ほしのくさり

第152話  出会いを結び付けてくれるもの





 ハルシャの内側に、感情の奔流が渦巻き、溢れだした。

「どうして――」

 呻くように、ハルシャは言葉を絞りだしていた。

「リュウジが酷い目に遭ったのは、私たちが、原因なのに……どうして……」

 荒ぶる感情に翻弄され、ハルシャはそれ以上何も言えなくなった。
 あまりに理不尽な運命の暴力に、打ちのめされそうになりながら、歯を食いしばり、目を閉じる。
 自分たちを、恨んでも当然のことだ。
 帝星からわざわざ来てくれたのは、自分たちを助けてくれようとしたせいだ。
 リュウジに、そんな義理などなかったはずだ。
 けれど、父との約束を忘れずに、リュウジは自分に父の言葉と遺産を伝えようと、惑星トルディアまで来てくれた。
 そのせいで、五人の男たちから、身を引き裂かれる暴行を受けてしまったのだ。
 記憶を失うほどの、酷い暴力を、無防備に受けざるを得なかった。
 お前たちのせいだと、憎しみをぶつけて良いほどのことだ。
 なのに。
 リュウジは、自分たちを、家族と、呼んでくれている。

 どうして、リュウジは――
 全てを許してくれるんだ。

 ふわっと、ハルシャの身が、優しい腕に包まれていた。
 リュウジが、抱き締めてくれている。
 耳元に、優しい声が響いた。

「ハルシャが、心を痛めることはないのです。全ての選択は、僕の自己責任です。惑星トルディアに来たのも、オキュラ地域に降りることを決めたのも――僕が決断し、行動を起こしたのです。
 自分の行動は、自分で始末をつける。幼少時から、僕は叩き込まれています。
 責任は、僕だけのものです」
 力強く、揺るぎない言葉が、内側へと語られる。
「ハルシャが、傷つくことはないのですよ」
 涙に濡れた頬が、髪に押し当てられ、言葉が、響く。
 目を閉じたまま、ハルシャは、リュウジの温もりと優しさを感じ取る。

 ああ。
 彼はやはり――
 カラサワ・コンツェルンの次期総帥なのだ。
 誰にも責任を転嫁せず、重責を独りで背負って立ち続ける。
 彼は――幾万もの人間を率いて、道を指し示す人なのだ。
 リュウジの大らかさと揺るぎなさに、何度も自分は救われてきた。

「リュウジ……」
 ハルシャの呟きに、リュウジは腕に力を込めた。
 短い沈黙の後、彼は呟いた。

「五歳の時、僕は家族を守れませんでした」
 魂から、滴り落ちたような、言葉が、ハルシャの耳に響く。

 守れるはずがない。
 幼い子どもだ。
 なのに。
 彼は、五歳の自分の無力を悔いていた。
 目の前で両親を殺害されたことで、記憶をなくした自分自身さえ、恐怖に負けたのだと、彼は責め続けていたのだ。

「リュウジ――」
 責めることはないと、言おうとしたハルシャの言葉を、首を振ってリュウジが止める。
「守れなかったのです、ハルシャ。僕は、大切な家族を」
 言い聞かせるような言葉に、ハルシャは黙り込んだ。
 その静寂を聞き取ってから、彼は言葉を続けた。
「オキュラ地域で、僕が見出した大切な家族は、極めて困難な状況にありました。
 ジェイ・ゼルの背後にいるのが、イズル・ザヒルの『ダイモン』だと知った時、何としてでも、ハルシャたちを、彼らの組織から切り離さなくてはならないと僕は覚悟を決めました。
 『ダイモン』は、悪辣な手段で知られる犯罪団体です。法の目を上手にかいくぐり、検挙されるような愚は犯さない――。トップのイズル・ザヒルは、非常に狡猾でしたたかな男です。
 彼の幹部クラスの部下であるジェイ・ゼルも、彼と同類です。したたかで狡猾で、目的のためなら手段を選びません」

 リュウジの言葉が、目を閉じるハルシャの中に入っていく。
 抱き締められ、動けぬままに、告げられる事実を、受け続ける。

「なのに、あなたは何も知らず、ジェイ・ゼルに上手く手懐けられて――五年の間に、彼を信頼するように、仕向けられていました」

 違う。
 と、否定の言葉を、叫びたかった。
 けれど。
 先ほど告げられた、両親の死の原因の一つは、ジェイ・ゼルの提示した借金にあったと聞かされたことが、ハルシャの喉を、凍り付かせた。
 かつて危惧していたことを、真実だと突き付けられたことが、辛かった。

 ハルシャの沈黙を感じ取ってから、彼は言葉を続けた。

「僕は、家族を今度こそ、守りたかった」

 絞り出すような言葉の中にこもる、激情がハルシャの胸を、締め付ける。

「知った真実を、あなたに告げようと、決意し、お伝えしたのですが――あなたは、受け入れられないようでした」
 記憶が蘇る。
 あの時だ。
 リュウジが、部屋の外で座っていた時。
 ファグラーダ酒を大量に飲み、しかも手の平に怪我を負っていたのに、彼は自分を待ち続けていた。
 それは、家族である自分を、何とか守ろうとした思いの結果、取った行動だったと、ハルシャは気付く。
「今は、だめなのだ。
 そう、思いました。あなたは、ジェイ・ゼルから精神のコントロールを受けていました。彼らは、往々にして、そういう手を使うのです」

 コントロールをされていた。
 その言葉が、ハルシャの胸を、深く抉った。
 静かなリュウジの声が、淡々と響く。

「僕は幼少時から、誘拐された時の対応を、学んできました。
 その中で、危機的状況に置かれた時、人は、生存本能が働き、通常では考えられないような精神状態に陥ると、教えられました」
 リュウジの手が、ハルシャを深く抱き締める。
「拉致監禁され命の危険がある時、自分を殺害するかもしれない犯人に対して、好意や愛情を抱いてしまうことがあるのです。常識で考えれば、あり得ないことです。
 仮にも、相手は自分を殺そうとしている人間です。なのに、愛情を持ち、守ろうとさえする――」
 穏やかな声が、自分の現状を剥き出しにするように、事実を語る。
「それは、極限における、人間の防御本能なのですよ、ハルシャ。
 こちらが愛情深く相手に接すれば、犯人も人間です。心を動かし、こちらを大切に取り扱うようになるかもしれません。
 そうなれば、生存率が上がります。
 太古から、危険な中を生き抜いてきた人類の本能が、少しでも生きる確率が高い方法を、無意識に選び出し、心を変容させるのです」

 背中に触れる、リュウジの手の平が、温かかった。

「実際誘拐されたとき、これはとても有効な手段です。
 犯人も、反抗的で非協力的な相手よりも、協力的で親切な者には、行動が和らぎます。
 僕も幾度か、この方法で危難を凌いで来ました。あなたも、同じなのですよ、ハルシャ」

 静かに、リュウジが呟く。
 どきんと、鼓動が高鳴った。

「ハルシャは、ジェイ・ゼルに対して好意を感じているかもしれません。
 ですが、それは――逃れられない過酷な状況を、何とか好転させようとして、本能がハルシャの心をコントロールし、好意を抱かせているだけです。
 尋常ではない状態を生き延びるために、無意識に選び取っている、防御本能なのですよ――ハルシャ。真実ではないのです」

 冷静な声が、自分がジェイ・ゼルに対して抱いている愛情は、生き延びるための手段だと、告げている。

「五年間、あなたは様々なことを、ジェイ・ゼルから受け入れさせられてきました。おそらく、かつてのあなたの常識からは、考えられないようなことを。心を守るために、あなたはジェイ・ゼルに対して好意を抱いたのです。心の負荷を減らすために」

 状況を楽にし、ジェイ・ゼルから酷い仕打ちを受けないように、身を守っていただけだと。
 彼はそう、告げている。
 ずきん、ずきんと、心の奥が、痛む。
 リュウジの言葉を認め切れずに、ハルシャは、ただ、沈黙した。

「五年間の間に、変容してしまったあなたの心を、どうやったら解き放てるのだろう。
 僕はそのことで、ひどく悩みました。
 ハルシャがジェイ・ゼルの悪行を受け入れるのを拒んだ時、耐えられないほど辛かったです。
 苦悩の一番の原因は、あなたに何の責任もないことでした――あなたは、懸命に生きてきただけです」
 リュウジは、黙り込んだ。
「ハルシャに話した後、僕は意識を失ったのですね。
 ひどく苦しかったのを、憶えています。ファグラーダ酒の毒素よりも、手の平よりも、あなたが惑わされているという事実が、一番辛かった。
 それを思いながら、意識を失っていたせいでしょうか――僕は、悪夢を見ました」

 そうだ。
 あの時も、リュウジは虚空に叫んでいた。
 ハルシャのせいで、彼は心が痛めつけられ、再び暴行の悪夢を見たのだ。
 耳元に、声が響いた。

「一面の、血の海の夢――」

 はっと、ハルシャは目を開けた。
 首を回して、リュウジへ顔を向ける。
 黒い髪が動いて、ゆっくりと彼が、ハルシャへ顔を向けた。

「両親が、殺された時の、夢です」

 ひどく近い距離で、ハルシャとリュウジは見つめ合っていた。
 藍色の瞳の中に、それまで見たことのない光が宿っていた。

「僕の身体が、たくさんの腕に拘束されていて、見ている前で、男の人と女の人が、命を奪われていました。
 必死に止めようとしているところで、僕は目を覚まし――ハルシャの声を聞いたのです」

 では。
 あの時叫んでいたのは、両親が殺されるのを、何とか阻止しようとした、幼い頃のリュウジだったのか。
 悲痛な、魂から絞り出すような、悲鳴だった。

「目が覚めてすぐには、幼い時のことを夢に見たのだと、解りませんでした。
 記憶を失ってから、もう二十年近く経っています。目の前の男女が誰だったのかも、その時は、気付かなかったのです」

 ファグラーダ酒の熱に浮かされる中、ハルシャの境遇に心を痛めた彼は、過去に封印した苦しい記憶を、蘇らせてしまった。
 眉を寄せるハルシャに、リュウジがちょっと笑って見せた。
「目覚めた僕に――あなたは、ご自分のことを、自ら語って下さいましたね」

 真摯な藍色の瞳が、自分を真っ直ぐにのぞき込んでいる。

「僕の誠意を、ハルシャは受け取ってくれたのだと、とても嬉しかったです。
 一番言い難いことを、信頼して話してくれたことが。
 あの時――僕は、ハルシャの言葉に、心が揺さぶられたのです」

 不意に、言葉が途切れた。
 長く沈黙した後、やっと彼は微笑みながら呟いた。

「その時、ようやく僕は悟ったのです。自分が、ここラグレンにいる、意味を」

 静かに腕を解くと、彼はハルシャから身を離して、傍らに静かに座り直した。
 そして、ハルシャの手を取った。
 あの時と同じ、向き合い、手を握り合って、リュウジが自分の前に座っていた。

「僕は、ハルシャにどうしても逢いたくて、帝星から単身ラグレンに来ました。
 オキュラ地域で、身に暴行を受けながら、逃げ延び――その僕を、ハルシャが見つけてくれたのです。
 逢いたかった人に、偶然逢うことが出来た。幸運だった。
 記憶が戻ってから、僕は、ずっとそう思っていました。けれど、その瞬間、気付いたのです。
 ハルシャと僕は、出会うべくして、出会った。
 あの時、あの時間、ハルシャが路上で僕を見つけてくれたのは、偶然ではなかったのだと――」

 熱を帯びた口調で言ってから、彼は静かに微笑んだ。

「僕が、どうしてもハルシャに逢いたいと思ったのは、ダルシャ・ヴィンドース氏が、とても、大切そうにご子息のことを、話していたからです。
 彼の大事な家族を、助けてあげたい。その一念でした。
 だから、僕と、ハルシャは、出会ったのです。このオキュラ地区で。それは――」
 彼は優しい笑みを深めて、言葉をこぼした。
「お父さまのダルシャ・ヴィンドース氏が、僕たちを、出会わせてくれたのだと、思います」

 どん、と、胸を叩かれたような気がした。

「息子を、助けてくれ――ハルシャの話を聞きながら、ダルシャ・ヴィンドース氏の声が聞こえたような気がしました。
 我が子が陥った苦境から、救い出してあげてくれ。
 親の愛情に満ちた声が、聞こえたような気がしたのです」

 驚きに見開いたハルシャに、リュウジは優しく微笑みを与える。

「魂だけになっても、きっと、お父さまは愛しい我が子を救いたいと、願い続けていたのでしょう。
 彼の切なる願いによって、僕は、ここオキュラ地域に呼び寄せられたのです。
 悪辣な計略で、借金を背負わされ、宇宙飛行士の夢を破かれた息子のために――彼の大切な家族を救うために、僕はここに、来たのです」
 微笑んだ、彼の目から、新しい涙が、流れた。
「もし、僕がオキュラ地域で、あのような体験をしなければ、もしかしたら、ジェイ・ゼルに身を任せているハルシャの苦境が、理解できなかったかもしれません。下手をしたら、軽蔑した可能性もあるのです。
 浅い自分の体験で、あなたを判断しないように、僕は身を持って、あなたの苦しみを、味わったのかもしれません」

 熱いものが、自分の頬を、滴り落ちている。
 これほどまでに、リュウジが心を開いて、自分を見つめてくれている。
 あの過酷な体験を、自分を理解するために、必要なものだったのだと――
 これほどの、思いやりに満ちた言葉を、ハルシャは聞いたことがなかった。

「以前の僕なら、あなたを見つけて、ダルシャ・ヴィンドース氏の配当金を手渡したら、ことが済んだと判断したでしょう。
 良いことをしたと、自己満足しながら、さっさと帝星に帰ったかもしれません。
 あなた方の本当の苦境を少しも理解することなく、あなたを縛り付ける心の枷の存在に、気付くことなく」

 柔らかく言い終えてから、彼は、静かに首を振った。

「今回、自分の経験の浅さを、思い知りました。いっぱし世間のことを知っているつもりでしたが、やはり、実際は次期総帥として、手厚く自分は護られていたのです。その一切を失ったとき、自分の身の程を知りました。
 この経験は――どんなシンクン・ナルキーサスの授業よりも、得難い知識を与えてくれました。
 宇宙は広い。とんでもなく、広くて果てしなく、人はその中でもがきながら生きている。それが、宇宙の在り様なのだと――」
 目を細めて、彼が呟く。
「僕は、ハルシャに出会って、真理の片鱗を学ぶことが出来たのです」

 柔らかく細められる目を見つめながら、ハルシャはあふれる涙を止めることが、出来なかった。

「あの時」
 切り出してから、リュウジは少し躊躇ってから、言葉を続けた。
「ダルシャ氏の、魂だけになっても我が子を想い続ける、強い親の愛を感じたとき――僕は、我知らず涙を流していました。
 五歳の時、両親を目の前で惨殺されてから、一度も流したことのない、涙です」

 涙を湛えた瞳で、互いに見つめ合う。

「そして、思い出したのです。
 父の、最後の言葉を――」

 リュウジの、顔が歪んだ。
「二十年以上、記憶の中に封印していた、父の声を、なぜかあの時、思い出したのです」
 唇を噛み締めると、微笑みながら、リュウジが呟く。
「犯人たちに拘束されながら――父は、叫んでいました」
 こぼれ落ちる涙を、拭うことすらせずに、真っ直ぐにハルシャを見つめる。

「リュウジを助けてくれ。自分たちはどうなってもいい。息子だけは、助けてくれ――そう。父は、叫んでいたのです」

 無言で、ハルシャは、リュウジを腕に包んでいた。

「僕が生き延びたのは、命の瀬戸際で、懸命に父が僕の命乞いをしてくれたお陰かもしれない。そう思ったのです。
 あいまいな記憶なので、不確かなのですが」
 冷静なろうとしながら、しゃくりあげるリュウジの呟きが、響く。
「ずっと、生き延びたことに、罪悪感を覚えていました。けれど、父が残してくれた命なら、僕は生きて良いのだ。そんな風に思った時、涙が止まりませんでした。
 あの涙は、ハルシャが与えてくれたものです。あなたが、心を開いて話してくれたお陰で、僕は封印されていた過去を、見つめる勇気が得られたのです」

 ぐっと、リュウジの腕に力が籠る。

「あなたが居てくれたから、僕は、人としての心を、取り戻すことが出来ました。失ったはずの、記憶の欠片も、あなたのおかげで、思い出したのです」
 震える肩を、ハルシャは手の平で包む。
「僕は、ハルシャに出会うために、生きて来たのかもしれません――惑星トルディアのオキュラ地域で」
 静かな言葉が、耳朶を打つ。
「僕の道は、あなたに繋がっていました」
 身を合わせて彼が呟く。
「孤独で過酷な道を、歩き続けた先に――あなたが、佇んでくれていました。僕を、僕としてみてくれる、あなたが――」

 ぎゅっと締め付ける力の強さに、ハルシャの胸が震えた。

「リュウジ……」

 無意識にこぼした彼の名前に、ぴくっと反応してから、腕を緩めながら、リュウジが自分を見つめてくる。
 こぼれ落ちる涙が、互いの頬を濡らしていた。
 心の内側の一切を見せ合った、不思議な清涼感が漂う。

「今は混乱していますが、大丈夫ですよ、ハルシャ」
 息が触れる距離で、リュウジが呟く。
「帝星へ、僕と一緒に行きましょう。サーシャのためにも、それが最良です」
 右手が動き、ハルシャの頬に触れた。
「安全な場所で、最高の教育を、サーシャは受けることが出来ます。あなた達には、お父さまが残してくれた、遺産があるのです。
 ジェイ・ゼルへの借金の支払いを済ませても、十分余るほどの金額が」
 そう言えば、リュウジはぽろりと、金額を運んで来ただけだと、言っていた。
 もし、父の残してくれた金額で、リュウジに支払うことが出来るのなら、ありがたい。
 考えを読んだのだろう、リュウジが微笑んだ。
「何も心配することはありません。ハルシャ。あなたの側には僕がいます」
 藍色の瞳が、じっと見つめてくる。
「悪夢は、すぐに忘れます――大丈夫ですよ、ハルシャ」
 呟きながら、彼の顔が動く。
「僕が、側にいます」

 瞳を合わしたまま、静かにリュウジが顔を寄せてくる。
 その意味を理解する前に、柔らかく、唇が触れ合った。
 瞬間、大きく目を見開いていた。
 心の揺れを読み取ったのか、すぐにリュウジは唇を離した。
 ひどく近い場所で、彼は自分を見つめる。
「嫌、ですか? ハルシャ」
 問いかける時も、視線が外れない。
 答えられずに、ただ、ハルシャは動揺する。
 家族と、彼は、言っていたのに――それとも、これが、帝星の家族の親愛の情の示し方なのだろうか。
 盛大に戸惑うハルシャに、リュウジは眉を寄せて再び問いかける。
「やはり――こんな僕では、嫌ですか?」
 問いかけの深さに、彼が語った過去のことを、言っているのだと、ハルシャは瞬時に気付く。
「そんなことは、ない」
 鋭く、ハルシャは彼の危惧を断ち切るように、言葉を放っていた。
「なぜ、リュウジがそんなことを、気にするんだ」
 思わず、強い口調で、ハルシャは言っていた。
 眉をまだ寄せたまま、リュウジが静かに微笑んだ。
 何も言わないままに、再び顔が寄せられる。
 触れる唇を、ハルシャは、ただ、受け入れた。


 ハルシャ。

 優しいジェイ・ゼルの声が、ふと、耳元に聞こえた。
 過去からの声が、脳裏に響いている。

 ゆっくりと、鼻で呼吸をしてご覧。そう、静かに――上手だよ。

 幻の声を耳に聞きながら、ハルシャは目を閉じた。

 ごく最初の頃、ジェイ・ゼルの前に立たされて、鼻で呼吸をするように言われた。よく解らずに、言われるままに呼吸をしていると、ジェイ・ゼルが

 そう。上手だね。そのまま、呼吸を続けているんだよ。

 と、言いながら、身を屈めて来た。
 出会った頃は、相当彼と身長差があった。肩に手を触れて、ジェイ・ゼルはかなり身を折るようにして、自分に顔を寄せてくる。
 見守る前で、静かに彼の唇が、自分の口に触れ合った。
 驚きに、呼吸が、止まった。
 くすっと、笑いながら、ジェイ・ゼルが合わせた唇を外す。
 目を細めながら、

 呼吸を続けてと、言ったはずだがね、ハルシャ。

 と、笑いを含んだ声で言う。
 慌てて、ハルシャは、ゆっくりと呼吸をする。
 そのリズムが確かになったことを確認してから、彼は再び顔を寄せて来た。
 柔らかく、唇が触れ合う。
 呼吸を続けろと言われていたことを思い出し、触れ合う場所のことは気にしないようにして、ハルシャは、懸命に息を続けた。
 最初は、優しく触れているだけだった唇が、ゆっくりと開き、探るように動き出す。
 未知の感覚に、ハルシャは眉を寄せて、呼吸を乱した。

 続けて。

 わずかに離した口で呟いてから、彼は再び口を覆う。
 呼吸を続けろということだと判断し、ハルシャは懸命に息をする。
 その状態で十分以上、唇を合わせてから、彼はゆっくりと口を離した。

 そう。上手だったね。
 長く続けられるように、腹式呼吸も出来るようになるといいね。
 これから、練習をしていこうか。

 ひどく近い場所で、彼が瞳を合わせながら、呟く。
 命令に従えといわれていたことを思い出し、ハルシャは、こくんとうなずいた。
 静かに微笑むと、ジェイ・ゼルは肩に置いていた手を離して、ハルシャの髪を撫でた。

 いい子だ、ハルシャ。

 細めた目で見つめてから、再び彼は、唇を合わせてきた。
 言われたとおりに、呼吸を続けるハルシャに、いい子だ、と時折言葉を呟きながら。

 どうして――
 こんなことを、自分は思い出しているのだろう。
 優しく触れ合うリュウジの唇を感じながら、ハルシャは、内側の想いに耐え続けていた。
 そこから、ジェイ・ゼルはゆっくりと、彼の好む方法で唇を合わす遣り方を、教え込んでいった。
 自分は、彼以外を知らない。
 今も、触れ合うリュウジの感覚に、戸惑いしか覚えない。
 これほど、違うとは、自分は思わなかった。
 リュウジは、ジェイ・ゼルのように、動かなかった。
 問いかけるように、追い詰めるように、いつもジェイ・ゼルは柔らかく、唇を探ってくれていたのに。
 触れ合わせているだけの温もりに、ハルシャは胸が押しつぶされそうな感覚を抱いた。

 もう。
 ジェイ・ゼルに、逢えない。
 ここに――来てはならないと、彼は言った。

 胸を突きあげる切なさに、ハルシャは触れているリュウジの唇を、そっと探った。
 かつて与えてくれた、ジェイ・ゼルの動きの欠片を求めるように。
 その動きに、リュウジが応えた。
 静かに、彼が合わせた唇が動く。
 最初穏やかだったリュウジの動きが、ゆっくりと、深くなっていく。
 いつの間にか、頭の後ろにリュウジの手があり、身に引き寄せられていた。
 触れ合う場所から、彼の優しさが沁み込んでくるようだった。

 彼は――自分たちのために、帝星から来てくれた。
 そして。
 父の魂が、私たちを救うために、リュウジに出逢わせてくれた。
 そう。
 真摯な声で、彼は告げた。

 ふと、気付いた時には、身が、ソファーの上に横たえられていた。
 何の違和感も覚えさせずに、彼は、唇を覆ったまま、ハルシャの身をソファーの座面に寝かせている。
 体重をかけることなく、優しく、丁寧にリュウジが、自分を高めていく。
 このまま――身を任せれば、楽になるのだろうか。
 薄く開いた視界に、黒い睫毛を伏せる、リュウジの顔が見えた。
 見つめていることに、気付いたのだろうか。
 ゆっくりと、瞼が上がり、リュウジの藍色の瞳が、前から自分をのぞき込んだ。

 ああ。
 宇宙だ。

 ハルシャは、再びそう思った。
 深く、神秘を秘めた藍色の瞳。
 自分を、重く静かに見つめている。
 これまで、見たことのない、リュウジの表情だった。
 彼の瞳の中に、吸い込まれそうだ――

 ハルシャが見つめていると、不意に、リュウジが動きを止めた。
 微かに眉を寄せて、一瞬迷ってから、彼は名残惜しそうに、ハルシャから口を離した。
 舌打ちをしそうな、悔しげな顔をしてから、つっと顔を逸らす。

吉野ヨシノか」
 背けた顔から、小さな呟きが聞こえる。
 ヨシノさんから、連絡が入ったのだろうか。
 ソファーに横たわったまま、ハルシャは身を起こすリュウジを見つめる。
「ご苦労だった。こちらではなく、マイルズ警部のところへ、直接持ってきてくれるか。うん。僕もすぐに行く」

 口の中で小さく呟いてから、彼は小さな息をついた。

「すみません、ハルシャ」
 中断したことに対する詫びなのか、それとも、唇を覆ったことに対するものなのか、判断がつきかねる口調で、リュウジが言った。
 ちょっと考えてから、彼は、ハルシャに手を差し伸べて、ソファーから起こした。
吉野ヨシノが帰って来たので、少し、マイルズ警部と、打ち合わせをしてきます」
 いつもの、リュウジの物言いだった。
 見つめるハルシャの頬に残っていた涙を、そっと指で拭いながら
「それが済んだら、サーシャを迎えに参りましょう」
 と、優しい笑みを浮かべながら呟く。
「ドルディスタ・メリーウェザにも、事情をご説明しなくてはなりません。彼女には、大変お世話になりましたから」

 ああ。そうだ。
 自分は、帝星に行くことに、なったのだ。
 戸惑いをまだ隠せずに、ハルシャはリュウジを見つめ続ける。
 彼は小さく笑った。

「大丈夫ですよ、ハルシャ。何も心配しなくても」
 頬から、涙が拭われる。
「マイルズ警部のところへ行ってきます。すぐに戻って参ります。そうしたら、出発しましょう」

 頬を拭っていた手を、髪に滑らせてから、リュウジは立ち上がった。
 歩きながら、彼は自分の顔を、手の平でごしごしとこすっている。
 リュウジの顔にも、涙の痕がありありと残っていた。
 大股に戸口に向かい、廊下に出ようとして、扉を開けたまま、彼は振り向いた。
「準備をして、待っていてください。ハルシャ」
 にこっと、笑ってから彼は、そのまま扉の外に出て行った。

 後に残されたハルシャは、ソファーに腰を下ろしたまま、視線を落として黙り込んでいた。
 あまりに多くのことが、起こりすぎて、整理がつかない。
 けれど。
 これにも、慣れるのだろう。
 大丈夫だ。リュウジは自分たちのことを、一番に考えてくれている。
 彼に任せていれば、きっと、全てが上手くいく。
 言い聞かせながら、黙り込む。
 ふと。
 視線が、自分の左の手首に向かった。
 そこには、白い通話装置があった。
 ジェイ・ゼルに、返しそびれていたのだ。
 目に映したものを見つめたまま、ハルシャは動けなかった。
 ゆっくりと、左の腕を上げて、通話装置の画面を目の前に持ってくる。
 通話、と書かれた文字を、見つめ続ける。

 ここを、押したら――
 ジェイ・ゼルと、話すことが出来るだろうか。
 彼の声が、聞けるだろうか。

 思っただけで、かたかたと身が震え出した。

 逢いたい。

 あれほど、リュウジに言われ、精神をコントロールされているとまで、突き付けられたのに。
 それでも、ジェイ・ゼルに、逢いたかった。
 彼の口から、真実を聞きたかった。
 もしかしたら、虚偽のことしか話してくれないかもしれない。
 彼はいつでも、自分を煙に巻く。
 それでも良かった。
 ジェイ・ゼルの口から、語ってほしかった。

 ハルシャは、通話の文字を押そうとして、幾度も、幾度もためらった。
 伸ばした、右の指先が震える。
 最後に聞いた、厳しい拒絶の言葉が、指先を惑わす。
 彼はもう、自分に逢いたくなさそうだった。
 借金が終わったら、自分の意味など、なくなるのだろうか。
 迷った挙句、ハルシャは、ただ、通話装置を前に引き寄せ、繋がっていない画面に向かって、話しかけた。

「ジェイ・ゼル」

 応える声は無かった。

「ジェイ・ゼル、教えてくれ。ジェイ・ゼルは、私の両親の死に、関わっていたのか」

 沈黙を続ける画面に語り続ける。

「もう、逢ってくれないのか」

 声が震える。

「私の何が間違っていたんだ。教えてくれ、ジェイ・ゼル――お願いだ。私は、どうすればいいんだ。
 答えてくれ」
 
 懸命に涙をこらえながら、彼の名を呟く。

「ジェイ・ゼル――」
 
 このまま、リュウジと帝星に行くことを、ジェイ・ゼルは望んでいるのか?
 あなたとは、もう二度と逢えないのか?
 こんな別れしか、私たちは出来ないのか?
 あの時、話し合いが終わったら『エリュシオン』へ戻ろうと、言ってくれていたのに。
 渦巻く疑問の全てを口に出来ず、ハルシャは通話装置を手で包んで身に引き寄せた。

 唇を噛み締める。
 温もりを忘れないと、誓ったはずの、唇を。
 ハルシャは、ただ、噛み締め続けた。


 *


 扉の外で、リュウジはハルシャの独り言を、聞いていた。
 五年間の束縛が、彼の心を、未だにジェイ・ゼルに縛り付けている。
 そのことを確認してから、そっと、戸口を離れた。

 マイルズ警部のところへ向けて歩きながら、洗われたように心が清々しいのを感じる。
 ハルシャは、自分の全てを受け入れてくれた。
 いまさらながら、足が震えてくる。
 賭けだった。
 それでも、ハルシャを信じ、リュウジは自らの醜いもの一切を、言葉にした。

 ハルシャは、受け入れてくれた。
 自分の想いも、唇も――

 かつて、顔を背けて拒んだ唇を、ハルシャは自分に許してくれた。
 それだけでなく、自分から、求めてくれた。
 そっと、リュウジは指先で、彼と触れていた場所に、さわる。

「忘れさせて差し上げます。ジェイ・ゼルのことも、何もかにも」
 リュウジは歩きながら、小さく呟いた。
「この五年間は、悪い夢だったのです。朝の光に消えてしまう――悪い夢だったのですよ、ハルシャ」

 顔を上げる。
 半開きになっていたハルシャの金色の瞳の深さを、リュウジは思い出す。
 決して、焦りはしない。
 彼が自ら身を委ねてくれるまでは、無理強いしてはならないと、心に呟く。
 時間はたっぷりある。
 帝星に移ってからも――ずっと、彼らとの生活は続く。
 未来を想いながら、静かに歩を進める。
 彼は、失った両親の代わりに、与えてもらった大切な家族だ。
 誰にも、傷つけさせない。
 そう。
 リュウジ自身にさえ、ハルシャを傷つけさせるつもりはなかった。
 前を向いて、強い歩調で歩いていく。

 リュウジは、忍耐強かった。









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