「良かったですね、ハルシャ」
飛行車に乗り込んですぐ、朗らかな声で、リュウジが微笑みながら話しかけてくれた。
ヨシノさんが運転し、マイルズ警部は前の座席に座っている。
後部座席に、二人で並んで腰を下ろした途端、リュウジはハルシャへ、顔を向けた。
「借金を全額返済出来て」
笑みを深めて、彼は大切そうに、言葉を呟く。
「これでハルシャは、自由の身です」
深い藍色の瞳が、真っ直ぐに自分を見つめていた。
自由になりたいですか?
と、かつて問いかけた言葉の答えを、彼が懸命に示してくれたのだと、ハルシャは改めて思う。
「ありがとう、リュウジ。本当に――」
もっと適切な言葉を、彼の思い遣りに向けてかけたいのに、ありきたりの言葉しか出ない。
まだ、自分の中で、ジェイ・ゼルの拒絶の声が渦巻いていた。
ともすれば、そちらへ意識が、さらわれて行きそうになる。
飛行車の後部座席に並んで座るリュウジの向こうに、ジェイ・ゼルの静かな眼差しが、浮かんでは、消える。
「思いもかけないことで、まだ、現実のこととは思えない」
正直な想いを、彼に告げる。
リュウジは共感を示すように、深くうなずいた。
「ハルシャに事前に何の相談もなく、勝手に行動に移して、申し訳ありません」
ハルシャにとっては、突然のことだった。
けれど。
リュウジは随分前から、周到に準備をしてくれていたようだ。
隣星の惑星アイランから、現金を取り寄せたと、ジェイ・ゼルが指摘していた。
それにしても、どうしてこれだけの金額を、リュウジは用意できたのだろう。
「リュウジ――」
問いかけた言葉は、
「ハルシャは、残って、ジェイ・ゼルと、何を話すおつもりだったのですか」
と、いう、やや語気の鋭いリュウジの声で断ち切られた。
藍色の瞳が、真っ直ぐ自分を見つめている。
視線の中に、わずかな非難が、込められているような気がした。
彼の眼差しを受け止めてから、ハルシャは、考えながら言葉を口にする。
「リュウジに――借金を立て替えてもらっている」
サーシャと自分の身を自由にするために、彼は急いで借金を返済してくれたような気がした。
立て替えてもらった分は、一生かけて支払うつもりだった。
その覚悟も兼ねて、自分に言い聞かせるように、言葉を続ける。
「リュウジに返済するためにも、このまま工場で仕事を続けたいと、ジェイ・ゼルに頼むつもりだった」
微かに、リュウジが眉を寄せた。
一瞬、口を開きかけて、彼は息を呑んで沈黙した。
荒げた感情を落ち着かせるように、彼は小さく息を吐いてから、微笑んだ。
幼い子どもに言い聞かせるように、優しい声で彼が呟く。
「もう、あなたは借金を返済したのです」
痛みを得たように、顔を歪めながら、リュウジは言葉を続ける。
「どんな仕事も、選ぶ自由があるのです。これ以上、ジェイ・ゼルを頼る必要は無いのですよ、ハルシャ」
この五年間、ジェイ・ゼルと自分は、歪んだ関係だったと優しい声で指摘されているような気がした。
意識の変革を迫られているようで、ハルシャはわずかに、ひるんだ。
「作りかけの、駆動機関部を、放置したままだ」
ハルシャは、正当な理由を懸命に見つけたように、リュウジに言う。
「仕事を途中で放棄しては、ガルガー工場長が困る。任された責任がある」
それに、あの駆動機関部は見事な設計だった。
「完成した姿を見てみたいというのも、ある。もし、ファイ・ガレン理論で駆動機関部が出来るのなら――」
リュウジが無言で手を差し伸ばして、ハルシャの髪に触れた。
思いがけない行動に、思わずハルシャは言葉を途切れさせた。
真っ直ぐ見つめたまま、なだめるようにリュウジが髪を撫でる。
「あなたは、真面目で責任感の強い方ですね」
微笑みながら、彼は言う。
「不当な労働条件で縛り付けていた工場に、それでも義理を果たそうとするのですか?」
深い色の瞳が、じっと自分を見つめる。
「ハルシャ。ファイ・ガレン理論は、まだ穴のある未完成な理論です。それを利用した駆動機関部を作るのは、現段階では不可能です」
リュウジの言葉が、じわっと、ハルシャの中に沁み込んでいく。
どういうことだ。
リュウジは、スクナ人を使った駆動機関部の代わりに、全く新しい理論を駆使した設計を起こしたのではないのか。
小型で高性能な――思わず昂奮するほどの、素晴らしい駆動機関部の。
戸惑うハルシャの耳に、リュウジの言葉が響いた。
「あなたが見ていた設計図から、僕は、悪意のある罠を仕掛けようという、意図を感じ取りました。これをハルシャが作れば、製造したことを理由に罪に問われかねない。
むしろ、犯罪に巻き込むために、ハルシャに製造させようとしている。
そんな醜悪な、意図です」
吐き捨てるように、リュウジが呟く。
一端言葉を切り、心を落ち着けてから、彼は続けた。
「そのことを指摘しても、真面目なハルシャは、何としてでも任された仕事を果たそうとするでしょう。
だから、あなたが納得する形で、別の駆動機関部を作ってもらうことにしたのです。
それが、ファイ・ガレン理論を駆使した駆動機関部です」
ハルシャは、眼を見開いたまま、ただ、リュウジの言葉を浴び続ける。
では。
最初にスクナ人を動力源とした駆動機関部を見た時から、警察が現れる未来を、リュウジは予測していたというのだろうか。
驚愕を見守りながら、リュウジが言葉を継ぐ。
「ハルシャが製造に取り掛かったことを確認したら、そう日を置かずに犯罪摘発を目的に、あなたに何らかの接触があると、僕は考えていました」
静かな藍色の瞳を見つめる。
もしかしたら。
だから、彼は頑なに、一緒に作業をすると、言い張ったのだろうか。
ファグラーダ酒を飲み、手を負傷して高熱を出した時も。
ハルシャが一人で工場に行くことを、彼は阻止しようとしていた。
何かがあった時に、自分を側で守るために。
「予想は、残念ながら的中しました。
警察が動いた以上、もう、僕はあなたがあの工場で働くことを、許容することが、出来ませんでした。
あなたの責任感を利用し、悪辣な環境で働かせるような場所に、あなたを置くことが我慢できなかったのです」
ふっと、リュウジは肩の力を抜いて、ハルシャに微笑みを向ける。
「ハルシャに、違法な駆動機関部を作らせるような注文主が、どうなろうと、僕の知ったことではありません。
ファイ・ガレン理論はまだ、未完成です。理論を応用しても、駆動機関部は作れません――あれは、相手が行動を起こすまで、つなぎとして便宜上作成していたものです。
未完成だからといって、ハルシャが気にすることはないのです。
元々、駆動機関部として、不完全なものを、僕たちは作っていたのですから」
にこっと、無邪気な笑みが浮かぶ。
「僕たちが残したデータで作ったとしても、宇宙船を飛ばすことは出来ません」
ハルシャは、あまりにも思いがけない言葉に、衝撃を受けていた。
自分は設計図を読んで、完璧な作品だと思っていた。
だから、作成を楽しみにしていたというのに。
リュウジは、最初から完成させるつもりはなかったのだ。
衝撃が去らないままに、ハルシャは呟いていた。
「不完全な駆動機関部に、高価なカーヴァルト鉱石を、使ってしまったのか……」
呻くように呟いたハルシャの言葉に、静かにリュウジが応える。
「違法な駆動機関部を、ハルシャに作らせようとしたのです。
そのぐらいの損失はあっても、良いと僕は思います」
あっさりとした言葉に、ハルシャは、驚きを隠せなかった。
髪から手を引きながら、リュウジが、目を細める。
「どのみち、困るのはジェイ・ゼルです。ハルシャが気にすることは、ありません」
ハルシャは、胸の奥に、悲しみに近いものが広がるのを、感じた。
後足で砂をかけるような無礼を尽くして、自分は何も言わずに工場を辞めるのだ。
本日付で解雇すると、ジェイ・ゼルは言っていた。
何の釈明も出来ず、工場長にも挨拶もせず、自分は逃げるようにして、工場を去る。
悲しみに、表情を曇らせていたのだろう、リュウジは笑みを消して、自分を見つめていた。
「嫌、でしたか。ハルシャ」
困ったようなリュウジの言葉に、はっとハルシャは落ちかけていた視線を上げた。
「そうじゃない、リュウジ――ただ」
ハルシャは、苦いものを無理やり飲み下してから、言葉を続けた。
「工場の皆に、迷惑をかけて申し訳ないと、そう、思っただけだ」
リュウジの瞳が、真っ直ぐに自分を見ている。
「あれほど、ひどい目に遭いながら、それでも、辞めることに罪悪感を抱くのですか。ハルシャが礼を尽くしたとしても、工場の人達はかえって悪意に取るだけです」
微かに傷ついたような声で、リュウジが呟く。
「僕がしているのは、ハルシャにとって、迷惑なことでしょうか」
あの時と、同じだ。
サーシャがさらわれたと気づいたとき、自分は制止するリュウジを振り切って、ジェイ・ゼルの通話を繋いだ。
会話を終えた後、今と同じような声で、彼は言った。
ハルシャは、ジェイ・ゼルを信頼しているのですね。
僕では、頼りになりませんでしたか?
その時も、彼をひどく傷つけてしまった。
今も、彼の柔らかな心に、自分の不用意な言葉が刺さったような気がした。
リュウジは、ハルシャのことを、自分のことのように考えてくれているのに。
忍耐に満ちた優しさが、ふと、胸を突いた。
後悔が、胸の奥に、広がっていく。
「すまない、リュウジ。私は、自分の都合ばかり言っている」
詫びるように、ハルシャは呟いた。
「私のために、リュウジは陰になり日向になり、かばってくれていたのに、その思いを、踏みにじるようなことを、言ってしまった」
工場へ行ってどうする。
ヴィンドース家の人間として、礼儀を重んじていると、自分に納得させたいだけだ。
挨拶をして、きちんと責任ある行動をしていると――
それは、ただの、自己満足だ。
突然辞めることで、皆は相当不快感を抱いているだろう。
自分の顔も見たくないかもしれない。
少しでも、皆の非難を、和らげたいとでも、自分は考えてしまったのだろうか。
行っても、感情を荒立てるだけだ。
なら。
リュウジが必死に守ろうとしてくれた思いを汲んで、どんなに非難を受けても、すっぱりと、工場から去った方がいい。
どう言われようが、構わないではないか。
心に整理をつけると、ハルシャは顔を上げて、リュウジを真っ直ぐに見た。
「ありがとう、リュウジ。私のことを、一番に考えてくれて」
熱に熟れた中でも、必死に一緒に仕事に行くと、彼は言ってくれた。
自分を、予測される危険から、守ろうとして懸命だった。
思いを、心の中に受け取る。
「行っても、非難を浴びるだけだ。リュウジの言っていることは、正しい」
と。
自分を納得させるように言いながら、やはり、心の奥に寂寥が広がる。
苦しい環境だったが、何とか適応しようとして、もがき抜いた五年間の年月が、脳裏をよぎる。
もし、仕事を続けるとしたら、ジェイ・ゼルは何か手立てを付けてくれたのだろうか。
そんな予感がした。
辛いとこぼしたハルシャの言葉を、きっとジェイ・ゼルは真摯に受け止めてくれた。彼が出来る範囲で、自分のために動いてくれようと、しただろう。
だから。
もう一度働かせてくれと、依頼する気持ちになっていたのだ。
また自分は、ジェイ・ゼルに甘えようとしていたらしい。
闇を抜けて、わずかな光が見えた様な気がした。
限りなく豪華な『エリュシオン』の一室で――彼と、たった二人きりの空間の中で。瀟洒な机の側で。
あの時、確実に心を通い合わせたような、気がしていたのに。
もう。
自分は、ジェイ・ゼルに逢うことが出来ないのだ。
来てはならないと、彼に拒まれた。
どうやら、また、自分は勘違いをしてしまったようだ。
ジェイ・ゼルとは――
ただ、借金が繋いでいただけの、関係だったのに。
返済が終われば、彼にとって、自分は意味のない人間になってしまうのだ。
違うと、思っていた自分の浅はかさが、辛かった。
彼とは。
どんなにあがいても、対等な関係で向き合うことは出来なかったのだ。
人と人として、関係を築けると思っていた自分の勘違いが、ただ、悲しかった。
聞く必要はないよ、ハルシャ。
先ほどの約束は破棄する。
リュウジと一緒に、行きなさい。
拒否する言葉の衝撃に、ハルシャは内容があまり頭に入ってこなかった。
二度と、ここへ来てはならない。
いいね。
厳しい口調で、彼は、全ての関係を断ち切るように、自分に言った。
終わったのだ。
借金を返済したときに、ジェイ・ゼルとの関係も、一緒に。
理屈は理解できても、心がどうしても、ついて行かない。
どうして。
話し合いが終わったら、またこの部屋に戻ろうと、あれほど優しい目で、言ってくれていたのに――
「ハルシャ?」
黙り込むハルシャに、優しくリュウジが問いかける。
最後の言葉を呟いた後、自分は虚空を見据えて、沈黙を続けていたようだ。
「大丈夫ですか――気分が悪いのですか」
気づかわしげに、リュウジが言葉をかけてくれている。
大丈夫だと、返事をしようとして、ハルシャは言葉を飲んだ。
口を開いたら、叫んでしまいそうになる。
ジェイ・ゼルが、もう、逢ってくれない。
なぜだ。
なぜなんだ!
訴えたい気持ちを抑えこみ、ハルシャは微笑んだ。
「サーシャに、どうやって、説明しようかと、考えていた」
自分が発した前向きな言葉に、やっと、眉を解いてリュウジが微笑む。
「今後のことを、ご相談したいと思っていました。実は今、僕たちは朝出て来た『アルティア・ホテル』へ向かっています。しばらくそこに滞在したいと、思っています」
そうか。
リュウジの中では、もう、計画が出来上がっているのだ。
ジェイ・ゼルから与えられていた部屋を、今日中に引き払い、しばらくホテルで暮らすことになるようだ。
「それでは、宿泊料金がかさんでしまう。早く安い宿舎を探して――」
ハルシャが、危惧して告げた言葉に、リュウジが静かに微笑んだ。
「大丈夫ですよ、ハルシャ。もう、あなたは何も気にする必要はないのです」
優しい声が、ほころんだリュウジの口から滴り落ちる。
「あなたはただ、幸せになることだけを、考えていてください」
幸せになること。
なぜか、その言葉が、胸を突いた。
豪華な調度品に囲まれて――ジェイ・ゼルが浮かべていた、幸せそうな笑みが、胸を締め付ける。
自分と一緒にいることが、幸福で仕方がないというように、彼は瞳で包みながら、微笑んでいた。
その笑みを見ているだけで、心が温かくなった。
あの時、自分もまた、確かに幸福だった。
彼のいない世界で――
自分は、幸せになれるのだろうか。
途方に暮れた様な気持ちになる。
表情の変化を敏感に読み取って、リュウジがなだめるように、言う。
「変化は苦しいものです。ですが、すぐに慣れますよ、ハルシャ。歪んでいたものを、再び真っ直ぐに伸ばすときは、やはり苦痛が伴うものです。
ですが」
リュウジは静かに手を差し伸べて、ハルシャの髪に触れた。
「真っ直ぐなものは、すぐに、自分自身に戻ります。苦しいのは、一瞬です、ハルシャ――すぐに、慣れます。
それが、人類の適応力の素晴らしいところなのですよ」
ああ、そうか。
ハルシャは気付く。
彼は、自分たちを、五年前の暮らしに戻そうとしてくれているのだ。
何不自由なく生きていた、ヴィンドース家の日常に。
ふんだんに物が溢れ、そのありがたさにすら、気付けなかった、日々に。
すっと、リュウジは手を引いた。
「あなたは、幸せになる権利があるのです。ハルシャ」
藍色の瞳が、自分の心の底をのぞき込む。
「あなたの幸せを阻むものは、僕が許容しません。
安心してください、ハルシャ」
彼の言葉の強さが、なぜか、哀しかった。
リュウジは、ジェイ・ゼルのことを、ハルシャの幸福を阻む存在だと、決めつけているような気がした。
ハルシャが、工場に二度と足を踏み入れることを、許容できないように、リュウジは自分がジェイ・ゼルに逢うことも、きっと許さないだろう。引き離すように、部屋から連れ出したリュウジの表情を思い出す。
彼の想いの強さが、ただ、ハルシャは切なかった。
途切れた会話から間もなく、ヨシノさんが操る飛行車は、『アルティア・ホテル』の駐車場へ、優雅に舞い降りた。
「行きましょう、ハルシャ。マイルズ警部が、ハルシャから少し話を聞きたいそうです」
それまで、沈黙を守っていた警部が、不意に口を開いた。
「ご両親のことで、ちょっと聞かせてくれるかな、ハルシャ君」
両親のことで、どうして、と疑問を抱きながら
「わかった、マイルズ警部」
と、短く答えた。
ハルシャは返事の後、飛行車から降り立つ。
歩を進めながら、自分の運命が、どこかへ向けて、音を立てて流れ始めたような感覚が襲う。
その流れは、もはや止めようがないほど強い力で、自分を運んでいくような気がした。
どこへ、自分は行きつくのだろう。
不確定な未来に対する、微かな不安を抱きながら、ハルシャは、迷いなく進んで行く、リュウジの横に並んだ。
そっと、リュウジが背中に手を当てて、ハルシャを支えてくれる。
触れる手は、とても、温かだった。
その温もりを感じながら、『エリュシオン』を出る時に、ジェイ・ゼルが肩に触れてこなかったことを、ハルシャは思い出していた。
身が触れ合っていなくても、君を近くに感じることが出来る。
そう言ってくれた言葉の優しさが、ただ、今は懐かしかった。