ほしのくさり

第127話  苦い思い-01





 深夜を過ぎても、『外界ヴォード』からラグレンへ入る車両は、衰える気配を見せない。
 ジェイ・ゼルは、ヴォーデン・ゲートの来訪者用《ヴィジター》スペースで、実質上『ダイモン』のナンバー2の立場にある、ライサム・ゾーンを待ち続けていた。

 ヴォーデン・ゲートの賑わいは、夜を昼のように変えていた。
 定期航路のバスや貨物車の明るいライトが、三重の関門の間を明るく照らし、星々が寄せ集められたように華やかだった。
 ライサム・ゾーンはもう最終エリアの向こうに居る。
 彼の運転手をしている、シオン・ゲイルから、連絡が入っていたのだ。

 受けたマシューが、やや緊張した顔でジェイ・ゼルに教えてくれる。
 そうか、もう少しだね、と、ジェイ・ゼルは穏やかにマシューの身の強張りを解くように話しかける。
 無礼な態度を示せば、ライサム・ゾーンは問答無用で相手を始末すると皆は思っているようだ。
 それほど非常識な人間ではないのだが、彼の硬質な雰囲気がそう思わせるらしい。
 微笑みを浮かべたまま、ジェイ・ゼルは視線を前に戻す。
 ラグレンの夜は冷える。
 夜用のコートをまとったジェイ・ゼルは、光輝を放つヴォーデン・ゲートの最終エリアの入り口を見つめ続けていた。


 ライサム・ゾーン。
 『冷血コールド・ブラッド』と二つ名で呼ばれる彼が、先代の頭領ケファルナダル・ダハットの実子であることを、知るものは少ない。
 ゾーンは、母方の姓だった。
 かつてイズル・ザヒルが先代の頭領ケファルを謀殺した時、実の息子であるライサム・ディオン・ダハットは、大きな功績を上げた。
 彼が居なければ、用心深いナダル・ダハットを殺すことが出来なかった、と、断言していいほどだった。
 ライサムは、父親を憎みぬいていた。
 その父親を殺してくれたイズル・ザヒルに、彼は永遠の忠誠を誓っている。
 イズル・ザヒルから命じられるどんな汚れ仕事も、眉一つ動かさずに、彼はこなしてきた。
 『遊戯』の大きい部分を、ライサム・ゾーンは仕切り、常に客を満足させてきている。
 ジェイ・ゼルは、視線を一瞬、伏せた。
 彼はまた――自分の過去の姿を知る、数少ない人間の一人でもあった。


 光が、最終エリアの開いた壁から、溢れて来た。
 ジェイ・ゼルは、落としていた視線を静かに上げた。
 惑星ガイアのホタルという昆虫のように、光の筋が、開け放たれた巨大な壁の向こうから、それぞれの方向へとふわっと散っていく。
 ジェイ・ゼルは、身を立てた。
 あの光の一つに、『冷血コールド・ブラッドのライサム』がいる。
 そう思うだけで、輝く光が禍々しいものに見えてくるほどだ。

 浄化装置付きの飛行車の一つが、明らかにこちらを目指して飛んでくる。

 来た。

 言葉にならない言葉が、皆の内に広がるのを感じる。
 ジェイ・ゼルの見守る前に、ふわっと飛行車が停まる。
 運転しているのは、シオンだった。彼も、ネルソンに負けず劣らず、運転技術が高い。ギランジュが逃走した時のために、彼をわざわざ、バルキサス宇宙空港へ派遣していたのだ。先見の明があったと、マシューが自分に賛辞を与えてくれた。
 ジェイ・ゼルが動く前に、マシュー・フェルズがさっと、到着した飛行車の扉を開けた。
 中から、ゆっくりと、長身の男が現れた。

 ダークブロンドの癖のある髪が、彼の動きにつれてゆらりと揺れた。
 腰まである長い髪をラグレンの風になびかせながら、ライサム・ゾーンは車から足を下ろし、大地に降り立った。
 動きのない、仮面のような顔がジェイ・ゼルを見つめる。
 左頬に古い刀傷がある。
 彼はにこりともせずに、ジェイ・ゼルに言葉をかけた。
「出迎え、ご苦労」

 深みのある声だった。
 やはり。
 実父のナダル・ダハットの声に似ていると、ジェイ・ゼルは心の内側に呟いていた。
年齢を重ねるごとに、彼はどことなく父親に似ていく。
 それを、何よりも、ライサムは嫌っていた。
 母親譲りの濃い色の髪を長く伸ばすのも、父親との差別化を図るためなのだろう。

 ジェイ・ゼルは、静かに、ライサム・ゾーンに礼を取った。
「私の不徳のために、ご足労をおかけいたしました、ライサム様」
 黒い、底知れない闇のような瞳が、ジェイ・ゼルを見つめている。
 彼は微かに眉を寄せた。
「無駄話はいい」
 ゆっくりとライサム・ゾーンが歩き始めた。
「ギランジュ・ロアのところへ、早く連れて行け」

 彼は、頭領ケファルからの命を受け、すぐさま出てくれたのだろう。
 普段着のままの緩やかな服をまとっている。
 艶のある豊かな髪に縁どられた顔は、『冷血』という呼び名に相応しく、ほとんど表情らしいものが無かった。
 実際、彼は眉一つ動かさずに、相手の喉首を掻き切ることがことが出来る。
 愛想よく『アイギッド』を見回るイズル・ザヒルの側に、ライサム・ゾーンはいつも影のように従っていた。
 頭領ケファルが命令を下せば、彼は何のためらいもなく、相手を屠る。
 誰よりも卓越した技術を持っているために、彼は護衛を必要としなかった。
 今も、単身『アイギッド』から来てくれたようだ。
 そして、驚くほど荷物が少ない。
 脇に抱えている薄い鞄一つだけだ。
 どうやら、用事を終えたらすぐさま惑星トルディアを去るつもりのようだ。長居する気はさらさらないように思える。

「どうぞ。私の飛行車でご案内いたします」
 ジェイ・ゼルは丁寧に礼を取り、ライサム・ゾーンを、ネルソンが控えている自分の黒い飛行車へ案内した。
 彼を乗せてから、反対側から乗り込む。
 道中、話さなくてはならないことが、たくさんあった。
「事務所へ向かってくれるか、ネルソン」
 声掛けに、
「はい、ジェイ・ゼル様」
 と、大人しくネルソンが応え、ふわりと車体が浮いた。

頭領ケファルはお怒りだ」
 動き出した途端、ライサム・ゾーンが口を開いた。
「安心しろ。お前にではない――ギランジュ・ロアにだ」
 前に目を据えたまま、彼は脇に抱えていた鞄を、片手でジェイ・ゼルに差し出した。
「これに、署名をさせる。こいつと、ギランジュの身柄を引き受けて俺は、『アイギッド』に帰る。今日の遊戯に、間に合わせたい。急げ」

「了解いたしました。ライサム様」
 淡々と告げる言葉にうなずいてから、前に突き出された鞄を、ジェイ・ゼルは受け取った。
「中身を、拝見します」
 一言いうと、ライサムは手を離した。
 鞄は薄かった。
 中から出てきたのは、譲渡の書類だった。
 目を通すジェイ・ゼルの横で、ライサム・ゾーンが静かに呟いた。
頭領ケファルは、ギランジュが所有する一切の権利の譲渡をお望みだ」

 ジェイ・ゼルは目を細めた。
 書類は、バルキサス宇宙空港に留め置いている、ギランジュの宇宙船、そして、彼の所有する事業も工場も、私宅も全て――イズル・ザヒル名義への変更を了承すると書かれていた。
 内容を理解すると、ジェイ・ゼルは丁寧に鞄に戻し、ライサム・ゾーンに返却した。

「了解いたしました」

 自分の仕事は、この書類をギランジュに署名させよということだ。
 銀河帝国の公式の書面だ。
 ギランジュ・ロアが自筆でサインすれば、法的な拘束力が発生する。
 日付より後で、彼の死亡が確認されれば譲渡は完成する。
 実に、抜け目のない方法だ。

 受け取りながら、一瞬、ライサム・ゾーンの眼が、ジェイ・ゼルを射るようにみた。
「お前は、頭領ケファルの顔に、泥を塗った――俺が、ギランジュ・ロアを見せしめに『遊戯』に出したところで、相殺できないほど大きな泥だ」

 しん、と。
 車内が静まった。
 ライサムの黒い瞳が、ジェイ・ゼルを捉え続ける。

 長い沈黙の後、ライサム・ゾーンが口を開いた。
「だが、頭領ケファルは、お前の過ちは不問に付すと、おっしゃっている。ギランジュを抑えられなかったこちらが、悪いのだと」
 ふっと、彼は視線を逸らして、前を見た。
「イズル・ザヒル様の、心の広さに救われたな」

 再び沈黙が続いた後、ジェイ・ゼルは口を開いた。
「また、改めまして、頭領ケファルには、ご挨拶に伺います。そう、お伝えください」
 前を向いたまま、ライサム・ゾーンは呟いた。
「お伝えしよう」

 腕を組んでしばらく考えてから、ライサムは口を開いた。
「事件は解決したようだが――何があった。ここで話せ。ジェイ・ゼル」
 一連の出来事の詳細を、彼はジェイ・ゼルに尋ねてきた。
 ギランジュ・ロアが異常にハルシャに執着していることを、ライサムは知っている。

 事の次第を少し端折りながら、ギランジュ・ロアの企みに、自分の部下のローン・ダナドスとシヴォルトが結託して協力したことを、ジェイ・ゼルは、淡々と話す。
 ハルシャ・ヴィンドースの友人のオオタキ・リュウジという青年が、帝星から別件で来ていた、汎銀河帝国警察機構の警部と知り合いで、彼らの協力を得て、サーシャ・ヴィンドースを救出できたことも、包み隠さずに、伝える。
 どんなに誤魔化そうとしても、イズル・ザヒルは真実をすぐさま察知する。
 下手に策を弄して偽りを伝えるより、真実を告げる方が得策だと、ジェイ・ゼルは学んでいた。

「やけに手際が良いと思ったら、帝星の奴らが噛んでいたのか」
 表情を動かさずに、ライサム・ゾーンが、呟く。
「何者だ、オオタキ・リュウジとは。帝星の警察となぜ、知り合いなんだ」

 やはり。
 目の付け所が違うと、ジェイ・ゼルは心の内に呟いた。
 ハルシャが自分に伝えたことは、真実なのだろう。オキュラ地域の路上で、行倒れの彼を拾い、その青年が記憶を失っていたというのは。
 だが。
 ジェイ・ゼルが独自に調べた、ラグレンの旅行者の中に、オオタキ・リュウジという名は無かった。
 名前が違うのか、旅行者ではないのか。
 記憶を失っているという言葉を信じるのならば、名前自体があやふやな可能性がある。
 それでも、リュウジという名に、彼はしっかりと反応していた。
 だとすれば、彼の本来の名前も、リュウジだったと考えられる。
 名前が一致する人物すら、ここ数ヶ月、惑星トルディアを訪れていなかった。
 思慮深く、不思議な瞳をした青年の素性が、ジェイ・ゼル自身も、まだ掴み切れていないというのが、現実だった。

「オオタキ・リュウジは旅行者で、ラグレンに滞在しているようです。彼が偶然に知り合ったヨシノという青年の知人が、偶々、汎銀河帝国警察機構の警部だったようです」
 ハルシャから聞いた情報だけを、ライサム・ゾーンに伝える。
 彼は、すぐに言葉を返さなかった。
「その警部」
 冷徹に言葉が呟かれる。
「お前を探っているのではないか」
 顔はそのままで、黒い眼だけが、ジェイ・ゼルへ向けられた。
「まんまと、寄生虫を、体内に取り込んだということはないのか、ジェイ・ゼル」

 危険性は、感じていた。
 だから、ディー・マイルズ警部の宿泊場所を訊ねておいた。
 もし嘘を吐いているのなら、後ろ暗いところがあるのだろうと。
 だが、マシューに調べさせたところ、彼らは本当に『アルティア・ホテル』に泊まっていた。
 落ち着いたら、彼らの動向も探らせるつもりはしていた。

「可能性は、否定できません」
 肯定するジェイ・ゼルの言葉に、ライサムは目を元に戻した。
「これ以上、頭領ケファルを煩わせるなよ」
 静かな声が、目を細めた男から漏れる。
「最善を尽くします」
 応えたジェイ・ゼルに、ライサム・ゾーンは何も言わなかった。

 ジェイ・ゼルは、その沈黙に目を細めていた。
 彼は――自分の過去を知っている。
 そのことで。
 自分のことを、忌み嫌っていた。
 彼が敬愛して止まない頭領ケファルイズル・ザヒルが、エメラーダの兄として自分を重用しているから、表面上付き合っているに過ぎない。
 今も、同じ空間に居るのが、苦痛で仕方がないのだろう。
 イズル・ザヒルに対する忠義のために、この時間を耐えているに過ぎない。
 それを、ジェイ・ゼルに感じさせまいと、彼なりに努力を続けている。
 だが。
 本能的な嫌悪というのは、どうしようもないものだ。
 それは、妹のエメラーダに対しても同じだった。だから――エメラーダを同伴する場所では、ライサム・ゾーンは護衛を別の人間に譲っていた。
 彼は遠巻きに、イズル・ザヒルを警護することで、満足するに留めているようだった。
 それが全て解りながら――ジェイ・ゼルは、イズル・ザヒルの申し出をありがたく受けた。
 自分の懐刀を派遣してくれるということは、本気でジェイ・ゼルのことを、心配しているからに他ならないからだった。

 沈黙の内に、ネルソンが操る飛行車は、事務所へとたどり着いた。
 待っていた部下の一人が、素早く扉に取りつき、ライサムの前に大きく開いた。
 彼は無言で、ジェイ・ゼルの事務所の前に降り立った。
 ジェイ・ゼルは、反対側から降りると、優雅な動作で彼の前に回り、
「ご案内します。ライサム様」
 と、先導して歩き始めた。
 一足先についていたマシュー・フェルズが、側へ近づいてくる。
 ジェイ・ゼルは、指を挙げて、彼を近くへ呼んだ。

「筆記具を用意してくれないか」
 ジェイ・ゼルは、マシュー・フェルズに告げる。
「ギランジュ・ロアに署名してもらうものがある」
 それだけで、正式な譲渡書を書かせるつもりだと、賢明な会計係は気付いたようだ。
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
 と、マシューが事務所に走っていく。
「慌ただしくて、申し訳ありません」
 詫びを告げながら、ジェイ・ゼルは地下へと、ライサム・ゾーンを案内していった。大人しく自分の背に従う男に、部下たちは驚異の眼を向けている。
 彼らはライサムの噂を知っていた。
 礼を失しないように、最大限の注意を払っているようだ。


 地下では、扉の前で武装した部下が、見張っていた。
「ギランジュに、会いに来たよ。開けてくれるかな」
 いつもと変わらないジェイ・ゼルの口調に、はい、ジェイ・ゼル様と言葉を告げながら、扉に張り付いていた見張りが、ギランジュの部屋の鍵を開けた。

 ギランジュは、暴行の痕の残る顔を、ゆっくりと上げて、部屋に入って来た自分たちに、虚ろな目を向けた。
 彼は椅子に縛り付けられて、素直に計画を話すまで、部下たちの手によって相応に痛めつけられていた。
 苦痛に顔を歪めながら、ジェイ・ゼルを見上げる。
 その後ろに佇む、ライサム・ゾーンに気付き、彼の顔に生気が戻った。

「ライサムじゃないか!」
 救いを求めるように、彼は声を絞った。
「お前の部下は、俺にひどいことをしやがった。客である、俺にだ!」
 訴えるように、ギランジュ・ロアは顔の痣を、ライサムに見せつける。
「金はいくらでも払うと言ったのに、俺を不当に拘束している」
 涙目になりながら、ギランジュは滔々と、窮状を訴え続けた。
「ハルシャ・ヴィンドースを渡さないどころか、こんな暴行を加えやがった。俺を自由にしてくれ、イズル・ザヒルにも、そう言ってくれないか……あんたなら、話が分かるだろう、ライサム・ゾーン。元々、ハルシャは、イズル・ザヒルの所有物のはずだ。こいつが、俺にこんなことをする義理はないはずなんだ!」

 どうやら、味方が来たと思ったらしい。
 ジェイ・ゼルに向かって、キイキイと怒鳴りたてる。
 相手にせずに、ジェイ・ゼルは机を挟んで向かい合う位置にある椅子を引いて、そこに腰を下ろした。

「金は、いくらでも払うと、そう言ったね。ギランジュ・ロア」
 穏やかな口調で、ジェイ・ゼルは語りかける。
「それは、丁度いい申し出だ。頭領ケファルイズル・ザヒル様は、今回の不祥事をお怒りだ」
 ジェイ・ゼルが、ライサム・ゾーンに顔を向けると、彼は鞄に入れていた書類を、するりと抜き取り、手渡した。
 恭しく両手で受け取ってから、ジェイ・ゼルは書類を掲げで、椅子に縛り付けらているギランジュに、良く見えるようにした。
「これに、署名してくれるかな。ギランジュ」
 にこっと、ジェイ・ゼルは微笑む。
「なら、君の願いが叶うだろう」

 ギランジュ・ロアは、生粋の商売人だった。彼は署名付きの書類が、帝国法で守られることを、知っていた。
 丹念に読み込むうちに、顔が青ざめはじめた。
「こ、こいつは」
 声が震えている。
「俺の財産の、全てだ」
 ジェイ・ゼルは、笑みを深めた。
「そうだね。他に隠し財産がある場合も、頭領ケファルイズル・ザヒル様に無条件で譲渡するとなっている」
 条文を、ジェイ・ゼルは、指で示す。
「安心するといい。『ダイモン』の調査機関は、優秀だ。君が隠したものぐらい、すぐに見つけ出す」
「ふざけるな!」
 吠えかからんばかりにして、ギランジュ・ロアが叫ぶ。
「誰が、こんな無茶苦茶な条件の譲渡状に署名などするか!」

 吠えたてるギランジュを、ジェイ・ゼルは静かに見つめていた。
「解っていないようだね、ギランジュ」
 彼が散々悪口を述べ立て終えるのを待ってから、ゆっくりとジェイ・ゼルは口を開いた。
「君に、選択肢はないのだよ。ギランジュ・ロア」
 灰色の瞳が、ギランジュを見据える。
「警告をしておいたはずだ。ハルシャに手を出すというのは、私の頭領ケファルに対して、叛意を示すと同じことだと。
 親切のつもりだったのだがね――君は、鼻であざ笑った。
 私はね、ギランジュ。頭領が侮られて、黙っていられるほど、温和ではないのだよ」
 にこっと、ジェイ・ゼルは微笑む。
「手が縛られたままでは、署名が出来ないね」
 ギランジュの左右を固める部下に、穏やかな声でジェイ・ゼルは告げた。
「すまないが、手を自由にしてあげてくれないか」
 ジェイ・ゼルの言葉に、促されるように、部下が服からナイフを取り出し、ギランジュの手首のロープを切り取った。
 だが、まだ胴と足は椅子に縛られたままで、肩を部下が押さえつけている。
 ギランジュは、手を前に回して、手首の痛みを宥めるように、唇を噛み締めながら、手を撫でている。
「ジェイ・ゼル様」
 マシューが後ろからそっと、署名用の筆記具を渡してくれた。
「ああ、ありがとう。マシュー」
 彼に微笑みを与える。
「ちょうど、今からギランジュ・ロアに署名をしてもらうところだ。いいタイミングだよ」
 筆記具を受け取ると、ジェイ・ゼルは、ギランジュに差し出した。
「簡単な作業だよ。名前を書くだけだ」
 彼に持ちやすいようにして、前に出す。
 ぎりっと歯を食いしばると、ギランジュは前に出された筆記具を、自由になった手で、払い落した。
「誰が、署名など、するものか!」
 筆記具が宙を飛び、乾いた音を立てて、床に落ちた。

 静寂の後、ジェイ・ゼルは、ふっと笑った。
「出来れば、穏便に事を進めようと思ったが、協力して頂けないのなら、仕方がない」
 ゆっくりと、笑みを消して、ジェイ・ゼルは静かに、ギランジュを見つめた。
「君の利き手は、右だったね」
 低い声が、部屋に響く。








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