ほしのくさり

第147話  幸せのかたち





「良かったですね、ハルシャ」
 飛行車に乗り込んですぐ、朗らかな声で、リュウジが微笑みながら話しかけてくれた。
 ヨシノさんが運転し、マイルズ警部は前の座席に座っている。
 後部座席に、二人で並んで腰を下ろした途端、リュウジはハルシャへ、顔を向けた。
「借金を全額返済出来て」
 笑みを深めて、彼は大切そうに、言葉を呟く。
「これでハルシャは、自由の身です」

 深い藍色の瞳が、真っ直ぐに自分を見つめていた。
 自由になりたいですか?
 と、かつて問いかけた言葉の答えを、彼が懸命に示してくれたのだと、ハルシャは改めて思う。

「ありがとう、リュウジ。本当に――」
 もっと適切な言葉を、彼の思い遣りに向けてかけたいのに、ありきたりの言葉しか出ない。
 まだ、自分の中で、ジェイ・ゼルの拒絶の声が渦巻いていた。
 ともすれば、そちらへ意識が、さらわれて行きそうになる。
 飛行車の後部座席に並んで座るリュウジの向こうに、ジェイ・ゼルの静かな眼差しが、浮かんでは、消える。
「思いもかけないことで、まだ、現実のこととは思えない」
 正直な想いを、彼に告げる。
 リュウジは共感を示すように、深くうなずいた。
「ハルシャに事前に何の相談もなく、勝手に行動に移して、申し訳ありません」

 ハルシャにとっては、突然のことだった。
 けれど。
 リュウジは随分前から、周到に準備をしてくれていたようだ。
 隣星の惑星アイランから、現金を取り寄せたと、ジェイ・ゼルが指摘していた。
 それにしても、どうしてこれだけの金額を、リュウジは用意できたのだろう。
「リュウジ――」
 問いかけた言葉は、
「ハルシャは、残って、ジェイ・ゼルと、何を話すおつもりだったのですか」
 と、いう、やや語気の鋭いリュウジの声で断ち切られた。

 藍色の瞳が、真っ直ぐ自分を見つめている。
 視線の中に、わずかな非難が、込められているような気がした。
 彼の眼差しを受け止めてから、ハルシャは、考えながら言葉を口にする。
「リュウジに――借金を立て替えてもらっている」
 サーシャと自分の身を自由にするために、彼は急いで借金を返済してくれたような気がした。
 立て替えてもらった分は、一生かけて支払うつもりだった。
 その覚悟も兼ねて、自分に言い聞かせるように、言葉を続ける。
「リュウジに返済するためにも、このまま工場で仕事を続けたいと、ジェイ・ゼルに頼むつもりだった」

 微かに、リュウジが眉を寄せた。
 一瞬、口を開きかけて、彼は息を呑んで沈黙した。
 荒げた感情を落ち着かせるように、彼は小さく息を吐いてから、微笑んだ。
 幼い子どもに言い聞かせるように、優しい声で彼が呟く。
「もう、あなたは借金を返済したのです」
 痛みを得たように、顔を歪めながら、リュウジは言葉を続ける。
「どんな仕事も、選ぶ自由があるのです。これ以上、ジェイ・ゼルを頼る必要は無いのですよ、ハルシャ」

 この五年間、ジェイ・ゼルと自分は、歪んだ関係だったと優しい声で指摘されているような気がした。
 意識の変革を迫られているようで、ハルシャはわずかに、ひるんだ。

「作りかけの、駆動機関部を、放置したままだ」
 ハルシャは、正当な理由を懸命に見つけたように、リュウジに言う。
「仕事を途中で放棄しては、ガルガー工場長が困る。任された責任がある」
 それに、あの駆動機関部は見事な設計だった。
「完成した姿を見てみたいというのも、ある。もし、ファイ・ガレン理論で駆動機関部が出来るのなら――」
 リュウジが無言で手を差し伸ばして、ハルシャの髪に触れた。
 思いがけない行動に、思わずハルシャは言葉を途切れさせた。
 真っ直ぐ見つめたまま、なだめるようにリュウジが髪を撫でる。
「あなたは、真面目で責任感の強い方ですね」
 微笑みながら、彼は言う。
「不当な労働条件で縛り付けていた工場に、それでも義理を果たそうとするのですか?」

 深い色の瞳が、じっと自分を見つめる。
「ハルシャ。ファイ・ガレン理論は、まだ穴のある未完成な理論です。それを利用した駆動機関部を作るのは、現段階では不可能です」
 リュウジの言葉が、じわっと、ハルシャの中に沁み込んでいく。
 どういうことだ。
 リュウジは、スクナ人を使った駆動機関部の代わりに、全く新しい理論を駆使した設計を起こしたのではないのか。
 小型で高性能な――思わず昂奮するほどの、素晴らしい駆動機関部の。
 戸惑うハルシャの耳に、リュウジの言葉が響いた。
「あなたが見ていた設計図から、僕は、悪意のある罠を仕掛けようという、意図を感じ取りました。これをハルシャが作れば、製造したことを理由に罪に問われかねない。
 むしろ、犯罪に巻き込むために、ハルシャに製造させようとしている。
 そんな醜悪な、意図です」
 吐き捨てるように、リュウジが呟く。
 一端言葉を切り、心を落ち着けてから、彼は続けた。
「そのことを指摘しても、真面目なハルシャは、何としてでも任された仕事を果たそうとするでしょう。
 だから、あなたが納得する形で、別の駆動機関部を作ってもらうことにしたのです。
 それが、ファイ・ガレン理論を駆使した駆動機関部です」

 ハルシャは、眼を見開いたまま、ただ、リュウジの言葉を浴び続ける。
 では。
 最初にスクナ人を動力源とした駆動機関部を見た時から、警察が現れる未来を、リュウジは予測していたというのだろうか。
 驚愕を見守りながら、リュウジが言葉を継ぐ。

「ハルシャが製造に取り掛かったことを確認したら、そう日を置かずに犯罪摘発を目的に、あなたに何らかの接触があると、僕は考えていました」

 静かな藍色の瞳を見つめる。
 もしかしたら。
 だから、彼は頑なに、一緒に作業をすると、言い張ったのだろうか。
 ファグラーダ酒を飲み、手を負傷して高熱を出した時も。
 ハルシャが一人で工場に行くことを、彼は阻止しようとしていた。
 何かがあった時に、自分を側で守るために。

「予想は、残念ながら的中しました。
 警察が動いた以上、もう、僕はあなたがあの工場で働くことを、許容することが、出来ませんでした。
 あなたの責任感を利用し、悪辣な環境で働かせるような場所に、あなたを置くことが我慢できなかったのです」
 ふっと、リュウジは肩の力を抜いて、ハルシャに微笑みを向ける。
「ハルシャに、違法な駆動機関部を作らせるような注文主が、どうなろうと、僕の知ったことではありません。
 ファイ・ガレン理論はまだ、未完成です。理論を応用しても、駆動機関部は作れません――あれは、相手が行動を起こすまで、つなぎとして便宜上作成していたものです。
 未完成だからといって、ハルシャが気にすることはないのです。
 元々、駆動機関部として、不完全なものを、僕たちは作っていたのですから」

 にこっと、無邪気な笑みが浮かぶ。

「僕たちが残したデータで作ったとしても、宇宙船を飛ばすことは出来ません」

 ハルシャは、あまりにも思いがけない言葉に、衝撃を受けていた。
 自分は設計図を読んで、完璧な作品だと思っていた。
 だから、作成を楽しみにしていたというのに。
 リュウジは、最初から完成させるつもりはなかったのだ。
 衝撃が去らないままに、ハルシャは呟いていた。
「不完全な駆動機関部に、高価なカーヴァルト鉱石を、使ってしまったのか……」
 呻くように呟いたハルシャの言葉に、静かにリュウジが応える。
「違法な駆動機関部を、ハルシャに作らせようとしたのです。
 そのぐらいの損失はあっても、良いと僕は思います」
 あっさりとした言葉に、ハルシャは、驚きを隠せなかった。
 髪から手を引きながら、リュウジが、目を細める。
「どのみち、困るのはジェイ・ゼルです。ハルシャが気にすることは、ありません」

 ハルシャは、胸の奥に、悲しみに近いものが広がるのを、感じた。
 後足で砂をかけるような無礼を尽くして、自分は何も言わずに工場を辞めるのだ。
 本日付で解雇すると、ジェイ・ゼルは言っていた。
 何の釈明も出来ず、工場長にも挨拶もせず、自分は逃げるようにして、工場を去る。
 悲しみに、表情を曇らせていたのだろう、リュウジは笑みを消して、自分を見つめていた。
「嫌、でしたか。ハルシャ」

 困ったようなリュウジの言葉に、はっとハルシャは落ちかけていた視線を上げた。
「そうじゃない、リュウジ――ただ」
 ハルシャは、苦いものを無理やり飲み下してから、言葉を続けた。
「工場の皆に、迷惑をかけて申し訳ないと、そう、思っただけだ」

 リュウジの瞳が、真っ直ぐに自分を見ている。
「あれほど、ひどい目に遭いながら、それでも、辞めることに罪悪感を抱くのですか。ハルシャが礼を尽くしたとしても、工場の人達はかえって悪意に取るだけです」
 微かに傷ついたような声で、リュウジが呟く。
「僕がしているのは、ハルシャにとって、迷惑なことでしょうか」
 あの時と、同じだ。
 サーシャがさらわれたと気づいたとき、自分は制止するリュウジを振り切って、ジェイ・ゼルの通話を繋いだ。
 会話を終えた後、今と同じような声で、彼は言った。

 ハルシャは、ジェイ・ゼルを信頼しているのですね。
 僕では、頼りになりませんでしたか?

 その時も、彼をひどく傷つけてしまった。
 今も、彼の柔らかな心に、自分の不用意な言葉が刺さったような気がした。
 リュウジは、ハルシャのことを、自分のことのように考えてくれているのに。
 忍耐に満ちた優しさが、ふと、胸を突いた。
 後悔が、胸の奥に、広がっていく。

「すまない、リュウジ。私は、自分の都合ばかり言っている」
 詫びるように、ハルシャは呟いた。
「私のために、リュウジは陰になり日向になり、かばってくれていたのに、その思いを、踏みにじるようなことを、言ってしまった」

 工場へ行ってどうする。
 ヴィンドース家の人間として、礼儀を重んじていると、自分に納得させたいだけだ。
 挨拶をして、きちんと責任ある行動をしていると――
 それは、ただの、自己満足だ。
 突然辞めることで、皆は相当不快感を抱いているだろう。
 自分の顔も見たくないかもしれない。
 少しでも、皆の非難を、和らげたいとでも、自分は考えてしまったのだろうか。
 行っても、感情を荒立てるだけだ。
 なら。
 リュウジが必死に守ろうとしてくれた思いを汲んで、どんなに非難を受けても、すっぱりと、工場から去った方がいい。
 どう言われようが、構わないではないか。

 心に整理をつけると、ハルシャは顔を上げて、リュウジを真っ直ぐに見た。
「ありがとう、リュウジ。私のことを、一番に考えてくれて」
 熱に熟れた中でも、必死に一緒に仕事に行くと、彼は言ってくれた。
 自分を、予測される危険から、守ろうとして懸命だった。
 思いを、心の中に受け取る。
「行っても、非難を浴びるだけだ。リュウジの言っていることは、正しい」

 と。
 自分を納得させるように言いながら、やはり、心の奥に寂寥が広がる。
 苦しい環境だったが、何とか適応しようとして、もがき抜いた五年間の年月が、脳裏をよぎる。
 もし、仕事を続けるとしたら、ジェイ・ゼルは何か手立てを付けてくれたのだろうか。
 そんな予感がした。
 辛いとこぼしたハルシャの言葉を、きっとジェイ・ゼルは真摯に受け止めてくれた。彼が出来る範囲で、自分のために動いてくれようと、しただろう。
 だから。
 もう一度働かせてくれと、依頼する気持ちになっていたのだ。
 また自分は、ジェイ・ゼルに甘えようとしていたらしい。
 闇を抜けて、わずかな光が見えた様な気がした。
 限りなく豪華な『エリュシオン』の一室で――彼と、たった二人きりの空間の中で。瀟洒な机の側で。
 あの時、確実に心を通い合わせたような、気がしていたのに。
 もう。
 自分は、ジェイ・ゼルに逢うことが出来ないのだ。
 来てはならないと、彼に拒まれた。
 どうやら、また、自分は勘違いをしてしまったようだ。
 ジェイ・ゼルとは――
 ただ、借金が繋いでいただけの、関係だったのに。

 返済が終われば、彼にとって、自分は意味のない人間になってしまうのだ。
 違うと、思っていた自分の浅はかさが、辛かった。
 彼とは。
 どんなにあがいても、対等な関係で向き合うことは出来なかったのだ。
 人と人として、関係を築けると思っていた自分の勘違いが、ただ、悲しかった。

 聞く必要はないよ、ハルシャ。
 先ほどの約束は破棄する。
 リュウジと一緒に、行きなさい。

 拒否する言葉の衝撃に、ハルシャは内容があまり頭に入ってこなかった。

 二度と、ここへ来てはならない。
 いいね。

 厳しい口調で、彼は、全ての関係を断ち切るように、自分に言った。
 終わったのだ。
 借金を返済したときに、ジェイ・ゼルとの関係も、一緒に。
 理屈は理解できても、心がどうしても、ついて行かない。
 どうして。
 話し合いが終わったら、またこの部屋に戻ろうと、あれほど優しい目で、言ってくれていたのに――

「ハルシャ?」
 黙り込むハルシャに、優しくリュウジが問いかける。
 最後の言葉を呟いた後、自分は虚空を見据えて、沈黙を続けていたようだ。
「大丈夫ですか――気分が悪いのですか」
 気づかわしげに、リュウジが言葉をかけてくれている。
 大丈夫だと、返事をしようとして、ハルシャは言葉を飲んだ。
 口を開いたら、叫んでしまいそうになる。

 ジェイ・ゼルが、もう、逢ってくれない。
 なぜだ。
 なぜなんだ!

 訴えたい気持ちを抑えこみ、ハルシャは微笑んだ。
「サーシャに、どうやって、説明しようかと、考えていた」
 自分が発した前向きな言葉に、やっと、眉を解いてリュウジが微笑む。
「今後のことを、ご相談したいと思っていました。実は今、僕たちは朝出て来た『アルティア・ホテル』へ向かっています。しばらくそこに滞在したいと、思っています」
 そうか。
 リュウジの中では、もう、計画が出来上がっているのだ。
 ジェイ・ゼルから与えられていた部屋を、今日中に引き払い、しばらくホテルで暮らすことになるようだ。
「それでは、宿泊料金がかさんでしまう。早く安い宿舎を探して――」
 ハルシャが、危惧して告げた言葉に、リュウジが静かに微笑んだ。
「大丈夫ですよ、ハルシャ。もう、あなたは何も気にする必要はないのです」
 優しい声が、ほころんだリュウジの口から滴り落ちる。
「あなたはただ、幸せになることだけを、考えていてください」

 幸せになること。
 なぜか、その言葉が、胸を突いた。
 豪華な調度品に囲まれて――ジェイ・ゼルが浮かべていた、幸せそうな笑みが、胸を締め付ける。
 自分と一緒にいることが、幸福で仕方がないというように、彼は瞳で包みながら、微笑んでいた。
 その笑みを見ているだけで、心が温かくなった。
 あの時、自分もまた、確かに幸福だった。
 彼のいない世界で――
 自分は、幸せになれるのだろうか。

 途方に暮れた様な気持ちになる。
 表情の変化を敏感に読み取って、リュウジがなだめるように、言う。
「変化は苦しいものです。ですが、すぐに慣れますよ、ハルシャ。歪んでいたものを、再び真っ直ぐに伸ばすときは、やはり苦痛が伴うものです。
 ですが」
 リュウジは静かに手を差し伸べて、ハルシャの髪に触れた。
「真っ直ぐなものは、すぐに、自分自身に戻ります。苦しいのは、一瞬です、ハルシャ――すぐに、慣れます。
 それが、人類の適応力の素晴らしいところなのですよ」
 ああ、そうか。
 ハルシャは気付く。
 彼は、自分たちを、五年前の暮らしに戻そうとしてくれているのだ。
 何不自由なく生きていた、ヴィンドース家の日常に。
 ふんだんに物が溢れ、そのありがたさにすら、気付けなかった、日々に。
 すっと、リュウジは手を引いた。
「あなたは、幸せになる権利があるのです。ハルシャ」
 藍色の瞳が、自分の心の底をのぞき込む。
「あなたの幸せを阻むものは、僕が許容しません。
 安心してください、ハルシャ」

 彼の言葉の強さが、なぜか、哀しかった。
 リュウジは、ジェイ・ゼルのことを、ハルシャの幸福を阻む存在だと、決めつけているような気がした。
 ハルシャが、工場に二度と足を踏み入れることを、許容できないように、リュウジは自分がジェイ・ゼルに逢うことも、きっと許さないだろう。引き離すように、部屋から連れ出したリュウジの表情を思い出す。
 彼の想いの強さが、ただ、ハルシャは切なかった。

 途切れた会話から間もなく、ヨシノさんが操る飛行車は、『アルティア・ホテル』の駐車場へ、優雅に舞い降りた。
「行きましょう、ハルシャ。マイルズ警部が、ハルシャから少し話を聞きたいそうです」
 それまで、沈黙を守っていた警部が、不意に口を開いた。
「ご両親のことで、ちょっと聞かせてくれるかな、ハルシャ君」
 両親のことで、どうして、と疑問を抱きながら
「わかった、マイルズ警部」
 と、短く答えた。

 ハルシャは返事の後、飛行車から降り立つ。
 歩を進めながら、自分の運命が、どこかへ向けて、音を立てて流れ始めたような感覚が襲う。
 その流れは、もはや止めようがないほど強い力で、自分を運んでいくような気がした。
 どこへ、自分は行きつくのだろう。
 不確定な未来に対する、微かな不安を抱きながら、ハルシャは、迷いなく進んで行く、リュウジの横に並んだ。
 そっと、リュウジが背中に手を当てて、ハルシャを支えてくれる。
 触れる手は、とても、温かだった。
 その温もりを感じながら、『エリュシオン』を出る時に、ジェイ・ゼルが肩に触れてこなかったことを、ハルシャは思い出していた。
 
 身が触れ合っていなくても、君を近くに感じることが出来る。

 そう言ってくれた言葉の優しさが、ただ、今は懐かしかった。











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