「ガルガーが知らせてくれた」
優しく腕に包んだまま、ジェイ・ゼルが言葉を滴らせる。
「ラグレン警察が、君たちを連行していったと……」
これまでの不安を訴えるように、ぎゅっとハルシャはジェイ・ゼルに回す手に力を込めた。
背中に、温かなジェイ・ゼルの手が滑る。
囁きが、耳元に響いた。
「何かの間違いだ。違法な駆動機関部など、私が君に作らせるはずがないものを」
ハルシャは、わずかに目を見開いた。
ああ、やはり。
ジェイ・ゼルの預かり知らないことだったのだ。
だが。
実際シヴォルトが自分に作るように命じたのは、スクナ人の使用を前提とした機関部だった。
もし、リュウジの指摘がなく、何も知らずに作業を行っていれば、自分は確実に逮捕されていた。
そのことを、ジェイ・ゼルに伝えたい。
しかし、ラグレン警察本庁の廊下では、口にすることがはばかられた。
「ジェイ・ゼル……話をしたい」
小声で、ハルシャは彼の耳に口を寄せて、囁いた。
シヴォルトが作らせようとした駆動機関部のデータは、自宅で保管している。
そのことも含めて、事実を包み隠さず語りたかった。
シヴォルトの悪意だとしても、今回の件で、ジェイ・ゼルが不利益になってはならないと、ハルシャは危惧してしまう。
最終的に、罪に問われるのは経営者のはずだ。
言葉に必死さがこもっていたのか、なだめるように背を撫でてから、
「解かった、ハルシャ、話を聞こう」
と、静かにジェイ・ゼルが答える。
「もう、用事は済んだ。出ようか。上にネルソンが待ってくれている」
身を離して、彼が言う。
ハルシャは、視線を上げて、彼の灰色の瞳を見つめながら、
「リュウジが別室に拘束されている。行くのなら、彼も一緒に……」
と、訴えた。
「その必要はないかもしれないよ、ハルシャ」
思いもかけない言葉に、ハルシャは、瞬きを繰り返した。
「どう……」
くすっと、小さくジェイ・ゼルが笑みをこぼす。
「ここには降りてきていないが、ヨシノという青年が飛行車で駆けつけてきている。君とリュウジを迎えに来たようだ」
瞬きを一つするハルシャに、ジェイ・ゼルは優しく微笑みを与えた。
「ラグレンで初めて出会ってから数日にしては、ヨシノ青年とリュウジは、とても親しげだ。まるで、旧知の仲のようだね」
ジェイ・ゼルの笑みが深まる。
「そうは、思わないか、ハルシャ」
ハルシャの中にわだかまっていた、ぼんやりとした疑問を、ジェイ・ゼルが明確な言葉にして、示してくれる。
そうだ。
彼らはとても親しげだ。
ヨシノさんから施されることを、ほとんど無条件にリュウジは受け入れて、寛いでいるようにすら、感じられる。
自分にも遠慮をする彼が、どうしてこんなに打ち解けているのだろう……と、無意識下で疑念を抱いていたようだ。
指摘に、どきんと胸が躍った。
心の底に沈む疑問を、ジェイ・ゼルに見透かされたようだった。
戸惑いを隠せないハルシャの背後へ、不意に身を立てて、ジェイ・ゼルが、視線を向けた。
眼差しの強さに、思わずハルシャも振り向く。
首をねじった向こうに、ハルシャと同じように解放されて、真っ直ぐに廊下を歩いてくる、リュウジの姿があった。
「お見えになったのですか、ジェイ・ゼル」
堂々と廊下を進みながら、リュウジが顔を上げて、ジェイ・ゼルへ言葉を放つ。
どきりとするほど、きつい口調だった。
ジェイ・ゼルは、ハルシャから腕を引きながら、微笑みを浮かべた。
「君に、感謝をしなくてはならないな。リュウジ」
近づくリュウジへ視線を向けたままで、ジェイ・ゼルが声をかける。
「私に連絡を取るようにと、ガルガーに言ってくれたようだね。君たちが連れていかれてから、すぐに知らせを寄こしてくれた」
笑みを深めて、ジェイ・ゼルが言う。
「実に君は、的確に状況を読む力に長《た》けている。助かったよ」
静かな礼の言葉を、ジェイ・ゼルが述べていた。
リュウジは、すぐにジェイ・ゼルに応えなかった。
廊下に足を止めたまま、彼の顔を見つめ続ける。
「出ませんか」
リュウジは、ちらっと後ろを見てから言った。
「ここは、人目があります」
ジェイ・ゼルは、微笑んだままうなずいた。
「駐車場へ行こう。君の知人のヨシノ君も、上で待っている」
「ヨシノさんが?」
「ああ。君とハルシャを迎えに来たようだ。一緒に降りないかと声をかけたが、上で待っていると言っていたよ」
「そうですか」
ふっと息をつくと、リュウジは笑顔をハルシャに向けた。
「無事に無実が証明されて、良かったですね、ハルシャ」
つかつかと近づき、リュウジが腕に触れる。
「マイルズ警部が、帝星と通信をして、僕たちが作っていた駆動機関部は、違法ではないと証明してくれたようです」
語りながら、リュウジは歩き出した。
ハルシャは腕を取られたまま、促されるようにして、一緒に進む。
「警部はまだ、ラグレン警察と話があるようです。先に帰っているようにと、伝言を受けています」
彼はそのまま、乗って来たチューブの元へ向かうらしい。
ハルシャは歩を進めながら、思わず視線をジェイ・ゼルへ、向けた。
彼は相変わらず微笑みを浮かべて、ゆったりとした歩調で、進むハルシャ達の後ろから歩いてくる。
リュウジがハルシャを連れて行くことに、別段異議を覚えていないようだ。
穏やかなジェイ・ゼルの様子にほっとしながら、ハルシャは誘われるままに、駐車場へ向かった。
これ以上、警察庁内で、余計なことを話してはいけないような気がする。
チューブに乗って、駐車場のある階へ向かう途中も、三人は無言だった。
腕を掴む手は離していたが、リュウジの表情は、硬かった。
駐車場へ着き、チューブを降りた途端、リュウジが口を開いた。
「あなたと」
ジェイ・ゼルに向き合い、彼は真っ直ぐに視線を注ぎながら、強い口調で言った。
「お話しなければならないことがあります――個人的なことで」
きつい目つきだった。
敵意をむき出しにするリュウジの態度に、ハルシャは動揺を隠せなかった。
「リュウジ……」
思わず、とりなすように、彼に声をかける。
自分たちが上がって来たのに気付いたのか、視界の端にヨシノさんが近づいてくるのが、見えた。
ジェイ・ゼルは、リュウジの眼差しを、微笑みを浮かべて受けとめている。
瞬きをしてから、彼は鷹揚にうなずいた。
「構わないよ、リュウジ。時間を作ろう」
「なら、この後……」
言いかけたリュウジの言葉を、ジェイ・ゼルは途中で断ち切った。
「三時間後に、私の事務所へ来てくれるかな」
ちらりと、自分の腕時計を見る。
「今は九時だ。十二時間になったら事務所へ来てくれ。そこで話をしよう」
リュウジは、真っ直ぐにジェイ・ゼルを見ていた。
「今すぐ、では、いけませんか。ジェイ・ゼル」
静かな笑みを浮かべて、ジェイ・ゼルは、ハルシャに手を伸ばし、肩を抱くと自分に引き寄せた。あっという間もなかった。
「これから少し、ハルシャと話をしなくてはならない」
自分の事を理由に出されて、ハルシャは盛大に戸惑った。
顔が真っ赤になる。
慌てて、ジェイ・ゼルを見上げて言う。
「ジェイ・ゼル。私は、リュウジとの話し合いが終わってからでいい」
囁くような声を、ジェイ・ゼルは、さらに身に引き寄せて、封じた。
「三時間後だ。リュウジ。それでは――気に入らないか」
リュウジの眼が、ハルシャの肩に置かれた、ジェイ・ゼルの手を見つめている。
音がしそうなほどぎこちなく、リュウジは視線を上げると、ジェイ・ゼルを正面からねめつけた。
「ハルシャとの話し合いに、僕も入りましょうか」
深い藍色の瞳が、激しい光を帯びてジェイ・ゼルを見据えている。
「多分、ハルシャと僕の話は、同じだと思います」
ぐっと、リュウジの見ている前で、肩がさらに引き寄せられた。
困惑と羞恥が、身の内に広がる。
「すまないね。私が個人的に、ハルシャと話があるんだ――三時間後に、私の事務所で待っているよ。オオタキ・リュウジ」
「ジェイ・ゼル!」
ハルシャは、抗議の声を上げた。
「今回、リュウジのお陰で……」
つっと、ジェイ・ゼルの一本立てた人さし指が、ハルシャの唇に触れた。
「ここでは、何も言わない方がいい。駐車場とはいえ、ラグレン警察本庁の中だよ、ハルシャ」
灰色の瞳が、優しく見下ろしている。
「リュウジも、そう思っているはずだ。彼は賢いからね」
ハルシャは、リュウジへ顔を向けた。
彼は、唇を軽く噛んで、ジェイ・ゼルを見上げている。
微かに、その唇が、震えているような気がした。
「解かりました」
歯の間から、絞り出すように、リュウジが言う。
「三時間後ですね」
言い終えた後、彼は視線を落とし、眉を寄せた。
「リュウジ……」
困惑した声が、自分の口から出る。
その瞬間、リュウジは顔を上げて、ハルシャを見た。
ふわっと、優しい笑みが、自分に向けられる。
「ジェイ・ゼルは、あなたとお話があるようです。行ってきて下さい、ハルシャ。僕なら大丈夫です」
側に無言で佇んでいたヨシノさんへ、リュウジは一瞬視線を向ける。
「僕たちを心配して、ヨシノさんが迎えに来てくれましたから、彼と一緒に帰ります。ご安心ください」
労わりに満ちた声が、ほころんだ彼の口からこぼれる。
「無実が証明されて、本当に良かったですね、ハルシャ」
ハルシャは、一瞬、言葉を飲んだ。
「ありがとう、リュウジ。君のお陰だ」
優しく、リュウジが微笑む。
再び視線が落ちて、彼は何かを束の間、考えているようだった。
ゆっくりと目を上げると、リュウジはジェイ・ゼルへ顔を向けた。
「その三時間後の話し合いに、ハルシャも同席してほしいのです。いいですか、ジェイ・ゼル」
リュウジの申し出に、ジェイ・ゼルは瞬きを一つした。
「私と個人的に、話をしたいのでは、ないのかな」
穏やかに、だが圧がこもった声で、ジェイ・ゼルがリュウジを見下ろしながら、言う。
ぐっと、唇を噛んでから、リュウジは不敵とも思える笑みを浮かべた。
「ええ、そうです。だからこそ、同席してほしいのです」
リュウジの目が、真っ直ぐにジェイ・ゼルを捉える。
「話は、ハルシャに関すること、です」
ふと。
ジェイ・ゼルの目に、警戒が滲んだ。
口を開かず、彼はしばらく無言で、リュウジを見つめるだけだった。
自分のことで、なぜか二人が険悪な雰囲気を醸し出していることに、ハルシャは慌てた。
リュウジは、すぐに話をしたいのを、三時間後で譲ってくれた。
ハルシャのために、彼は無限の忍耐を示してくれているような気がした。それに、少しでも報いたい。思いが、言葉になってこぼれる。
「解かった、リュウジ。話し合いに参加すれば良いんだな」
違法な駆動機関部のことを、リュウジは話したいのだ。
請け負ったのは自分だから、経緯の説明も兼ねて、同席を求めているのだと、理解する。
難色を示すジェイ・ゼルにも、とりなすように、言葉をかけた。
「ジェイ・ゼル。私もリュウジとの話し合いに同席したい。お願いだ」
灰色の瞳が、自分へ向けられた。
懇願を浮かべたハルシャの顔を、ジェイ・ゼルはしばらく見つめていた。
「それを、君が望むなら。構わないよ、ハルシャ」
妥協を示しながら、優しい声で、ジェイ・ゼルが言う。
ほっと、ハルシャは息を吐いた。
どうして、二人はこんなにケンカ腰で物を言うのだろう。
言葉遣いは、互いにとても丁寧なのに、どうも理解できない。
話はそこで終わったと、ジェイ・ゼルは理解したらしい。
「三時間後に、私の事務所で会おう」
リュウジに言葉をかけると、ハルシャの肩を手の平で包んだまま、踵を返す。
彼が向かう先に、黒い飛行車の姿があった。
「ええ。三時間後に。必ず、ハルシャを連れてきて下さい。ジェイ・ゼル」
後ろから飛ぶリュウジの言葉に、ジェイ・ゼルは返事もせず、足も緩めなかった。
ハルシャは、思わず、振り向いてリュウジへ顔を向けた。
リュウジは笑みを浮かべて、微かにうなずいていた。
気にしないでください、となだめるように。
申し訳ない気持ちで、一杯になる。
「後で、リュウジ」
かけたハルシャの声に、リュウジの笑みが深まる。
「はい、ハルシャ」
優しい声だった。
ぐっと、ジェイ・ゼルの手の力が強くなった。
彼は無言で飛行車へ向かい、扉を手ずから開いて、ハルシャを座席へ送り込んだ。
反対側に回り、ネルソンの開く場所から座席に腰を下ろしながら、
「『エリュシオン』へやってくれ」
と、ジェイ・ゼルが扉を閉めるネルソンへ、言葉をかける。
『エリュシオン』?
ハルシャは、ジェイ・ゼルの横顔へ視線を注ぎ続けていた。
くすっと、ジェイ・ゼルが笑ってから、穏やかな表情を、ハルシャへ向ける。
「その場所では、話し合いはできないか? ハルシャ」
自分には、拒否権がないと、ハルシャは思い出す。
「場所は、どこでもいい」
もやもやとしたものを、吐き出すように、ハルシャは呟いていた。
「ただ、話を聞いてほしい」
「解かっているよ、ハルシャ」
ジェイ・ゼルは手を伸ばして、ハルシャの頬に触れた。
「恐い思いをさせてしまった。辛い時間だっただろう」
優しい詫びの言葉だった。
「嫌なことを、されなかったか?」
頬を、ジェイ・ゼルが撫でる。
灰色の瞳が、労わりを込めて、自分を見つめている。
警察に連行されるということが、どういうことなのかを、ジェイ・ゼルは身をもって知っているような気がした。
「大丈夫だ。すぐに、解放してもらえたから」
彼を安心させようと、ハルシャは嘘をついた。
「そうか」
頬を、指先が撫でつづける。
彼は目を細めて呟いた。
「今、ガルガーに経緯を調べさせている。二度とこんなことがないようにするから、安心してくれ」
警察から早く引き渡してもらえるように、ジェイ・ゼルは手を尽くしてくれたのだろう。
ハルシャは、きゅっと唇を噛みしめた。
シヴォルトの差し金だと、早くジェイ・ゼルに伝えたかった。
ふわりと浮いた飛行車の中でなら、もう口に出しても良いだろうか。
けれど。
ジェイ・ゼルにだけ、伝えたほうが良いような気がした。
スクナ人の使用は、帝国法で禁じられていることだ。
ネルソンの耳に入れることを、ふとハルシャはためらった。
自分の危惧を、ジェイ・ゼルはどう解釈したのか、頬に触れていた手を滑らせて、背中に回すと自分に引き寄せた。
「もう大丈夫だ、ハルシャ」
腕に、包まれる。
安心する温もりだった。
強張らせていた身から力を抜き、ハルシャはジェイ・ゼルに体を預けた。
恐かった。
とても。
ジェイ・ゼル。
何が起こったのか、すぐに理解できなかった。
言えなかった言葉が、身の内を巡る。
問答無用でラグレン警察に、犯罪者だと決めつけられたことが、とても、辛かった。
ヴィンドース家の人間として正しくあろうと、懸命にこれまで生きてきたつもりだった。
なのに。
彼らは犯罪者として、軽侮した目でねめつけながら、ハルシャ・ヴィンドースと自分の名を汚れたもののように口にした。
それが、どうしようもなく悲しかった。
ぎゅっと、ジェイ・ゼルの服を握りしめる。
カタカタと小刻みに震える体を、彼は温もりでなだめてくれるように、腕に包み続けてくれていた。
「サーシャは、元気か」
微かに震えるハルシャの身を抱きとめながら、ジェイ・ゼルが呟く。
「昨夜は、恐い夢を見ずに、良く眠れたのかな」
話題を変えるように、彼は問いかけていた。
ハルシャは、押しつけられた胸に、こくんとうなずく。
「メリーウェザ先生が、一晩医療院で預かってくれていた」
その返事に、わずかに、ジェイ・ゼルが身を強張らせた。
「そうか」
しばらくしてから、ジェイ・ゼルが口を開く。
「それは安心だったな。そうしたら昨夜《ゆうべ》は、メリーウェザ医師の所で、ハルシャも一緒に泊めてもらったのか」
何気ない問いかけに、
「いや、リュウジと……」
と、素直にハルシャは言いかけた。
瞬間、ジェイ・ゼルの腕に力が籠った。
「昨日は、リュウジと二人きりで、一晩部屋で過ごしたのか――ハルシャ」
妙に尖りのある声で、ジェイ・ゼルが訊ねてくる。
はっと、ハルシャは顔を上げた。
見上げたジェイ・ゼルは、虚空へ視線を向けていた。
彼の灰色の瞳は、自分を映してはいない。表情は、ただ、静かだった。
また、疑われているのだろうか。
ハルシャは、誤解を解くべく、昨夜の状況を、懸命に説明した。
ヨシノさんに夕食を奢ってもらい、そのまま自分は慣れないアルコールに酔って、眠ってしまった。リュウジも同様に、酔いを得たこと。
酔い潰れてしまった二人に、ヨシノさんが気を利かせて、彼が泊っていたホテルへ連れて行って、宿泊させてくれた、と。
経過は覚えていないが、ベッドで目覚めた時きちんと服を着ていたと、顔を赤らめながら付け加える。
話しているうちに、ジェイ・ゼルの顔が動き、ハルシャへ視線が降りてくる。
説明を終えた後も、ハルシャは彼の目を見上げつづけた。
沈黙の後、ジェイ・ゼルが口を開いた。
「そうか」
背中から浮かせた手で、彼はハルシャの髪を指で梳いた。
「ヨシノ君のお陰で、ハルシャはぐっすりと眠れたんだね」
微笑みながら、顔を寄せると、髪に優しく唇が触れる。
「彼には、散財させた詫びを、私からも言っておこう」
頬が、髪に押し当てられる。
「疑ってはいないからね。リュウジと君は、ただの友人だ。解かっているよ、ハルシャ」
髪を優しく撫でながら、この前の謝罪を兼ねるように、ジェイ・ゼルが呟いていた。
信じている。
と。
ジェイ・ゼルは言ってくれているのだろうか。
「せっかく良く眠れたのに、災難だったね、ハルシャ」
労わりに満ちた言葉に、懸命に耐えていた何かが、ぷつんと切れそうになる。
「……ジェイ・ゼル」
呟いて、ハルシャは彼の服に顔を埋めた。
そうすると、爽やかな匂いが鼻孔をくすぐる。
ジェイ・ゼルの、香りだった。
身の震えが、止まらない。
安心して恐怖を吐き出しながら、思考も危惧も止めて、ハルシャはジェイ・ゼルの温もりに、寄りかかった。
『エリュシオン』に着くまで黙したまま、ジェイ・ゼルは腕の中に、ハルシャを包み続けてくれていた。
*
「良かったのですか、
ラグレン警察本庁を出て、オキュラ地域に向かうように指示してから、リュウジは窓の外へ目を向けたまま、沈黙を続けていた。
「ジェイ・ゼルの支配を、制止することは出来ない」
窓へ向けて、リュウジは呟く。
「ハルシャはまだ、彼に借金で縛られている身だ。僕が止めても――ハルシャに辛い思いをさせるだけだ。だから」
血が出るほどきつく、握り込んだ爪を手の平に食い込ませながら、冷静にリュウジは言葉を続ける。
「引くしかないだろう。今は、まだ」
言葉を切った後、リュウジは唇を噛みしめた。
自分の目の前で――ジェイ・ゼルは支配を示すように、ハルシャの肩を抱いて、連れ去った。
三時間全てを、話し合いに費やすなどと、リュウジは考えていなかった。
それでも。
止める手立ては今の自分には、無かった。
ハルシャの人生は、彼の支配下に置かれている。
だが。
それも後少しだ。
三時間後には、ハルシャを自由にすることが出来る。
ハルシャは工場で働くことに、やりがいを見出している。
それを挫くつもりはなかった。
警察が動かなければ、あと少し様子を見ようと思っていたが、今回の事件が、リュウジを激怒させた。
忍耐も、もう、限界だ。
悪辣な手段で、大切なハルシャを陥れようとする者がいる限り、あの工場で、彼を働かせるつもりはなかった。
あんな職場に、一分たりと、ハルシャを置きたくない。
激怒のあまり、視界が赤く染まっていきそうだ。
息をついて心を整えながら、リュウジは続けた。
「それに、約束までの時間に、しておきたいこともある。確かめたいことも、いくつか」
気を取り直したように、明るい声で、リュウジは吉野へ語りかける。
「三時間後――ジェイ・ゼルの事務所へ行く時には」
静かに、リュウジは微笑んだ。
「ハルシャの借金の全額を、持っていこう」
飛行車を見事に操りながら、吉野はうなずきで答える。
「了解いたしました、
「うん、助かるよ。ありがとう、
リュウジは、再びラグレンの街へ目を向けた。
夜明け前。
ハルシャは、ジェイ・ゼルの名を呼んで、うなされていた。
苦しそうに、辛そうに。
もう。
彼に悪夢を見させたくなかった。
「解き放って差し上げます。ハルシャ」
小さく、独り言のようにリュウジは呟いていた。
「宇宙を飛ぶ、あなたの翼を……ジェイ・ゼルから」
三時間後には、ハルシャを自由にすることが出来る。
ジェイ・ゼルにとって、これが彼との最後の逢瀬になるだろう。
そう思ったから、リュウジは譲ることにした。
きつく、爪を喰い込ませながら、心に呟く。
だから、譲ることが出来た。
そうでなければ、ジェイ・ゼルの手から、問答無用でハルシャを奪い取っていただろう。
ふっと、息をつく。
ハルシャが自由になる代価を、ジェイ・ゼルの目の前に並べたとき――
彼はどんな顔をするのだろう。
生涯ハルシャの人生を縛れると、思い込んでいる傲慢な男。
その瞬間が訪れるのを、細めた眼で、リュウジは考え続けていた。