五〇万ヴォゼルでいい。
簡単に、リュウジは言い切った。
とてつもない金額を――あたかも、日常見慣れているものであるかように。
借金の返済が、実現しようとしている。
まだ、夢を見ているように現実感が無いというのに。
ジェイ・ゼルを見つめるリュウジの目は、恐いほどに真剣だった。
口調はいつものように、穏やかであるのに。
視線の強さが、彼の緊張を、静かに物語っていた。
「どこに、置けばよろしいですか、ジェイ・ゼル」
リュウジが丁寧に、ジェイ・ゼルに声をかけている。
ジェイ・ゼルは、すぐに答えなかった。
本当にリュウジが全額を支払うつもりなのか、じっと眼を据えて、様子をうかがっているような気がした。
緊張をはらんだ空気の中で、リュウジは顔をソファーの前の机へ向けた。
「この机の上でいいですか」
ゆっくりと腕を組んでから、ジェイ・ゼルが問いかけた。
「君は誰だ。オオタキ・リュウジ」
ハルシャは、視線をジェイ・ゼルから、リュウジへ向ける。
彼は静かに微笑んでいた。
「あなたが、知る必要のないことです」
ふっと、ジェイ・ゼルは片頬を歪めた。
「完済領収証の宛名に必要だ」
灰色の瞳がリュウジを見つめる。
「そこが偽名だと、法的に通用しない」
リュウジは笑みを深めた。
「受領証の宛名は、もちろんハルシャ・ヴィンドースです。これは、彼のお金です。僕はただ、彼の所有する金額をここまで運んできただけです」
リュウジは肩をすくめた。
「質問は以上ですか? そろそろ、お支払いをしたいのですが。この後紙幣を確認の上、先ほどもおっしゃられていた完済領収証の発行もして頂かなくてはなりません。
手早く致しましょう、ジェイ・ゼル。
紙幣を、この机の上においてもよろしいですか?」
ジェイ・ゼルは、視線をマシューへ向けた。
彼の小さなうなずきを得てから、
「その机の上でいい。リュウジ」
とジェイ・ゼルは言う。
許可を得ても、リュウジは動かなかった。
代わりに、言葉を受けたヨシノさんが、無言で手にしていた鞄を机の上に置く。リュウジの意を体現するように、中に入っていた帯封のある札束を、彼は丁寧に並べていった。
まるで、あらかじめ打ち合わせをしていたような、動きだった。
「百ヴォゼル札で、五千枚ご用意いたしました」
リュウジは、作業を続けるヨシノさんに目も向けずに、告げる。
「余剰分は、手間賃としてお受け取りください。サーシャ救出の時に散財させています。金額は些少ですが、補填分としてお使いいただければ、ありがたいです」
百ヴォゼル札が百枚で一組として帯封をかけられたものを、ヨシノさんがきれいに、机の上に山と積み上げて行く。
五十を重ねたとき、ヨシノさんは、手を止めた。
もう一度数を確認してから、彼はリュウジへ声をかける。
「五〇万ヴォゼル、置きました」
「うん、ありがとう」
さっきから、リュウジのヨシノさんへ対する言葉が変化していた。
まるで、主従のように、彼らは会話を交わしている。
長い時間を共に過ごしてきたせいで、短い言葉だけで理解できる、というように。
リュウジは積まれたヴォゼル札を見てから、ジェイ・ゼルへ笑顔を向けた。
「五〇万ヴォゼルです。お確かめ下さい」
ジェイ・ゼルは、机の上に積まれた金額ではなく、リュウジの顔から眼を離さず、見つめ続けていた。
「――リュウジ」
ジェイ・ゼルが、記憶の中を探るような眼差しで見つめたまま、リュウジの名を口にした。
不意に、彼の瞳の奥に、何かが閃いた。
「そうか……カラサワか。君の本名は、カラサワ・リュウジだな」
リュウジは静かに微笑んだ。
「おっしゃっている意味が、解かりません。ジェイ・ゼル。僕は、オオタキ・リュウジです」
ジェイ・ゼルの眼が、リュウジの後ろに立つ、ヨシノさんとマイルズ警部に向かった。
「なるほど」
何かを悟った笑みが、ジェイ・ゼルの顔に浮かんだ。
「財閥の力を使ったんだな」
カラサワ?
ハルシャは、瞬きをした。
耳覚えのある名前だった。
確か、帝星を拠点とする巨大企業が、『カラサワ・コンツェルン』といったはずだ。
多岐にわたる企業を総括し、銀河帝国で最も繁栄している企業として、長者番付の一位を、長く独占している。
だが、それが、リュウジと何の関係があるのだろう。
「早く金額を確認してください」
リュウジは静かにジェイ・ゼルに向き合う。
「ハルシャの借金の全額を支払います。確認の上、彼の借金の借用書の原本に、返済済みの署名をお願いします」
容赦のない口調だった。
彼は――やはり怒っているような気がした。
「マイルズ警部」
不意に、リュウジは振り向いて、警部を見た。
「立会人として、全額借財がなくなったことを確実に証明して下さい。お願いします」
ふっと、マイルズ警部が微笑む。
「解かっているよ」
優しい声だった。
ジェイ・ゼルと、リュウジは向き合ったまま、動かなかった。
「確認してくれ、マシュー」
眼をリュウジから逸らさずに、ジェイ・ゼルが呟いた。
「はい、ジェイ・ゼル様」
と、静かに応え、ソファーに座を占めると、マシュー・フェルズは素晴らしい手並みで、百ヴォゼル札を数えはじめた。
「わざわざ、隣星の惑星アイランから取り寄せたのか、リュウジ」
帯封の紋様を見てから、ジェイ・ゼルが問いかけている。
リュウジは静かに笑みを浮かべた。
「ラグレンの銀行で引き出せば、あなたに気付かれますから」
ふふっと、笑う。
「僕の邪魔をされたくなかっただけです」
ジェイ・ゼルは腕を組んだまま、後ろの机に腰を預けて、首を傾けた。
「用心深いことだ」
「思慮深くあれば、来たるべき災いをしのぐこともできます」
ジェイ・ゼルが眼を窓の外に向けた。
「災い、ね」
途切れた言葉の後に続いた静寂の中、マシュー・フェルズが紙幣を数える音だけが響く。
ハルシャは、窓へ顔を向ける、ジェイ・ゼルを見ていた。
彼は――
リュウジがハルシャの借金を全額支払うと言ってから、ずっと。
一度もハルシャへ、視線を向けなかった。
いつも、あれほど眼差しを注いでくれていたのに。
まるで、ハルシャがこの世に存在しないように、視線が素通りする。
怒っているのだろうか。
不意打ちに近いことに、聞いていなかったと不機嫌になっているのかもしれない。
けれど。
きちんと借金を返済出来れば、ジェイ・ゼルの事業にとっても有益なのではないのだろうか。
ハルシャは、沈黙したまま、考え続ける。
この先、何があるか分からない。
ギランジュのことで、それを思い知った。
もし自分に何かあれば、サーシャにそのまま負債が行く。
突き付けられた事実に、ハルシャは慄然としてしまった。
リュウジもそれを、一番に危惧していたようだ。
苦しい暮らしの中で、大らかに花開いていく妹の存在が、どれほど心の支えだったか。
何としてでも、両親が残してくれた大切な存在を、護りたかった。
だから――
リュウジの申し出は、とてもありがたいことだった。
今この場で、リュウジは借金の全額を支払ってくれようとしている。
積み上げれらた紙幣を見ながら、ハルシャは考え続ける。
この後、改めてリュウジに借金を返していくつもりだった。
そのためには、仕事が必要だ。
リュウジは激怒していたが、あの工場は給金が良い。
ジェイ・ゼルにお願いして、もう一度あそこで働かせてもらえるように、依頼しようとハルシャは考えていた。
作りかけの駆動機関部もある。
職人気質のハルシャは、中途半端に仕事を放り出すことが、どうしても出来なかった。
せめて、今手掛けている駆動機関部が完成するまでは、職場に残りたかった。
けれど。
もう、あの部屋には住むことが出来ないかもしれない。
元々、ジェイ・ゼルに借金を返済するまでの約束で、破格の待遇であの部屋を借りていただけだ。
あそこに、他人を入れるのは、契約違反だと、ジェイ・ゼルは言っていた。
そうなると、別の場所を探さなくてはならない。
リュウジと三人で暮らせる場所を。
ハルシャは、何度か瞬きをしながら、懸命に考え続ける。
サーシャの学校のこともあるから、オキュラ地域から少し外れた場所で、暮らせたらいいと思考を巡らせていた。
ハルシャは視線を上げて、なおも窓の外へ目を向けるジェイ・ゼルを見た。
彼が――
元金の返済だけで良い、と言った裏で、自分の利子分を、本当は肩代わりしてくれていたなど、全く知らなかった。
ジェイ・ゼルは、一言も、恩に着せるようなことを言っていない。
ハルシャに気取らせもしなかった。
どうして。
そこまでしてくれたのだろう。
長い睫毛が、ジェイ・ゼルの顔に、影を作っていた。
整った彼の横顔を、ハルシャは無心に見つめていた。
自分は五年間――
彼の手厚い庇護のもとに、生きてきたのだ。
ジェイ・ゼルは、身銭を切って、ハルシャのために借金の負担を軽くしてくれようと、していたのに。
自分は何も知らずに、彼に、反抗し続けてきた。そこにしか、怒りを向ける場所がなかったから。
それをずっと、ジェイ・ゼルは、黙って受けとめてくれていたのだ。
自分の内側の醜さを告白した時、ジェイ・ゼルはその全てを許してくれたような気がした。
心から、彼と思いが通じ合ったと思ったのに、ジェイ・ゼルは窓の外へ目を向けたまま、身じろぎもしなかった。
ハルシャは、唇を噛み締めて、ジェイ・ゼルを見つめ続ける。
借金を清算出来たら、ジェイ・ゼルと、今度は一人の人間として、向き合えるだろうか。
ぽつりと、ハルシャは心の中に、呟く。
契約で強制されたものではなく、今度は自分の意思として。
ジェイ・ゼルの側にいることを選びたい。
彼は自分を――私のハルシャ、と。呼んでくれた。
「五○万ヴォゼル。確かにあります。ジェイ・ゼル様」
機械のような正確さで、札束を読んでから、マシュー・フェルズがジェイ・ゼルに声をかけた。
「全て、真札です。偽札は入っていませんでした」
そこまで見ていたのだ。
ジェイ・ゼルが信頼する会計係の実力に、改めてハルシャは感心する。
「そうか」
窓の外へ目を向けたまま、ジェイ・ゼルがマシューへ指示を出す。
「四九万三五七二ヴォゼルだけ受け取って、後は返金してくれるか。マシュー」
「かしこまりました」
さっさと、マシューは一束から、半分以上の紙幣を抜き取っている。
手持ち金庫を側に運んで来て、中の紙幣と両替してから、数度確認を繰り返す。
その末に、
「お釣りの、六四二八ヴォゼルです」
と、リュウジの前に差し出した。
「ご確認ください」
リュウジは、置かれた金額をじっと見ていた。
「君にとっては、些少な額かもしれないが」
ジェイ・ゼルが、静かに言った。
「ここまで、ハルシャが懸命に働いて減らしてきた借金だ。それ以外は、受け取れない」
窓から顔を動かさずに、彼は呟く。
「持って帰ってくれ、リュウジ」
リュウジは、その金額を見つめてから、静かにヨシノさんに合図をした。
ヨシノさんは無言で動き、マシューが口にした金額を確かめてから
「確かに、六四二八ヴォゼルあります」
と、深みのある声で告げる。
「しまっておいてくれ」
リュウジの言葉に彼はかしこまりました、と答えて、鞄の中に入れいていた。
鞄の中には、まだ、帯封のあるヴォゼル札が、並べて置いてある。
改めて気付く。
これだけの金額を――リュウジはどうやって、用意したのだろう。
「四九万三五七二ヴォゼルを、確かにお支払い頂きました」
確認するように、マシューがジェイ・ゼルに声をかけていた。
「一度、機械にかけて計算し直しますか」
マシューの言葉に、ジェイ・ゼルは静かに微笑んだ。
「必要ない。君は機械よりも正確だ」
その褒め言葉にも、マシュー・フェルズの表情は動かなかった。
「では、ジェイ・ゼル様」
マシューが立ちあがった。
「完済領収証を作成して参ります。ジェイ・ゼル様には、借用書に、完済済の署名をお願いいたします」
「解かったよ」
微笑みながら、ジェイ・ゼルは机を廻って、自分の椅子に座った。
そこへ、マシューが書類の中から、最初にジェイ・ゼルに出会った時に、ハルシャが示されたと同じ形式の借用書を出してきた。
「ここに、ご署名を」
「ここだね」
マシューが渡す筆記具で、ジェイ・ゼルは華麗なサインを書いた。
「お待ちかねの、借用書の原本だよ、リュウジ」
サインをした後、ジェイ・ゼルはその証書をリュウジに差し出した。
「マイルズ警部にも、確認してもらうといい」
リュウジはつかつかと近づくと、電子の文字で綴られた借用書の文言を、じっと読んでいた。
「日付が抜けています、ジェイ・ゼル」
反対向けにして、リュウジが突き返す。
「ここに、あなたの字で、日付を入れて下さい」
リュウジの顔は真剣そのものだった。
ふっと、ジェイ・ゼルは微笑む。
「私としたことが、うっかりしていたね」
微笑んだまま、ジェイ・ゼルがさらさらと日付を入れる。
受け取り、再度確認している。
うんと、小さくうなずいてから、リュウジはマイルズ警部にその借用書を見せている。
間違いないね、と、マイルズ警部も請け合っていた。
やはり。
これは夢なのだ。
ハルシャは、ぼうっとしながら、彼らの動きを見ていた。
こんなことが、現実に起こるはずがない。自分が――
借金から、解き放たれるなど――
「ハルシャが、借金の返済まで、あの工場で働かなくてはならないという、契約書があったはずです」
ヨシノさんに借用書を渡しながら、リュウジが言う。
「それも渡して下さい」
ジェイ・ゼルは、静かに微笑んだ。
「ここに、ハルシャ関係の書類は全てある。
目を通して、必要なものは持っていくといい」
ジェイ・ゼルは、微笑みを浮かべたまま、机の上に積まれた書類を、顎で示した。
「失礼します」
一言断りを言ってから、リュウジは自分の手元へ書類を引き寄せて、丁寧に目を通して行く。
必要なものと、そうでないものを、仕分けているようだ。
内容を読みこむたびに、リュウジの顔が、険悪になっていく。
「よくも、こんな内容で、契約を結ばせましたね」
「ハルシャには、了承を得ている」
「何も知らない、十五の少年です」
藍色の瞳をあげて、リュウジがジェイ・ゼルへ激しい眼差しを向けた。
「あなたが、誘導したのでしょう」
ジェイ・ゼルは、何も答えなかった。
ふうと息をしてから、リュウジは
「譲渡されてしまったものは、仕方ありません。それが、借金の返済額に組み込まれているのですから」
と、悔しげに言う。
「ですが、この十五枚には、完済済とあなたの字で書き込みを入れて下さい。ハルシャが借金を返済できないときには、サーシャにその義務が移行するという文言があります」
ジェイ・ゼルは微笑みながら、リュウジの指示通りに、完済済みの書き込みと、自分のサインを入れていく。
「君と契約を結ぶ相手は、苦労するだろうね」
ジェイ・ゼルが楽しげに言う。
「どんな些細な事も、君は見落とさない」
束の間、二人は無言で見つめ合っていた。
「誰かの不利益になることを」
リュウジは口を開くと、静かに言った。
「僕は、あえてしようとは、思いません」
ふっと、ジェイ・ゼルが笑う。
「きれい事だね。リュウジ。誰に聞かせているんだ――ハルシャか」
リュウジの眼が、ジェイ・ゼルから動かない。
「ハルシャの労働に関する契約書は、破棄させて頂きます。借金を払い終わった今、ハルシャはあの職場で働く必要はありません」
ジェイ・ゼルは笑みを深めた。
「その通りだ。本日付けでハルシャを解雇する。それでいいかな、リュウジ」
「結構です」
自分を抜きに、運命が決まっていく。
待ってくれ、自分はあの工場でまだするべき仕事がある。
働かせてくれ、と、言おうとしたとき
「ハルシャたちが、現在暮らしている部屋も、明日の日付で、引き払わせて頂きます」
と、リュウジが静かな声で言った。
ジェイ・ゼルは、瞬きを一つする。
「構わないよ。大家に言っておこう」
「待ってくれ、リュウジ!」
叫んだハルシャに、リュウジが視線を向けた。
黙っていて下さい、と、その目が語っていた。
あまりに真剣な眼差しに、開きかけた口を、ハルシャは閉じた。
自分が沈黙したことを確認してから、彼は顔を、ジェイ・ゼルへ戻した。
「ハルシャとサーシャは、僕と一緒に帝星へ行きます」
驚きしかなかった。
何を言っているんだ、リュウジ。
叫びたい声が、喉の奥で、凍りつく。
「先ほどの話を、あなたは相手にしてくれませんでしたが、ラグレンに居れば、ハルシャの身が危険なのは、事実です。
マイルズ警部達と一緒に、帝星へ移動します。そこで、安全に暮らしてもらうつもりです」
あまりにも、突拍子のない話に、ハルシャは思考が停止した。
理解が、追いつかない。
何を、リュウジは言っているのだろう。
そんな話を、自分は一度も聞いたことがない。
「サーシャに必要な教育施設も考慮済みです。もう彼らを――二度と不幸な目に、遭わせません」