「お兄ちゃん!」
走って来たサーシャが、勢いもそのままに、ハルシャに抱きついてきた。
衝撃にわずかによろけながら、
「賢くしていたか」
と、ハルシャは問いかける。
メリーウェザ医師の医療院を訪れた途端、サーシャが見つけて走って来たのだ。
ぎゅっと胴に腕を回したまま、サーシャが見上げてくる。
「メリーウェザ先生のお手伝いをしていたの。もう、元気だよ」
血色のよい顔と、屈託ない笑顔に、ハルシャは乱されていた心が、落ち着いてくるのを感じる。
「今日は早かったんだね、お兄ちゃん」
小首を傾げて、妹が素直な疑問を口にする。
ハルシャは、すぐに答えられずに、言い淀んだ。
夕暮れにはまだ早い時刻に、兄が戻って来たことに、妹は常とは違うものを嗅ぎ取ったらしい。
「仕事が、早く終わったんだ」
迷った末に、当たり障りのない言葉で返す。
ハルシャの顔を見上げてから、サーシャがニコッと笑った。
「あのね、お兄ちゃん。もし、早く仕事から戻ったら、みんなで夕食に行こうかって、メリーウェザ先生が言ってくれていたの」
ハルシャは、瞬きをする。
「メリーウェザ先生が?」
こくんと、サーシャが金色の巻き毛を揺らして応える。
頬が優しいピンクに染まっていく。
「お祝いだって」
小声になって、呟く。
「あのね、サーシャが無事に帰ってきて、良かったね、って」
メリーウェザ医師から、誘拐されていたと話してもらったらしい。気持ちを引き立てようと、先生は夕食会を提案してくれたようだ。
サーシャが話しながら、ふと、ハルシャの後ろへ視線を向けた。
「リュウジ!」
胴に回した手を緩め、サーシャが嬉しそうにリュウジに声をかける。
ゆったりとした歩容で、リュウジが二人の側へ近づいてきた。
少し身を屈めるようにして、サーシャに問いかける。
「ご体調はいかがですか、サーシャ」
「元気だよ! あのね、メリーウェザ先生が……」
と、言いかけた言葉が、途中で消えた。
リュウジのさらに後ろに、ヨシノさんが続いていることに、気付いたのだ。
動こうとしていた体を止めて、ハルシャの服をちょっと、掴んでくる。
社交的に見えて、意外と妹は人見知りだった。
「ヨシノさん。こんにちは」
少し、改まった様子でリュウジの背後の青年へ、サーシャは挨拶をしている。
「こんにちは、サーシャちゃん。元気そうで何よりだね」
その様子を見守ってから、リュウジが口を開いた。
「ドルディスタ・メリーウェザは、奥の医療室ですか?」
「うん」
リュウジには、普通の口調でサーシャが返す。
「今、患者さんが切れて、先生はパウチを食べているよ。昼食が遅くなってしまって」
リュウジは眉を上げた。
「もしかして、『ファングーラの泡立つ海風味』ですか?」
サーシャは笑いながら首を振った。
「違うよ、リュウジ」
楽しそうに、言葉を続ける。
「『マッカランダの大牛・トマト風味』だよ」
*
「おお、お揃いで」
パウチをちゅーっと、飲んでいたメリーウェザ医師は、手を止めて笑顔になった。
「早かったんだな、ハルシャ。昨日の今日だから、早く帰してもらえたのか?」
と、屈託なく問いかけてくる。
ハルシャは、どういえばいいのか戸惑い、黙り込んでしまう。
おや? とメリーウェザ医師の眉が片方上がった。
「ドルディスタ・メリーウェザ」
リュウジの声が響く。
「改めて紹介させてください。帝星からお見えになった、ヨシノさんです。サーシャを助けるとき、ご尽力いただいた方です」
ヨシノさんは、軽く頭を下げた。
「ヨシノです。先日はお顔だけで、ご挨拶が遅れました」
「こちらこそ。サーシャから聞いているよ。うちの子たちが、世話になったね」
うちの子たち。
優しい言い方に、ハルシャはふわっと胸が温かくなるのを、感じた。
そうだ。
メリーウェザ先生は、自分たちに莫大な借金があるのを承知の上で、養子にと言ってくれていた。
その返事を、自分はまだしていない。
けれど、例え断りを言ったとしても、やはりメリーウェザ医師は自分たちを、身内と、思い続けてくれるような気がした。
負担でない距離を取りながら、見守ってくれているのを、感じる。
「サーシャにも、言っていたんだが。どうかな、今晩祝いに、外へ食事に出ないか? 無事にこの子が帰って来たのが、私は嬉しくてね」
柔らかな笑みを浮かべて、メリーウェザ医師がいう。
笑顔でリュウジが頭を揺らす。
「それは、とても良いことですね。ぜひそう致しましょう」
リュウジはちらっと、サーシャに視線を向けた。
「そういえば、サーシャは学校と飲食店の方たちに、元気な顔を見せに行ったのですか? ドルディスタ・メリーウェザ」
突然質問の方向が変わったことに、ちょっと眉を上げながら
「いや、まだだよ。私の仕事が忙しくてね、手が離せなかった」
目を細めて彼女が付け加える。
「さすがに、まだこの子だけで一人歩きさせるのは、ためらわれてね」
「健康状態には、問題がないのですか」
リュウジの問いに、メリーウェザ医師は眉を上げる。
「もちろんだよ。健康そのものだ。サーシャも挨拶をしたがっていたが、私が止めていたんだ」
「そうですか」
にっこりと笑って、リュウジが頭を揺らす。
「なら、どうでしょう」
笑顔のままで、リュウジはヨシノさんへ顔を向けた。
「ヨシノさん。もし、お時間があるのなら、サーシャが学校へ顔を見せに行くのに、付き合ってあげてくれませんか」
え?
と、その場にいたリュウジとヨシノさん以外が、息を呑んだ。
「サ、サ、サーシャが?」
戸惑った声が、サーシャから出る。
笑顔のまま、リュウジが振り向いて、サーシャと視線を合わせる。
「ヨシノさんは、セキュリティ関係のお仕事をされていて、護衛の経験もあるそうです。安心ですね」
少し背を屈めて、優しい声で語り掛ける。
「それに、ヨシノさんは、オキュラ地域にとても興味があるそうです。良かったら、サーシャの学校を見せてあげてくれませんか?
地域を良く知る人に案内してもらうと、とても嬉しいと思いますよ」
リュウジの言葉に、サーシャはちょっと、心が動いたようだった。
ちらっと、ヨシノさんを見る。
「いいの?」
小声で、サーシャがリュウジに問いかけている。
「喜ばれると思いますよ。サーシャはとてもオキュラ地域に詳しいので。ついでに、アルバイト先のご夫婦にも挨拶されてはどうですか?
彼らはとても、サーシャのことを、心配されていましたよ」
サーシャの心が、ぐらぐらと動いているのが解る。
どうしよう、と眉が寄る。
「ヨシノさんは、いいの?」
小さな問いかけに、ヨシノさん自身が答えた。
「オキュラ地域は複雑だから、慣れている人に案内してもらうと、大変助かる」
その言葉が、決定打になったようだ。
「じゃ、じゃあ。行ってこようかな」
言いながら、サーシャが自分を見てくる。
「いい? お兄ちゃん」
問いかけに、ハルシャはうなずいた。
「ヨシノさんさえ、ご迷惑でなければ、お願いできれば心強い」
「良いですよ、ハルシャ君」
すかさず、ヨシノさんが答えた。
ヨシノさんは、子守りに慣れているようだった。
「行ってきまーす! お夕食会までには、戻ってくるね!」
元気よく言葉を発してから、ヨシノさんに付き添われて、サーシャは医療室を出て行った。
講釈を垂れるように、オキュラ地域について、懸命に説明をするサーシャの言葉に、一々賞賛の声を上げながら、寄り添うようにヨシノさんが歩いていく。
身辺警護のスペシャリストだと、ハルシャは感じ入った。
二人の姿が扉の向こうに消えてから、椅子を回して、メリーウェザ医師がハルシャへ顔を向けてきた。
「で」
腕を組んで、片頬を歪めて笑う。
「サーシャに聞かせたくない、どんな話があるんだい?」
リュウジは静かに微笑んだ。
「さすが、勘が鋭いですね」
メリーウェザ医師は小さく首を振る。
「打ち合わせ済みなんだろう? いつものハルシャなら、ああいうときは、自分がきちんとダーシュ校長に挨拶をしに行きたいというはずだ。
だが、ほとんど面識のない人物に、妹を託した。
読めない方がおかしいよ。
サーシャに聞かせたくない話のために、君たちはわざわざ残ったのだろう」
自分が話すべきだ、とハルシャは心を決め、口を開こうとした。
が。
リュウジに先を越された。
「ハルシャの借金ですが、本日ジェイ・ゼルに、全額支払いを終えました」
もしかしたら、話を予想していたのかもしれない。
メリーウェザ医師の表情は動かなかった。
「付帯条件であった、ジェイ・ゼル経営の工場も、本日付で辞めることが出来ました」
にこっと、笑ってリュウジが言う。
「ハルシャは、自由です」
しばらく沈黙した後、カリカリとメリーウェザ医師は髪を掻いた。
「君が、全額支払ったのか。リュウジ」
「話せば長くなりますが、僕は立て替えただけです。本当は、ハルシャ自身の保有財産から支払ったことになります」
立て板に水のように、淀みなくリュウジが言葉を続ける。
「ハルシャには、帝星にプールされていた、お父さまの資産があったのです。僕はそのことを告げに、ここまで来たのです」
サラっと言ってから、リュウジは笑みを深めた。
「僕を路上でハルシャが拾ってくれたのは、奇跡だと、心から思います」
一瞬、遠い目になってからリュウジは呟いた。
「ハルシャとの出会いは、亡くなられたダルシャ・ヴィンドース氏の魂が、導いてくれたのだと、僕は思うのです。ドルディスタ」
静かな言葉に、メリーウェザ医師はゆっくりと瞬きを一つ、した。
「記憶が、戻ったんだな。リュウジ」
「はい。ハルシャにも、話しました」
それ以上の質問を封じるように、彼は早口に続けた。
「実は今日、事件があったのです。ラグレン警察がハルシャの職場に突然現れて――」
午前中にあったことを、手短にけれど要領よく、リュウジがメリーウェザ医師に説明していく。
沈黙したまま、彼女は言葉の意味を受け止めるように、じっとリュウジを見つめながら耳を傾けている。
「どうも、ラグレン警察の態度には、納得できないものがあります」
リュウジは、本当はスクナ人を動力源とした駆動機関部を作らされるところだった、という部分を省いて、嫌疑をかけられたという場所を強調して話している。
「はじめから、ハルシャが有罪だと、決めつけているようなところがあったのです。僕は、このままハルシャたちがラグレンにいるのは、もしかしたら危険かと、考えています」
リュウジの言葉は、とても説得力がある。
眼鏡越しに、メリーウェザ医師は茶色の瞳で、じっとリュウジを見つめている。
「なので、ハルシャとサーシャは僕と一緒に、帝星へ移り住んで、安全な暮らしをして欲しいと、思っているのです」
言い終えたリュウジに、メリーウェザ医師はちょっと眉を寄せて、口を開いた。
「帝星に行って、ハルシャたちはどうやって暮らせばいいんだ。
仕事は?」
リュウジは、ゆっくりと瞬きをする。
「申し遅れました、ドルディスタ・メリーウェザ」
笑いを消した顔で、リュウジが告げる。
「僕の本名は、カラサワ・リュウジです――カラサワ・コンツェルンの次期総帥と、言われています」
あれほど、ジェイ・ゼルには知られることを拒んだ本名を、あっさりとリュウジはメリーウェザ医師に告げた。
彼女は表情を変えなかった。
「なるほど」
小さくメリーウェザ医師が呟く。
「君が庇護するから、仕事も住む場所も、何も心配しなくていいと、私に教えてくれているんだね。帝星で二人は幸せに暮らすことが出来ると」
言い方に、ちょっと、リュウジは眉を寄せた。
「いえ――」
言い淀んでから、彼はしばらく沈黙していた。
不意に、心を決めたように、顔を上げる。
「もう少し、後で申し上げようと思っていましたが、実は、ドルディスタ・メリーウェザに、お願いがあるのです」
お願い。
その言葉に、ミア・メリーウェザの顔に変化が生じた。
何を言い出すのか、考え込むような眼が、リュウジを見つめる。
「サーシャは、ドルディスタ・メリーウェザを姉のように慕っています。帝星は、サーシャにとって、不慣れな場所です。
そこで、ドルディスタ。お願いしたいことがあるのです」
思わぬ真剣な口調で、彼は続けた。
「ハルシャ達と一緒に、帝星へ移住されませんか」
ハルシャは、驚いてリュウジに顔を向けていた。
「それは、無理だ。リュウジ」
無意識に、ハルシャの口から言葉が漏れていた。
「このオキュラ地域には、メリーウェザ先生を頼りにしている人々がたくさんいる。彼らから、メリーウェザ先生を奪うことは出来ない」
リュウジが、さっと、顔をハルシャに向ける。
「ですが、ドルディスタ・メリーウェザは元々、帝星ご出身です。故郷なのですよ、ハルシャ。
側にドルディスタが居て下さると、サーシャはとても安心すると思います」
「サーシャは、そうかもしれない。だが――」
二人の間に、メリーウェザ医師の声が静かに割って入った。
「リュウジ」
穏やかな声だった。
はっと、リュウジがハルシャからメリーウェザ医師へ顔を戻す。
彼女は優しく笑っていた。
「君は、サーシャが、とても大切なんだね」
声が含む、柔らかな包容力に、リュウジは黙り込んだ。
「ハルシャ。正論でリュウジを責めてあげてはいけないよ。
さっきのことを言い出す前に、リュウジはずっと君たち兄妹がどうやったら幸せになるのか、考え続けていたんだ。
考えて、考えて、その結果たどり着いた言葉なんだ。
そこは、解ってあげてくれるか」
リュウジが、ぐっと、息を飲んだ。
そうだ。
二日目にはもう、彼は記憶を取り戻していたと言っていた。
そこからずっと――誰にも真実を言えないままに、リュウジはただ、内側で考え続けていたのだろう。
どうしたら、助けることができるのか。
自分たちが、どうやったら、幸せになるのか、を。
彼の思いやりのありがたさを、自分は疎かにしていたのかもしれない。
配慮のなさに、羞恥が湧き上がってくる。
リュウジと一緒に、ハルシャも黙り込んだ。
「リュウジ。さっきのことは、すぐに答えられる種類のものではない。
ハルシャも言ってくれたように、オキュラ地域で診てくれる医者がいなければ、困る患者たちがたくさんにいる。
私は彼らの健康に責任がある。
とりあえず、考えておくと、答えさせてもらおうか」
彼女の譲歩に、リュウジは黒い頭を揺らした。
「唐突に申し上げて、すみません。ドルディスタ・メリーウェザ」
「考え抜いた末に、出した結論だったのだろう。
解っているよ。リュウジ」
穏やかなメリーウェザ医師の言葉に、リュウジは唇を噛んだ。
その表情を見守りながら、
「ちょっと、ハルシャと二人で話をしたいんだがな。すまんが、席を外してくれるか」
と、静かにメリーウェザ医師が告げた。
はっと、わずかな警戒を滲ませて、リュウジがメリーウェザ医師を見る。
ふふと、彼女は笑った。
「リュウジの悪口なんか、ハルシャに吹き込まないから安心しな。
そう怯えなくても、大丈夫だよ――リュウジ。
私はね、ハルシャとサーシャを養子にしたいと考えていたんだよ。状況が変化したからね。そのことについて、簡単に話したいだけだ」
メリーウェザ医師をまっすぐに見つめてから、彼は唐突に立ち上がった。
「解りました。受付の辺りに居ます」
「ああ。本日臨時休診って、札をついでにかけておいてくれるか」
「カウンターに、札はありますね。了解いたしました」
「うん。頼むよ」
一瞬黙ってから、リュウジはハルシャへ、視線を向けた。
なぜか、彼はひどく心が不安定なような気がした。
「リュウジ――」
ハルシャは思わず、彼の名を呼んでいた。
その呼びかけに、リュウジはやっと、眉を解いた。
微笑みが浮かぶ。
「向こうで待っていますね、ハルシャ。終わったら、呼んでください」
それでは、失礼しますと、あっさりと言ってから、リュウジは後ろを振り向くことなく、歩いて行った。
彼が去った静寂の後、メリーウェザ医師は
「椅子に、座ったらどうだ。ハルシャ」
と、顎で、側の丸椅子を示す。
ハルシャは、小さくうなずいてから、椅子を引き寄せてメリーウェザ医師の側に腰を下ろした。
彼女をまともに見ることが出来ず、視線が床に落ちる。
しばらく無言で向き合ってから、メリーウェザ医師が口を開いた。
「念願だった借金を返し終えたはずなのに――」
柔らかい声で、彼女は呟く。
「どうしてそんなに、辛そうな顔をしているんだ? ハルシャ」
辛そうな顔を、しているのだろうか。
喜んでいいはずなのに。
きっと。
リュウジにも、伝わっている。
せっかく彼は、自分を助けようと、尽力してくれているのに。
「状況に、対応できてないだけだと、思う」
ハルシャは、ぽそりと呟いた。
「心配をかけてすまない、メリーウェザ先生。すぐに慣れるから、大丈夫だ」
ふっと、メリーウェザ医師が笑う。
「そんな、ちゃちな言葉で、私を誤魔化せるなんて、思いなさんな」
腕を組み、真っ直ぐにメリーウェザ医師が自分を見つめる。
「借金の完済と共に、ジェイ・ゼルが、縁を切ってきたのか? それが、その顔の原因かな、ハルシャ」
正鵠を突かれて、ハルシャはあからさまに動揺してしまった。
頬が赤らむ。
「――借金がなければ、私との関係を続ける必要がないらしい」
考え続けた結論を、自分に言い聞かせるように、呟く。
「元々、そういう契約だった」
メリーウェザ医師はすぐに答えなかった。
「そうかな」
長い沈黙の後、彼女はやっと口を開いた。
「私は、そうは思わないけれどね」
ハルシャは、弾かれたように顔を上げていた。
茶色の穏やかな瞳が、自分を映していた。
「――ジェイ・ゼルは、自ら身を引いたのだと思うよ。君の本当の幸せを、考えてね」
ぽつりと、言葉がメリーウェザ医師の口から、零れ落ちた。
優しい、ガイアの雨のように。
飢えたように乾いたハルシャの心は、彼女の言葉を吸い込んでいく。
「不器用な愛し方しか出来ない男だね――私の叔父、キルドン・ランジャイルと、よく似ているよ」
彼女は片頬を静かに上げた。
「相手にとって、何が幸せなのかを、一番に考えてしまうんだろうね。その結果が、どんなに自分にとって辛い選択であっても、強い意思で実行に移してしまう。
だから、叔父は私に一度も逢ってくれなかったんだよ――本当は、逢いたかっただろうに。私のことを思いながら、同じ宇宙を見上げていただろうに」
ふふと、彼女は目を細めて呟く。
「私の幸せだけを考えて、自分の幸せなんて、ちっとも考えてくれなかった」
笑みが深まる。
「叔父と同じぐらい、私も叔父の幸せを、願っているなんて、思いもしなかったのだろうね、キルドン・ランジャイルは。
本当に、不器用で優しい人だった」
過去形で語られる叔父の話しを、ただ、ハルシャは聞いていた。
「忘れてはいけないよ、ハルシャ。
ジェイ・ゼルは、借金の全額返済を、君の稼いだ金ではないと拒むことは出来たはずだ。君を本当に自分に縛り付けて置くつもりならね。
けれど、彼はそうしなかった。
リュウジの申し出を受けることで、彼はハルシャを自由にしようとしたんだ。
ジェイ・ゼルは、君の健康に、異常に気を遣っていたからね。
借金の返済が滞ることを心配していると、ハルシャは思っていたかもしれないが、私は、そうは考えなかった。
ジェイ・ゼルはね」
小首を傾げて、優しい声で彼女は呟く。
「君のことを、本当に、大切にしていた――それだけは、断言してあげるよ」
さっと、風が吹き抜けたような気がした。
迷いの中でさまよう中で。
優しい風が、視界の曇りを取り払ってくれたような――
「リュウジは、ジェイ・ゼルを嫌いぬいている。君を傷つけたことで、彼は激怒していたからね。それも、君を想ってこそだ。リュウジは、本当に優しい子だね」
腕を組んだまま、彼女は続ける。
「その優しさが、君を危険から遠ざけようとする。
だがね、ハルシャ。
自分の人生は、自分で選ばなくてはならないよ。
思い出してごらん。五年前――仕方ないこととはいえ、君は膨大な額の借金を背負った。
その時、返済すると決めたのは、君だった」
にこっと、メリーウェザ医師が微笑む。
「辛い選択を君は自らの意志で選び、相当の覚悟を決めて、人生を歩み出した。
だから、耐えて来られたんだよ。
苦しく厳しい道だったが、君はきちんと、歩いてきた。
誰にも文句を言わず、責務を一人で、背負い続けた。
立派だったよ」
腕を解くと、メリーウェザ医師はそっと前に座るハルシャの膝に、手を乗せた。
「今、君は、自分で人生を選んでいるのか」
優しい問いかけが、耳朶を打つ。
「帝星へ行くというのは――本当に、君の意思なのか」
問いかけの優しさと、突き付けられた言葉の鋭さが、ハルシャの胸をえぐった。
「君たちが、本当に納得して帝星へ行くというのなら、私は反対しない。
だが。
1パーセントでも納得できないものがあるのなら、止めておけ。
君たち二人の生活なら、私が何とかしてあげる。
そこは心配しなくても大丈夫だ」
ぽんぽんと、膝が優しく叩かれる。
「リュウジに遠慮をせずに、きちんと、自分自身と話し合うことだ。いいね、ハルシャ」
流されているという、覚束なさが、今も心の中にあった。
リュウジが正しいと思うことを、ただ、自分は実行しようとしているに過ぎない。
彼が自分を大切にしてくれているのは、十分過ぎるほどわかる。
だが。
もし、帝星に行けば――
二度と、ジェイ・ゼルに逢うことが出来ない。
ハルシャはメリーウェザ医師の深い茶色の瞳を見つめながら、身が微かに震え出した。
ラグレンに居れば。
ほんの一瞬でも。
飛行車ですれ違う時でも。
もしかしたら――
ジェイ・ゼルに逢えるかもしれない。
話をしなくてもいい。
姿を遠くから見ることが出来れば良いと思うほどに。
自分は、ジェイ・ゼルに、逢いたかった。
彼の存在を、求め続けていた。
無意識に、ハルシャは左手の通話装置に、服越しに触れていた。
リュウジに見とがめられないように、ハルシャは服でそっと隠していたのだ。
以前ここで、メリーウェザ医師と話した時には、借金を払い終えて、ジェイ・ゼルと人として対等に向き合いたいと、憧れるように思っていたのに。
どうして――
「リュウジが……」
触れる手の平の温かさに、ハルシャは思わず本音を吐露していた。
「ジェイ・ゼルが、両親に借金を申し出て、それが殺害される遠因になったと、教えてくれた」
身が、震えてくる。
「ハルシャは、どう思うんだ」
やんわりと、メリーウェザ医師が尋ねてくる。
子どものように、ハルシャは首を振った。
「解らない。ジェイ・ゼルが両親の死の原因なのか、何も――」
顔を、手で覆い、ハルシャは呟いた。
「解らないんだ、メリーウェザ先生。どうしていいのか、解らないんだ」
ぽんぽんと、優しく膝が叩かれる。
「それはね、解らないんじゃなくてね、見たくないだけかもしれないよ、ハルシャ」
優しい声が、目をきつく閉じるハルシャの耳に響く。
「仕方ないじゃないか、好きになってしまったものは、ね」
くすっと、小さく笑い声が聞こえる。
「私も思ったさ。なんて馬鹿な。叔父を好きになるなんて、どうかしている。
止めてしまえ。許されないことだ、罪深いことだ――何度も、何度も。
それでも」
ぽんと、膝が叩かれる。
「キルドン・ランジャイルに、恋い焦がれ続けた」
震えながら、顔から手を離し、ハルシャはゆっくりと、自分を労りに満ちた目で見つめてくれる、ミア・メリーウェザへ視線を向けた。
「ご両親の死に、ジェイ・ゼルが関わっているのは、真実かもしれない」
魂を見つめながら、彼女は静かに告げる。
「敬愛するご両親の死に関わった人間を、それでも、ハルシャは好きになってしまった。
そうだな。
ご両親に対する、裏切り以外のなにものでもない。
苦しく、おぞましく、辛いことだな――許されないほどに、罪深い」
優しい笑みが、彼女の顔に浮かんだ。
「だが、それが、君だ。ハルシャ・ヴィンドース」
笑みが瞬時に消え、彼女の瞳が自分を見つめる。
「叔父を、心から愛した罪人。それが私、ミア・メリーウェザだ」
再び、笑みが浮かぶ。
「私は、この罪を、一生背負っていく。叔父を愛したことが罪なら、私は喜んで罪人になろう。悲しいことだな。だが」
ふふと、メリーウェザ医師が笑う。
「誰も罪を犯さないのなら、地獄など、必要ないだろう」
言い切った言葉の強さと。
眼差しの清々しさと。
彼女の微笑みの優しさが、ハルシャの心を静かに解き放っていった。
叔父を愛したことを、彼女は後悔していない。
罪を自覚し、背負っていくことを彼女は覚悟している。
そうか。
罪人でもいいのか。
ハルシャは、静かに心の中に呟く。
ジェイ・ゼルへの想いが罪ならば、それを背負って生き抜く覚悟を決めればいいだけだ。
そうか。
いいのだ、罪人でも。
それを理由に、彼から、逃げる必要はないのだ。
「ありがとう、メリーウェザ先生」
心が、洗われたようだ。
無意識に呟いた言葉に、微笑みながら彼女は手を引いた。
「ハルシャのご両親には、怒鳴られるかもしれないな。息子を間違った道に引き込んだって、な。
謝っておくよ、もし、あっちに行ったときには――地獄に行く前に」
柔らかい言葉で彼女は呟く。
「地獄では、きっと叔父が私を待ってくれている」
叔父と同じ罪を背負って、それでもつないだ手を離さずに、彼女は歩いて行こうとしている。
「叔父さんは」
ハルシャは、内側からこみ上げる想いに耐えきれずに、呟いていた。
「きっと、天国にいる」
ミア・メリーウェザの瞳が、驚きに、かすかに見開かれた。
「ハルシャ……」
「叔父さんのキルドン・ランジャイルは、宇宙船の船長として、勇気ある最期を迎えた。それに、メリーウェザ先生の幸せだけを、祈り続けた優しい人だった。
彼は、きっと招かれているはずだ――宇宙船乗りたちが行く、天国へ」
宇宙船乗りの間では、彼らだけが迎えられる天国があると、言い伝えられている。そこでは、皆は自慢の宇宙船の手入れをしながら、いつでも自由に宇宙をかける。
だから、宇宙で散ることは恐くはなかった。
仲間たちが待つ、宇宙船乗りの天国へ、行くだけなのだから――
「叔父さんは、その天国で先生を待っている。
姪のために素晴らしいメドック・システムを用意して。もう一度、一緒に宇宙を翔けようと。
きっと、そうだ。
先生――叔父さんは、天国にいる」
ハルシャは、懸命に言葉を続けた。
「地獄には、いない」
花のように、優しく艶やかにミア・メリーウェザは微笑んだ。
「困るな、ハルシャ」
細めた目に、柔らかな涙が滲んだ。
「地獄に行く気満々だったから、良いことなど、一つもしてきていないんだよ、私は」
ぽろりと、涙が一粒、頬からこぼれ落ちた。
「叔父が天国にいるなら、急遽、予定を変更しなくちゃいけないじゃないか。これは、大変だ」
もう一粒、ぽろりと、水晶の粒のような涙が、頬を伝う。
「今から私に、善行を積めと、いうのかい? ハルシャ」
手が伸びて、優しく頬に触れる。
「無茶を言ってくれるね。本当に、この子は――」
「先生は、天国に行ける。オキュラ地域の人達は、みんな知っている。先生がどれだけのことを、自分たちにしてくれているのか。
だから、サーシャのために、先生の大切な仕事を捨てないでくれ。リュウジには、私からも言っておく」
ぽんぽんと、メリーウェザ医師がハルシャの頬に軽く、触れる。
「リュウジのことを、責めないで上げておくれ。ハルシャ。
彼は必死に君のことを考えている。その方法が少し、変わっているだけだ」
言いながら、手を引く。
「だが、そうだね。色々私も考えていたことがある。
少し、時間をもらえたら、結論が出るかもしれない――ところで、ハルシャ」
引いた手で、軽く涙を拭いながら、メリーウェザ医師が微笑む。
「本題に入ろうか。どうだ、養子になるという話は? 結論は出たか」
ハルシャは瞬きをした。
「まだ、結論は出ていない」
「そうか」
メリーウェザ医師が深くうなずいた。
「なら、もう少し保留と言うことに、しておこうか」
断ることは簡単だった。
だが。
彼女の娘になることを、サーシャが喜びそうな気がして、ハルシャはどうしても、返事が出来なかった。
*
メリーウェザ医師は、夕食会にヨシノさんも招いてくれた。
少しオキュラ地域から離れた食堂へと、案内してくれる。
五人で囲む食卓はとても賑やかで、サーシャはご機嫌だった。
ダーシュ校長も『福楽軒』の老ご夫婦も、サーシャの無事を心から喜んでくれたようだ。
サーシャの傍らには、しっかりとアルフォンソ二世が座っている。
オキュラ地域を案内したことで、すっかりヨシノさんにも打ち解け、楽しそうに会話を交わしている。
サーシャにはまだ。
自分が仕事を辞め、生活が激変したことを、告げられていなかった。
あの、オキュラ地域の部屋を、明日には引き払わなくてはならないことも。
考えながら食事をするハルシャに、心配そうにリュウジが声をかけてくる。
「食が、すすみませんか?」
はっと、我に返る。
「いや。そいうわけではない――大丈夫だ、リュウジ」
気付くと、皆が自分を見ていた。
お皿にサーシャが取り分けてくれた料理が、ほとんど減っていない。
「口に合わなかったか?」
メリーウェザ医師の問いに、盛大にハルシャは首を振った。
「とても美味しい。ちょっと、考え事をしていただけだ」
「何かあったの? お兄ちゃん?」
無邪気な妹の声に、ぎくっと、身が震える。
こんな場所で、帝星に行くかもしれないなどと、告げることは出来ない。
「あ、いや」
ふっと、アルフォンソ二世と、目が合う。
「ぬいぐるみ生物の、効能について、考えていた」
ジェイ・ゼルが、ギランジュに言っていた言葉が、ずっと心に引っかかっていた。こんな無害そうな生命体に、まさか呪いの効用があるなどと、初耳だったのだ。
「効能?」
首を傾げて問いかける妹に、実は……と、ジェイ・ゼルが告げていたことを、伝える。
名前をつけたものを、ぬいぐるみ生物は守り、主人に危害を加えた者は、呪うらしい。
だから、銀河系でとても重用されているのだと。
サーシャが目をまん丸にして、さっと、横のウサギ型ぬいぐるみ生物へ、驚異の視線を向ける。
突然、笑い声が弾けた。
声の主は、リュウジだった。
彼は盛大に笑い転げ、苦しいためか机を手の平で、ばしばしと叩いている。
ハルシャとサーシャは呆気に取られて、今まで見たことがないほど、笑い続けるリュウジを、茫然と見つめる。
息を引きつらせるリュウジに、さっとヨシノさんが、白いハンカチを渡した。
無意識のように受け取ると、リュウジはそのハンカチで、目に滲んだ涙を拭いている。
「あなたは、本当に可愛らしい方ですね、ハルシャ。彼の言葉を、ずっと信じていたのですか!」
まだ笑いに息を詰まらせながら、リュウジが破顔しながら言う。
信じるも何も、ジェイ・ゼルがギランジュにそう言っていたのだ。
あの時、明らかにギランジュは怯えていた。
眉を寄せるハルシャに、目を拭きながら、優しい声でリュウジが言う。
「――あれは、相手をひるませるための、ハッタリですよ」
ハッタリ?
「呪いがあると言われると、何となくサーシャを傷つけることに、ためらいが生じます。
相手を煙に巻き、こちらの思うように誘導するために、ジェイ・ゼルはハッタリをかけたのですよ。
そうですね、ハルシャと同じように、犯人も信じていたようですね。
作戦としては、成功したと言うことでしょうか――相手の知識の薄さを利用した、見事な手管でした」
「嘘、なのか?」
ようやく理解し、茫然と問いかけた言葉に、笑いながらリュウジが頷く。
「ハルシャは知っているかと思っていました。ぬいぐるみ生物は、ただ、成長するだけです。呪いなど……」
また、思い出したように、ケラケラとリュウジが笑う。
「まさか、ずっと、信じていらしたとは……」
そこまで笑われると、いささか、傷つく。
「呪いは、ないの?」
おずおずと、サーシャが問いかける。
「はい。幸運をもたらす、という噂はありますが、呪いは聞いたことがありません。大丈夫ですよ」
兄が複雑な顔をしているのに、目を向けてから、彼女はほっとしたように、ぬいぐるみ生物のアルフォンソ二世を膝に抱き上げて、ぎゅっと腕で包んだ。
「あの時は、一人にしてごめんね。アルフォンソ二世」
小さな詫びを、茶色の毛並みに呟いている。
その姿に和みながらも、ハルシャは、妙に恥ずかしかった。
ジェイ・ゼルのいうことは、なんとなく信じ込んでしまう。
まさか。
あれが、相手を煙に巻くためのハッタリだったとは。
この上なく真剣に、ジェイ・ゼルは言っていたのに。
「ハルシャは、可愛いですね」
楽しそうに、にこにこしながら、リュウジが言う。
ちょっと、頬が赤らむ。
照れて視線を伏せるハルシャをしばらく見つめてから、リュウジはふっと視線をメリーウェザ医師に向けた。
「このお店に、シララル酒はありますか」
「シララル酒か? 聞けばあるかもしれないな」
「なら、ぜひ、お願いします」
笑みを深めて、リュウジが言う。
シララル酒。
ああ、あの時、ヨシノさんに飲ませてもらったお酒だ。
「ハルシャは、あのお酒が気に入ったようでしたから」
言ってから、リュウジが笑顔を自分に向けてくる。
「せっかくなので、乾杯しましょう。
もう、明日のことを気にしなくていいので――」
リュウジは静かに微笑みを深める。
「メリーウェザ医師と、ヨシノさんと、皆で――じっくり、飲みましょう。ハルシャ」