ほしのくさり

第140話  四九万三五七二ヴォゼル-02





 自由。

 ハルシャは、リュウジの眼を見つめ続けた。

 自由に、なりたい、ですか?

 真剣な眼差しで、かつて掛けられたリュウジの言葉が耳にこだました。
 自由に、なりたい。
 彼にすがりながら、魂から絞り出した言葉。
 もしかしたら、それに対するリュウジの、これが答えなのだろうか。
 ハルシャが滴らせた言葉と涙を、受けとめてくれていた腕の温かさを思い出す。
 あのときから、リュウジは――ハルシャを自由にしようと、計画を積み重ねていたのだろうか。

「リュウジ――」

 呟いた瞬間、扉がノックもなしに開かれた。
 マシュー・フェルズだった。
「借金の返済に関することで、書類をご用意いたしました」
 事務的な口調で、彼は言う。
「手続きは、事務室で行います。ご移動願えますか」
 書類を運ぶよりも、人間が動いた方が早いのだろう。
 リュウジは笑顔になった。
「もちろんです、マシューさん。ありがとうございます」

 気さくに答えてから、
「行きましょうか、ハルシャ」
 と、優しく肩に手を触れて、リュウジが言う。
 まだ、頭が現状を把握し切れずに、ぼんやりとしている。
 それでも促されるままに、ハルシャは立ちあがった。
 リュウジの手が、背中に触れている。
 どこか足取りのおぼつかないハルシャの身を、支えるように。
 廊下に出たところで、大きな黒い鞄を持つヨシノさんと、マイルズ警部に出会った。警部は今日、部下は連れていないようだ。
 警部はリュウジを見ると、にやっと、笑った。
「人使いが荒いな」
 ふふと、リュウジが笑う。
「汎銀河帝国警察機構の方に、お立会い頂けて、とても幸運です。法的に正当であることが証明されますから」
 側に案内役のマシュー・フェルズがいるのに、平気でリュウジはそう言った。

 マシューは無言で動いて、いつもジェイ・ゼルがいる事務室の扉をノックの後、開けた。
 五年前。
 何も知らない状態で、サーシャと二人、この部屋の扉をくぐったことを、思い出す。
 あの時は、自分を待ち受ける境遇のことなど、何一つ理解していなかった。
 心臓が、躍る。
 ジェイ・ゼルは、いつもの机に腰を下ろしていた。
 じっと、机の上に置かれている書類へ、視線を向けている。
 見覚えがある、書面だ。
 かつて、一切の権利をジェイ・ゼルへ委譲すると言う文言に、サインをしたものだ。

 部屋に入った四人へ、ジェイ・ゼルは視線を向けると、笑顔になった。
 さっと椅子から立ち上がり、机を廻って、自分たちの側へ来る。
「マイルズ警部。もう一度お会いできて、光栄です」
 社交的な笑顔を浮かべて、彼は挨拶をしている。
「この前はご尽力頂き、本当に感謝しています。また、今回もハルシャが無実であることを、帝星まで問い合わせをして確認して下さったとか。
 素晴らしいお手並みです。至らぬところを助けて頂き、本当にありがとうございます」

 ジェイ・ゼルは、とても丁寧に言葉を尽くしている。

「なにごともなくて良かった」
 マイルズ警部は、それだけに言葉を止めた。それ以上は、知っていても話すことはないのだろう。

「早速ですが」
 リュウジの声が、二人の間に割り込んだ。
「今日現在の、ハルシャの借金の総額を、お教え頂きますか」

 ジェイ・ゼルは、笑みを消さずに、リュウジへ視線を向けた。

「マシュー」
 ジェイ・ゼルの声に、彼の勤勉な会計係が、さっと書面を見ながら、答えた。
「四九万三五七二ヴォゼルです」

 束の間、ジェイ・ゼルとリュウジは見つめ合った。
 緊迫した静寂の後
「おかしいですね」
 と、リュウジが言った。
「少なすぎます。ハルシャから、五年前、借金を支払うべき金額は五八万ヴォゼルだったと聞いています。あなた方の金利の割合でいけば、五四万ヴォゼルほどのはずです」

 少なすぎる。
 だが、自分が受け取っている明細でも、その金額だった。
 ハルシャは、もしかしたら、と、理由に思い当たる。
「利子をつけずに、元金分だけを、返済していたんだ」
 小声になってハルシャは、リュウジに告げた。
「そのせいだと思う」
「そんなことは、ありえません」

 思いもかけない強い口調で、彼は断言した。

「『ダイモン』の頭領ケファルイズル・ザヒルが、そんな借金の返済方法を、許すはずがありません。それが、たとえあなたの取り立てであっても、ジェイ・ゼル」

 ふっと、ジェイ・ゼルが笑う。
 その笑みに、リュウジは不快そうに眉を寄せた。

「あなたにそう言っておいて、あとで正規の金額を出してくるかも知れません。その返済を再び迫られたら、困るのはハルシャです。
 きちんとお支払いします。なので、正式な借金額を教えて下さい」
 ジェイ・ゼルが、やっと口を開いた。
「それが、正式なハルシャが現在負っている借金の全額だ。間違いない。後で追加するようなことはしないから、安心してくれ。リュウジ」

 リュウジは目を細めた。
「元金だけの返済など――あなたがた『ダイモン』では、あり得ない」
 疑いをにじませた口調に、不意に声が割って入った。
「本当です」
 マシュー・フェルズだった。
 何かを言おうとしたマシューの口を、
「言わなくていい、マシュー」
と、ジェイ・ゼルが思いもかけない強い口調で制した。
「ハルシャの借金の金額だけを、客人にお教えしたらいい」

 マシュー・フェルズが、開きかけた口を、悔しそうにゆっくりと閉じた。
 一瞬、鋭い視線をハルシャに向けてから、ぐっと両手を握りしめて、彼は沈黙した。
 彼らのやり取りを、リュウジはじっと、見つめていた。

「あなたが――」
 ジェイ・ゼルへ藍色の眼を向けて、リュウジが呟いた。
「利子分を、操作していたのですか。ジェイ・ゼル」

 はっと、顔を上げたのは、マシューだった。
 口を開こうとした彼を
「余計なことを言うな。マシュー」
 と、声を放って、ジェイ・ゼルは再び止めた。
「ですが、ジェイ・ゼル様。ハルシャ・ヴィンドースは、何も知りません。あなたが何をなさってきたのか」
 信じられないほど強い口調で、マシューがジェイ・ゼルに食い下がった。
「マシュー」
 制する言葉に重ねるように、彼は
「それで、良いのですか。ジェイ・ゼル様」
 と、なおも言葉を放った。

 ふっと、ジェイ・ゼルが笑う。
「良いも何も。私が好きでしていたことだ。だからといって、相手に押し付けるのは、あまり美しくないね」
 歌うような詩的な声で、ジェイ・ゼルが言った。
 緊迫する状況なのに、それを楽しんでいるようだ。
「いいんだよ、マシュー。私は、これで」
 静かな笑みを見て、マシューが首を振った。
「申し訳ありません、ジェイ・ゼル様。それでも、私は、納得がいきません」
 絞り出すような声だった。
「これほどの恩寵を受けながら――」
 マシューの眼が、自分へ向けられた。
 そこに微かに込められた非難の色に、ハルシャは動揺した。
「ハルシャは何も知らないんだ。責めるのは間違っているよ、マシュー」
 なだめるような、ジェイ・ゼルの声が聞こえた。

 状況が読めない。

「はっきりさせましょう」
 リュウジの明確な声が響いた。
「ハルシャの借金は、イズル・ザヒルの管轄下にある。それには、彼らが定めた利子がつく。
 しかし、ハルシャは元金だけの返済でいいと思い、実際その金額になっている。
 だが実際は利子分を添えて、返済されていたはず。
 だとすれば――利子分の金額を、あなたが個人的に支払っていたのですか、ジェイ・ゼル」

 え。

 ハルシャは、耳にした言葉が、信じられなかった。
 ジェイ・ゼルが。
 支払ってくれていた――
 莫大な借金の、利子分を。
 だから……返済が、早く進んで、いた、のか?

 驚きに眼を見張り、ハルシャはジェイ・ゼルへ視線を向け続けた。

「そうです」
 口を開いたのは、マシュー・フェルズだった。
 彼はジェイ・ゼルが何かを言う前に、素早く言葉を放った。
「ジェイ・ゼル様は、ハルシャ・ヴィンドースの利息分を、ご自分の個人資産から、お支払いを続けていらっしゃいました。
 この五年間、ずっとです」

 彼の声を聞きながらも、ハルシャはジェイ・ゼルから眼が逸らせなかった。
 そうなのか、ジェイ・ゼル。
 私を、ずっと、助けてくれていたのか。

 目を細めると、小さくジェイ・ゼルが吐息をついた。
「余計なことを」
 小さく、消えそうな声でジェイ・ゼルがいう。
 ハルシャは、ただ、ジェイ・ゼルを見つめていた。
 一言も、彼はそんなことを口にしなかった。
 恩に着せることも、ひけらかすことも、それでハルシャを縛り付けることも。
 どうして。
 どうしてなんだ、ジェイ・ゼル。

「なら、安心して、先ほどの金額をお支払いすればいいと言うことですね」
 リュウジの事務的な声が、部屋に響いた。

吉野ヨシノ、ジェイ・ゼルに、お渡ししてくれ。五〇万ヴォゼルでいい」










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