ほしのくさり

第133話  三時間後の約束





「ガルガーが知らせてくれた」
 優しく腕に包んだまま、ジェイ・ゼルが言葉を滴らせる。
「ラグレン警察が、君たちを連行していったと……」
 これまでの不安を訴えるように、ぎゅっとハルシャはジェイ・ゼルに回す手に力を込めた。
 背中に、温かなジェイ・ゼルの手が滑る。
 囁きが、耳元に響いた。
「何かの間違いだ。違法な駆動機関部など、私が君に作らせるはずがないものを」
 ハルシャは、わずかに目を見開いた。
 ああ、やはり。
 ジェイ・ゼルの預かり知らないことだったのだ。

 だが。
 実際シヴォルトが自分に作るように命じたのは、スクナ人の使用を前提とした機関部だった。
 もし、リュウジの指摘がなく、何も知らずに作業を行っていれば、自分は確実に逮捕されていた。
 そのことを、ジェイ・ゼルに伝えたい。
 しかし、ラグレン警察本庁の廊下では、口にすることがはばかられた。

「ジェイ・ゼル……話をしたい」
 小声で、ハルシャは彼の耳に口を寄せて、囁いた。
 シヴォルトが作らせようとした駆動機関部のデータは、自宅で保管している。
 そのことも含めて、事実を包み隠さず語りたかった。
 シヴォルトの悪意だとしても、今回の件で、ジェイ・ゼルが不利益になってはならないと、ハルシャは危惧してしまう。
 最終的に、罪に問われるのは経営者のはずだ。
 言葉に必死さがこもっていたのか、なだめるように背を撫でてから、
「解かった、ハルシャ、話を聞こう」
 と、静かにジェイ・ゼルが答える。
「もう、用事は済んだ。出ようか。上にネルソンが待ってくれている」
 身を離して、彼が言う。
 ハルシャは、視線を上げて、彼の灰色の瞳を見つめながら、
「リュウジが別室に拘束されている。行くのなら、彼も一緒に……」
 と、訴えた。
「その必要はないかもしれないよ、ハルシャ」
 思いもかけない言葉に、ハルシャは、瞬きを繰り返した。
「どう……」
 くすっと、小さくジェイ・ゼルが笑みをこぼす。
「ここには降りてきていないが、ヨシノという青年が飛行車で駆けつけてきている。君とリュウジを迎えに来たようだ」
 瞬きを一つするハルシャに、ジェイ・ゼルは優しく微笑みを与えた。
「ラグレンで初めて出会ってから数日にしては、ヨシノ青年とリュウジは、とても親しげだ。まるで、旧知の仲のようだね」
 ジェイ・ゼルの笑みが深まる。
「そうは、思わないか、ハルシャ」

 ハルシャの中にわだかまっていた、ぼんやりとした疑問を、ジェイ・ゼルが明確な言葉にして、示してくれる。
 そうだ。
 彼らはとても親しげだ。
 ヨシノさんから施されることを、ほとんど無条件にリュウジは受け入れて、寛いでいるようにすら、感じられる。
 自分にも遠慮をする彼が、どうしてこんなに打ち解けているのだろう……と、無意識下で疑念を抱いていたようだ。
 指摘に、どきんと胸が躍った。
 心の底に沈む疑問を、ジェイ・ゼルに見透かされたようだった。
 戸惑いを隠せないハルシャの背後へ、不意に身を立てて、ジェイ・ゼルが、視線を向けた。
 眼差しの強さに、思わずハルシャも振り向く。

 首をねじった向こうに、ハルシャと同じように解放されて、真っ直ぐに廊下を歩いてくる、リュウジの姿があった。
「お見えになったのですか、ジェイ・ゼル」
 堂々と廊下を進みながら、リュウジが顔を上げて、ジェイ・ゼルへ言葉を放つ。
 どきりとするほど、きつい口調だった。

 ジェイ・ゼルは、ハルシャから腕を引きながら、微笑みを浮かべた。
「君に、感謝をしなくてはならないな。リュウジ」
 近づくリュウジへ視線を向けたままで、ジェイ・ゼルが声をかける。
「私に連絡を取るようにと、ガルガーに言ってくれたようだね。君たちが連れていかれてから、すぐに知らせを寄こしてくれた」
 笑みを深めて、ジェイ・ゼルが言う。
「実に君は、的確に状況を読む力に長《た》けている。助かったよ」
 静かな礼の言葉を、ジェイ・ゼルが述べていた。

 リュウジは、すぐにジェイ・ゼルに応えなかった。
 廊下に足を止めたまま、彼の顔を見つめ続ける。
「出ませんか」
 リュウジは、ちらっと後ろを見てから言った。
「ここは、人目があります」
 ジェイ・ゼルは、微笑んだままうなずいた。
「駐車場へ行こう。君の知人のヨシノ君も、上で待っている」
「ヨシノさんが?」
「ああ。君とハルシャを迎えに来たようだ。一緒に降りないかと声をかけたが、上で待っていると言っていたよ」
「そうですか」
 ふっと息をつくと、リュウジは笑顔をハルシャに向けた。
「無事に無実が証明されて、良かったですね、ハルシャ」
 つかつかと近づき、リュウジが腕に触れる。
「マイルズ警部が、帝星と通信をして、僕たちが作っていた駆動機関部は、違法ではないと証明してくれたようです」
 語りながら、リュウジは歩き出した。
 ハルシャは腕を取られたまま、促されるようにして、一緒に進む。
「警部はまだ、ラグレン警察と話があるようです。先に帰っているようにと、伝言を受けています」
 彼はそのまま、乗って来たチューブの元へ向かうらしい。
 ハルシャは歩を進めながら、思わず視線をジェイ・ゼルへ、向けた。
 彼は相変わらず微笑みを浮かべて、ゆったりとした歩調で、進むハルシャ達の後ろから歩いてくる。
 リュウジがハルシャを連れて行くことに、別段異議を覚えていないようだ。
 穏やかなジェイ・ゼルの様子にほっとしながら、ハルシャは誘われるままに、駐車場へ向かった。
 これ以上、警察庁内で、余計なことを話してはいけないような気がする。
 チューブに乗って、駐車場のある階へ向かう途中も、三人は無言だった。
 腕を掴む手は離していたが、リュウジの表情は、硬かった。

 駐車場へ着き、チューブを降りた途端、リュウジが口を開いた。
「あなたと」
 ジェイ・ゼルに向き合い、彼は真っ直ぐに視線を注ぎながら、強い口調で言った。
「お話しなければならないことがあります――個人的なことで」
 きつい目つきだった。
 敵意をむき出しにするリュウジの態度に、ハルシャは動揺を隠せなかった。
「リュウジ……」
 思わず、とりなすように、彼に声をかける。
 自分たちが上がって来たのに気付いたのか、視界の端にヨシノさんが近づいてくるのが、見えた。
 ジェイ・ゼルは、リュウジの眼差しを、微笑みを浮かべて受けとめている。
 瞬きをしてから、彼は鷹揚にうなずいた。
「構わないよ、リュウジ。時間を作ろう」
「なら、この後……」
 言いかけたリュウジの言葉を、ジェイ・ゼルは途中で断ち切った。
「三時間後に、私の事務所へ来てくれるかな」
 ちらりと、自分の腕時計を見る。
「今は九時だ。十二時間になったら事務所へ来てくれ。そこで話をしよう」

 リュウジは、真っ直ぐにジェイ・ゼルを見ていた。
「今すぐ、では、いけませんか。ジェイ・ゼル」
 静かな笑みを浮かべて、ジェイ・ゼルは、ハルシャに手を伸ばし、肩を抱くと自分に引き寄せた。あっという間もなかった。
「これから少し、ハルシャと話をしなくてはならない」
 自分の事を理由に出されて、ハルシャは盛大に戸惑った。
 顔が真っ赤になる。
 慌てて、ジェイ・ゼルを見上げて言う。
「ジェイ・ゼル。私は、リュウジとの話し合いが終わってからでいい」
 囁くような声を、ジェイ・ゼルは、さらに身に引き寄せて、封じた。
「三時間後だ。リュウジ。それでは――気に入らないか」

 リュウジの眼が、ハルシャの肩に置かれた、ジェイ・ゼルの手を見つめている。
 音がしそうなほどぎこちなく、リュウジは視線を上げると、ジェイ・ゼルを正面からねめつけた。
「ハルシャとの話し合いに、僕も入りましょうか」
 深い藍色の瞳が、激しい光を帯びてジェイ・ゼルを見据えている。
「多分、ハルシャと僕の話は、同じだと思います」

 ぐっと、リュウジの見ている前で、肩がさらに引き寄せられた。
 困惑と羞恥が、身の内に広がる。
「すまないね。私が個人的に、ハルシャと話があるんだ――三時間後に、私の事務所で待っているよ。オオタキ・リュウジ」
「ジェイ・ゼル!」
 ハルシャは、抗議の声を上げた。
「今回、リュウジのお陰で……」
 つっと、ジェイ・ゼルの一本立てた人さし指が、ハルシャの唇に触れた。
「ここでは、何も言わない方がいい。駐車場とはいえ、ラグレン警察本庁の中だよ、ハルシャ」
 灰色の瞳が、優しく見下ろしている。
「リュウジも、そう思っているはずだ。彼は賢いからね」

 ハルシャは、リュウジへ顔を向けた。
 彼は、唇を軽く噛んで、ジェイ・ゼルを見上げている。
 微かに、その唇が、震えているような気がした。
「解かりました」
 歯の間から、絞り出すように、リュウジが言う。
「三時間後ですね」
 言い終えた後、彼は視線を落とし、眉を寄せた。
「リュウジ……」
 困惑した声が、自分の口から出る。
 その瞬間、リュウジは顔を上げて、ハルシャを見た。
 ふわっと、優しい笑みが、自分に向けられる。
「ジェイ・ゼルは、あなたとお話があるようです。行ってきて下さい、ハルシャ。僕なら大丈夫です」
 側に無言で佇んでいたヨシノさんへ、リュウジは一瞬視線を向ける。
「僕たちを心配して、ヨシノさんが迎えに来てくれましたから、彼と一緒に帰ります。ご安心ください」
 労わりに満ちた声が、ほころんだ彼の口からこぼれる。
「無実が証明されて、本当に良かったですね、ハルシャ」

 ハルシャは、一瞬、言葉を飲んだ。
「ありがとう、リュウジ。君のお陰だ」
 優しく、リュウジが微笑む。
 再び視線が落ちて、彼は何かを束の間、考えているようだった。
 ゆっくりと目を上げると、リュウジはジェイ・ゼルへ顔を向けた。
「その三時間後の話し合いに、ハルシャも同席してほしいのです。いいですか、ジェイ・ゼル」
 リュウジの申し出に、ジェイ・ゼルは瞬きを一つした。
「私と個人的に、話をしたいのでは、ないのかな」
 穏やかに、だが圧がこもった声で、ジェイ・ゼルがリュウジを見下ろしながら、言う。

 ぐっと、唇を噛んでから、リュウジは不敵とも思える笑みを浮かべた。
「ええ、そうです。だからこそ、同席してほしいのです」
 リュウジの目が、真っ直ぐにジェイ・ゼルを捉える。
「話は、ハルシャに関すること、です」

 ふと。
 ジェイ・ゼルの目に、警戒が滲んだ。
 口を開かず、彼はしばらく無言で、リュウジを見つめるだけだった。

 自分のことで、なぜか二人が険悪な雰囲気を醸し出していることに、ハルシャは慌てた。
 リュウジは、すぐに話をしたいのを、三時間後で譲ってくれた。
 ハルシャのために、彼は無限の忍耐を示してくれているような気がした。それに、少しでも報いたい。思いが、言葉になってこぼれる。
「解かった、リュウジ。話し合いに参加すれば良いんだな」
 違法な駆動機関部のことを、リュウジは話したいのだ。
 請け負ったのは自分だから、経緯の説明も兼ねて、同席を求めているのだと、理解する。
 難色を示すジェイ・ゼルにも、とりなすように、言葉をかけた。
「ジェイ・ゼル。私もリュウジとの話し合いに同席したい。お願いだ」

 灰色の瞳が、自分へ向けられた。
 懇願を浮かべたハルシャの顔を、ジェイ・ゼルはしばらく見つめていた。
「それを、君が望むなら。構わないよ、ハルシャ」
 妥協を示しながら、優しい声で、ジェイ・ゼルが言う。
 ほっと、ハルシャは息を吐いた。
 どうして、二人はこんなにケンカ腰で物を言うのだろう。
 言葉遣いは、互いにとても丁寧なのに、どうも理解できない。

 話はそこで終わったと、ジェイ・ゼルは理解したらしい。
「三時間後に、私の事務所で会おう」
 リュウジに言葉をかけると、ハルシャの肩を手の平で包んだまま、踵を返す。
 彼が向かう先に、黒い飛行車の姿があった。
「ええ。三時間後に。必ず、ハルシャを連れてきて下さい。ジェイ・ゼル」
 後ろから飛ぶリュウジの言葉に、ジェイ・ゼルは返事もせず、足も緩めなかった。
 ハルシャは、思わず、振り向いてリュウジへ顔を向けた。
 リュウジは笑みを浮かべて、微かにうなずいていた。
 気にしないでください、となだめるように。
 申し訳ない気持ちで、一杯になる。
「後で、リュウジ」
 かけたハルシャの声に、リュウジの笑みが深まる。
「はい、ハルシャ」
 優しい声だった。
 ぐっと、ジェイ・ゼルの手の力が強くなった。
 彼は無言で飛行車へ向かい、扉を手ずから開いて、ハルシャを座席へ送り込んだ。
 反対側に回り、ネルソンの開く場所から座席に腰を下ろしながら、
「『エリュシオン』へやってくれ」
 と、ジェイ・ゼルが扉を閉めるネルソンへ、言葉をかける。

 『エリュシオン』?
 ハルシャは、ジェイ・ゼルの横顔へ視線を注ぎ続けていた。
 くすっと、ジェイ・ゼルが笑ってから、穏やかな表情を、ハルシャへ向ける。
「その場所では、話し合いはできないか? ハルシャ」
 自分には、拒否権がないと、ハルシャは思い出す。
「場所は、どこでもいい」
 もやもやとしたものを、吐き出すように、ハルシャは呟いていた。
「ただ、話を聞いてほしい」
「解かっているよ、ハルシャ」
 ジェイ・ゼルは手を伸ばして、ハルシャの頬に触れた。
「恐い思いをさせてしまった。辛い時間だっただろう」
 優しい詫びの言葉だった。
「嫌なことを、されなかったか?」
 頬を、ジェイ・ゼルが撫でる。

 灰色の瞳が、労わりを込めて、自分を見つめている。
 警察に連行されるということが、どういうことなのかを、ジェイ・ゼルは身をもって知っているような気がした。
「大丈夫だ。すぐに、解放してもらえたから」
 彼を安心させようと、ハルシャは嘘をついた。
「そうか」
 頬を、指先が撫でつづける。
 彼は目を細めて呟いた。
「今、ガルガーに経緯を調べさせている。二度とこんなことがないようにするから、安心してくれ」
 警察から早く引き渡してもらえるように、ジェイ・ゼルは手を尽くしてくれたのだろう。
 ハルシャは、きゅっと唇を噛みしめた。
 シヴォルトの差し金だと、早くジェイ・ゼルに伝えたかった。
 ふわりと浮いた飛行車の中でなら、もう口に出しても良いだろうか。
 けれど。
 ジェイ・ゼルにだけ、伝えたほうが良いような気がした。
 スクナ人の使用は、帝国法で禁じられていることだ。
 ネルソンの耳に入れることを、ふとハルシャはためらった。
 自分の危惧を、ジェイ・ゼルはどう解釈したのか、頬に触れていた手を滑らせて、背中に回すと自分に引き寄せた。
「もう大丈夫だ、ハルシャ」
 腕に、包まれる。
 安心する温もりだった。
 強張らせていた身から力を抜き、ハルシャはジェイ・ゼルに体を預けた。

 恐かった。
 とても。
 ジェイ・ゼル。
 何が起こったのか、すぐに理解できなかった。

 言えなかった言葉が、身の内を巡る。

 問答無用でラグレン警察に、犯罪者だと決めつけられたことが、とても、辛かった。
 ヴィンドース家の人間として正しくあろうと、懸命にこれまで生きてきたつもりだった。
 なのに。
 彼らは犯罪者として、軽侮した目でねめつけながら、ハルシャ・ヴィンドースと自分の名を汚れたもののように口にした。
 それが、どうしようもなく悲しかった。

 ぎゅっと、ジェイ・ゼルの服を握りしめる。
 カタカタと小刻みに震える体を、彼は温もりでなだめてくれるように、腕に包み続けてくれていた。

「サーシャは、元気か」
 微かに震えるハルシャの身を抱きとめながら、ジェイ・ゼルが呟く。
「昨夜は、恐い夢を見ずに、良く眠れたのかな」
 話題を変えるように、彼は問いかけていた。
 ハルシャは、押しつけられた胸に、こくんとうなずく。
「メリーウェザ先生が、一晩医療院で預かってくれていた」
 その返事に、わずかに、ジェイ・ゼルが身を強張らせた。
「そうか」
 しばらくしてから、ジェイ・ゼルが口を開く。
「それは安心だったな。そうしたら昨夜《ゆうべ》は、メリーウェザ医師の所で、ハルシャも一緒に泊めてもらったのか」
 何気ない問いかけに、
「いや、リュウジと……」
 と、素直にハルシャは言いかけた。
 瞬間、ジェイ・ゼルの腕に力が籠った。
「昨日は、リュウジと二人きりで、一晩部屋で過ごしたのか――ハルシャ」
 妙に尖りのある声で、ジェイ・ゼルが訊ねてくる。

 はっと、ハルシャは顔を上げた。
 見上げたジェイ・ゼルは、虚空へ視線を向けていた。
 彼の灰色の瞳は、自分を映してはいない。表情は、ただ、静かだった。
 また、疑われているのだろうか。
 ハルシャは、誤解を解くべく、昨夜の状況を、懸命に説明した。
 ヨシノさんに夕食を奢ってもらい、そのまま自分は慣れないアルコールに酔って、眠ってしまった。リュウジも同様に、酔いを得たこと。
 酔い潰れてしまった二人に、ヨシノさんが気を利かせて、彼が泊っていたホテルへ連れて行って、宿泊させてくれた、と。
 経過は覚えていないが、ベッドで目覚めた時きちんと服を着ていたと、顔を赤らめながら付け加える。
 話しているうちに、ジェイ・ゼルの顔が動き、ハルシャへ視線が降りてくる。
 説明を終えた後も、ハルシャは彼の目を見上げつづけた。

 沈黙の後、ジェイ・ゼルが口を開いた。
「そうか」
 背中から浮かせた手で、彼はハルシャの髪を指で梳いた。
「ヨシノ君のお陰で、ハルシャはぐっすりと眠れたんだね」
 微笑みながら、顔を寄せると、髪に優しく唇が触れる。
「彼には、散財させた詫びを、私からも言っておこう」
 頬が、髪に押し当てられる。
「疑ってはいないからね。リュウジと君は、ただの友人だ。解かっているよ、ハルシャ」
 髪を優しく撫でながら、この前の謝罪を兼ねるように、ジェイ・ゼルが呟いていた。

 信じている。
 と。
 ジェイ・ゼルは言ってくれているのだろうか。

「せっかく良く眠れたのに、災難だったね、ハルシャ」
 労わりに満ちた言葉に、懸命に耐えていた何かが、ぷつんと切れそうになる。
「……ジェイ・ゼル」
 呟いて、ハルシャは彼の服に顔を埋めた。
 そうすると、爽やかな匂いが鼻孔をくすぐる。
 ジェイ・ゼルの、香りだった。
 身の震えが、止まらない。
 安心して恐怖を吐き出しながら、思考も危惧も止めて、ハルシャはジェイ・ゼルの温もりに、寄りかかった。
 『エリュシオン』に着くまで黙したまま、ジェイ・ゼルは腕の中に、ハルシャを包み続けてくれていた。


 *


「良かったのですか、竜司リュウジ様」
 ラグレン警察本庁を出て、オキュラ地域に向かうように指示してから、リュウジは窓の外へ目を向けたまま、沈黙を続けていた。
 吉野ヨシノの問いかけに、リュウジはわずかに眉を寄せた。
「ジェイ・ゼルの支配を、制止することは出来ない」
 窓へ向けて、リュウジは呟く。
「ハルシャはまだ、彼に借金で縛られている身だ。僕が止めても――ハルシャに辛い思いをさせるだけだ。だから」
 血が出るほどきつく、握り込んだ爪を手の平に食い込ませながら、冷静にリュウジは言葉を続ける。
「引くしかないだろう。今は、まだ」

 言葉を切った後、リュウジは唇を噛みしめた。
 自分の目の前で――ジェイ・ゼルは支配を示すように、ハルシャの肩を抱いて、連れ去った。
 三時間全てを、話し合いに費やすなどと、リュウジは考えていなかった。
 それでも。
 止める手立ては今の自分には、無かった。
 ハルシャの人生は、彼の支配下に置かれている。
 だが。
 それも後少しだ。
 三時間後には、ハルシャを自由にすることが出来る。
 ハルシャは工場で働くことに、やりがいを見出している。
 それを挫くつもりはなかった。
 警察が動かなければ、あと少し様子を見ようと思っていたが、今回の事件が、リュウジを激怒させた。
 忍耐も、もう、限界だ。
 悪辣な手段で、大切なハルシャを陥れようとする者がいる限り、あの工場で、彼を働かせるつもりはなかった。
 あんな職場に、一分たりと、ハルシャを置きたくない。
 激怒のあまり、視界が赤く染まっていきそうだ。
 息をついて心を整えながら、リュウジは続けた。
「それに、約束までの時間に、しておきたいこともある。確かめたいことも、いくつか」
 気を取り直したように、明るい声で、リュウジは吉野へ語りかける。
「三時間後――ジェイ・ゼルの事務所へ行く時には」
 静かに、リュウジは微笑んだ。
「ハルシャの借金の全額を、持っていこう」

 飛行車を見事に操りながら、吉野はうなずきで答える。
「了解いたしました、竜司リュウジ様。すぐ持ち出せる場所に、ご用意しております」
「うん、助かるよ。ありがとう、吉野ヨシノ

 リュウジは、再びラグレンの街へ目を向けた。
 夜明け前。
 ハルシャは、ジェイ・ゼルの名を呼んで、うなされていた。
 苦しそうに、辛そうに。
 もう。
 彼に悪夢を見させたくなかった。

「解き放って差し上げます。ハルシャ」
 小さく、独り言のようにリュウジは呟いていた。
「宇宙を飛ぶ、あなたの翼を……ジェイ・ゼルから」

 三時間後には、ハルシャを自由にすることが出来る。
 ジェイ・ゼルにとって、これが彼との最後の逢瀬になるだろう。
 そう思ったから、リュウジは譲ることにした。
 きつく、爪を喰い込ませながら、心に呟く。
 だから、譲ることが出来た。
 そうでなければ、ジェイ・ゼルの手から、問答無用でハルシャを奪い取っていただろう。

 ふっと、息をつく。
 ハルシャが自由になる代価を、ジェイ・ゼルの目の前に並べたとき――
 彼はどんな顔をするのだろう。
 生涯ハルシャの人生を縛れると、思い込んでいる傲慢な男。
 その瞬間が訪れるのを、細めた眼で、リュウジは考え続けていた。











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