長い沈黙の後、マイルズ警部は口を開いた。
「ジェイ・ゼルは、ハルシャ・ヴィンドースを、手離さない」
静かな声だった。
「イズル・ザヒルからもかばうほど、ジェイ・ゼルはあの子に入れ上げている。
坊がいくら引き離そうとしても、あの男が相手では難しいな。
見ただろう、坊。ジェイ・ゼルがハルシャは自分の情人だと宣言した時の目を」
静かな声が、部屋に響いた。
「あれは、恋に狂った男の眼だ」
リュウジは、返事をしなかった。
「借金が終われば、二人の関係は解消します」
静寂の後、リュウジは静かに呟いた。
「もう、方策は立てています」
ふっと、マイルズ警部が笑みをこぼした。
「そう思うのは、早計かもしれないぞ。坊」
思いもかけない言葉に、リュウジはハンカチを目から外して、警部へ視線を向けた。
彼は痛みをこらえるような、静かな笑みを浮かべていた。
「借金が終われば……何の規制もなく、ただの、人と人として、向き合えるようになる。ごく普通の恋人同士のように、な」
ヘイゼルの静かな瞳がリュウジを見つめていた。
「そこから、本当の二人の関係が始まるかもしれないぞ。坊」
まさか。
言葉にならない言葉を、リュウジは瞳に湛えて、警部を見返す。
警部は立てた親指で、額をかりかりと掻いてから、つと視線を逸らした。
「坊は信じたくないかもしれないが……ハルシャ・ヴィンドースも、ジェイ・ゼルのことが好きだな。
顔を見ていれば解る。
人はな、肌が馴染むと心も馴染んでいく。そういうものだよ。坊」
目を逸らしたまま、警部が呟く。
「ハルシャ・ヴィンドース兄妹の借金を肩代わりしてあげても、坊が望むような結果になるとは、限らない。それを、俺は心配しているんだがな」
思わぬ優しさに満ちた言葉だった。
瞳から驚愕を消して、リュウジは静かな表情になった。
「それでも」
虚空へ向けて、マイルズ警部が呟く。
「坊は、ラグレンでヴィンドース兄妹と一緒に暮らすつもりか? 借金で縛られた関係でなく、恋人としてジェイ・ゼルを選んだハルシャ・ヴィンドースのそばに」
言葉を切ると、彼は悲しむような顔を、リュウジに向けた。
「坊は、家族のふりをして、居続けることが出来るのか」
残酷なことを言っていると、マイルズ警部は知っている。
解りながら言ってくれている。
リュウジ自身のために。
嫌な役を、一人で背負ってくれている。
「当のハルシャは、坊の気持ちには、まだ気付いていないのだろう」
ぽつんと、警部が呟いた。
ひどく労りに満ちた声で。
リュウジは、穏やかに微笑んだ。
「警部」
強い瞳で、爛れた世界を正視し続けてきた、マイルズ警部のヘイゼルの眼を見返す。
「仰っている言葉の意味が、僕にはよく理解出来ません」
しばらく無言で、二人は見つめ合っていた。
先に折れたのは、マイルズ警部だった。
「そうか。解らないか」
くっくと、喉の奥で笑う。
「何があっても、ハルシャの側に居たいんだな。解ったよ、坊」
譲るように、彼は前屈みだった身をゆっくりと引き、背もたれに預けながら微笑みを浮かべる。
「ハルシャ・ヴィンドースが、この世で一番、大切なんだな」
そうだ。
ハルシャがジェイ・ゼルを選んでも、彼が望んだことなら、それは、それで良い。
たぶん。
そんな覚悟が、自分にはあるような気がした。
嫌なのは。
ハルシャに選択の余地がないことだ。
宇宙を飛ぶことが出来る翼を、解き放ってあげたい。
天から舞い降りた先が、もしもジェイ・ゼルだとしても、それが、ハルシャが幸せになる道ならば。
きっと――
自分は辛抱できる。
家族で居られればいい。
悲しいほどに、リュウジはそのことをひたむきに願っていた。
「帝星から、連絡があった」
口をつぐんでいた警部が、不意に話し始めた。
「ダルシャ・ヴィンドースの借金の理由が、解った。
やはり、彼は惑星トルディアの偽水を、飲用水にするための装置の開発のために、急遽巨額の資金が必要になったようだ。
最初彼は、資金の援助を銀行に求めたそうだ。だが、銀行はダルシャの新規事業に対して懐疑的だった。
もし、装置が上手く働かず、偽水が飲用水にならなければ、資金の回収が出来ない。これまで誰も偽水を飲み水に出来なかった。それが、急に出来るとは、にわかに信じがたいと思慮深く考えたようだ。
ろ過装置も同時に開発したいと思っていたダルシャ・ヴィンドースに声をかけてきたのが、イズル・ザヒルだ。
彼は子飼いのジェイ・ゼルを使いにやって、話をさせている。
惑星トルディアを救いたいという、高邁な精神に感動したと、言葉を尽くして、彼の事業を後押しする形で、資金援助を申し出たようだ。
その時、一年後には、返却できるとダルシャ・ヴィンドースは話していたようだ。当時借用したのは一三五万ヴォゼル。その資金を得て、偽水濾過のさらなる濾過の方法と、大規模な工場を立てるために機械の設計が行われた。
機械の発注を行い、資金の投資をした直後に――ダルシャ・ヴィンドース夫妻は爆破によって、命を奪われた」
淡々と、マイルズ警部は言葉を続ける。
リュウジはちらっと、眠るハルシャへ視線を向けた。
このことを、今、彼が聞いていたらどんな反応をするだろうと、考える。
深く眠るハルシャの側で、酷い事実が、警部の口からこぼれ続ける。
「発注を受けていた会社は、きちんと中間報告を、ダルシャ・ヴィンドースに行おうとした。その時に、ダルシャ夫妻の死を、ラグレン政府から告げられたようだ。請け負った機械の製造元は、恐慌を来したそうだ。
もう開発を続け、完成のめどの立っていた機械なのに、肝心の注文主が死亡している。それなら、ということで、彼の遺産を相続した人に、そのまま機械を引き渡したいと、申し出たそうだ。
だが、ラグレン政府は、にべもなく言ったそうだ。
そもそも、偽水を飲用水にする許可は、政府から降りていない。ダルシャ・ヴィンドースが勝手にしてたことで、そのような機械を惑星トルディアに持ってきてもらっても困る。
ダルシャ・ヴィンドースは死亡し、彼の遺産は散逸した。
もう引き取り手のない機械だから、そちらで自由に処分して欲しい、と、木で鼻をくくったような返事と共に、通信が切れたそうだ」
リュウジは目を細めた。
ジェイ・ゼルたちは、正当な相続者であるハルシャに、事業を継がせずに彼の両手から全ての権利を奪い去った。
「帝星で、ダルシャ・ヴィンドースの機械を請け負った製造元は、とても困ったそうだ。だが、注文を受け、代金も受け取っている。だから――彼らは資金の続く限り、機械の精度を上げて、ダルシャ・ヴィンドースの志を具現するべく、密かに努力を続けていたようだ。
結果、ダルシャ・ヴィンドースが願ったような機械は、一年前に完成している。引き取り手のないものだが――彼らはそれでも、大切に倉庫に保管していた。
いつか、ダルシャ・ヴィンドースの相続者が必要としてくれるだろうと、信じてな」
リュウジは目を上げた。
「機械は、完成しているのですか」
「ああ。サンプルにダルシャ・ヴィンドースが運び込んでいた偽水で試したところ、完璧に飲用に適する水になったそうだ」
リュウジは考え込んだ。
「ラグレン政府が、偽水を飲用水にする許可は与えていないと、言ったのですか」
「ああ。前に言ったことが、濃厚になってきたな。ラグレン政府が、ダルシャ・ヴィンドース夫妻が邪魔になって、始末したという、あの説だ」
リュウジは眉を寄せて、考え込む。
「偽水のことは、ハルシャは一言も言っていませんでした。もしかしたら、政府からの圧力を、ダルシャ・ヴィンドースは密かに感じていたのかもしれませんね。
息子にすら、簡単に話せなかった可能性があります。
そのために、わざわざ、惑星トルディアから遠い、帝星で開発を行わせたかもしれません」
「そうだな。圧力が元々あったと考えると、つじつまが合う。銀行が軒並み、ダルシャ・ヴィンドースの新規事業への資金援助を断ったのも、もしかしたら、裏工作があったのかもしれないという気がしてくる。だとしたら、圧力をかけ、資金を援助できないようにしながら、まるで救世主のように現れたイズル・ザヒルも――」
目を細めて、マイルズ警部が呟く。
「今回の事件に一枚噛んでいる可能性は、大いにあるな」
じっと、リュウジは思案に沈んでいた。
「もしかして……あまり不用意にダルシャ・ヴィンドース夫妻の事件を探ってしまったら」
ゆっくりと、顔を上げて、呟きを続ける。
「ハルシャたちが、政府から目をつけられる、という可能性は、ないでしょうか」
マイルズ警部が腕を組んだ。
「政府がらみで不正が行われ、ヴィンドース夫妻が謀殺されたのだとしたら」
呟きが虚空に向けて、放たれる。
「ハルシャ・ヴィンドースが、政府にとって煙たい存在であるのは、確かだな。成人した彼が、父親の死の真相に気付き、政府に歯向かってくることを、ラグレン政府は恐れていると、俺は思う」
ふっと、笑って首をかしげる。
「そのための監視役が、ジェイ・ゼルじゃないのか?」
薄々感じていたことだ。
ジェイ・ゼルは、あまりにもハルシャの人生を支配している。
わずかの自由すら許さないように、仕事も私生活も全てを監視下に置いているような気がしていた。
もしそれが、イズル・ザヒルからの指示だとしたら。
ハルシャは、死ぬまで飼い殺しにされる予定なのだ。
そんな相手を――
ハルシャは、信頼に満ちた目で、見上げているというのか。
リュウジの怒りを感じ取ったのか
「坊。これは全て、俺の推測だ。真実とは限らない。そう怒るな」
と、マイルズ警部がなだめるように、呟いた。
リュウジは必死に息をして、怒りを収める。
「すいません、警部」
予想に反して、彼は優しく微笑んでいた。
「そんなに感情を露わにする坊を見ることが出来るなんて、はるばる惑星トルディアまで、来てみるもんだな……」
何かを自分の中に落とし込むように、しばらく沈黙してから、マイルズ警部は口を開いた。
「今のラグレン独立政府の執政官《コンスル》は、レズリー・ケイマンという男だ。年は四五歳と若いが、したたかでやり手の政治家だ。
こいつが裏で、色々工作をしている可能性がある。恐らく、イズル・ザヒルとも、がっちり手を組んでいるだろう。互いの目的が一致すると、こういう輩の絆は深くなるからな」
ふっと、リュウジが笑った。
「なるほど。やるのなら、ラグレン政府に斬り込まなくてはならないということですね」
「おい、坊。俺たちはここへ、戦争をするために来たんじゃないぞ」
「もちろんです。警部。不当に苦しんでいる者たちを、法の下に解放していただき、悪事を裁いていただくために、はるばるお越しいただいたのです。戦争なんて起こす気はありません」
にこっと、リュウジは微笑む。
「ですが、腐った木は、すみやかに切り倒さないと、風通しが悪く、周囲の健全な木々が育たないそうです」
穏やかに、リュウジは続ける。
「しかも厄介なことに、腐った木は中々自らは倒れない。しぶといらしいです。だから、人の手が必要になるのですね、マイルズ警部」
ふふっと、警部は微笑む。
「坊は、林業にも詳しいんだな」
息を一つすると、マイルズ警部は立ち上がった。
「明日からは、坊から依頼されていた仕事に戻るよ」
「ありがとうございます、警部」
「どこへ転がり落ちるか解らないが――上司には話を通してある。もし、スクナ人が発見され次第、問答無用でしょっぴく手筈になっている。
まあ、政府が保持していたら、相応の処罰は覚悟してもらわなくてはな」
「マイルズ警部なら、きっと発見してくださいます」
笑いながら、警部は歩き出した。
「俺たちが動いたら、ハルシャ・ヴィンドースの周りも、騒がしくなるかもしれない。気を付けてやってくれ、坊」
「もちろんです。ご忠告ありがとうございます」
リュウジも立ち上がり、警部を送り出してから、扉をロックした。
ゆっくりと、ハルシャの眠るベッドへと、戻ってくる。
薬が効いているのか、彼は前後不覚に眠っている。
ベッドの端に腰を下ろし、リュウジはハルシャの寝顔を見つめた。
その瞬間、ハルシャの左の腕にはめられている、通話装置が震え出した。
はっと、リュウジは腰を浮かせる。
ジェイ・ゼルからだ。
リュウジは眉を寄せた。
そっと指を伸ばして、ハルシャの左手首に触れた。
バンドの大きさを調整する場所を、手探りで押す。正しい場所に触ったらしい。ぱっと、通話装置のバンドが大きく開いた。
震える通話装置を、そっとリュウジはハルシャの腕から、外した。
指につまんで持ち上げながら、白い通話装置を見つめる。
マスターと表示が出ている。
そのまま、リュウジは通話装置を手に、立ち尽くす。
かなり執拗に振動してから、通話装置はぴたりと止まった。
それを確かめてから、リュウジはハルシャの腕に通話装置を戻した。
先ほどの場所を押して、ハルシャの腕に添わせる。
眠るハルシャは、何も気づいていない。
横向けになり、すやすやと、穏やかな寝息を漏らしている。
リュウジは目を細めて見つめてから、彼の布団をそっと直した。
「おやすみなさい、ハルシャ。よい夢を」
呟きだけを与えてから、リュウジは踵を返した。
服はそのままに、ハルシャの隣のベッドに潜り込む。
正直、リュウジも疲労困憊だった。もし、自分たちの危惧が当たっているとしたら、ハルシャが政府関係者によって不当に扱われないように、目を光らせておく必要がある。
体力を蓄えようと、灯りを落として、目を閉じた。
静寂に、ハルシャの寝息が聞こえてくる。
愛しい命のたてる響きに、じっと耳を澄ます。
穏やかな音に心を宥められながら、リュウジもいつしか、眠りに落ち込んでいった。
*
ジェイ・ゼルは、通話装置に耳を押し当てて、呼び出し音に耳を傾けていた。
十回以上呼んでも、応答がない。
もう、眠っているかもしれない。
考えながらも、なお、鳴らし続ける。
二十回以上呼び出してから、ジェイ・ゼルは通話装置を静かに切った。
これほど呼んでも、出ないということは、もうハルシャは眠っているのだろう。
彼の眠りは、とても深い。
サーシャは、大丈夫だったか。ハルシャは、くたびれていないか。明日は仕事に行くつもりなのか。
会話を色々考えながら、ハルシャへと連絡を入れた。
様子を確かめたかった、というのは、二の次だ。
本当は――
彼の声が聞きたかった。
ふっと、自分自身の衝動に笑いを浮かべる。
次の行動に移るまでの、ほんの一瞬の間隙に、自分はハルシャへ連絡を入れようとしていた。
微笑みを浮かべたまま、ジェイ・ゼルは通話装置を、服へ戻す。
「ジェイ・ゼル様」
マシュー・フェルズが改まった様子で、事務室へ入って来た。
「まもなく、バルキサス宇宙空港へライサム・ゾーン様がお着きになるそうです」
「解った」
ジェイ・ゼルは立ち上がる。
「お出迎えは、宇宙空港でギランジュの宇宙船を見張っていた、シオンたちが参ります」
「なら、私たちは、ヴォーデン・ゲートでお迎えしようか。ご足労頂いて、本当に申し訳ない」
「ライサム・ゾーン様のご宿泊には、『エリュシオン』をお取りいたしております」
「さすが、マシューだね」
笑みをこぼしながら、ジェイ・ゼルは歩き出す。
イズル・ザヒルが送り出してくれた、彼の腹心。
「
緊張に、自分の部下たちはピリピリしていた。
自分でもそうだ。
彼を出迎える前に、一瞬でも、ハルシャの声が聞きたいと思うほど、やはり身構えているらしい。
そんな自分自身に、ふと笑みを浮かべながら、ジェイ・ゼルはマシューが開けてくれている扉に向けて、一歩を踏み出した。