ほしのくさり

第142話  自由の身に-02





 リュウジと、ジェイ・ゼルは無言で見つめ合っていた。

「そうか」
 しばらくしてから、ジェイ・ゼルは静かに言った。
「それは、とても良いことだね」
 思いもかけない、優しい笑みが、彼の顔に浮かんだ。
「良い友人と巡り合ったね、ハルシャ」

 ハルシャへは視線を与えず、虚空に向けてジェイ・ゼルは呟きを洩らした。
 リュウジは、無言でジェイ・ゼルを見つめていた。

「マシュー。完済領収書はまだかな。宛名はハルシャ・ヴィンドースでいいそうだよ。早くしてあげてくれ。客人が待ちかねている」
 リュウジの視線を気にもせずに、ジェイ・ゼルは優しい声で言った。
 マシューは、領収証を作りかけていたようだが、動きを止めて、ジェイ・ゼルとリュウジのやり取りを、聞いていたようだった。
 彼の顔には、静かな怒りがあった。
「マシュー?」
 はっと、マシューは顔をジェイ・ゼルへ戻した。
「すぐに、お作りいたします。もう少々、お待ち下さい」

 ハルシャは、衝撃から、立ち直れていなかった。
 帝星へ、行く?
 そんな話を、一言もリュウジは言ったことがなかった。
 なのに、どうして。
 当然の事実のように、彼は言うのだろう。

 ハルシャは、混乱の極みにあった。
 何が起こっているのか、全く分からない。
 自分は帝星に行くつもりなどなかった。惑星トルディアは、自分の母星だ。
 ジェイ・ゼルに――説明しなくてはならない。

 はっと、ハルシャは思い出す。
 そうだ。
 この後、『エリュシオン』の部屋に、ジェイ・ゼルと一緒に戻る予定になっていた。
 そこで、彼に今回のことを、説明しよう。
 リュウジが借金を返済してくれるのは、とてもありがたい。
 けれど、自分は同じ職場で働くつもりだ、と。新たに契約を結ばせて欲しいと。
 そして――
 ちょっと顔を赤らめながら、思う。
 彼に伝えよう。
 借金を返しても、ジェイ・ゼルとは個人的に付き合っていきたいと。
 もし彼が許してくれるのなら――。
 ずっと、以前からそう考えていた、と。
 どきん、と心臓が躍る。
 自分から、告白をするようだ。
 それでも――勇気を振り絞ってでも、彼に伝えたい。
 あなたが居てくれたから、この五年間を、生きてこられたのだと。
 借金を返済し終えた今、やっと一人の人間として、あなたに向かい合えると。
 本当の心を、彼にどうしても解かって欲しかった。
 そうだ。
 利子の礼も、きちんと言えてない。
 それも、伝えよう。
 自分の中で結論を出すと、ハルシャは心が随分落ち着いた。
 説明をすれば、きっとジェイ・ゼルは理解してくれる。
 リュウジとも、その後、きちんと話し合うことにしよう。
 今回の金額を、彼へ返済していかなくてはならない。サーシャの将来の事もある。
 リュウジもきっと、自分の意見に耳を傾けてくれるはずだ。
 身の緊張を解いて、ハルシャは、ようやく周りの状況を見ることが出来るようになった。

 ジェイ・ゼルは、また、窓の外へ視線を向けていた。
 ハルシャはその横顔を見つめる。
 どうやって、彼にことの顛末を伝えようかと、懸命に考え続けている間に、マシューが完済領収証を携えて、ジェイ・ゼルの側に来た。
「ああ。ありがとう、マシュー」
 ジェイ・ゼルは、普段と同じ調子で受け取り、目を通している。
「うん、良いね」
 小さくうなずくと、書面にサインをして、リュウジに差し出した。
「お待ちかねのものだよ」
 微笑みが浮かぶ。
「これで、ハルシャは自由だ」

 自由――

 ジェイ・ゼルの口から、優しい声がもれた。

 ひどく、優しい。
 けれど、悲しみを帯びた。
 まるで――別れを告げるような、言葉。

「ジェイ・ゼル……」
 無意識に、ハルシャは呟いていた。
 どうして、そんなに悲しい言葉を口にするんだ。
 これから、人と人として、あなたに向き合えるのではないのか。
 ハルシャの呼びかけに、反射的にジェイ・ゼルが振り向いた。

 眼差しが、触れ合う。

 目を瞠るハルシャに、ジェイ・ゼルが優しく微笑んだ。

「良かったな、ハルシャ」

 まるで引き寄せられるように、ハルシャは数歩、ジェイ・ゼルへ向けて歩き始めていた。
 彼にたどり着く前に、腕を掴んで引き留められていた。
 リュウジだった。
「もうここに用はありません。帰りましょう」
 ひどく真剣な声で、彼が自分を制止する。
「借金を返済してくれて、本当に、ありがとう、リュウジ」
 心からの礼を述べてから、ハルシャは続けた。
「すまないが、この後、ジェイ・ゼルと約束があるんだ。後で、部屋に戻るから――」

 瞬間、リュウジの表情が曇った。
「もうあなたは、自由なのです」
 静かな声で、言い聞かせるように、呟く。
「ジェイ・ゼルの相手をする必要は、ないのですよ、ハルシャ」


 相手をする?
 そうじゃない。


「先に、ジェイ・ゼルと約束をしていたんだ。私は――」
「ハルシャ」
 懸命に訴える言葉は、ジェイ・ゼルの声で断ち切られた。
「リュウジの言っている通りだ。君はもう、私の相手をする必要がない。
 帰りなさい」

 音がしそうなほど、ぎこちなく、ハルシャは首を巡らせて、ジェイ・ゼルを見た。

「どうして」
 抗議の籠った、問いかけだった。
 瞬間、ジェイ・ゼルは痛みを得たように、顔を歪めて微笑んだ。
「借金を清算したからだよ。ハルシャ」

 借金を、払い終えたら――
 人と人として、あなたと向き合えるのではないのか。
 あなたに、説明したいことがある。
 伝えたい、想いがある。

「ジェイ・ゼル、これから、話をしたい」
 懸命に、ハルシャは訴えた。
「聞いてほしいことがあるんだ、ジェイ・ゼル」
 ジェイ・ゼルは静かに首を振った。
「聞く必要はないよ、ハルシャ。先ほどの約束は破棄する。
 リュウジと一緒に、行きなさい」


 拒絶の、言葉だった。


 どうして。
 話も聞いてくれないんだ。
 ジェイ・ゼル。
 後で部屋に戻ろうと、言ってくれていたではないか。
 どうして――

「怒っているのか、ジェイ・ゼル」
 理由を懸命に考えて、ハルシャはなおも、彼に食い下がった。
「なら、謝る、だから――」
「怒ってなどないよ。ハルシャ。むしろ逆だ」
 ジェイ・ゼルの、声が優しかった。
「私は、嬉しいのだよ」
 灰色の瞳を細めて、彼は微笑んでいた。
「これで、君は自由になった。心の思うままに、どこへでも行けるんだよ。夢の続きを――歩むこともできる」
 笑みが深まる。
「宇宙を、自由に旅することが出来るのだよ、ハルシャ」

 優しい声と、微笑みと。
 彼が心からそう言っているのを、感じた。

「行きなさい。ハルシャ」
 厳しい口調になると、彼は静かに宣言した。
「二度と、ここへ来てはならない。いいね」

 灰色の瞳が、自分を見つめる。
 別れを、彼は告げているのか。
 もう、逢わないと、彼は言っているのか。
 どうして――ここから、人と人として、向き合えるのではなかったのか。
 驚愕に目を瞠るハルシャから、不意にジェイ・ゼルが目を逸らした。

 視線の間に割って入るように、マシュー・フェルズが動いた。
「もう、ハルシャ・ヴィンドースの借金に関する手続きは終了いたしました。どうか、お引き取りください」
 口調がきつい。
 まるで、闖入者を追い出すような雰囲気だ。
「行きましょう、ハルシャ」
 リュウジが腕を掴んだまま、強引に歩いて行く。
 ハルシャは、拒絶の言葉に打ちのめされたまま、ジェイ・ゼルへ視線を向けていた。
 彼は、椅子を回して背を向け、窓の外へ視線を馳せている。

 扉が閉じられるまで、ハルシャは、ジェイ・ゼルへ視線を送り続けた。
 けれども彼は、決して自分たちへ、顔を、向けなかった。
 声すら出せずに後にした部屋で、ハルシャの眼の前で、マシューが扉を閉じた。
 ハルシャが最後に見たのは、椅子からこぼれるジェイ・ゼルの黒髪と、その背後の青い空だった。
「ジェイ・ゼル!」
 閉じた扉に向けて、ハルシャは反射的に叫んでいた。
 リュウジの腕を振り払い、扉に向かおうとしたハルシャを、強い手が引き留めた。
 はっと顔を向けると、マイルズ警部がハルシャの腕を掴んでいた。
「ハルシャ君」
 穏やかな深い声が、ハルシャの抗いを制止する。
「リュウジ君は、君に、色々事情を説明したいのではないかな」

 静かな声だった。多くの修羅場を潜り抜けて来た人が持つ、独特の力強さが籠っている。
 彼のヘイゼルの穏やかな瞳に吸い込まれるようだ。
 静かな眼差しを注ぎながら、マイルズ警部は、ゆっくりと言葉を続ける。
「ハルシャ君。君は五年間、異常ともいえる状況にあった。懸命に適応しようと努力を重ねて来たんだね。その異常な状況が取り払われて、自由となった今、変化に対して、過敏に反応してしまっているね。
 落ち着いて。
 大丈夫だから」
 混乱の極にあったハルシャに、マイルズ警部の声が静かに、沁みとおってくる。
「少し、私も話しを聞きたい。
 とりあえず、一度場所を変えて、落ち着いて話し合おうか。大丈夫だよ、ハルシャ君」
 掴んでいたマイルズ警部の手から力が抜けて、肩にそっと置かれた。
「リュウジ君も俺も、君の味方だ。大丈夫だ」

 やっと落ち着いて、ハルシャは、リュウジへ顔を向けた。
 彼は、眉を寄せてハルシャを見ていた。
 はっと、胸を突かれる。
 リュウジは自分のために、巨額の返済をしてくれたのに、自分はろくに礼を言わずに、ジェイ・ゼルとの約束を先にしようとした。

「すまない、リュウジ――現状が理解出来なくて、混乱してしまって」
 リュウジは笑おうとしていた。
「いえ。僕が勝手にハルシャの人生を決めつけてしまって、申し訳なかったです。
 こちらこそ、すみません。あらかじめ、お話しすることが出来なくて――」
 苦い笑みを浮かべると、彼は小さく呟いた。
「僕も、ジェイ・ゼルとやっていることは、同じですね」
 リュウジは、詫びることなど、何一つない。
 ハルシャは、苦しすぎて言葉が出なくなった。

「とにかく、場所を動こう」
 肩を押すようにして、マイルズ警部が歩き出した。
「わだかまりが無いように、きちんと、腹を割って話し合おう――今後のためにも、な」












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