りなく済み、二つの部屋の鍵を返却してから、ハルシャとリュウジは徒歩で、メリーウェザ医師の医療院へ向かっていた。

 コンテナ三つで飛行車の座席は一杯になった。
 道案内係のサーシャがかろうじて乗り込んで、ヨシノさんと先に行ってもらい、ハルシャとリュウジは歩いて追いかけることにしたのだ。

 歩き出してから、しばらく二人は無言だった。
 大家さんには、あれほど感動的な謝辞を述べていたリュウジは、何故か口が重いらしく、黙って歩を進めている。
 ハルシャも話しかけにくくて、黙したまま足を動かし続ける。
 上流階級が忌避する、すえた臭いの漂うオキュラ地域。
 最初は戸惑いしか覚えなかったが、いつの間にかこの場所にも自分は馴染んでいた。
 その年月を、ふと、思う。

「――ハルシャは」
 不意に、リュウジが口を開いた。
「帝星には、行きたくないのですか」

 はっきりとしたリュウジの問いかけを、無視することも出来ずに、ハルシャは歩きながら、答えた。
「まだ、決断できていないんだ。すまない、リュウジ。急なこと過ぎて、考えがまとまらないと言った方がいい。
 昨日、サーシャにリュウジの記憶が戻った事実を含めて、話をしておいた。
 彼女は一番に、学校とアルバイトのことを心配した。
 帝星に行くのなら、学校は転校し、アルバイトは辞めるしかないと話したが、親しい人々との別れが辛いようだった」

 ハルシャの言葉に、リュウジは何も言葉を返さなかった。
 ただ、傍らを黙々と歩いている。

「サーシャのためには、帝星に行く方がいいと、思う」
 口にしながら、事実が胸に迫る。
「ラグレンに居れば、ヴィンドース家の子孫という目でずっと見られる。オキュラ地域に暮らすことで、サーシャは心無いことを言われたことがあるようだ。昨日ようやく話してくれた。これまでにも、もしかしたら再三あったのかもしれない」
 父と訪れた帝星は、華やかで平和でとても住み心地が良さそうだった。
「帝星は良い環境だ。リュウジの申し出は、本当にありがたく、もったいないほどだ。心から感謝している。ありがとう、リュウジ」

 ハルシャの呟きに、リュウジはすぐに返事をしない。
 しばらく無言で進んだ後、医療院が見える角に差し掛かってから、やっと彼は口を開いた。
「サーシャの事情は解りました」
 静かな声だった。
 前を見つめ続けていたリュウジが、不意に歩を緩めずにハルシャへ顔を向けた。
「あなたは」
 一瞬言葉を切ってから、意を決したように、リュウジが呟く。
「あなたは、どうなのですか。ハルシャ」

 言葉が、何故か胸に刺さった。

 見抜かれているような気がした。
 ラグレンを離れたくない、自分の心の深部を。
 少しでもジェイ・ゼルの側に居たいという、浅ましい考えを。
 全てリュウジは、見通しているような気がする。
 答えられずに、今度はハルシャが沈黙する。
 本音を告げれば、リュウジを間違いなく傷つける。
 ジェイ・ゼルから自由にするために、リュウジは限りない努力を払ってくれたのに、その想いを踏みにじるような行動を、心の底で自分は願っている。
 顔が、赤らむ。
 唇を、無意識に噛み締めるハルシャに、リュウジは語気を和らげて呟いた。

「鳥かごに、戻る必要は無いのですよ」
 不意に前を向くと、真っ直ぐに歩を進める。
「あなたには、自由に宇宙を翔ける翼があるのですから――籠の中は安全に見えますが、あなたを縛り付けるだけです。勇気を出して羽ばたけば、広大な宇宙があなたを抱きとめてくれます。
 あなたには聞こえるのでしょう――宇宙からの呼び声が」
 ハルシャの歩調に合わせて前に進みながら、リュウジは静かに告げる。
「帝星に行けば、宇宙飛行士の資格を取ることも出来ます。それが、ダルシャ・ヴィンドース氏の切なる願いでした。
 息子が自由に、宇宙を翔ける姿を見ることが――」


 ずんと、言葉が胸を打った。
 そうだ。
 父は自分が宇宙飛行士になることを、願っていた。
 心が、揺れる。
 最後の父の願いを、息子として叶えたい想いが湧き上がって来た。
 息子が幼い頃に懸命に語った夢を実現してあげようと、十年も前から父は方策を取り続けてくれていた。
 父のお陰で、リュウジはラグレンへ来てくれたのだと、事実を胸に受け止める。

 ハルシャの心の動揺を感じ取ったのか、リュウジは優しい笑みを再び向ける。

「お父さまが思い描かれた、宇宙船の設計図は今も残されています――夢は、語るためでなく、叶えるためにあるのですよ。ハルシャ」
 医療院の看板の近くに、ヨシノさんの姿があった。
 ちらっとそれを見ながら、リュウジが口早に言う。
「僕は、あなたが作った駆動機関部で宇宙を翔けてみたいです。嘘ではありませんよ、ハルシャ。その願いは、今も胸の中にあるのです」

 最初の時の話を、リュウジは覚えていた。宇宙幽霊のことを話した時だ。
 リュウジは、一度口に出したことは、責任をもって実行に移してくれる。
 誠実なのだと、改めて思う。
 だからなのだろうか。彼が傍らにいると、とても安心できる。
 あの時と同じ、深い宇宙の瞳が、自分を見つめていた。

「帝星なら、あなたの願いを叶えることが出来ます。幼い頃からの、大切な夢を――その手に掴めるのですよ。ハルシャ」

 微笑みを与えてから、彼は前を向き
「お待たせしました、ヨシノさん!」
 と、歩を早めて駆けていった。
 どきん、どきんと、ハルシャの中に鼓動が聞こえる。

 父が願ったことを、息子として実現したい。

 それまで見えていなかった人生の側面を感じ取り、ハルシャは黙することしか、出来なかった。
 メリーウェザ先生は、罪人でもそれが自分だと、言ってくれたのに。
 やはり、両親の死に関わっていたジェイ・ゼルを選ぶことに、罪悪感が湧き上がってくる。
 生まれ落ちてから、十五年間、両親にとって誇らしい息子でありたいと、願い続け行動を選んできた。
 ヴィンドース家の長子として、正しく誇り高くありたい。
 その倫理観が、再び自分を縛る。
 ジェイ・ゼルは、それを、鎖だと言った。
 幼い頃から自分を縛り付ける鎖だと――彼はそこから解き放とうとしてくれていたのに、気付けば今も、鎖は足首に絡みついているようだ。
 揺れる心を抱きながら、ハルシャはサーシャたちが待つ、メリーウェザ医師の元へと、足を速めた。








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