ほしのくさり

第143話  君を、忘れない





 ジェイ・ゼルは、空を見上げ続けていた。
 ハルシャたちが立ち去ってから、随分時間が経っているような気がする。
 だが、それほど時は過ぎていないのかもしれない。
 感覚が、麻痺したようだった。

「ジェイ・ゼル様」
 マシュー・フェルズがそっと、声をかけてきた。
 椅子を回すと、そこには黒い鞄を抱えた、勤勉な会計係が立っていた。
 彼はジェイ・ゼルの顔を見つめてから、ゆっくりと言葉を発した。
「支払われた借金の全額を、ピグリン・フェルエム銀行へ入金して参ります」

 ジェイ・ゼルが背を向けて空を見ている間に、マシューは部下も使って仕事をしていたようだ。
 机の上にあった、ハルシャの書類が消えている。
 金庫へ戻したのだろう。
 事務処理を行った後、鞄に詰めた現金を、入金しに行くことに決めたようだ。
 ピグリン・フェルエム銀行は、イズル・ザヒルとの取引銀行だった。
 彼は説明するように、言葉をつづけた。
「そのまま、頭領ケファルイズル・ザヒル様に、全額を電信で送っておきます。また、こちらへ配当分の返金があると思いますが」
 ジェイ・ゼルは、瞬きを一つした。
「ああ、そうだね。よろしく頼む」
 大金を抱えた彼は、すぐに銀行へ向かうかと思ったが、そこに佇んだまま、ジェイ・ゼルを見つめて動かなかった。
 何か伝えたいことがあるのかと、ジェイ・ゼルは言葉を待つ。
 唐突に、彼は口を開いた。 
「私は、良かったと思います」

 ジェイ・ゼルは、眉を上げた。
 なにがだ? と問いかける眼差しに、マシューは躊躇ってから、口を開いた。
「ハルシャ・ヴィンドースと離れたことです。ジェイ・ゼル様の個人資産は、彼と関わるようになってから、増えたためしがありません」
 ふふと、ジェイ・ゼルは微笑んだ。
「お金は道具だからね、使ってこそだよ」
 笑みが深まる。
「だが、そのことで、君に心痛をかけていたんだね。すまなかったね。マシュー」
「いえ」
 マシューが口ごもる。
「僭越でした」
 ジェイ・ゼルは、再び、窓の外へ視線を向けた。
「慰めてくれているのだね」
 虚空へ呟く。
「ありがとう、マシュー」

 ラグレンの、晴れ渡った空が窓の外に広がる。
 青い空をこの目で見たいと、幼い頃は憧れていた。
 その願いは、叶った。
 それで、いいではないか。

「私はね、マシュー」
 青い空へ向けて、呟く。
「ハルシャが自由になって、本当に嬉しいのだよ――もう、これで彼は『アイギッド』での遊戯に、呼び出されることはない。
 私の力もたかが知れている。いつまで守り切れるかと、考えていた。
 だが、もう、その心配をする必要がない」

 眩しいほどの青い空を、見つめる。

「自由とは、素晴らしいものだね。マシュー」

 マシューが、不意に顔を伏せた。
「ジェイ・ゼル様……」
「大丈夫だよ、私は」
 ふふっと笑って、マシューへ視線を向ける。
「君がこれ以上、心を痛めないように、今後は個人資産の増資に励むとしようか。頑張って、働かなくてはね」

 マシューは目を伏せたまま、呟いた。
「ジェイ・ゼル様のために、誠心誠意、尽力させて頂きます」
 微笑みが、浮かんでくる。
「心強いよ、マシュー」
 ジェイ・ゼルは、彼が抱える鞄に目を向ける。
「大金を運ばせてすまないね。銀行まで、気を付けて行ってくるのだよ。周りに妙な動きがないか、良く気を配ってね。向こうに着いたら、連絡を入れてくれ」
「はい、ジェイ・ゼル様」

 彼は目を上げないまま、踵を返して、扉に向かった。
 出ようとして足を止め
「しばらく、この部屋には誰も来ないように、言ってあります」
 と、頭を下げて、退出しようとした。
「ああ、マシュー」
 ジェイ・ゼルは、ふと思い出して、声をかける。
「すまないが、『エリュシオン』の部屋を、断っておいてくれないか」
 はっと、彼は顔を上げた。
 ジェイ・ゼルは、静かに微笑んだ。
「もう――必要ないからね」
 言い終えてから、窓へ顔を向ける。
「行っておいで。気を付けて」

 しばらく、マシュー・フェルズはそこから、動かなかった。
 長い沈黙の後、
「行って参ります。ジェイ・ゼル様。すぐ戻ります」
 という、マシューの震える声が、聞こえた。
 しばらくしてから、窓の外を見つめるジェイ・ゼルの耳に、静かに扉を閉じる音が響いた。

 無言で外を見つめてから、ジェイ・ゼルは立ちあがった。
 そのまま私室に向かい、さらに通り抜けて、イズル・ザヒルへの専用回線ホットラインがある部屋へと辿り着いた。
 座席に腰を下ろしてから、しばらく無言でジェイ・ゼルは、考えていた。
 瞬きをすると、ヘッドセットを耳につけ、静かに回線を繋ぐ。

『どうした』

 イズル・ザヒルの声が響いた。
「今、よろしいでしょうか頭領ケファル。一言、お伝えしたいことがあります」
『ああ、少し待ってくれ』
 通話装置の向こうから、エメラーダ。ジェイ・ゼルから急ぎの用らしい、という、声が聞こえた。軽く唇が触れ合う音がして、イズル・ザヒルは動いたようだ。
 妹と睦みあっていたところなのかもしれない。
 ジェイ・ゼル以外なら、殺されてもしかるべきタイミングで、自分は連絡を入れてしまったようだ。

「申し訳ありません、頭領ケファル
 詫びる言葉に、軽い笑い声が答えた。
『ああ、そうだ。ギランジュの出し物は、中々に好評だったよ。ライサムも気合が入っていてね。彼の悲鳴は、なかなか心を揺さぶられるものがあった』
 楽しげに、彼が言う。
『やはり、死の瞬間と言うのは、その人の本性が剥き出しになるね。死を考えることは、生を深く探求することでもある。何度見ても、学ぶところがある。実に、奥深い』
 間を繋ぐように、彼は言葉をかけてくれる。
 ジェイ・ゼルは、返すことが出来なかった。
 自分が原因で、一つの命が消えたことを、ただ、受けとめる。
 短い沈黙の後、不意に前の画面が灰色から変化した。
 バスローブをまとったイズル・ザヒルが、画面に映し出される。
『何があった、ジェイ・ゼル』
 表情を読み取ったのか、問いかける声で、彼は言う。
 口を開いて、報告しようとした。
 だが。
 すぐに声が出なかった。
 言葉に出せば、認めてしまわざるを得ないような気がして、わずかな躊躇いが生まれる。
 仕方のないことだ。
 自分に言い聞かせる。
「ハルシャ・ヴィンドースの」
 妙にかすれた声になりながら、ジェイ・ゼルは続けた。
「借金が、本日、全額返済されました」

 イズル・ザヒルは、無言でジェイ・ゼルを見つめていた。
『どういうことだ』
 彼は椅子にゆったりと座りなおし、腕を組んで問いかける。
『何があった、ジェイ・ゼル』
 イズル・ザヒルの青い瞳が、自分を見つめていた。
「ハルシャがオキュラ地域で出会った友人の、オオタキ・リュウジですが――」
 目を細めて、ジェイ・ゼルは続ける。
「彼の本名はカラサワ・リュウジだったようです」
 ぴくっと、イズル・ザヒルの瞼が痙攣した。
『カラサワ・コンツェルンの、後継者か』
 ジェイ・ゼルはうなずいた。
「はい。次期総帥です」

 肺に溜めていた息を、ゆっくりとイズル・ザヒルが吐きだした。

『そうか』
 最初から、イズル・ザヒルはリュウジを警戒していた。
 彼の勘は、鋭い。
「どういう経緯か解かりませんが、オキュラ地域に迷い込み、ハルシャに保護されたようです。記憶を失っていたようですが、途中で思い出したのでしょう。
 ハルシャが助けてくれたことに恩義を感じたのか、彼の資産を使って、本日付けでハルシャ・ヴィンドースの借金を全額現金で支払いました。
 完済領収書と、借用書を渡してあります。ハルシャ・ヴィンドースはもう、負債者ではありません」

 最後の言葉を、ただ、イズル・ザヒルに伝えたかった。
 もう、ハルシャは遊戯に呼び出されることはない。
 それだけが、ジェイ・ゼルに苦しい決断をさせた。

『なら、ハルシャと君の契約も、全て消失したわけだな』
 ジェイ・ゼルの顔を見ながら、彼は呟いた。
 血を流す傷に、手荒く触れられたように、一瞬、ジェイ・ゼルは顔を歪めた。
「はい」
 一言、応える。
 イズル・ザヒルの目は、じっとジェイ・ゼルを見つめていた。

『そうか』

 短い沈黙の後、
「今、マシュー・フェルズが頭領ケファルの口座へ、全額納入しに行っております」
 と、事務的な口調で、ジェイ・ゼルは伝える。
「電信ですので、すぐお手元に届くかと」
『確認しておくよ。ご苦労だった、ジェイ・ゼル』

 言葉が、再び途切れた。

『落ち着いたら、ここへ遊びにおいで、ジェイ・ゼル。エメラーダも待っている』
 労わりに満ちた言葉が、彼の口から漏れる。
『君のために、赤毛の子を、用意しておいてあげよう』
 ジェイ・ゼルは、彼の言葉を、ただ、聞いていた。
『金色の眼は難しいかもしれないがね』

 これは、彼なりの優しさなのだと、ジェイ・ゼルは懸命に解釈する。
「ありがとうございます、頭領ケファル。ですが――」
 ジェイ・ゼルの言葉を切る様に、彼は続けた。

『無垢な子を、また一から手懐けたいというのなら、手つかずの物を、取り寄せておいてあげるよ。君の好みにあうものから選ぶといい』
 薄青い眼を細めて、彼が呟く。
『ペットを失った時はね、また、新しいものを飼うのが、一番いいんだよ、ジェイ・ゼル』

 不意に。
 楔を打ち込まれたように、胸が痛んだ。

「せっかくですが、頭領ケファル。しばらくは、日常の業務に励みたいと思います。また、業績を上げて、お喜び頂けるように」
『そうか』
 ふふと、イズル・ザヒルが笑みをこぼす。
『そうだったね。君は、ペットを飼っていなかったのだね。失念していたよ』

 代わりなど、いない。
 ハルシャ・ヴィンドースの。
 誰も、彼の代わりになどなれない。
 言っても仕方がないことだ。
 魂と魂が求めあうような、彼との関係は――きっと、誰にも、理解できない。

 視線を伏せてから、ジェイ・ゼルは告げた。
「近いうちに、先般お騒がせしたお詫びと、寛大なご処置の御礼もこめて、『アイギッド』へ赴かせて頂きます」
 イズル・ザヒルが静かに微笑んだ。
『エメラーダが喜ぶよ。予定が決まったら教えておくれ。楽しみにしているよ、ジェイ・ゼル』
「いつも、お心にかけて頂き、本当にありがとうございます」
 手元から離さないナンバー2を、彼は自分のために派遣してくれた。
 過分すぎる温情だ。
 ふふと、イズル・ザヒルが微笑む。
『君はよく、部下を統制していると、ライサムも褒めていた』
 彼の薄い色の瞳が、自分を見つめる。
『私はね、ジェイ・ゼル。君がハルシャ・ヴィンドースから離れて、良かったと思っているんだよ』
 マシュー・フェルズと同じことを、彼は言う。
 けれど、その意味合いは、随分違うのだろう。
 ジェイ・ゼルは、目を上げて、薄青い瞳を、真っ直ぐに見つめた。
 最初から、彼は、ジェイ・ゼルがハルシャと関わることに、難色を示していた。
 彼の提示する条件を飲むことで、何とか許可を取り付けることが出来た。
 イズル・ザヒルが示した条件は三つだった。

 ヴィンドース兄妹を自分たちだけで生活させ、決して手出しをしないこと。
 月々の返済額と期限は守ること。
 そして、ジェイ・ゼルが彼らの行動を監視すること。

 妙な動きをさせるなと、きつく釘を刺されていた。
 ハルシャは真面目で優しい子だ。何を警戒することがあるのだろうと、ジェイ・ゼルはその時に思った。
 リュウジの言を信じるのなら、ハルシャはラグレン政府から、目を付けられている。
 イズル・ザヒルには、思い当たる節があるようだ。
 告げた時と同じ眼で、彼はジェイ・ゼルに言葉を続けた。

『ハルシャ・ヴィンドースは――君にとって、危険な存在だ』
 ふふと、『ダイモン』を束ねる頭領は、優しい笑みを浮かべた。
『君があまりにも、彼に執着していたからね、引き離すのがかわいそうで、見守ってきたが、あまり良い影響を与えていないと、実は危惧をしていたのだよ』
 イズル・ザヒルが、笑う。
『君は、愛情深く、優しい人間だからね。愛している存在を、傷つけることができない』
 ふふと、彼は笑みを深める。
『私とライサムとは、違う』

 なぜ。
 心臓が躍るのだろう。

『ハルシャ・ヴィンドースは君の弱みとなる。君が仕事を続けて行く上で、それはとても危険なことだ。
 君は、私ほど非道ではないからね。今回のことが、良い例だ』
 片頬を歪めて、イズル・ザヒルが笑う。
『それに――私はいつまでも、君を惑星トルディアで、遊ばせておくつもりはないのだよ』
 薄青い瞳が、静かに自分を見つめている。
『ゆくゆくは、手元へ引き寄せたいと思っている。ライサムと一緒に、私の事業を支えて欲しい。その時、ハルシャ・ヴィンドースの存在は、君をラグレンに縛り付ける枷となる』
 穏やかに目を細めて、イズル・ザヒルが呟いた。
『彼と、関係を切ることが出来たのは、良いことなのだよ。ジェイ・ゼル。
 ハルシャが君から自由になったように、君も、彼から解き放たれたのだからね』

 ハルシャと自分は――
 借金がある限り続く関係、だった。
 覚悟はしていた。
 いつか、彼と別れる日が来ると。
 ハルシャの人生を踏みにじった、自分は悪夢そのものだ。
 彼の憎しみを受けながら、傍らに居座る存在だと。
 借金を返済し終えたとき、ハルシャの人生から消えるのが、自分の運命だと。
 解かっていた。
 ただ――
 これほど早く、彼と別れる日が来るとは、思ってもみなかった。
 彼と心から理解し合えたと思った矢先に。
 永遠に失ってしまうなど――
 思いもしなかった。

 誰に揶揄されても。
 愚かだと言われても。
 自分は、ハルシャを手離せなかった。
 身が焼かれるほどに、彼の存在を自分は欲し続けていた。
 けれど。
 彼が自由になれる現実を突き付けられたとき。
 拒むことは出来なかった。
 ハルシャが自分から解き放たれることを――
 側に居たいと、思う以上に、自分は熱望していた。

 瞬きと共に、イズル・ザヒルが冷静な言葉を呟く。
『借金は完済された。君とハルシャ・ヴィンドースはもう無関係だ。意識を早く切り替えなさい、ジェイ・ゼル。過去を引きずるほど、危険なことはない。ハルシャ・ヴィンドースの人生と、君の道は二度と触れ合わない。認めることだ』
 薄青色の瞳が、真っ直ぐに心の中をのぞき込む。
『解っていて、君はカラサワ・リュウジの返済を受けたのだろう。
 そうでなければ、理由をどうとでもつけて、拒むことは出来たはずだ。ハルシャ本人からの返済でないと受けつけないとかね。
 だが、君はそうしなかった。
 君は、ハルシャ・ヴィンドースを手離す気になった。
 なら、良いのではないかな。ジェイ・ゼル』
 イズル・ザヒルが、微笑む。
『英断だった。君はやはり、賢い子だ』

 ジェイ・ゼルは、イズル・ザヒルの薄色の瞳を見つめる。

 どうして、止められただろう。
 ハルシャが自由になると言うのなら。
 血を絞るような辛い決断を、イズル・ザヒルは、良かったと言った。
 英断だと。
 ハルシャは自分にとって、危険な存在だと――
 自分のためであったのなら、決して自分はハルシャを手離さなかった。
 彼が幸せであるならと。
 ただ、それだけのために。
 どんな犠牲を強いてでも、自分は決断を下したと言うのに――

 黙りこむジェイ・ゼルの耳に、優しい声が響いた。
『ここへ、君を早く呼びよせた方が、良いのかもしれないな』
 深い眼差しが、自分に注がれている。
『そうすれば、気も紛れるだろう。何より、エメラーダが喜ぶ』

 ジェイ・ゼルは、無言で、親身に心配してくれている、親とも慕う頭領ケファルを見つめた。
 何かを言わなくてはならない。
 なのに。
 言葉が出ない。
 ラグレンを離れて、ハルシャを忘れろと、イズル・ザヒルは言っている。
 けれど。
 自分は、永遠に、ハルシャ・ヴィンドースを忘れない。
 彼が悪夢として、自分のことを記憶の彼方に捨て去ったとしても。
 ハルシャを忘れる時などはない。
 五年をかけて、彼を愛し抜いた。
 身を拒まれても、憎まれても、それでも、彼が愛しかった。
 食事をする彼を見つめるだけで、幸福だった。
 そこに彼の命がある、というそれだけで。
 呪われたこの身でも、生きていて良かったとすら、思えたのに。

 最初に触れた唇の硬さも。
 最後に交わした唇の温もりも。
 全てを覚えている。
 頬を染めながら髪に触れてくれた、指先の優しさも、懸命にジェイ・ゼルと約束をしていると告げていた言葉も。
 いまだに、記憶の中にあるというのに。
 それでも、彼から離れなくてはならない。
 自分は忌まわしい、悪夢そのものだから。
 けれど。
 身は離れても、永遠に逢うことが叶わなくても――
 心の一番大切な場所に、ハルシャ・ヴィンドースは生き続ける。
 この命が終わる時まで。
 永遠に。

 彼は――心がどれだけ大切なのかを、自分に、教えてくれた。
 呪われたこの身でも、誰かを愛する心があるのだと、彼に出会って初めて、知ることができた。
 もう。
 それで十分だ。
 彼が見上げていた空を、自分も、見つめることができる。
 それだけで、生きていける。

「私には、為すべき業務があり、生活の面倒をみなくてはならない、部下がいます」
 ジェイ・ゼルは、感情を一切切り捨てて、静かに言った。
「お心はありがたく、大変もったいないですが、かえってイズル・ザヒル様の足を引っ張る結果となっては、申し訳ありません。今少し、ラグレンにて力をつけ、頭領ケファルのお役に立てるように、精進して参りたいと思います。どうか、ご猶予を」

 イズル・ザヒルはエメラーダと共に、ジェイ・ゼルにも戸籍を与えてくれていた。
 名義上は、彼の子となっている。
 決して後継者とは呼ばれないが、イズル・ザヒルに何かあった時、その莫大な財産を、エメラーダとジェイ・ゼルが受け取れるように、彼は心を砕いてくれていた。
 その恩義は、計り知れない。
 今も、自分を心配して、『アイギッド』へと呼び寄せようとしてくれている。

 イズル・ザヒルを見つめるジェイ・ゼルに、彼は優しい笑みを、再び与えてくれた。
『まとまった入金があったのは、とても良いことだ。結果として、君は大変活躍したことになる。幹部たちも、君の実力を見直すだろう。
 私も鼻が高い』

 話題を転じるように、彼は言った。
『そうだね、ラグレンは、君のお陰で一番の収益の稼ぎ頭だ。君がいいと言うのなら、無理に配置転換をすることもない』
 組んでいた腕を解いて、彼は寛いだ姿勢になった。
『入金を確かめてから、配当分の返金をしておく。自分の分も、きちんと取っておくのだよ、ジェイ・ゼル。君はいつも自分を後回しにするからね。それで、しばらく憂さ晴らしをするといい』
「ありがとうございます、頭領ケファル

 どうやら、惑星トルディアに、留まることを許してもらえたようだ。
 ジェイ・ゼルには、もう一つ、どうしてもイズル・ザヒルに尋ねたいことがあった。
「あと一つ。よろしいでしょうか、頭領ケファル
『どうした。ジェイ・ゼル』
「先日、ライサム・ゾーン様がお連れ下さった、シヴォルトですが――」
『ああ』
 思い出したように、イズル・ザヒルが微笑んだ。
『彼は不評だったよ』
 イズル・ザヒルの言葉に、ジェイ・ゼルは動きを止めた。
『ほとんど、声らしい声を出さなくてね。黙って、最期を迎えたよ』
 凍り付くジェイ・ゼルに、イズル・ザヒルは、微かに眉を上げた。
『それを、聞きたかったのではないのかな、ジェイ・ゼル?』
「いえ」
 何とか、言葉が声となって、口から出る。
「もし彼が、存命なら、質問をいくつかしたかっただけです」
『そうか。残念だったね。ライサムは、最優先で彼らを遊戯に供していたからね。おそらく、君のためだと思うがな』

 解っていた。
 だが。
 現実を突きつけられて、ジェイ・ゼルは身の内が沈んでいくのを感じた。
 シヴォルトから詳細を聞きたいと思ったが、遅かったようだ。
 もう彼は、何も言えなく、なってしまっていた。
 『ダイモン』に逆らった者の末路を見せつけるように――彼らの命は奪われたのだろう。
 自分で始末をつけられれば、せめて、苦しめずに送ってあげられたのかもしれない。
 彼らの処分を先送りにした、自分の甘さと弱さが、辛かった。

「余計なお手数をおかけいたしました。ライサム・ゾーン様に、ジェイ・ゼルが御礼申し上げていたと、お伝えください」
『気にすることはないよ。ライサムは、楽しんでやっていた』
 ジェイ・ゼルは視線を伏せた。
 その様子を見つめてから、優しい声でイズル・ザヒルが呟く。
『また、ゆっくりと遊びにおいで。待っているよ、ジェイ・ゼル』
 かろうじて短い礼の言葉を延べて、イズル・ザヒルとの通信を切った。

 灰色に変わった画面を見つめたまま、長く深く、ジェイ・ゼルは吐息をついた。
 一つ。
 仕事が終わった。
 明日から、通常の業務に戻り、借金の回収と、工場の経営にいそしめばいい。
 マシュー・フェルズは安心するだろう。
 もう、個人資産が目減りすることもない。
 短期間で借金を回収できたことで、イズル・ザヒルは思いのほか、機嫌が良かった。
 全てが、順当に収まった。
 良かったのではないか。

 ハルシャは、これで目指していた夢を追うことが出来る。
 競売にかけるために、下見に行ったハルシャの部屋の様子を思い出す。
 宇宙しか見つめてこなかった、汚れない少年の瞳に、自分は醜悪な世界を、見せつけてきた。
 幸せにしたかったのに、そのやり方が解らなかった。
 結果――彼の心を、踏みにじることしか、出来なかった。
 視線を伏せて、ジェイ・ゼルは内側の痛みに耐える。
 リュウジは、決してハルシャを傷つけないだろう。
 慈しみに満ちた目で、いつも彼は、ハルシャを見つめていた。
 資産家の庇護者を得たことで、ハルシャもサーシャも幸せになれる。
 きっと、広大な宇宙は見ていたのだろう。
 理不尽な運命に耐え、極貧の生活の中にあっても、気高く優しく、ヴィンドース家の兄妹が互いを支えて生きていたことを。
 公平な宇宙は救いの手を、リュウジと言う形で差し延べたのだ。
 自分の側に置くには、ハルシャは清らかすぎた。
 だから、取り上げられたのだ。
 呪われた悪魔には、絶望こそがふさわしい。
 灰色の画面を見つめながら、ふと、内側に問いかける。

 自分は――ハルシャの羽根を折る前に、宇宙そらへ――返してあげられたのだろうか。


 束の間、宇宙飛行士となったハルシャのことを、想像する。
 ジェイ・ゼルは小さく微笑んだ。
 自分に納得を付けると、立ちあがり、イズル・ザヒルへの専門回線がある部屋を出た。
 私室に戻ったところで、その椅子の背に、黒の上着をかけていたことに目を止めた。
 急いでハルシャに関する資料を集めようと、無意識に手にした上着を、投げていたらしい。
 シワだらけだった。
 その理由に思い至る。
 机の上に横たえられたハルシャは、ひどくうろたえていた。
 テーブルクロスが汚れないかと、そればかりを気にして――
 思い出に、ふっと笑ってから、ジェイ・ゼルは歩きながら、さらうようにして右手に取った。
 瞬間。
 ハルシャの香りがした。

 動きが、止まる。

 彼の、麦わらのような香り。
 この服を下に敷いて、絶頂を迎えていたハルシャの表情が脳裏に蘇る。
 あの時は――
 彼を失うことになるなど、思いもしなかった。
 身が震える。

 どうして。
 手離すことが、彼を幸せにする、たった一つの方法なのだろう。
 こんなにも、愛しているのに……どうして。

 ジェイ・ゼルは手にしていた上着を、ゆっくりと、抱きしめた。
 目を閉じ、頬に押し当てる。

「――ハルシャ」

 閉ざされた私室の中。
 魂から絞り出したような、彼の呟きを耳にしたものは、誰もいなかった。










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