※文章中に、大変暴力的な表現、および流血表現を含みます。苦手な方は、ご注意ください。(ジェイ・ゼルが結構ひどいです。どうか、苦手な方は、パスして下さい)
ギランジュが、言葉の意味を理解する前に、彼の肩を押さえていたジェイ・ゼルの部下が動いた。
強い力でギランジュの左の手首が掴まれる。
左手が、ギリギリと上に持ち上げられ、そのまま、手の平を開いて、机の上に押し付けられた。
何が起こっているのか、彼ははっきりと理解できていないようだった。
手を机から引きはがそうと、もがくが、力の強さが違う。
場慣れしている部下たちは、要領よく、仕事を運んでいく。
ジェイ・ゼルの意図を察して、マシューが折り畳み式のナイフを、手渡してくれた。
ナイフの刃を丁寧に立てるジェイ・ゼルに、驚愕の目をギランジュが向ける。
「そのナイフを、どうする気だ」
震える声で、ギランジュが問いかける。
ジェイ・ゼルは、真っ直ぐに彼を見た。
「私たちが――『ダイモン』だと知って、喧嘩を売ったのだろう。その結果だよ」
ナイフの柄を握り込みながら、低めた声で、ジェイ・ゼルは呟く。
「署名するのに、左手は、必要ないな。ギランジュ」
ジェイ・ゼルは、握り込んだナイフを、そのままギランジュの手の甲に突き立てた。
きちんと、骨の間を抜いている。
瞬間、恐ろしいほどの叫びが、ギランジュの口から上がった。
こういうことのために、部屋の机は木製を選んでいる。ナイフの刃が、ちゃんと刺さるためだ。
ナイフで左手を机の上に留めたまま、ジェイ・ゼルは叫ぶギランジュに、そっと優しく言葉をかける。
「大丈夫だ、ギランジュ。右手はまだ、動くよ」
椅子を引いて、ジェイ・ゼルは立ち上がった。
涙を流してわめくギランジュの声を聞きながら、彼が弾き飛ばした筆記具の元へ行き、わざと時間をかけて、拾う。
席に戻り、痛みに呻くギランジュの右手を掴んだ。
「署名をしてくれるかな。ギランジュ」
その右の手の中に、筆記具を握らせる。
「あまり時間がかかると、君の左手首を、動かさなくてはならなくなる。ほら、こちらに刃があるだろう。この方向へ向けて、君の手首を動かしたらどうなると思う?」
ジェイ・ゼルが左手に触れると、びくっと、ギランジュの全身が震えた。
彼は、ガクガクと、身を震わせている。
机の上に、血溜まりが広がっていく。ジェイ・ゼルはギランジュの血を除けて、書類を机の上に置いた。
「君がお利口に署名出来たら、ナイフを抜いて、手当てをしてあげよう」
笑みを消してから初めて、ジェイ・ゼルはゆっくりと口角を引いて笑いを形作った。
「あまり時間がかかるなら、他の場所も、必要ないと見なしてしまうかもしれないよ。私たちは、あまり待たされるのが、得意では、なくてね」
その言葉が、単なる脅しではないと、ギランジュは気付いた。
愚かだ。
彼は、自分たち『ダイモン』を敵に回して、無傷で逃げられると思っていたのだ。
その愚かしさのつけを、これから支払うことになる。
じっと、ジェイ・ゼルは、ギランジュの様子を見つめ続けた。
彼は、命と財産を秤にかけて、心を決めたようだ。
生きていれば、何とかなると思ったらしい。
震えながら、ギランジュが書面に顔を向けた。
涙と鼻水で汚れた顔を歪めながら、彼はもう一度書かれた文言を読んでいる。
悔しげに顔を歪め、彼は痙攣するように、時々びくびくと動く右手をなだめながら、ジェイ・ゼルが渡した筆記具で、自分の名を、一切をイズル・ザヒルに譲渡するという書面に、記した。
「こ、これで、いいのか」
震える声で、ギランジュ・ロアが、言う。
にこっと、ジェイ・ゼルは微笑む。
「きちんと名前が書けたね」
筆記具を受け取ろうとした時、不意にギランジュが握り込んでジェイ・ゼルを、刺そうとした。
一矢報いようとしたのかもしれない。
その動きは、ジェイ・ゼルに刺さる一瞬前に、手首を握られ止められていた。
ライサム・ゾーンだった。
彼はギランジュ・ロアの動きを読んでいたのかもしれない。筆記具の尖った先で、刺されかけたジェイ・ゼルの腕は、ほんのわずかな差で、無傷を保った。
ライサム・ゾーンは、ギランジュの手首を捩じるようにして、筆記具を手から落とす。
その時に、身が浮き上がり、ナイフに刺さっていた左手により深く刃先が斬りつけた。
断末魔のような悲鳴が、ギランジュの口から上がった。
「ばかなことを、するからだ」
ギランジュの耳元で、ライサムが囁く。
「まだ、客のつもりらしいが……お前は許容を越えた」
ドロッとした粘性のある言葉が、ライサムの口から滴り落ちる。
「お前は、
静かな笑みが、ライサム・ゾーンの口元に浮かんだ。
それは、死神の微笑みを思わせた。
「いい悲鳴をお前は上げる。『遊戯』に供せば、皆が喜ぶだろう」
深く腹の底から響くような声に、ギランジュは悲鳴を飲み込んだ。
「署名を……すれば、助けるのでは……なかったのか」
切れ切れな言葉に、ライサムが微笑む。
「ジェイ・ゼルが約束した通り」
彼は、手を伸ばして、左手に突き刺さるナイフの柄を持った。
「ナイフを抜き、手当てをしてやろう」
眉一つ動かさずに、彼はナイフを抜き去った。
新しい叫びが、ギランジュの口からほとばしり出る。
「その後で、お前を『アイギッド』に連れて行く。知っているか、ギランジュ」
穏やかな声が、ギランジュのわめく声の間から、静かに響く。
「『アイギッド』で最も人気のある『遊戯』を――」
彼は目を細めて呟いた。
「それは、人体を、生きながら解剖していくショーだ。お前の悲鳴は、さぞかし客を満足させるだろう」
「や、やめろ」
ガクガクと、ギランジュの身が震え出す。
ふっと、ライサム・ゾーンは笑みを消した。
「お前は
凍るような声で、彼は告げる。
「その罪を……自らの命で贖うのだな。ギランジュ・ロア」
無造作に、ライサムはギランジュの喉を片手で絞めた。
気管を見事に押さえ込んでいる。
あれをされると、数秒で意識が飛ぶ。
意識を失い、かつ命を奪わない絶妙のタイミングで、ライサム・ゾーンはギランジュの喉から手を離した。
重い物体のように、ギランジュの体が崩れた。
「『アイギッド』に運び込めるように、してくれ」
手を引きながら、ライサムは言う。
「すぐ、処理いたします」
ジェイ・ゼルは、彼にギランジュの署名のある書類を手渡した。
「お待たせして、申し訳ありません。ライサム様」
彼は無言で、書類を受け取り、床に置いていた鞄に、丁寧に戻した。
「ジェイ・ゼル」
彼が名を呼びながら、自分を見つめた。
「お前の部屋を貸してくれ」
それは、二人で話し合いたいと言うことだった。
「承知いたしました」
ジェイ・ゼルは、ギランジュの手の止血と、猿轡をさせることを指示してから、ライサムを伴って、部屋を出た。
別の部屋の前で、見張りに立つ部下へ、ライサムが視線を向けている。
そこには、シヴォルトとローン・ダナドスが入れてあった。
ジェイ・ゼルは、二人のことには触れずに、ライサムを案内していく。
事務室を人払いして、部屋に二人きりになる。
ソファーに案内したが、彼は断った。
腕を組んで、部屋の中に無言で佇んでいる。
しばらくそうしてから、彼は、ゆっくりと口を開いた。
「ハルシャ・ヴィンドースは、お前にとって、危険な存在だな」
思いもかけない言葉だった。
ライサム・ゾーンは、長いダークブロンドの髪を、ゆっくりと掻き揚げた。
「お前が、あれほど暴力的な行為に及んだのを、俺は初めて見た。お前らしくないな」
さらさらと、緩やかにウェーブをする髪が、彼の手櫛で流れていく。
表情を消したまま、ライサム・ゾーンが問いかける。
「それほど、ハルシャ・ヴィンドースに手を出そうとしたことに、腹が立ったのか」
穏やかな問いだった。
ジェイ・ゼルは、すぐに答えられなかった。
ライサム・ゾーンは、静かにジェイ・ゼルを見守っていた。
黙した後、ジェイ・ゼルはやっと口を開いた。
出た言葉は、言い訳めいていた。
「
ふっと、ライサム・ゾーンは口角を上げて、笑みを浮かべた。
時折ジェイ・ゼルと二人だけの時にみせる、人間味にあふれた表情だった。
「では。そういうことに、しておこうか。ジェイ・ゼル」
瞳にこもる温もりに、ジェイ・ゼルは胸が痛んだ。
彼は――
ジェイ・ゼル自身を忌避しているわけでは、ないのだ。
ただ。
彼がこの世で憎みぬいている父親、ナダル・ダハットの持ち物だった自分の存在が、父親の影をちらつかせるから、避けているだけなのだ。
ライサム・ゾーン自身も、それをよく解っている。
父親の影を憎むことが、自分の弱さであることも――彼は良く、知っていた。
ライサム・ゾーンは、父親を厭うあまり、自分の血を残したくないとさえ、考えていた。
ナダル・ダハットの血脈は自分で途絶えさせる。
それが、ライサムに出来る、父親への復讐の一つだった。
憎んでも憎み切れないほど、ナダル・ダハットは、ライサムを痛めつけたのだ。
それは、自分にとっても同じだった。
同じ痛みを知る者同士の、そこはかとない共感が、時折二人の間を、漂う。
癒えない傷のように、記憶が心を蝕んでいく。
ストイックに誰も身に寄せずに、彼は生きていた。
彼にとって、イズル・ザヒルの命令に従うのが、人生の全てだった。
ライサム・ゾーンと自分は、似ている。
と。
ジェイ・ゼルは思っていた。
静かに、目を細めて思いを滴らせる。
そう。
五年前。
ハルシャ・ヴィンドースに出会う前までは。
「お前のためには」
不意に、ライサム・ゾーンが呟いた。
「ギランジュと一緒に、ハルシャ・ヴィンドースを『アイギッド』に連れて行ったほうが、いいのだろうな」
心臓が、止まりそうになった。
目を見開いたジェイ・ゼルの顔を見つめてから、ライサムが言葉を続けた。
「実際、この話を
全ての原因である、ハルシャ・ヴィンドースをこのまま、お前の側に放置するのは、危険すぎる。早急に処置する必要があるのではないか、と」
時間が、凍り付く。
動きを止めるジェイ・ゼルの耳に、静かなライサム・ゾーンの声が響く。
「だが、
そんなことをしたら、ジェイ・ゼルは生きていないよ、と」
やっと、視線を上げる。
「そうなると、エメラーダが嘆く。私に、エメラーダが泣くようなことを、させないでくれないか、と」
豊かなダークブロンドの髪を、ゆっくりと、ライサム・ゾーンが額から、掻き揚げる。
「ジェイ・ゼル。今のお前があるのは、イズル・ザヒル様が特別の恩寵を、お前たち兄妹に与えて下さっているお陰だ。
そのことを――」
黒い瞳が、ジェイ・ゼルを見つめる。
「片時も、忘れるな」
ふっと息を吐くと、彼は鞄を抱え直した。
「ギランジュの他にも、今回の事件に関わった者がいたな――シヴォルトと、ローン・ダナドスと言ったかな」
ジェイ・ゼルは、瞬きをした。
「はい。ライサム様」
ゆっくりと、ライサムは歩き出した。
「その二人も『アイギッド』に連れて行く。用意をしてくれ」
「ですが、ライサム様!」
思わず、ジェイ・ゼルは叫んでいた。
歩きかけた足を止めて、鋭くライサムが振り向いた。
「どうした。嫌か? ジェイ・ゼル」
無言の強制が籠る声だった。
ギランジュ・ロアはそういう約束を、
だが。
だがしかし。
シヴォルトとローンは、自分の部下だった。
「彼らの始末は、こちらで致します。どうか、ライサム様」
懇願が声に混じらないように、ジェイ・ゼルは必死に抑えながら、言葉を続ける。
「ご心配なさらないように。これ以上|
「ギランジュがしゃしゃり出て来たところで、十分迷惑をかけている」
冷たい口調で、ライサムが言い切る。
「ジェイ・ゼル。お前は身内に甘い。部下を切り捨てることが出来ないだろう――
二人の身柄は、俺が預かっていく」
ライサム・ゾーンは目を細めた。
「『遊戯』は、毎晩行われる。人数が多いに、越したことはない」
彼は前に顔を戻すと、歩き出した。
「たとえ身内でも、裏切り者は始末する――それが『ダイモン』の掟だ」
最後通知だった。
ジェイ・ゼルは、視線を伏せた。
自分の油断と浅慮が、彼らの暴走を招いた。
部下を裏切りに走らせ、その身を破滅に導いたのは自分だ。
原因を作りながら、彼らを、守ることすら、出来ない。
苦い思いを抱きながら、ジェイ・ゼルは歩き出したライサム・ゾーンの背に従った。