遠くを見つめる瞳のまま、ジェイ・ゼルが呟いていた。
どうして。
いつも自信に満ちあふれ、迷いなど一切ないような彼が――
こんなにおぼつかない口調で、言葉をこぼしているのだろう。
「私は」
自分自身の内側に語りかけるように、ジェイ・ゼルが呟いている。
「身体を通じて快楽を交わすことしか、学んでこなかった。身を繋げることが、互いを知る確実な方法だと――それ以外を信じてはならないと、教え込まされてきた」
一番奥底に沈めていたものを、そっと、両手で掬《すく》い上げて、ジェイ・ゼルが自分に示してくれているような気がした。
あれほど遠くに感じたジェイ・ゼルが、今。
ひどく近い場所にいてくれる。
身じろぎすら出来ず、ハルシャは彼の言葉に耳を澄ました。
「私は――知らなかった」
ぽつりと、彼は虚空へ言葉を投げかけた。
「何をするでもなく、ただ、同じ時間を過ごすだけで、心が満たされるなど」
眉を寄せて、ジェイ・ゼルが呟く。
「そんな生き方を、私は知らなかったんだ、ハルシャ」
彼方へ言葉をこぼしてから、ゆっくりと、ジェイ・ゼルがハルシャへ顔を向けた。
「人の間を巧みに泳ぐことは出来ても、人としてどうやって相手に向き合っていけばいいのか、私には、解らなかった。
だから」
身の内側をさらすことに、わずかに身を震わせながらも、眼を逸らさずに、静かに言葉が続く。
「君に対するにも、過去に自分が学んできた方法でしか、関わることが出来なかった。身を繋げ、肌を重ねれば、おのずと心も馴染んでいく。
そんな生き方しか、私は知らなかった」
一言、一言。
ひどく口に出すのが苦しいように、ジェイ・ゼルが呟いている。
真実を告げることで、ハルシャが彼を嫌悪しないかと、畏れを抱きながらも。
彼は言葉を続ける。
誠実であろうと、懸命に努力をするように。
彼は、一切の虚飾を消した目で、自分を見つめながら、苦しい言葉を滴らせる。
「私は、歪《いびつ》な形でしか、この世に存在を許されなかった」
一瞬、言葉を切ると、彼は切ないほどの笑みを浮かべた。
「その中で、肌を合わせ快楽を与えることが、相手にとって最大の幸福だと、信じ込まされてきた。
だからだろうね」
寂しげな笑みを浮かべて、彼が自分を見つめ続ける。
「君がそれほど、私との行為を厭《いと》うなど、考えもせずに、自分の価値観を君に、押し付けてしまったんだ。
愚かなことだ。
私との行為は、君にとって、屈辱と嫌悪そのものだったのにね。自分の過ちに、私は五年間も、気付かなかった。
いや。
気付いていても、認めたくなかったのかもしれない。
君に対して、正しい方法で向き合っているはずだ。だから、いつかきっと、君は自分を見てくれる。笑いかけてくれる。
そう、信じ込もうと、してきた」
ふっと目を伏せて、ジェイ・ゼルは内側の痛みに耐えるように、沈黙した。
長い睫毛が、彼の顔に、陰影を生んでいる。
静寂に満ちた表情のまま、彼は動かなかった。
ハルシャは、息を詰めてジェイ・ゼルを見つめる。
彼は、ひどく危うい雰囲気を湛えて、沈黙を続けていた。
ふと、彼は意識を変えたように、途切れた言葉の続きを呟いた。
「シヴォルトが、君たちの画像を携えてきたとき――彼の悪意を見抜くべきだった。だが、私は画像に収められていた事実に意識を奪われ、シヴォルトの企みに気付けなかった」
苦しげに眉を寄せると、微かに震える唇で、彼は言葉を続けた。
「私が――五年をかけて、やっと手に入れた君の笑顔を……見知らぬ男が、無条件で享受している。しかも、一つ屋根の下で、すでに君と生活を共にしていた。
突き付けられた事実に、私は衝撃を受け、まともに物が考えられなくなった。君が自分を裏切るはずはないと解っていたのに、シヴォルトの言葉を、額面通りに受け取ってしまったんだ」
痛みを得たように、彼は微笑んだ。
「君が置かれていた職場の状況の中で、どれほどオオタキ・リュウジの存在が支えになっていたのか、その時の私には理解することなど、出来なかっただろうね。
私以外の男に、笑顔を向けている君の姿に――私はおそらく、傷ついたのだろう。
勝手な理屈だ。
だが。
自分で自分が、制御できなかった」
笑みを深めて、彼は続ける。
「呼び出したとき、初めは冷静に話をしようとしていた。なのに、気付いた時には、君は私から傷つけられて、血を流していた――自分でも、理解できない。あの時、何が起こったのか」
静かに、ジェイ・ゼルが首を振る。
「記憶すらあいまいになるほど、私は理性を飛ばし、逆上してしまったらしい。むごい抱き方をした。
力づくで、君を犯した。
最初の時に、あれほど誓ったというのに――私は、同じ過ちをまた、繰り返してしまった」
灰色の目を細めて、彼は微笑む。
「いくら詫びを重ねても、許されないほどに、私は罪深い」
えぐられるほどの悲しみが、彼から伝わってくる。
ああ、彼は。
涙を流さずに、泣くのだ。
最初に手ひどい扱いをしてから、償いをするように、彼はハルシャを傷つけまいと、努力を重ねていたのに。
あっさりと誓いを破ってしまうほどに、リュウジに笑いかける自分の姿が、ジェイ・ゼルを動揺させてしまったのだ。
――五年をかけて、やっと手に入れた笑顔。
彼の本心から滴った言葉が、深く、ハルシャの心を突いた。
明け方の夢で向けられていた、孤独なジェイ・ゼルの背中が、不意に脳裏によみがえる。
灰色の瞳が、瞬きもせずに自分を見つめていた。
「どうして、私は君を傷つけてしまうのだろうね」
答えなど、少しも求めていない口調で、彼は問いを口にした。
「この身は、呪われているのかもしれない。解けない呪詛を、生まれたときに私は受けたのだろう」
ふっと、彼が微笑む。
「いや。生まれたこと自体が、呪いなのかな」
笑みが深まる。
もう、笑わないでくれ。
ハルシャは、心の中に叫んでいた。
そんな傷ついた目をしながら、もう、笑わないでくれ、ジェイ・ゼル。
なのに、彼は穏やかに微笑み続ける。
「自分の呪いに、巻き込むと分かっていても――私は君を、手離せなかった」
震える手が延ばされ、ためらいを含みながら、ハルシャの頬に触れた。
「傷つけてしまうのに、それでも、君の側にいたかった。契約で縛りつけながらも――」
震える唇が、言葉を紡ぐ。
「私はただ、君を、身が焦がれるほどに、欲し続けていた」
優しい笑みが、彼の顔に浮かんだ。
「許してくれ、ハルシャ。私は――人がどうやって、人を愛するのかを、知らないんだ」
睫毛が伏せられ、視線を落としながら、消えそうな囁きが、耳朶に届いた。
「知っていたのはただ、互いの身を通じて、快楽を得る手段だけだった。心をどうしていいのか、私には解らなかったんだ」
懺悔のように呟いたジェイ・ゼルの唇を、身を乗り出してハルシャは覆っていた。
腕を絡め、身を寄せて、互いを溶け合わせるようにして。
生《き》のままの心を呟いた、彼の唇に自分の熱を与える。
それ以上の言葉を、封じるように。
驚きに微かに見開いたジェイ・ゼルの瞳を見つめながら、ハルシャはゆっくりと唇を離した。
「嫌では、なかった」
詩的できれいな彼の言葉に引き換え、たどたどしくしか口に出来ない、自分の想い。
それでも何とか伝えようと、ハルシャは彼の心に向けて、言葉を呟いた。
「あの時。拭ってくれる、ジェイ・ゼルの手が、嫌ではなかった」
ひどく身を引き裂かれていても。
それでも、触れる手を、身体が拒まなかった。
彼の心が、言葉を受け取ってくれている。
感じながら、ハルシャも心の奥底に秘めていた想いを、言葉に乗せた。
「ギランジュの相手をしたとき」
ハルシャの言葉に、ぴくっと、ジェイ・ゼルの眉が震えた。
「嫌悪しか、感じなかった」
苦しげに、彼の形のいい眉が寄せられる。
「相手が、ジェイ・ゼルからギランジュに変わっただけだ。いつもと同じことだ。そう、自分に言い聞かせた。けれど」
言葉を切ると、感覚を思い出して、ハルシャは頬が強張るのを覚えた。
「身体中が、ギランジュを拒絶した。吐き気すら覚えた。別の人間の相手をすることが、これほど苦痛だとは思ってもみなかった」
あの時の恐怖と絶望が、蘇ってくる。
ジェイ・ゼルだけの相手をしていればいいと、自分はどこかで油断していたのかもしれない。他人に自分を抱かせるはずがないと。
予想を裏切られたことよりも、そこまで彼を追い込んだ、自分の過ちが辛かった。
思わず落ちていた視線を上げて、自分を見つめるジェイ・ゼルへ顔を向けた。
「その時、初めて気が付いた。私は、ジェイ・ゼルが、嫌ではなかったのだと」
五年の間。
ジェイ・ゼルが注ぎ続けてくれたものを、この身は確かに受け取っていたのだ。
ただ。
心が認めようと、しなかっただけで。
口にされた自分の名に、熟れたように身が反応するほどに。
自分はジェイ・ゼルの行為を、本当は受け入れていたのだ。
「それまで……人生を踏みにじられたどうしようもない憤りを――私はジェイ・ゼルに反応しないことで、昇華しようとしていた。そこにしか、鬱憤をぶつけるところが、なかった」
仕事は、手を抜くことなど出来ない。
サーシャにきつく当たることなど、論外だ。
抱え込んだ怒りを、自分はジェイ・ゼルにしか、持っていけなかった。
ほとんど、八つ当たりに近かったのかもしれない。
「自分を守るために、私は怒りの矛先を、ジェイ・ゼルに向け続けていた」
理不尽に身を弄ばれることが、嫌で仕方がなかった。
それでも、従うしかないのなら、彼が望む反応は決して与えないでおこう。
意地だった。
幼く頑なな矜持が、身の内をかろうじて支え続けた。
その陰で、どれだけジェイ・ゼルが苦しんでいるのかなど、思うことすらせずに。
「そうでもしないと、日々を生き抜けないほど、私は幼く、未熟だった」
なぜ、ジェイ・ゼルが自分に性的な行為を強いるのか、どうしても、理解できなかった。
何の得があるのか。
どんな意味があるのか。
悩みもがき、苦しみ続けた。
けれど。
今、ようやく彼の心が理解出来た。
ジェイ・ゼルにとって、それは唯一彼が知る、相手を幸せにする方法だったのだ。
身を合わせ、快楽を与えることが。
屈辱的な契約で縛り、毎月過酷な返済を迫りながら――
五年前、初めて抱かれたあの日から。
自分なりの方法で、彼は、ハルシャを愛そうとしていたのだ。
気付かなかった。
気付けなかった。
気付こうともしなかった。
あまりにも自分の知っている、愛情の在り方とは、形を異にしていたから。
側にいて、微笑み交わすだけで、幸福に包まれる。
両親の愛し合う姿を見慣れていたハルシャにとって、当り前だったこと。
同じ空間にいるだけで、満たされる。
そんな感覚を、ジェイ・ゼルは一度も味わうことなく、これまで生きてきたのだ。
そのことに――
一番苦しんでいたのは、ジェイ・ゼルだった。
愛することを知らないと、罪を告白するように呟いた、彼の瞳の奥の深い孤独が、ただ、切なかった。
ハルシャは、顔を上げて、ジェイ・ゼルを真っ直ぐに見た。
「ジェイ・ゼルの思いを解りながら、私はわざと反応しないようにしていた。理不尽な運命に対して出来る、それが、唯一の私の抵抗だったからだ。
そこにしか、私は苦しみを吐き出す場所がなかった――ジェイ・ゼルにしか」
苦い記憶が蘇る。
「醜い自分を見せることが、出来なかった」
嫌だった。
彼に抱かれることが。意志を無視されることが。
契約を履行するために、ジェイ・ゼルの命じる行為には、決して逆らわなかった。
けれども、心の中では彼を踏みにじり続けてきた。
彼の与える行為に、反応しないことで。
落胆を見せる姿に、心ひそかに溜飲を下げていたのかもしれない。
そうやってしか、鬱憤を晴らせないほど――自分は――
処理しきれない感情を、内側にたぎらせ続けていた。
サーシャには決して見せられない、醜悪な自分。
相手の意図をくじくことで、ささやかな抵抗を続けていた自分。
けれど、彼は――
「心で頑なに拒んでも、ジェイ・ゼルは私を責めなかった。きっと私の浅い考えなど、見抜いていただろうに」
肌を通じて、想いは伝わると、彼は言っていた。
なら、伝わっていたのだろう。
この五年間。
自分が、ジェイ・ゼルを心で拒み続けていたことが。
それでも、彼は、自分を切り捨てなかった。
無礼な態度で別れても、三日後には、彼は自分を食事に招いてくれた。
何事も、なかったかのように。
全ての罪を、許すように。
そして問いかけてくる。
会わない間、元気にしていたか、と。
仕事はきつくないのか、と。
言葉をこぼしながら、静かに彼は頬に触れてくる。
そこにある、命の温もりを、手の平の内に確かめるように。
「傷つけて、すまない。ジェイ・ゼル」
呟いた言葉に、灰色の瞳が、揺れた。
五年間。
怒りをぶつけ続けたのは――そうしても、彼は自分から離れないと、思っていたからかもしれない。
ジェイ・ゼルは、自分を大切にしてくれている。
本当は、心の底では、彼の想いを理解していた。
彼の魂に向けて、ハルシャは心の奥底に秘めていた、本当の気持ちを告げた。
「私は、ずっと――あなたの優しさに、甘えていた」
ジェイ・ゼルが。
真っ直ぐに視線を受け止めてくれている。
唇が、震えてくる。
だめだ。
今、これ以上何か言えば、内側の感情が溢れてしまう。
蓋を、し続けて来た。
自分自身が見ないように。
誰にも、気付かれないように。
醜い感情と、ジェイ・ゼルにすらすがりたかった脆弱な心に。
人の温もりに、これほどまでに飢えていた自分に。
不幸なのは、サーシャではない。
妹は、今の暮らしで彼女なりの幸せを見出し、前向きに生きている。
過去にすがっていたのは、自分だ。
かつての幸せを、握りしめて手離せないのは、自分だ。
失ってしまったことを認められずに、立ち尽くしているのは、自分なのだ。
今でも自分は――
両親を失った、十五の時のまま、心の時間を止めている。
「私は……醜く愚かな人間だ」
呟いた唇を、今度はジェイ・ゼルが優しく封じた。
それ以上、何も言わなくていいと、許しを与えるように。
ハルシャの全てを受け入れると、言葉にならない言葉で、呟くように。
唇を合わせたまま、ジェイ・ゼルの手が動き、ハルシャの体を動かした。
そろえていた膝を片手で開き、ジェイ・ゼルに向かい合う形で、太ももの上に座っていた。
優しく、腕が背中に回され、正面から、抱き締められる。
深く、静かに唇を重ね合わせる。
そこから溶け込んで、一つに交わろうとするかのように。
舌が絡み合う。
小さく、ハルシャの口から呻きがもれた。
それが引き金であったように、ジェイ・ゼルの動きが激しくなった。
深く入り込んだ舌が、ハルシャの口中を舐め上げていく。
翻弄される。
「うっ……ふうっ」
混じり合う唾液に、酔ったようにハルシャは喘ぎを上げた。
ひどく直情的に、ジェイ・ゼルが自分を求めている。
だんだん、思考がまとまらなくなっていく。
ハルシャの背で、身を支えていたジェイ・ゼルの手が、一瞬、離れた。
唇を合わせたままで、彼は背もたれから少し身を起こし、手早く黒い上着を脱いでいる。
ぼんやりと、ハルシャはその動きを見ていた。
手に上着を持ち、ジェイ・ゼルは再び自分の背中を、腕で固く抱きしめた。
そのまま、彼は椅子から身を浮かせた。
つられるように、ハルシャの身体も、立ち上がる。
束の間、口が離れた。
けれど、ジェイ・ゼルは腕の拘束を解かず、後ろへと身を動かす。
ハルシャの腰に、机の縁が当たった。
彼は右手に持っていた上着を、すぐ前の机の上に、広げるようにして、置いている。
何を――とハルシャが思う前に、腕に包まれていた身がふわりと浮いて、敷かれた上着の上に、横たえられていた。
天井が、視界に広がる。
腰を机の端ギリギリに置いて、ハルシャは横たわっていた。
「ジェ……ジェイ・ゼル」
ここは、机の上だ。
と、言おうとした言葉が
「背中は、痛むか?」
という、熱を帯びた声で断ち切られた。
机の硬い天板で、背中が痛むことを気にして、彼は上着を敷いたのだと、気付く。
「大丈夫だ……ジェイ・ゼル」
机の上に、仰向けに横たわったままで、ハルシャはかろうじて、応える。
にこっと、ジェイ・ゼルが笑った。
少年のような、無邪気な笑みだった。
「そうか」
危惧を解くと、彼がのしかかる様にして、唇を覆う。
「ジェイ・ゼル」ハルシャは、懸命に言葉をかけた。「机の上だ」
「そうだね。机の上だよ」
「汚れてしまう」
「何が?」
「テーブルクロスが……」
「大丈夫だよ。私の服を敷いているからね」
完璧に説明を終えたように、彼はにこっと微笑んだ。
途切れた言葉の後、再び口が覆われた。
口づけが、ゆっくりとハルシャの中の熱をかきたてるように、施される。
「うっ、ううっ」
喘ぎ声が、口からこぼれる。
食事にしか、使われてこなかっただろう瀟洒な机の上に、自分は唇を覆われながら、横たわっている。
背徳的な行為だ。
この後、宿泊する人は、まさか自分たちが食事をしている机の上で、交わりが行われたなど、考えもしないだろう。
いけないことでは、ないだろうか。
わずかに残っていた理性が、口を離したジェイ・ゼルに向けて、言葉をかけていた。
「ベッドへ……行かないのか、ジェイ・ゼル」
彼は、微かに眉を寄せた。
「すまない、ハルシャ。そこまで、待てそうにない」