大きく、サーシャの目が見開かれた。
「リュウジは、私たちと別れたくないから、一緒に帝星で暮らそうと言ってくれている。
だが、帝星に行けば、ここで知り合った人たちとは、お別れしなくてはいけない。
サーシャは、どちらがいいだろうか」
触れている頭が、ぶるぶると震え出した。
「お兄ちゃん……それは、今すぐ決めなきゃ、いけないの?」
大きくハルシャは息をついた。
「急に言い出してすまない。サーシャ。少し、時間がいるな」
こくんと、サーシャがうなずく。
「サーシャは、リュウジとお別れしなくてはならないのは、辛いけど、メリーウェザ先生や大将たちとお別れするのも苦しいよ」
涙が目に浮かぶ。
「でも、どちらかを、選ばなきゃ、いけないんだよね、お兄ちゃん」
「そうだね。リュウジにも都合がある。早く結論を出さないと、彼に迷惑をかけてしまう」
こくんとうなずいてから、大きな青い瞳がハルシャを見上げてくる。
「お兄ちゃんは――どちらが、いいの?」
問いかけの切実さが、胸を打った。
だから、本当のことを、ハルシャは告げた。
「迷っている。サーシャのためには、帝星に行くのが良いかとは思う、だが」
「どうして、サーシャのためなの?」
母と同じ、優しい大きな青い瞳が、自分を見つめている。
美しい人だった。
優しい人だった。
なのに――あんなに酷い姿に、されてしまった。
その傷が、心の奥から、湧き上がってくる。
「サーシャ」
瞳を見つめながら、ハルシャは呟いた。
「もう一つ。サーシャに言っていないことがある」
身が震えそうなのを、叱責しながら、ハルシャは言葉を続けた。
「両親の――死のことだ」
言葉が喉につっかえて、うまく出ない。
続きを言おうとしたハルシャの耳に、サーシャの静かな声が響いた。
「ごめんね、お兄ちゃん――サーシャは、知っているよ」
驚きに目を開いて、サーシャを見つめる。
彼女は唇を引き結んで、じっと自分を見つめていた。
「お兄ちゃんが何も言わないから、言ってはいけないことかと思って、聞けなかったけど――
学校の男の子がね、教えてくれた。
サーシャのお父さまとお母さまは、爆発事故で亡くなったって。だから、オキュラ地域に居るんだろうって。
大人たちが話していたって――サーシャに教えてくれたの」
教えてくれた。
と。
優しい表現を使っていたが、そうではないだろう。
ヴィンドースという名から、親たちがサーシャのことについて噂をしていることを、小耳にはさんだ生徒が、サーシャに突きつけたのだろう。
両親の爆死と、名家でありながら、オキュラ地域に過ごしている理由を。
愕然とするハルシャに、慌ててサーシャが言う。
「サーシャは、平気だよ!」
必死に、言葉を付け加える。
「それに、教えてくれてありがとう、って、ちゃんと、お礼を言っておいたよ。
お兄ちゃんが、感謝を忘れないようにって、いつも言っていたから」
サーシャが。
両親のことを突き付けられ、人知れず、苦労をしていたなど――
気付いてあげられなかった。
いつも笑顔でいたから。
学校は楽しいと、弾んだ声で言ってくれていたから。
両親の死のことを聞かされても、兄の心を慮って、詳細を尋ねることすら、サーシャは出来なかったのだ。
「すまない、サーシャ」
腕を伸ばして、妹の身体を抱きしめる。
「辛い思いをさせて、すまなかった――」
ハルシャは、ぽつり、ぽつりと、腕に包んだまま、五年前の事故の様子を。サーシャに告げた。
両親の死が、借金の始まりだったことも。
ぎゅっと、サーシャがハルシャの体に手を回して、強く抱き締めてくる。
「ごめんね、お兄ちゃん」
優しい声が体に触れる。
「ずっと、サーシャに悲しい思いをさせまいと、黙っていたんだね」
力が籠る。
「ありがとうね、お兄ちゃん――大好きだよ」
押し付ける場所が、温かく湿る。
サーシャの涙が、身を濡らす。
「サーシャは幸せだよ。お父さまとお母さまが居なくても、お兄ちゃんが居てくれたから――幸せだよ。お兄ちゃん」
「サーシャ」
「ちっとも、辛くなかったよ。楽しい毎日だよ。サーシャは幸せだから――大丈夫だよ、お兄ちゃん」
明日はこの家を引き払わなくてはならない。
事実を、二人でしっかりと受け止める。
五年間の思い出を、そこから、ハルシャとサーシャは語り合った。
最初に作った料理は、オムレツにしたかったが、形が崩れて、スクランブルエッグになったこと。
古着屋で、ハルシャが初めて買ってきてくれた服が、とんでもないデザインであったこと。
辛かったはずの思い出を、笑顔で、兄と妹は語り合った。
粗大ごみから拾ってきて、直して使っている時計が時間を刻む中、語らいは止まらなかった。
布団に横になり、ハルシャは妹を腕に包んで、眠りの態勢に入った。
もう、夜明けまであまりない。
それでも、二人は中々寝ることが出来なかった。
「お兄ちゃん」
腕に包まれたまま、サーシャが呟く。
「覚えているよ。大きなお家から移る前にも、こうやって、お兄ちゃんが腕に抱きしめてくれていたね」
閉じていた目を開いて、ハルシャは妹の顔を見た。
六歳の時のことを、サーシャは言っているのだ。
まさか、記憶が残っているとは思っても見なかった。
驚くハルシャに、優しい笑みを浮かべながら、サーシャが言う。
「ちゃんと、覚えているよ。泣いているサーシャを、お兄ちゃんは慰めてくれていた。兄さまがいるから、大丈夫だって――」
ぎゅっと、腕を掴んで、頬に押し当てる。
「どこに行っても、サーシャは大丈夫だよ。お兄ちゃんと一緒なら」
目を閉じて、小さな声で言う。
「お兄ちゃんのいるところが、サーシャの故郷だよ」
呟きの後、言葉が途切れた。
スースーっと、軽い寝息が、その後サーシャの口から響きだした。
眠りに、引き込まれて行ったようだ。
ハルシャは、そっと、布団をサーシャの肩までかけて、彼女の寝顔を見守った。
きっと。
自分がサーシャに苦しみを気づかせまいとするように、サーシャも生活の苦悩を、自分に悟らせまいと、努力をしていたのかもしれない。
互いを支えて、これまで、懸命に走ってきた。
そっと、金色の髪を指で梳く。
穏やかな寝顔を見つめながら、考える。
サーシャにとって、帝星でのびのびと暮らすことが、幸せなのだろうか――と。
ラグレン政府が自分たちに目を付けているという一言が、今も心に引っかかっている。
自分のことよりも、サーシャの幸せのほうが、大切だった。
きっと。
メリーウェザ先生の叔父さんのように、自分は器用ではないのだろう。
自分が幸せになることよりも、相手が幸せになってほしいと、考えてしまう。
両親が残してくれた、大切な宝。
サーシャが一番幸せになる道――それを考えながら、ハルシャは目を閉じた。
*
リュウジはベッドの上に横になり、天井を見つめていた。
昨日、ハルシャが寝ていた場所には、誰もいない。
部屋の中に、独りだった。
ずっと、そうやって生きて来たはずだ。
誰も側に居ない状態で、寝ることが二十年来続けてきている習慣だ。
なのに。
傍らに柔らかな寝息が聞こえないことで、どうして、こんなにも心が痛いのだろう。
独りだ。
いつもそうだった。
昔に戻っただけだ。
言い聞かせようとする。
だが。
一度覚えた人の温もりが、心を引き裂いてくる。
ハルシャは、サーシャと話し合いたかった。
当然だ。
それを、自分が邪魔をすることなど出来ない。
彼らの大切な人生だ。
あの部屋は、五年間の苦楽が染みついた場所なのだ。名残りを惜しむためにも、そこで最後の夜を過ごしたいというのは、十分過ぎるほどよく、解る。
なのに。
どうして、こんなにも、心がざわめくのだろう。
家族だと思っているのは、自分だけではないのだろうか。
不安が、湧き上がってくる。
ずっと一緒に居たいと思っているのは、自分の勘違いではないのだろうか。
やはり、ハルシャは、ラグレンに残ると言うかもしれない。
どんなに言葉を尽くしても、ハルシャの心から、ジェイ・ゼルに対する思慕を、拭い去ることが出来ない。
唇を受け入れてくれたのに――
こんなにも、不安だ。
胸が、掻きむしられるように、苦しくて仕方がなかった。
リュウジは天井を見つめ続ける。
そのまま時間だけが、過ぎていく。
長い静寂の後、リュウジはむくりと起き上がった。
静かに、ベッドから足を下ろす。
傍らの小卓から鍵を取ると、そのまま靴をひっかけて、歩き出した。
部屋を出て、鍵を閉める。
迷いのない足取りで、チューブへと向かう。
五階下へ降り、再び廊下を歩む。
端から二番目の部屋の前で、立ち止まった。
番号を確認して、軽く扉を叩く。
「僕だ」
声が聞こえたのか、走ってくる足音が聞こえた。
扉が開く。
静かに開けて保持する吉野が、自分を見つめていた。
「入れてくれ、
言葉に、彼は少し身を動かして、リュウジを部屋の中に招き入れた。
彼の脇をすり抜けるように、扉の内側に入る。
「御用でしたら、お呼びくだされば、参りましたのに――わざわざご足労頂くとは……」
吉野の言葉に、リュウジは首を振った。
彼がまだ、部屋の灯りを点け、電脳を机に広げていることに、目を止める。
「仕事をしていたのか」
「はい。総帥から色々と、ご指示が来ます――それに、お答えしておりました」
祖父にはもう、自分がラグレンに居ることは伝わっている。
「そうか」
言葉を切り、視線を伏せる。
「世話をかける」
吉野は静かに首を振った。
「総帥は、何も責められていません。ただ、いつお帰りになるのかと、それをご心配されているだけです」
リュウジは、答えなかった。
沈黙の後、吉野はマイルズ警部から聞いていたことを、リュウジに報告した。
ハルシャが請け負っていたのは、間違いなくスクナ人を動力源とする駆動機関部だと、汎銀河帝国警察機構が判断を下したことを。
「スクナ人を、ラグレン政府が保有しているという証拠があれば、すぐにでも汎銀河帝国警察機構は動いてくださるそうです」
リュウジはうなずいた。
「レズリー・ケイマンの尻尾さえつかめれば、何とかなるが。奴は狡猾だからな――自分の過去を、見事に消している」
リュウジは、今日、リンダ・セラストンから聞いた話を、思い返す。
今は、ラグレン政府のトップに座る男。
レズリー・ケイマンの正体は、セジェン・メルハトルという、元・宇宙海賊だった。
エルド・グランディスが
薄汚い裏切り者だと、吐き捨てるようにリンダ・セラストンは言い切った。
彼は――身内を売り、その見返りとして地位と報奨金を手に入れた。
賞金首だったエルド・グランディスに、耳寄りな情報だとして、略奪をそそのかし、その荷物の中に、醜悪な爆薬を仕込んでいた。
リンダはそのことに、不時着した惑星で気付いた。
三機あったはずの小型艇が、一機しか残っていなかった。一機はエルドが仲間を救うために使った。
なら、後一機は?
そして、仲間の一人が、誰にも気づかれずに消えていることを、発見する。
それが、セジェン・メルハトルだった。
今回の仕事を持ち込んだ、張本人だ。
彼は爆薬が仕掛けてあることを知っており、そっと逃げ出したのだ。
本来なら全員が宇宙の藻屑となるはずが――エルドの勇気によって、自分は、生き残った。
リンダは、そこから、セジェン・メルハトルの行方を、探し続けた。
執念の捜査のすえに、ようやく、彼を見つけ出す。
彼は整形し、完全に容貌を変え、新しい戸籍を手に入れてレズリー・ケイマンとして、ラグレン政府の執政官に居座っていた。
どんなに姿を変えても――遺伝子の形は変わらない。
リンダたち宇宙海賊には、もしかの時に備えて、乗組員の遺伝子型を、記録する習慣があった。
入り乱れた形も定かでない遺体から、確実に本人だと見分けるために。
死と隣り合わせの、宇宙海賊らしい防御策だ。
その遺伝子型と、レズリー・ケイマンの遺伝子が同じであれば、彼をセジェン・メルハトルと特定できる。
それが、リンダ・セラストンが廃材屋となって、ラグレンに居る理由だった。
レズリー・ケイマンは、厄介だ。
彼は、イズル・ザヒルと手を組んでいる。
考え込みながら、リュウジはベッドの端に腰を下ろした。
「まだ、仕事を続けるのか」
リュウジの問いかけに、吉野は静かに首を振った。
「もう、休もうと思っていたところでした。
リュウジは、言葉を証明するように、電脳を閉じる吉野を見つめる。
彼は、柔らかく問いかけた。
「何か、お申し付けになることがありますか」
沈黙の後、リュウジは口を開いた。
「ベッドを半分貸してくれ」
電脳を閉じる手を止めて、吉野が驚いたように、自分を見ている。
「狭くて、不便をかけるが――すまない、吉野」
唇を噛み締めるリュウジに、吉野はただ、静かに笑った。
「右側がいいですか、それとも、左がお好みですか。
そっと、電脳が閉じられた。
「右がいい。左側に人がいると、落ち着かない」
「承知いたしました。では、右にお休みください」
無茶な申し出に、吉野は素直に肯いてくれた。
誰かが側に居てほしいと、はじめて思った。
たぶん。
自分は寂しかったのだ。
兄と妹の深い絆に、近づけない自分が。
切なくて、辛かったのだ。
「安眠の邪魔をして、すまない」
リュウジの、詫びるような言葉に、吉野は静かに首を振った。
「それで、御心が落ち着かれるのなら、いいのですよ、
リュウジは靴を脱いで、ベッドに入り込んだ。
一つしかないベッドを回って、リュウジの傍らに、布団をめくり、静かに吉野が身を横たえる。
誰かの温もりが側にあることに、何故かほっとする。
こんなにも、自分はハルシャとサーシャの存在を求めていたのだと、思い知る。
「明かりを落とします。よろしいですか」
「うん」
リュウジの答えに、すうっと、部屋が暗くなる。
身を締め付けるような孤独が、吉野の気配に、和らいでいく。
「ハルシャは」
我知らず、リュウジは吉野に問いかけていた。
「帝星へ、一緒に来てくれるだろうか。
こんなに不安な気持ちになることなど、今まで無かった。
それが、問いを口にさせていた。
「
彼の言葉を、黙したままリュウジは受け入れた。
語調を明るくして、吉野が続ける。
「明日は、オキュラ地域で彼らの引っ越しの手伝いを、させて頂きましょう。共同で作業をする中で、さらに打ち解けることも考えられます。
あまり結果を考えず、出来る最善を尽くさせて頂きましょう」
目を閉じたまま、リュウジはうなずいた。
「わかった。そうしよう」
そのまま沈黙するリュウジの耳に、優しい吉野の声が聞こえた。
「ご安心ください。吉野がお側におります」
はじめまして、
吉野と申します。
父同様に、どうかお側でお使いください。
最初に出逢った時、彼もおそらく少年だったのだろう。
自身の父親を、リュウジの両親と共に失いながら、彼は涙一つ見せずに、側で仕えることを誓ってくれた。
そこから、ずっと彼はリュウジを見守り続けていた。
どこに姿を消しても――彼は必ず自分を見つけ出した。
「ありがとう、
呟いて、布団の柔らかさと温もりに身を任せる。
はやり疲労していたのだろう。
いつしか、眠りの底に、リュウジは引き込まれていった。
吉野はしばらく目を閉じ沈黙していたが、規則的な寝息をリュウジがたてはじめたことを確認すると、静かに目を開いた。
彼は、音を立てずに動いた。
ベッドを滑り抜けると、布団をそっと直し、リュウジの身を覆う。
彼は足音を立てずに、電脳を置いてある机への元へと歩いていく。
椅子を引き腰を下ろすと、電脳を開いて、作業を開始した。
リュウジの寝息の響く中、彼は再び、仕事へと戻った。
レズリー・ケイマンの経歴を洗うこと。
ラグレン政府の電脳に侵入しながら、彼は慎重に情報を探り続けていた。
時折手を止めて、リュウジの寝息が規則的なことを、確認する。
安らかな息の音を聞きながら、吉野は、目を細めた。
人恋しさを全身に滲ませて、途方に暮れたように、リュウジは廊下に佇んでいた。
初めて見る、カラサワ・リュウジの姿だった。
心を取り戻した彼は、幼い子どものように、人の温もりを欲していた。
リュウジのためにも、そして、ヴィンドース家の兄妹のためにも、早く帝星へ移り住む未来を、静かに吉野は心の中に祈った。
しばらくしてから、彼は止めていた手を、再び動かし始めた。