誰かが、泣いている。
声も上げず、涙も流さずに。
ひどく寂しい背中が、こちらに向けられていた。
孤独の中に佇みながら、悲しみを身に湛えている。
ハルシャは、夢の中に、その人の名を呼んだ。
ジェイ・ゼル
彼は、振り向かなかった。
視線を伏せて、一人、孤独に耐え続けている。
ハルシャは、彼の傍へ行こうと、もがいた。
かつて、彼が腕に包みながら、大丈夫だよと言ってくれたように、自分の温もりで、彼の心を慰めたかった。
大丈夫だ、ジェイ・ゼル。私が側に居る。
耳元に呟いて、安堵させて上げたかった。
なのに、身体が泥のように重い。
進みたいのに、体が動かない。彼の元へと、たどり着けない。
ジェイ・ゼル!
呼びかけにも、彼は反応を示さない。
ただ、向けられた背中から、哀哭が伝わってくる。
誰にも触れられない場所に、彼は独り、立ち尽くしていた。
泣かないで、ジェイ・ゼル。
ハルシャは、もがきつづける。
彼の側に行こうとして、必死に足を動かそうとする。
……シャ
微かな声が、遠くから聞こえる。
自分の名を呼ぶ声が、優しく耳朶を打つ。
不意に、ジェイ・ゼルの姿が遠くなる。
ジェイ・ゼル!
「ハルシャ」
身を揺すられながら、名が呼ばれていた。
ハルシャは、ぼんやりと声の方向へ顔を向ける。
「大丈夫ですか、ハルシャ!」
気怠さをやり過ごしながら、向けた視線の先に、リュウジの心配そうな顔が、あった。
瞬きを、する。
自分をのぞき込んでいたリュウジが、瞳を開いたハルシャを見て、眉を寄せる。
「ひどくうなされていました。恐い夢を見たのですか?」
恐い夢?
いや。
悲しい夢だ。
ジェイ・ゼルが、泣いていた。
「すまない」
ハルシャは、まだ朦朧とする意識の中で、リュウジに言葉を返す。
「起こしてしまったか、リュウジ」
ぼんやりとした言葉に、リュウジが静かに微笑んだ。
「もう、起きる時間でした。ちょうど良かったです」
そうか。
ハルシャは、サーシャを迎えに、メリーウェザ医師のところへ行かねばと、頭を振りながら考える。
一晩、落ち着いて彼女は眠れただろうか。
身を起こそうとして、自分が真っ白な布団に眠っていることに、唐突に気付く。
がばっと、起き上がる。
どういうことだ。
ここは、自宅ではない。
リュウジの後に広がるのは、見たことのない部屋だった。
驚愕が、顔に浮かぶ。
「ここは、どこなんだ」
何が起こっているのか、一瞬、理解出来なかった。
昨夜、食事の後の記憶がない。
自分はてっきり、自宅で寝ていると思っていた。
「『アルティア・ホテル』の中です」
リュウジが、狼狽《うろた》えるハルシャをなだめるように、軽く肩に触れながら穏やかに告げる。
「僕とハルシャが酔い潰れてしまって、ヨシノさんがこの部屋を取って下さったようです」
ハルシャは、呆然と、リュウジを見つめた。
なんてことだ。
アルコールが弱いのに、自分は度を過ぎてしまい、手数をかけてしまったようだ。
「ヨ……ヨシノさんに、お詫びをしなければならない」
謝罪だけでは、すまされない。
食事だけなら、百歩譲ったとしても、ホテル代まで支払わせるわけにはいかない。別の動揺が、滲んでくる。
「ご迷惑をおかけした。ホテルの代金を、お支払いしなくては……」
布団を跳ね上げて、ハルシャは床に足を着いた。
「気にしないでくださいと、ヨシノさんが言っていらっしゃいました」
まだ、ハルシャの肩に手を置いたまま、リュウジが、言う。
「飲ませたのはこちらだから、僕たちが一晩ぐっすり眠れたら、それで良いと」
ハルシャは、信じられない気持ちで、リュウジを見ていた。
「どうして――」
内側の動揺が、顔に滲んでしまう。
「どうして、ヨシノさんが、そこまでする必要があるんだ」
あり得ない。
言いかけた言葉を飲み込む。
リュウジが、あまりにも優しく、自分を見つめていたからだった。
「ハルシャが」
瞳を交わしながら、彼は深く静かな言葉を、呟いてから、微笑んだ。
「僕を、何の見返りもなく助けてくれたことに、ヨシノさんは、とても感動されていました。お話しする機会があった時に、僕の事情を申し上げたのです」
笑みを深めて、彼は続ける。
「帝星には、『善行』という考え方があるそうです。善い行いをすると、巡り巡って自分に好いことが戻ってくる、面白い考え方ですね」
深い藍色の瞳が、ハルシャを包むように見つめていた。
「ヨシノさんは、ラグレンに兄妹二人で生きるハルシャたちのことを、とても心配されていました。
何も出来ないが、せめて惑星トルディアに滞在している間、ハルシャたちの役に立ちたいと、お考えになっているようです」
にこにこと、リュウジが笑う。
「結果としては、施してくれた善い行いは、ヨシノさん自身に戻ってくるのですから、ありがたく彼の好意を、受け取っておいてはいかがですか、ハルシャ?」
リュウジの言うことはもっともで、確かに説得力がある。
けれど、どう考えても、過分だった。
「リュウジの言っていることは解るが、礼には礼で報いるようにと、私は両親から教えられてきた」
ハルシャは、眉を寄せる。
「ヨシノさんには、サーシャと一緒にお礼を申し上げたい。そこから、自分たちに出来る何かを、させてほしいと思う」
懸命なハルシャの言葉に、一瞬口を開きかけてから、リュウジは自分を抑えるように口をつぐんだ。
そっと、肩に置いてあった手が、離れる。
リュウジは首を傾けて、優しく笑った。
「ハルシャは、律儀ですね」
ますます、眉が寄る。
そうだろうか。
むしろ、リュウジがどうしてヨシノさんからの施しを、ごく当たり前のように受けているのか。そちらの方が、ハルシャには気になった。
出会って数日だと言っていたが、リュウジはヨシノさんに、とても打ち解けた表情で接する。
やはり。
ハルシャは、眉間に皺を寄せたまま、考える。
帝星に暮らしていた頃の記憶が、リュウジの中にあるのかもしれない。
だから、同郷のヨシノさんに、親しみを覚えるのだろうか。
ふっと、不安が兆す。
このままヨシノさんの側に居たら、リュウジは記憶をはっきりと、取り戻す可能性がある。
ヨシノさんは、とてもきれいな帝国共通語を話す。
彼と接する時、リュウジも無意識のうちに、同じ言葉遣いになっている。
もし、はっきりと全てを思い出せば――
リュウジは本当の家族の元へ、帰ることになるのだろうか。
どきんと、心臓が重く打った。
今回、サーシャのことで、リュウジが側に居てくれて、本当に心強かった。
リュウジの存在に頼ることを、心が覚え始めている。
以前は当たり前だった、サーシャと二人の生活に、もう、戻れないような気がした。傍らで自分を支えてくれる笑顔がない中で、生きていくことに、心が耐えられそうになかった。
そんな風に思ってしまうぐらい、自分はリュウジが大切なのだ。
リュウジが記憶を取り戻せば、彼を失ってしまうかもしれない。
そこはかとない恐怖が、胸を締めあげる。
眉を寄せているハルシャが、ヨシノさんのことで、危惧を感じていると思ったのかもしれない。
「僕も、ヨシノさんにそれとなく、何かご希望がないか聞いておきますね」
優しく微笑みながら、リュウジがハルシャの顔をのぞき込む。
「そんなに、不安そうな顔をしないでください。ヨシノさんへのお礼は、何らかの形でお返ししましょう。僕も知恵を絞ります」
深く穏やかな藍色の瞳に包まれていると、ふっと、肩の力が抜けていく。
彼はずっと、自分の側に居てくれると、言ってくれた。
「ありがとう、リュウジ」
ハルシャは、微笑む彼に言葉をかける。
「ヨシノさんの好意は、好意として受けさせて頂いて、自分たちに出来るお返しを、改めて考えさせてもらおうと思う」
その言葉に、リュウジが穏やかに頭を揺らす。
「それで、十分だと思います。まだ、ヨシノさんはラグレンにご逗留のようなので、御礼の機会はいくらでもあるのではないでしょうか」
*
「お兄ちゃん!」
メリーウェザ医師の医療院へ入ると同時に、サーシャが走り寄り、ハルシャにかきついた。
「サーシャ」
妹の体を、ハルシャは腕に抱きとめた。
「良かった、元気そうで」
「うん。元気だよ。朝ご飯も、メリーウェザ先生と一緒に食べたよ」
「そうか」
妹の生きている温もりを腕で確かめながら、ハルシャは安堵が胸の内に広がって来た。
絶望に叩き落とされた、昨日のことが夢のようだ。
しばらくそうしてから、ハルシャは顔を背後に向ける。
そこには、朝、ホテルからこのオキュラ地域まで飛行車で送ってくれた、ヨシノさんの姿があった。
お礼を申し上げたいと、ハルシャが降りてきてもらっていたのだ。
「サーシャ」
ハルシャは、身を引きながら、妹に話しかける。
「サーシャを助けるために、ご尽力してくださった方を紹介しよう」
身を伸ばして、サーシャの手を取りながら、医療院の入り口に佇む、ヨシノさんのところへ妹を誘う。
「ヨシノさんだ。帝星からお見えになっている。リュウジが知り合いになった方だよ」
黒髪の青年に向き合った時、サーシャはわずかに、ハルシャの影に隠れるようなしぐさをした。
サーシャは、少し、人見知りだった。
「ヨシノさんは、知人のマイルズ警部に協力を求めて下さったんだ。そのお陰で、サーシャを救い出すことができたんだよ」
ハルシャの説明を聞いて、こくんとサーシャが頭を揺らした。
ヨシノさんは、穏やかな笑みを浮かべて、金色の巻き毛の少女へ、視線を向けている。
緊張しながら、妹はヨシノさんに向き合う。
「はじめまして、サーシャ・ヴィンドースです」
兄の手をぎゅっと握りながら、サーシャはぺこりと礼をした。
「命を助けて下さって、ありがとうございます。本当に、感謝の言葉もありません」
顔を真っ赤にしながら、身を起こして、サーシャは
「ご迷惑をおかけいたしました。今後は、こんなことが無いように、気を付けます」
と、詫びのように告げている。
「今回は、事故のようなものだ。気にしなくても大丈夫だよ、サーシャちゃん」
ヨシノさんは、深みのある声で、穏やかに言った。
「君が、無事でなによりだ。少しでも、お役に立てて良かったと思っている。こちらも好きでしたことだ。今回のことを、負担には感じないでくれないか」
最後の言葉は、ハルシャに向かって言ったようだった。
「ありがとうございます、ヨシノさん」
ハルシャは、サーシャに代わって、礼を述べた。
足音を立てながら、メリーウェザ医師がゆっくりと、近づいてくる。
「お揃いで」
ふふと、笑いながら、彼女はハルシャへ視線を向ける。
「元気そうでなによりだ、ハルシャ。リュウジはきちんと、面倒をみてくれたようだね」
瞬きをするハルシャの耳に、
「もちろんです、ドルディスタ・メリーウェザ。医師の言い付けは、きちんと守らなくてはなりませんから」
と、生真面目なリュウジの声が響く。
メリーウェザ医師は、優しく微笑んだ。
「見ての通り、サーシャも元気いっぱいだよ」
サーシャの側に近づき、彼女は、そっと金色の髪のを撫でる。
「夢も見ずに、ぐっすりと眠れたそうだ。な、サーシャ」
「はい、メリーウェザ先生」
嬉しそうに、サーシャが医師を見上げている。
良かった。
心の傷が一番心配だったが、ほとんど意識を失った状態だったために、思ったほどサーシャはダメージを受けていないようだ。
「ダーシュ校長とも相談したんだが、今日は学校を休ませて、私のところで一日預かるよ」
優しくサーシャの髪を撫でながら、メリーウェザ医師が言葉をこぼす。
「ハルシャたちは、今日も仕事に行くのだろう?」
そのつもりだった。
うなずいたハルシャに、メリーウェザ医師の笑みが深まる。
「なら、安心して仕事をしておいで。私が責任を持って、サーシャを預かっていてあげるからね」
眼差しの優しさに、ハルシャはふっと、心が温かくなるのを、感じた。
厳しく辛く、屈辱に満ちた生活の連続だった。
オキュラ地域で、自分たちしか頼りに出来なかった。
歯を食いしばって、走り続けて来た五年間。
その五年の間に、いつの間にか、自分たちの周りには、見守ってくれている人たちが居てくれたのだ。
メリーウェザ医師は、家族として自分たちを大切にしてくれている。
押し付けることなく、自由意志を奪うことなく、黙って静かに見守ってくれていた。
「ありがとう、メリーウェザ先生」
ハルシャの言葉に微笑むと、くしゃと、サーシャの髪を一撫でしてから、メリーウェザ医師は、彼女の手を取った。
「さあさあ、お兄ちゃんとリュウジは、これから仕事だ。元気に見送ってあげよう。今日も一日、無事に仕事が終わるように、な」
その言葉通り、明るい見送りを受けて、ハルシャたちはヨシノさんの飛行車で、オキュラ地域を離れた。
バスで行くと言ったハルシャの言葉を封じて、ヨシノさんはリュウジと自分を、職場の工場まで送ってくれると言ったのだ。
自分たちが働く職場の場所を、覚えておきたいというのが、彼の言だった。
リュウジのとりなしもあって、ハルシャは申し訳ない気持ちになりながら、飛行車へ乗り込んでいた。
ここまで、見ず知らずの他人に甘えて良いのだろうか。
ハルシャの思いなど素知らぬ風に、リュウジは屈託なくヨシノさんと話をしている。
「ラグレンは、夜明けが素晴らしいんですよ。郊外に出ると、余計な光がなくて、暁の空がとても奇麗です」
まるで故郷を自慢するように、リュウジが言う。
ふと。
最初に彼を路上で見つけた時、旅人である彼に、惑星トルディアに悪印象を抱いてほしくないと考えたことを、思い出す。
リュウジと出会ったのは、随分昔のような気がする。
もう、彼が居なかった頃のことが、思い出せないほど、リュウジは自分たちの生活に深く関わってくれていた。
それは、素晴らしい。ぜひ一度見てみたいと、ヨシノさんが返事をする。
話題が移り変わっていく。
サーシャのことになった。
彼女は料理がとても上手だと、リュウジがこれもまた、自慢するように言う。
それなら、その手料理を味わってみたいと、ヨシノさんが言う。
聞いたリュウジの眼が、きらきらと煌めいた。
ハルシャへ顔を向けながら、小声で提案をしてくる。
「どうでしょう、ハルシャ。サーシャの手料理を召し上がって頂くために、ヨシノさんを家へご招待するというのは」
ハルシャは、慌てた。
相手は、帝星から来た人だ。いくら身内びいきでリュウジが、サーシャの料理を高く評価していても、素人の手遊びだ。
とても、ヨシノさんの舌を満足させることなど出来ない。
それに、三人で一杯になる部屋に、客人を招くことなど、ハルシャは思いもよらないことだった。
リュウジを傷つけないように、気を付けながら、ハルシャはやんわりと断りを言う。
「サーシャが緊張して、上手く出来ないかもしれない。正式に習ったこともない十一歳の子の我流の料理では、かえってご迷惑をおかけすると思う」
リュウジは眉を寄せた。
「そうですか。僕は良いと思うのですが、ハルシャがそう考えるのなら、止めておきましょうか」
リュウジは、あっさり譲ってくれたようだ。
ほっと、ハルシャは息をつく。
リュウジは行動力があるので、思いついたことをドンドン実行に移す。
ハルシャが彼の考えを理解する前に、もう、リュウジは一歩を踏み出していることが多い。
ヨシノさんとの会話に、リュウジが戻る。
その弾む会話に耳を澄ましているうちに、工場が見えてきだした。
「ヨシノさん」
座席から身を乗り出すようにして、リュウジが言う。
「あそこが、僕たちが勤めている工場です……」
ふと、リュウジの語尾が消える。
沈黙の後、彼は眉を寄せていった。
「今日はやけに、門の前に飛行車がいますね」
注意を促すリュウジの言葉に、ハルシャも視線を向ける。
はっと、界下を凝視する。
門の前に、飛行車が数台、横づけになっている。
その車体の横に、『ラグレン警察』の文字を認めた時、ハルシャは嫌な予感がした。
「ラグレン警察の飛行車だ」
ハルシャは、虚空に呟いていた。
「どうして、警察が……」
何か、事件でもあったのだろうか。
盗難は、ラグレンでは日常的な犯罪だ。
「警察、ですか」
リュウジが、やや硬い声で言う。
彼は、眉を寄せて何かを考えている。
「ヨシノさん」
顔を上げると、リュウジが思わぬ鋭い声を運転するヨシノさんに放っていた。
「マイルズ警部たちは、まだ、ホテルでしょうか」
「恐らく、そうだと思うよ。リュウジくん」
間髪入れない答えに、リュウジは頭を揺らした。
「なら、警部たちを、この工場へすぐにお呼びしてください。
嫌な感じがします」
リュウジは目を、ハルシャへ向けた。
「当たって欲しくない予感ですが――ハルシャ。あなたが担当していた、駆動機関部のことで、警察が来ているような気がして、なりません」
駆動機関部。
あの。
スクナ人を使った駆動機関部のこと、だろうか。
「シヴォルトが、今回のサーシャ誘拐事件に関わっていたと知った時から、もしかしたら、と思っていたのです。
ハルシャ。あの特殊な駆動機関部は、シヴォルトがあなたを陥れるために、わざわざ受注したものかもしれません」
ハルシャは、恐らく茫然とリュウジを見つめていたのだろう。
彼は眉を寄せたまま、優しく微笑んだ。
「大丈夫です。ハルシャのことは、僕が守ります」
ひどく力強い言葉だった。
前で運転をしながら、ヨシノさんが通話装置で連絡を取ってくれていたようだ。
「マイルズ警部は、すぐに来て下さるそうだ。一本道だから、迷うことはないと思う」
「ありがとうございます、ヨシノさん」
ハルシャを見つめたまま、リュウジが礼を言う。
「ラグレン警察が何か不当なことで、ねじ込んできても、大丈夫です。銀河帝国民は、帝国法で保護されています。僕たちは、法の下に平等です」
不思議な、安心感が胸の奥に広がる。
「警部の到着を待ってから、私たちは工場へ行った方が安全かな。リュウジくん」
ヨシノさんが、リュウジに話しかける。
「そうですね。問答無用で拘束される可能性があります。この近辺で、マイルズ警部をお待ちしましょう」
言葉を受けて、ヨシノさんが飛行車の道を逸れ、静かに工場から離れた場所に、飛行車を下ろした。
リュウジの全身から、ぴりっとしたものが漂う。
「このタイミングで、来ましたか……」
小さく、リュウジが独り言のように呟いている。
あの設計図を見た瞬間から、リュウジは誰かの悪意を疑っていた。
だが。
まさか。
「事務所へ泥棒が入ったのかもしれない」
ハルシャは、一応言ってみた。
自分が手掛けていた設計図が違法だと、誰かが警察に通報したと考えるより、よほどそちらの方が、考えられる。
くすっと、リュウジが笑った。
「ジェイ・ゼル所有の工場へ、誰が好き好んで泥棒に入るのですか、ハルシャ」
リュウジはジェイ・ゼルのことを口にするとき、信じられないほど目つきが鋭くなる。
「そんな、命知らずの者は、恐らくラグレン界隈には居ないでしょう」
吐き捨てるように、リュウジが言う。
居心地の悪い沈黙が、言い放ったリュウジの言葉の後、続いた。
「ラグレン警察が、介入してきたのは」
長い静寂の後、リュウジが口を開いた。
「ジェイ・ゼルに不利益にならない、範疇で、だと思いますよ」
いつも、優しく包むようなリュウジの瞳が、冷たい光を帯びている。
ハルシャは、リュウジの眼差しを受け止めながら、痛みと共に理解する。
リュウジは、ジェイ・ゼルのことが――嫌いなのだ。
誰を好もうと、その人の自由だ。だが、ハルシャはなぜか、リュウジの頑なな態度に、傷ついていた。
ジェイ・ゼルのことを、穢れたものであるように取り扱う、リュウジの言動が、心を削る。
二人とも大切だと思うだけに、余計辛かった。
沈黙するハルシャに、リュウジは表情を和らげた。
「そうですね。ハルシャの設計図だけが、警察が来た原因とは、限りませんね」
譲歩するように、言ってからリュウジは顔を前に向けた。
「もうすぐ、マイルズ警部もお見えになりますね。ヨシノさん。申し訳ありませんが、そろそろ工場へ行って頂いてもいいでしょうか。
先に様子を見ておきましょう。
もし、僕の勘違いで、ハルシャの設計図は何も関係なければ、マイルズ警部たちに、無駄足を踏ませることになりますから」
了解した、と深い声で答えてから、リュウジの意図を汲み取るように、ふわりとヨシノさんは飛行車を浮かせた。
彼は、とても運転が上手だ。
小さな工場がみるみる近づいていく。
近づくにつれて、ラグレン警察の飛行車の点灯する非常灯の光がはっきりと見え出した。
警察車両は五台も前に停められていた。
ヨシノさんは、工場の側にふわりと飛行車をつけた。
「私も一緒に行こう」
車から降りながら、ヨシノさんが言う。
「マイルズ警部との、連絡のこともある」
「助かります」
リュウジは手放しで、彼の協力を歓迎していた。
派手な非常灯をひらめかす、警察車両の横を抜けて、ハルシャはリュウジと並んで、工場へと入っていった。
入り口で、警察官三人に囲まれた、ガルガー工場長の姿があった。
彼は、入って来た自分たちに気付いた。
さっと、表情が変わる。
「赤毛の青年が、ハルシャ・ヴィンドースです」
ガルガー工場長が、警察官たちに、ハルシャを見ながら告げている。
傍らのリュウジの表情が変わった。
笑みを消し、真っ直ぐに警察官を見ている。
体格のいい警察官たちは、ハルシャへ視線を向けると、ガルガー工場長の横を離れてゆっくりとこちらへ向かってきた。
「ハルシャ・ヴィンドースだな」
近づきながら、警察官の一人が口を開く。
「違法な駆動機関部を作成していると、通報があった」
上から決めつけるような物言いだった。
鋭い視線が、ハルシャを射る。
「話を聞かせてもらいたい。ラグレン警察本庁まで、同行願えるかな」