※文章中に、リュウジが受けた過去の性的暴力(輪姦)表現が出て参ります。
嫌悪を抱かれる方、苦手な方は、閲覧回避をお願いいたします。
注意喚起をいたします。ご自衛をお願いします。
それでも、物語をご覧になって下さるとお許しくださる方のみ、どうか、先へお進みください。
第150話の続きです。
ハルシャに身を預けたまま、リュウジは黙していた。
震えている。
必死に、体の内側の勇気を、振り絞っているのが、感じられる。
ここまでして――
リュウジは自分に、辛い過去を伝えようとしていた。
かつて、内側を全てリュウジにさらけ出した時、彼に対して誠実でありたいと、ただひたすら願い続けていた。
リュウジも、そう、思ってくれているのだろうか。
沈黙の中、崩れ落ちそうな彼の身体を、自分の温もりだけが支えているような気がした。
ハルシャは穏やかに腕に包んだまま、彼が口を開く時を、静かに待ち続けた。
「バルキサス宇宙空港には、個人機で来ました――偽名を使って」
ぽつんと、リュウジが呟いた。
顔は、ハルシャの肩に埋めたままだった。
ジェイ・ゼルが、過去の真実を話した時、ハルシャに顔を上げさせなかったことを、なぜか、思い出した。
語る自分の顔を、見られたくないのかもしれない。
リュウジの心を慮りながら、ハルシャは、彼の身体に、自分の温もりを与え続けた。
最初の一言が出た後、何かつっかえが取れたように、淀みなくリュウジは語り始めた。
「マイルズ警部がハルシャに、探していると言っていた青年の名前です。
憶えていますか?」
問いかけるリュウジの声に、記憶を手繰って、ハルシャは答える。
「確か、マサキ・ウィルソンでは、なかったか」
くすっと、リュウジが小さく笑った。
「さすがの記憶力ですね、ハルシャ。そうです。マサキ・ウィルソン――それが、僕がラグレンに入った時の、旅券の名前です」
笑いを微かに含んだ声で、彼は続けた。
「僕は、色々な名前の旅券を、持っているのです」
さらっと、リュウジが告げる。
だから、オオタキ・リュウジではどこにも引っかからなかったのだ。
少し、明るさを帯びたリュウジの声を聞きながら、ハルシャは考えていた。
普段と、あまり違いのない声で、彼は続けた。
「都心ラグレンに入って僕は、長期滞在者用の宿を借りました。もちろん、マサキ・ウィルソン名でです。
僕が最初に着手したのは、ダルシャ・ヴィンドース氏が契約書に書いていた住所を、訪ねることでした。ヴィンドース家の遺児たちの行方を、知っている者がいるかもしれないと、考えたからです」
ああ、昔の家を、リュウジは見たのだと、ハルシャは思う。
この五年間、かつて暮らしていた家を、見たことはなかった。
機会がなかったのと……見ても、辛くなるだけだと考えたからだった。
感慨にふけるハルシャの耳に、静かなリュウジの声が響く。
「住所の場所には、すでに別の家族が住んでいました。僕は前の住人の消息を訊ねたのですが、そんなことは知らないの一点張りで、取り合ってくれませんでした。
ですが、僕の様子を目にしていた使用人がこっそりと、以前、ヴィンドース邸で働いていた人物を知っていると、住所と名前を教えてくれたのです。
彼の情報を元に訪ねたのが、カイエン・リーヴス氏です」
あまりに懐かしい名前に、ハルシャは、一瞬身を強張らせた。
「彼から、一体何があったのかの詳細を、僕は聞くことが出来ました。
爆破事故の後、あなたがた兄妹が、一四七万ヴォゼルというとんでもない額を両親の負債として背負わされ、返済のために、ジェイ・ゼルという人物に、連れ去られたということを」
押し当てられた肩から、淡々とした声が響く。
「全てを話してくれた後、彼はとても後悔していると、想いを吐露していました。
お世話になったご恩をお返しも出来ず、あなた方を、闇の金融機関の男に、渡してしまったことを――何も出来なかったご自分を、責めていらっしゃいました」
カイエンが――
ハルシャは、眉を寄せた。
彼には何の罪もないことなのに、ずっと心にかけていてくれたことが、ありがたかった。懐かしい、執事の声と仕草が、脳裏をよぎる。
「僕は、その話を聞いて、ダルシャ・ヴィンドース氏が預けていた長期投資信託の配当金は、必ず借金の返済に役に立つと、確信しました。お父さまが残してくれた、大切なお金です。ヴィンドース家の遺児たちに渡したいと、思いがつのりました」
出会う前から、そこまでリュウジが自分たちのことを、考えてくれていたとは、思いもよらないことだった。
心が震え、息が、詰る。
「何としてでも、あなた方を探したい。
必死に手がかりを求めましたが、どうやら、警察でも敬遠する場所に、あなた達は居るらしいということまでしか、解りませんでいた。
そこで僕は――直接、オキュラ地域に赴き、あなた達を探そうと、決意したのです。そうでもしないと、誰もあなた達に手助けしようとしない。
そんな感じを、政府関係者の口調から感じました」
リュウジは意外と気が短いと、ハルシャは知っていた。
のらりくらりとした返答に、もしかしたら、彼は業を煮やしたのかもしれない。
自分たちのために、彼は、無謀な決断を下したのだ。
ハルシャは、ぎゅっと、リュウジを包む腕に、力を込めた。
彼の身に起こったことは、自分たちが原因だったのだと、瞬時にハルシャは悟る。
違う痛みが、胸の中に、湧き上がってきた。
自分たちの境遇を見兼ねて、手を差し伸べようとしてくれた人が、酷い目に遭わされた。
あまりにも、理不尽だ。
叫び出したくなる衝動を、ハルシャは必死に押さえ込んだ。
彼の話を、中断させてはならない。
リュウジは、切れそうな糸を、必死に手繰りながら、話をしているような気がする。細く繊細な糸を――
ハルシャは、唇を噛み締め痛みに耐えながら、全身で彼の言葉に、耳を澄ませる。
しばらく沈黙した後、再び彼は口を開いた。
「僕は、これまでも色々、危険な目に実際に遭ってきました」
ぽつりと、呟く。
「それでも、何とか凌《しの》いで来ました。だから――恐らく、自分の実力を過信していたのでしょう。
どんなに危険だと言われていても、人類の住む場所だ。
それほど恐れることはないだろう。
警告めいた言葉を無視して、僕は単身、オキュラ地域の最下層へ出向いたのです」
短く息を吸ってから、彼は続けた。
「降り立ったオキュラ地域は、少し治安は悪そうに見えましたが、ごく普通の街に思えたのです。僕はしばらく辺りの様子をうかがってから、道行く男性に、もしやこのあたりに、ヴィンドースという人物はいないだろうか、と、気楽に問いかけたのです。
彼は愛想よく、ヴィンドースというのは、ハルシャ・ヴィンドースのことか、と、応えてくれました。
恐らく僕は、喜んだのでしょう。
最初に尋ねた人から、まさしく求めている人物の名を聞けたのですから。
そうだと答えた僕に、彼は親切にも、案内してあげよう、ついておいでと、道案内するように、歩き始めたのです」
ハルシャは、どきんと、心臓を躍らせた。
サーシャには、最初に、決して人について行くなと、厳しく言い渡してある。
安心させ油断させて連れ込み、暴行を加える。それが、オキュラ地域の犯罪者がよくやる手だ。
リュウジは、それを、知らなかった。
「僕は、喜んで彼の後に従いました。
しかし、彼が教えてくれた家の中には――僕の求めるハルシャの姿はなく、嫌な笑いを浮かべる、四人の男が居たのです。
とっさに、騙されたことを、僕は悟りました。すぐさま退路を断たれ、僕は、五人の男たちに、取り囲まれました」
短く言葉を切ってから、ハルシャに回すリュウジの腕に、力が込められた。
「悪夢の、始まりです」
その後、しばらく、言葉が途切れた。
ドクン、ドクンと、心臓の音が、聞こえる。
恐らく、リュウジにも、伝わっているだろう。
自分の、この心臓の鼓動は。
ハルシャの鼓動に耳を澄ませるように、リュウジは押し黙っていた。
「彼らは――旅行者の僕が、金銭を持っていると思っていたようでした」
不意に、リュウジが語り始めた。
「ですが、僕は出かける時には、万が一のことを考えて、身分証や大金は持ち歩かないように心掛けているのです。
それが、裏目に出ました。
僕を乱暴に拘束した後、身体を探って金目の物を持っていないことを悟ると、男たちは激怒しました。
連れてきた男の無能を罵り、怒りは僕自身へも、向かったのです。
僕は――幼い頃から、誘拐にどう対応するのか、叩き込まれてきました。
その時の反射によって、彼らに逆らわないという、選択肢を、とっさに選びました。
五人からの身体的暴力は、耐えがたいものがありましたが、それでも、僕は最小の身体的ダメージで済むように、相手の力を受け流す術を、身に着けています。
その時も、僕は冷静に計算していました。
瞬間的な怒りが収まれば、彼らは僕を解放するだろう。旅行者に対して、それほど無体なことはしないはずだ、と。警察が動いてくれるかもしれないと、甘い憶測もしていました。
まだ、自分は帝星の常識で、オキュラ地域を測っていたようです。
あそこは、地獄のような場所です。
彼らにとっては、迷い込んできた旅行者は、生きて地上に戻す必要のない、生贄のような存在なのですね」
呟いてから、ぎゅっと、リュウジがハルシャの服を、指で握りしめた。
「僕が彼らの暴力に対して抵抗しないのを見て取ると、彼らは僕の、さらなる利用方法を思いついたようです」
ドキン、ドキンと、心臓が打つ。
それでも、ハルシャは心を開いて、リュウジの言葉を、ただ、受け入れ続けた。
短い沈黙の後、彼は自身の身に起こったことを、口にした。
「僕は彼らの、性的な欲望のはけ口に、なったのです」
ハルシャは、虚空を見つめたまま、リュウジの震える体を腕に包み続けた。
押し付けられた場所から、声が響く。
「僕は、男性と交渉は持ったことがないのですが、彼らは、慣れているようでした。
部屋にあった机の上に、無理矢理に横たえられて、問答無用で貫かれました。
食用の油を塗ってくれたのは、今から思えば、僥倖だったのでしょうね。
その場にいた五人の男たちは、代わる代わるに僕の中に入ってきました。
抵抗すれば、余計にあおるだけだと気付いてからは、心を飛ばして、ただ、行為を受け入れました」
止めてくれと、叫んでいたリュウジの言葉が、耳に響く。
その時も、彼は叫んでいたのだろう。
だが。
誰も、止めてくれなかったのだ。
「僕は、両親を目の前で殺害されてから、どうやら、感情の一部が壊れてしまったようで、悲しみを感じなくなっていたのです。
あの時も――自分の身に降りかかって来たことを、どう凌げばいいのだろう、と、それをひたすら考えていました。
男たちに逆らってはいけない。
それが、僕が生き延びるために選び取った道でした」
その時に、どれだけの痛みと恥辱をリュウジが感じたのか――
ハルシャは、苦しさに呼吸が出来なくなりそうになった。
短く息を吸い込むハルシャに、
「大丈夫ですか」
と、心配そうに、リュウジが問いかける。
ハルシャは、言葉が出ず、首を振ることしか出来なかった。
心の痛みに、ただ、歯を食いしばる。
再び訪れた沈黙の後、ようやく、リュウジが口を開いた。
「男たちは、犯罪で繋がっている仲間のようでした。
僕を散々犯した後、どうやら、何か予定があったようです。示し合わすと、僕が動けないように縛ってから、五人で出かけて行ったのです
男たちは、なぜか、僕を気に入ったようです。帝星の人間が珍しかったのかもしれません。
五人の共通のおもちゃとして、囲い込むことにしたのか、解放はされず、拘束されたまま、部屋の中に放置されました。彼らは僕が逃げないと思ったのか、見張りすら置いて行きませんでした」
まるで、他人の身に起こったことのように、彼は淡々と話していく。
発見した時の、彼の状態が、目眩を伴いながら、脳裏をよぎる。
彼は――抵抗したのではない。一方的に、暴行を受けたのだ。
無抵抗な一人の青年を、数の暴力で、男たちは傷めつけた。
腕に力をこめると、ハルシャは、リュウジが過去から滴らせる言葉を、ただ、浴び続けた。
「残された部屋の中で、僕は何とか逃げ出そうとしましたが、拘束がきつく、また、部屋にも鍵がかけられていました。
逃亡しようとしているのを知ると、大抵の犯人は激怒します。
どの位の時間でかれらが帰ってくるかもわからない中、逃走は危険だと、僕は判断しました。もう少し機会を待とう。とりあえず、命を奪われることはなさそうだ。
そんな計算も、働きました」
ふっと息を吐いてから、彼はハルシャに身を預けながら呟く。
「困難な状況に置かれた時、一番大切なのは、希望を持ち続けることです。
僕は――まだ、歩くことが出来ました。
大丈夫だ、必ず逃げ出せると言い聞かせながら、僕は、ヴィンドース家の兄妹に逢えることを、願い続けました。
ダルシャ・ヴィンドース氏の子息に会った時、どういって説明しよう。
ひたすらそれを、考え続けました。
きっとお父さまが残された遺産を、遺児の二人は喜んでくれるだろう。
そのために、自分は帝星から来たのだから。
きっと、あなた達に会える。
そう、思い続けました」
声が、体の中に、染み入るように、響いている。
彼が残酷な目に遭ったのは、自分たちを助けるためだった。
そして。
屈辱的な状況の中で、リュウジは自分たちのことを思い続けていた。
告げられた事実が、抑えがたく身を震わせる。
強めた腕の力に応えるように、リュウジも固く身を抱きしめてくる。
二人で身を合わせ、支え合いながら、リュウジが体験した、残虐な過去に、耐え続ける。
「男たちは――半日ほどしてから、戻って来ました。計画していた犯罪が成功したのか、彼らは上機嫌でした。
僕は、乱暴に身を引き立てられ、彼らの前に連れてこられました。
拘束していた縄を解くと、待ちかねていたように、男たちは、再び僕を犯しはじめたのです。この上なく、楽しげに」
押し当てた場所から、声が響く。
「僕は――人があれほど、残虐になれるのだと、初めて知りました。
人の悪意の底知れなさを、思い知らされたのです。人の中には、救い難い悪魔が宿る時が、あるのですね」
人の悪意というのは、底知れない闇のようなものです
――信じられないほど、人は残酷にもなれるのです。
かつて、サーシャが誘拐されたとき、リュウジが呟いていた言葉が、突然蘇る。
彼は、生きながら地獄を見たのだ。
あの時の、暗く静かな眼差しが、ハルシャの胸を刺す。
「身体的な暴力には、ある程度耐性があるつもりでしたが、性的な凌辱というのは、質が違います。
全人格の否定――精神的な殺人に等しい行為です」
言い切ってから、彼はしばらく無言だった。
ハルシャはーー言われない暴行を受けたリュウジの身体を、宝物のように、大切に腕に抱いていた。
静かに腕を動かして、彼の頭を、手の平で包み込む。
思いに耐え兼ね、リュウジの黒い髪に頬を押し当てながら、そっと、自分の身に引き寄せた。
触れている場所から、彼が味わった痛みと苦しみと屈辱を、自分に吸い取りたかった。
心を無視して、ただ、肉体を貪られる。
その苦しみに、彼は一人で耐え続けたのだ。
抑えがたく、身が震え続ける。
これは――
怒りだった。
静寂の後、彼はやっと、口を開いた。
「どれだけ、この凌辱に耐えなくてはならないのか――執拗な行為に、希望を失うまいとしながらも、多分、僕は精神の限界を迎えていたのでしょう。
失ってしまったと思った感情が、まだ、この中にあったのかもしれません。
ただの暴力になら、耐えられたかもしれませんが、彼らから強いられる行為は、人としての心を、破壊してくるものです。
だから僕は――心が壊れる前に、自分の記憶を消してしまったのです」
ぐっと、ハルシャの服をつかんでから、リュウジは言葉を続けた。
「記憶が戻ったと言っても、実は、あいまいなところが、まだあるのです。
どうやって、彼らから逃げたのか――実際、はっきりしません。
彼らは、僕を五人で、弄んでいました。
ですが、何か、トラブルが勃発したようなのです。恐らく、先ほど終えた犯罪の収益の分配方法か何かで、揉めたのでしょう。
彼らの中の一人が、突然ナイフを取り出して、手近の男を刺しました。
後は、よく覚えていないのですが、相当の修羅場になったようです。
僕は、本能的に、脱走するチャンスだと判断しました。混乱に乗じて、逃げるのは今だと。後は、無我夢中でした。
恐らく、隙をみて、彼らが油断して鍵をしていなかった扉から、そのまま逃げだしたのだと思います。
どこを、どう走ったのか、全く覚えていません。
逃げて、逃げて――ハルシャが僕を助けてくれた場所までたどり着き、そのまま、意識を失ったのだと、思います」
静かな声で、リュウジは身に起きた、おぞましい体験を語った。
ハルシャは、震える身を、懸命に抑えようとした。
辛いのはリュウジだ。
自分ではない。
けれど。
怒りと苦しみが心に湧き上がってきて、身から溢れだす。
リュウジが痛めつけられたのは、自分のせいだ。
事実が、ただ、身をさいなむ。
「ハルシャに助けてもらった時、僕は本当に、一切の記憶を失っていました。
五歳の時と同じです。
身に起きたことに耐えきれなかった心が、記憶を消去することで、平静を保とうと、防御機能を働かせたのでしょう」
考えながら、彼は言葉を続けた。
「その中で、名前と問いかけられて、オオタキ・リュウジと答えたのは、本名を名乗ってはならないと、常に意識していたからだと思います。
身に着いた習慣が、記憶のない状況でも、とっさに、偽名を名乗らせたのでしょう」
ふっと、息が服に触れる。
「初めて目が覚めた時、ハルシャの温かな眼差しが、自分を見つめてくれていたことに、とても安心しました。
その後、名前、と問いかけられて口にした言葉の意味を、僕自身もよく解りませんでした。
何かを、喪失している、それだけは理解出来ました。
ですが、失ったものが何であるのか、それが、どうしても、僕には思い出せなかったのです」
リュウジの額が、ハルシャに押し付けられる。
「空虚な中に、ぽつんと浮かんでいるようでした。ひどく頼りなくて、不安でした。――そんな中、ハルシャの金色の瞳の静かな温かさだけが、僕をこの地の上に、繋ぎ止めてくれているようでした。
理由はわかりません。
ですが、なぜか、あなたの瞳を見つめていると、故郷に帰った様な、ひどく安らいだ気分になったのです。
不安でしたが、それでも、何とかやっていけると、僕は思ったのです。
大丈夫、ハルシャがいてくれる。それはまるで魔法の言葉のように、僕の心を落ち着けました」
リュウジは、顔を少し動かして、頬をハルシャの肩に預けた。
「次の日、ドルディスタ・メリーウェザに診察を受けながら、ひどい状態で路上に放置されていた僕を、あなたが助けてくれたのだと、教えてもらいました。
見つけてくれたのが、ハルシャで幸運だったな、と、彼女は笑いながら言っていました。他の者なら無視するか、ひどい奴なら、なぶり者にして君を殺していた、と」
小さくリュウジは首を振った。
「その言葉の意味が、僕にはすぐには理解出来ませんでした。傷ついた人間を無視するか、下手をすれば殺してしまう街。そんな場所が本当にあるのだろうか、と、多分、疑問に思ったのだと思います。
納得していなかったのでしょう。彼女の言葉を、僕はずっと考えていました。そして、そのまま、寝てしまったのです。
だからでしょうか――
僕は、自分の身に起こったことを、夢に見ました。
五人の男たちに、次々に犯される夢を」
あの時だ。
リュウジを助けた次の日――ジェイ・ゼルから、自慰行為を強いられた後、戻る途中で、どうしても自分は彼に逢いたくなった。
訪ねたベッドの上で、彼は眠っていた。
起こすのがためらわれて、側に居た時、リュウジは虚空に叫んでいた。
もう、止めて下さい……
嫌です!
激しい口調と、身を守ろうとする、腕の強さと。
乱れた呼吸を、ハルシャは覚えていた。
「その時は、すぐに、夢の意味が解りませんでした。ハルシャが言っていたように、悪い夢だったのかと、思おうとしていました。ですが――ハルシャが明日迎えにくると、告げて帰った後、僕は一人になって、天井を見つめながら考えていたのです。
あの夢は、何だったのだろう、と。
その瞬間、不意に、これは、自分の身に、現実に起こったことだと、確信が湧き上がったのです」
大きく息を一つ吐いてから、早口になって、リュウジが言う。
「その時、自分が何のためにオキュラ地域に来たのか、突然思い出したのです。
そこから、過去が、音を立てて蘇ってきました。
自分が誰なのか、ハルシャに拾われる前に、何があったのか。
全て、を。です」
その時から、彼は、もう、記憶を取り戻していたのだ。
「ですが!」
激しく、彼は叫んだ。
「記憶が戻ったことを、僕は」
苦しげに歯を食いしばると、その歯の間から絞り出すように、彼は呟いた。
「ハルシャたちに、言うことが出来ませんでした――僕に何があったのかを」
頬を強く自分に押し当てて、強張る身を震わせながら、彼は懸命に言葉を続ける。
「記憶が戻ったと言えば、どんな暴行を受けたのかを、告げなくてはならない。
これほどの恩義を受けたのです、きちんと説明する必要がある。
解っていました。
けれど――僕には、出来なかった」
不意に、彼は言葉を断ち切った。
荒い息が収まるまでの間、彼は沈黙していた。
激したリュウジの感情をなだめる様に、ハルシャはそっと、彼の髪を撫でる。
その動きに、次第にリュウジの身の強張りが、溶けていった。
「脳から消してしまいたいほどの、残虐な凌辱のことを告白すれば――それを耳にしたあなた方が、どんな軽蔑の目を、僕に向けるかと思うと、恐かったのです。
恐怖に負け、僕は何も伝えることが出来ませんでした。
卑怯なことは解っていました。けれど、記憶を失ったふりを続け、あなた達を欺きながら――側にいる選択しか、僕は出来なかったのです」
絞り出すような声で、彼は内側の醜いものを、滴らせていた。
ハルシャは、ぎゅっと、彼の身を抱きしめた。
「わかっている。リュウジ」
押し当てた髪に、言葉がこぼれ落ちる。
「わかっている。大丈夫だ、リュウジ――大丈夫だ」
ゆっくりと、髪を撫で続ける。
ささくれた心をなだめるように。
痛みを癒すように。
「責めなどしない。わかっている。大丈夫だ、リュウジ」
幾度も、わかっているよと、穏やかに呟くハルシャの言葉に、彼はぎゅっと、身を押し付けて来た。
ハルシャはただ、耳元に、言葉を紡ぎ続ける。
リュウジの身の震えが収まるまで、髪を撫で、言葉を呟き、心を慰撫する。
ようやく通常の呼吸に戻ると、リュウジは途切れていた言葉の続きを、呟いた。
「記憶を取り戻してから――僕は、自分が何のためにここに来たのか、片時も忘れたことはありませんでした。ですが、記憶を失っているふりを続けているために、簡単に言い出すことが難しかったのです。
そんな僕を――ハルシャたちは、自分たちの生活に受け入れてくれて、精一杯のことを、してくれました。
僕は――記憶を無くし、どう考えても厄介者であるのに、嫌な顔一つせずに、大切にしてくれました。
記憶を失って、リュウジは辛い状態にあるのだから、少しでも心が慰められるように、最善を尽くそう。
あなた方二人が、心に決めて向き合ってくれているのが、はっきりと解りました。これほど過酷なオキュラ地域に、ハルシャ達がいることが、僕には信じられませんでした」
ふっと、リュウジの腕の力が緩んだ。
「一緒に暮らすうちに、あなた方がどれほど困窮しているのか、全体像がつかめてきました。
その原因が、ご両親の借金と、その借金を取り立てる、ジェイ・ゼルという男にあることも」
一瞬口をつぐんでから、リュウジは再び言葉を呟いた。
「そして――ハルシャが五年間、彼に、どんな行為を、強いられているのか、も」
小さく言葉がこぼれる。
「一度、媚薬の匂いをさせて、ハルシャが帰ってきた時がありました。薄々は気付いていたのですが、その時に、確信に変わりました」
しんと。
空気が凍り付く。
では。
自分が話す前にはもう。
リュウジは、気付いていたのか。
ギランジュとのことがあった時に。
夜明けに戻った自分から、彼は情事の痕跡を嗅ぎ取っていたのか。
顔が、じわっと、赤くなる。
「ジェイ・ゼルは、媚薬は使わない」
無意識に、ハルシャはかばい立てするように、呟いていた。
頭を小さく、リュウジが揺らした。
「解っています。けれど、その時は、ジェイ・ゼルがあなたに酷い行為を強いていると、思い込んでいました。
だから」
あれほど固く巻き付けていた腕をほどいて、リュウジがゆっくりと身を離す。
少し距離を取って、彼はハルシャを見上げてきた。
「何としてでも、あなたを自由にして差し上げたいと、思ったのです」
苦しい告白を終えて、まるで洗い流されたように、澄んだ藍色の瞳が、自分を見つめていた。
彼は、自分を信じて、酷い暴行の事実を告げた。
ハルシャもまた、ひるむことなく、リュウジの視線を受け止めた。
見つめ合ってから、彼は、微かに口角を上げた。
「あなたとサーシャが、ジェイ・ゼルに食事に招かれていたとき、
呟いてから、彼は不意に視線を伏せた。
「あなた方を、何とか自由にしたいと思っていた時に、
彼に依頼して、ハルシャのご両親の事件のことを、詳細に調べてもらったのです。結果から、大変きな臭いものを感じました。
もしかしたら、組織ぐるみで犯罪が行われた可能性がある。
判断した僕は、マイルズ警部に捜査を依頼しました。
マイルズ警部を、帝星から呼ぶという決断をしたのは、個人では歯が立たない相手が、敵である可能性が、極めて高かったからです。それは、とても――危険なことでした」
修羅場を幾度かくぐって来たリュウジには、予感がしたのだろう。
ハルシャは、視線を落とす、彼の顔を見つめる。
「その勘は、的中しました。ハルシャのご両親――息子の二十歳の誕生日に、宇宙船を贈りたいと微笑まれていたダルシャ・ヴィンドース氏とその夫人を、悪辣な手段で殺害したのは、ラグレン政府でした」
伏せられた瞼が、震えていた。
「なのに、ハルシャは何も知らされず、あまつさえ、ご両親殺害の原因をつくった、闇の金融業者ジェイ・ゼルの好きに身を弄ばれている。
その上、彼はハルシャの身を契約で縛り、劣悪な条件下で自身の工場で働かせていたのです」
途切れた言葉の後、彼はゆっくりと視線を上げた。
「ですが――
これほど理不尽な境遇にありながら、あなた方は、悪意に満ちたオキュラ地域に染まることなく、他者を思い遣る、気高く優しい心を、持ち続けていました」
一瞬、唇を震わせてから、彼は静かに微笑んだ。
「サーシャが、僕にあなたの服を貸してくれた時、一番状態のいい服を、わざわざ選んで、手渡してくれたのです。
彼女が、そう言った訳ではありません。様子を見て、僕が感じ取っただけです。
居候は、厄介者であるはずです。ただで飲み食いをさせているのだから、一番劣悪なものをあてがわれても、文句は言えません。
なのに、あなた方は、違った。
サーシャもハルシャも、一番いいものを、僕に渡してくれようとしました。
しかも、決して押し付けることなく、ごく、自然に――相手を敬い、精一杯の好意を尽くそうという、尊い心を、僕は感じたのです」
リュウジは静かに首を振った。
「言葉では、そういう人はたくさんいます。相手を敬い大切にすると。
ですが、いざとなると、やはり我が身が可愛いのです。とっさの時には、醜悪な本性を表してしまう人がほとんどです。
ですが、あなた方は、こんな極限の状態でも――僕のことを、いつも大切にしてくれました」
言葉を切ると、彼は、視線を彼方に投げかけた。
長い沈黙の後、内側から言葉を探すように、幾度も瞬きをしながら、彼は、呟いた。
「僕は、幼い頃から、巨大企業カラサワ・コンツェルンの次期総帥として、生きてきました」
そこに、遠い過去があるように、しばらく虚空を、リュウジは見つめた。
微かに目を細めると、再び、話し始める。
「僕に近づく者たちは、大抵下心がありました。祖父である総帥に取り入りたい、自分たちの事業を、有利に進めたい。地位や金銭の利益を目的にした者が、ほとんどです。
いつも、僕は大人の思惑の中で、翻弄されてきました。
その中で、瞬時に相手を値踏みする癖がつきました。
相手の人柄と力量と、悪意と追従と、有益か有害か――付き合う価値があるか、切り捨てるべきなのか。そんな風にしか、人を見ることが出来ず、人もまた、僕をそういう眼で見てきました」
これは、きっと。
リュウジが誰にも告げたことのない、言葉なのだろう。
銀河帝国の最高学府で、個別に指導を受けるほどの特別待遇を受け、ありあまる富と権力を身に着けていたリュウジの――一番心の奥底にある、本当の、言葉。
それを、自分に、伝えてくれている。
苦い記憶を話すリュウジから視線を逸らさずに、彼を見つめ続ける。
「僕自身は常に、評価されレッテルを張られてきました。それほどまでに、カラサワ・リュウジという名は、影響力があるのです。目に見えない檻のように、名前と地位が、僕の身も心も縛り続けていたのです」
不意に――
唇を噛み締めると、彼は視線をハルシャへ向けた。
ドキリとするほど、強い眼差しだった。
しばらく見つめてから、リュウジはゆっくりと微笑んだ。
胸が痛くなるほどの、柔らかな笑みだった。
「ですが、あなた達は、違った」
むき出しの言葉の素朴さが、ハルシャの胸を抉った。
彼は孤独な人だと、再びハルシャは思う。
癒しがたい孤独を抱えながら、笑うことが出来る人だと。
「記憶を失い、身寄りがない僕を、ハルシャたちは、ためらいなく受け入れてくれました。厳しい暮らしを、ジェイ・ゼルから、強いられていたにも、拘わらず」
唇が、震えた。
彼は、消えそうになる笑みを、懸命にたたえながら、言葉を続ける。
「何の利益もない――むしろ、デメリットしかない僕を、人生に温かく迎え入れて、家族として遇してくれたのです。
何の見返りもなく、何も求めることなく、ただ」
微笑んだ眼から、透明な涙がにじんだ。
「僕が、僕だから、大切にしてくれた」
一筋、頬を、涙がこぼれ落ちる。
「あなた達は――僕自身を、初めて見てくれた人です」
リュウジが微笑み続ける。
もう一筋、涙の雫が頬を伝った。
「あなた達の前では、僕は、ただのリュウジになることが出来ました――何の地位も、力も、名誉も、財産もない、ただ、この身と心だけを持つ、一人の人間に」
唇の端が上がり、新たな雫がこぼれ落ちる。
「それが、どれほど嬉しかったか――言葉にすることなど、出来ないほどです」
ハルシャは、ただ、彼の心が凝縮したような、透明な涙を見つめる。
「僕が、僕だから、大切にしてくれる。かつて、僕にも、そんな存在があったはずです」
細い糸を、懸命に引き寄せるように、リュウジが、消えかける声で呟く。
「父と母は、そんな風に、僕を無条件で愛してくれていたようです」
眉を寄せて、彼は言葉を続けた。
「なのに、僕は……彼らの記憶を、失ってしまいました。
身に降りかかった恐怖に負けて、僕は、慈しんでくれた腕のことを、忘れてしまったのです。
両親を失ってから、僕自身を見てくれた人は、誰もいませんでした。
カラサワ・コンツェルンの次期総帥。巨万の富を引き継ぐもの、選ばれた人間、幸運を背負った子だ、と。そう言われました。
けれど、僕が本当に、欲しかったのは――」
微笑みながら、リュウジが呟く。
「両親が生きている、未来でした」
ぽろぽろと、幼い子どものように、リュウジが涙をこぼす。
ハルシャは、無意識に右手を伸ばして、彼の頬に触れていた。
温かな涙が、指に触れる。
リュウジが、笑みを深めた。
「あなた達に出逢って、僕は――」
太古の海と同じ、塩辛い液体の温もりが、ハルシャの胸を打つ。
洗われたような眼差しで、リュウジが見つめる。
「五歳の時に失ってしまったものに、再び巡り合えたような気がしたのです」
藍色の瞳が、ひたむきに自分を見つめてくる。
「僕が、僕だから、愛してくれる存在――大切な家族に、もう一度」