ほしのくさり

第13話  目覚め-02





 ハルシャは、息を飲んで、目を開く青年を、見守り続けた。
 最初に出会った時と同じ、ぼんやりした目で、彼は天井へ視線を向けている。
 まだ、状況がよく解っていないようだ。
 薄い霧が前にかかっているように、彼は虚ろな目で、虚空を仰ぐ。

 ハルシャは腰を浮かせて、静かに彼の側に行った。
 医療用ベッドの端に手をかけて、上から、青年の顔を見下ろす。
 自分の視界に入って来た人物へ、青年が目を向けた。
 無言で、見つめ合う。
 ハルシャは、
「気分はどうだ」
 と、穏やかに問いかけた。
 ぱちぱちと、数度、青年が瞬きをする。
 青年の目は――黒かった。深い色の瞳が、ハルシャを見つめる。
「あなたは?」
 完璧な銀河帝国公用語で、青年が問いかける。
「ハルシャ・ヴィンドースだ」
 自分の名は、彼に何の感慨も引き起こさなかったようだ。
 数度、彼は瞬きをした。

 まだ、意識がはっきりとはしていないようだ。
 怯えさせないように、口調に気を付けながら、ハルシャは彼の現状を語る。
「ここは、惑星トルディアの都心ラグレンにある、オキュラ地域の、医療院だ」
 ゆっくりと、明確に発音しながら、ハルシャは続ける。
「君は、路上に倒れていた」
 穏やかに、ハルシャは一番訊きたかったことを、質問をする。
「君の名前を、教えてくれないか?」

 問いかけに対して、奇妙な沈黙が広がった。
 青年が首を傾げる。
「名前?」
 聞きなれない言葉を耳にしたように、ハルシャの発音した言葉を、そのまま青年が口にする。
 ふっと、何か不安なものが、ハルシャの胸に沸き起こった。
 すんなりと返されるはずの質問だった。
 だが今、青年はひどく戸惑ったように、ハルシャを見つめている。
 まだ、起き抜けで混乱しているのかもしれない。
 思い直すと、ハルシャは質問の形を変えて、もう一度問いかけた。

「そう、名前だ。俺は君を、何と呼べばいい?」
 質問の形が功を奏したらしい。反射的に
「リュウジ」
 と、彼は呟いた。
「リュウジというのか?」
 まだ、無意識のように、青年の口が言葉を紡ぐ。
「リュウジ――オオタキ・リュウジ」

 オオタキ・リュウジ。
 それが彼の名前らしい。

 やっと手に入れた情報に、ほっとハルシャは安堵する。
「オオタキ・リュウジ。それが、君の名前なんだな」
 そうだ、という返事を期待していたハルシャに、青年が困ったように再び首を傾げる。
 心許なげに、ハルシャを見つめている。
 まさか。
 ハルシャの中に、言葉が響く。
「覚えていないのか?」
 青年が微かに首を振る。
 わからないと、訴えるように。
「あなたが、何と呼べばいいと聞かれた瞬間、口から出ただけで――わからないんだ、名前というものが」
 ふるふると、首を振りながら、青年がハルシャを見つめる。
「僕は、どうして、ここにいるんだろう――わからないんだ、自分が誰なのか」

 ハルシャは絶句して、途方に暮れたような黒髪の青年の顔を見守る。
「記憶が、ないのか?」
 呻くように漏らした問いかけに、少し沈黙してから、彼ははっきりとした困惑を目に浮かべて、うなずいた。
「わからない、何も――」

 ハルシャは、沈黙した。
 
 メリーウェザ医師は、脳には何の損傷もないと、言っていた。
 脳の器質的には、何の問題もない。
 ただ。
 彼は性的な暴行を受けている。
 そのことに、彼の心は耐えきれなかったのかもしれない。
 身に起こったことを、彼は記憶の中から、削除してしまったのだ。


 戸惑う彼に、
「君を治療してくれた、医師を呼んでくる。少し待っていてくれ」
 と、ハルシャは告げて、踵を返した。
 顔が青ざめていく。
 彼は、記憶を失っている。
 途方に暮れた子どものように、ハルシャを見つめていた眼差しの強さが、胸を打つ。
 身の限界を超えた暴行に、彼は自分の心を守るために、記憶を封印してしまったのかもしれない。
 それほど、辛い目に遭ったという事実に、ハルシャは苦しさに息が出来なくなった。
 ハルシャも、記憶を失いたいほどの苦痛を知っている。
 身を意志と関係なく扱われる屈辱と、暴力の痛みを。

 サーシャと楽しそうに話していたメリーウェザ医師を、ハルシャは急き立てて彼の元へ向かわせた。
「サーシャはここにいてくれ」
 ハルシャは、短く告げて、医師の後を追う。
「彼が目を覚ました。名前は、オオタキ・リュウジ。だが、それ以外の記憶を失っている」
「そうか」
 現状を理解し、足早に進みながらメリーウェザ医師が呟いた。
「それは――極めて厄介な事態だな」



 オオタキ・リュウジと名乗った青年は、反射的に名乗った名前以外の一切の記憶を失っていた。
 自分がどこの出身なのか、旅行者なのか地元民なのか。
 年齢も現在住んでいる場所も、身分証を持っていたのかも、どうしてオキュラ地域に居たのかも――

 一切合切が、彼の記憶から抜け落ちていた。

 診察と質問の後、メリーウェザ医師は腕を組んで、オオタキ・リュウジを見つめていた。
「名前は、わかったんだね」
 医師の問いかけに、青年が小首をかしげる。
「彼が、何と僕を呼べばいいか? と尋ねてくれた時、反射的に口から出ただけで、それが本当に自分の名前なのかどうかもわかりません」
 今はベッドに身を起こして、彼は真摯な態度で質問に答えていた。
 体調は良好だった。
 けれど、記憶がないことに、不安そうに両手を握りしめている。
 すがるような眼差しが、時折ハルシャに向けられる。

「そうか」
 メリーウェザ医師が、穏やかに微笑んだ。
「君は治療を受けたばかりで、まだ本調子ではない。脳が混乱しているだけだろう――ゆっくり休めば混乱も落ちつき、何かを思い出すだろう。
 大丈夫だよ、リュウジ」
 ぽんぽんと、握りしめた手をメリーウェザ医師が優しく叩く。
「焦らなくても大丈夫だ」

 ほっとしたように、彼は息を吐いた。
「ありがとうございます、治療して頂いて――」
 礼に、メリーウェザ医師が豪快に笑った。
「いう相手が違うな、リュウジ。礼なら彼に言うことだ」
 と、顎でハルシャを示す。
「オキュラ地区で、死にかけの男を助けようとするのは、ハルシャぐらいだ。彼に出会えて幸運だったな、リュウジ」
 リュウジの目が、ハルシャへ向けられた。

 黒い真っ直ぐな瞳が、自分を映す。
「ありがとうございます、ハルシャさん。命を助けて頂いたのですね」
 素直な謝意に、ハルシャはなぜか、ひるんだ。
 首を振って、メリーウェザ医師を示す。
「俺は運んだだけだ。命を救ってくれたのは、メリーウェザ先生だ」
 言葉に、リュウジが顔を動かす。
「ありがとうございます、ドルディスタ・メリーウェザ」
 律儀にも、彼はメリーウェザ医師にも、礼を言う。
 ドルディスタ。
 聞きなれない敬称をつけて、彼は医師の名を呼んだ。

「あまり喋りすぎると身に負担をかける。もう横になるんだ、リュウジ」
 促されて、オオタキ・リュウジと名乗った青年は、素直に身を横たえた。
「明日、ラグレンの行政に君の名前を問い合わせておく。捜索願が出ているかもしれない」
 ぽんぽんと、彼の身を優しくメリーウェザ医師が叩く。
「あまりあれこれ心配せずに、ゆっくり休むことだ。リュウジ」
「はい、ドルディスタ・メリーウェザ」
 彼は、育ちが良いような気がした。品のいい素直さがある。
 目を閉じた彼の顔を見つめてから、
「お休み、リュウジ。大丈夫だ、すぐに君の身元は判明する」
 と、呪文のように唱えてから、メリーウェザ医師は身を返して、歩き出した。
 腕に触れて、ハルシャを誘う。

 不安そうに待っていたサーシャのところに戻ると、
「彼の名前は、オオタキ・リュウジだそうだ。だが、その名前以外を、何も覚えていないらしい」
 と、得た情報を伝えて上げている。
「記憶を、失うって――どういうことですか?」
 サーシャは、理解できなかったらしい。
「思い出せないんだ。自分が何者なのか、どうしてここにいるのか」
 サーシャは、驚きに目を見開き、医師を見つめている。
「個人の人格は、経てきた人生の積み重ねで出来ている。それが一切ないということは、足元に地面がないようなものだ。
 相当、不安だろうな」
 可哀そうに、と、小さく医師が言葉を呟く。
「たった一つ口にした、オオタキ・リュウジという名を手掛かりに、彼の身元を探すしかないな。実にあやふやな手がかりだが、仕方がない」
 ふっと、メリーウェザ医師は息を吐く。
「もう一つ、彼は恐らく、シンクン・ナルキーサス出身だ」
 彼女が口にした情報に、ハルシャは驚きを隠せなかった。
「どうして、解る」
「私に対して使ったドルディスタという呼び方は、シンクン・ナルキーサスのみで使われる医師に対する敬称だ。あそこ以外で、使われることはない。
 私が医者と認識したのだろう、ごく自然に彼は言葉を口にした。
 日常、頻繁に口にしていたということだ」

 シンクン・ナルキーサスは、銀河帝国で最高峰と言われる学府。
 全銀河の一握りの人間しか入学を許されない、場所だ。
 彼は記憶を失った状態で、無意識に言葉を口にした。それほど、使い慣れているということだ。

「帝星ディストニアから、来たということか」
 最高学府は、帝星に置かれている。
 ハルシャの言葉に、メリーウェザ医師は微かに笑った。
「可能性は否定できない。彼の銀河帝国公用語は、帝星での発音のものだ」

 帝星からやってきた、旅行者。
 シンクン・ナルキーサス出身。
 プロテクトのかかった、生体チップ。
 オオタキ・リュウジという名前しか、記憶にない青年。
 その唯一の手掛かりすら、あやふやだ。
 単独の旅行者なら、行方不明になっていたとしても、誰からも捜索がかからない。
 オオタキ・リュウジが、もし彼の名でなければ、八方塞がりになる。
 
 とんでもない厄介ごとを、もしかしたら自分は持ち込んでしまったのかもしれない。ハルシャは、困惑が隠せなかった。
「すまない、先生」
 呻くように漏らした言葉に、
「なんで、君が謝るんだ、ハルシャ」
 と、真っ直ぐに向き合いながら、メリーウェザ医師が言う。
「君は何も悪いことはしていない。むしろ、正しいことをした」
 ハルシャの危惧を根こそぎ取り去るように、強い口調で彼女が言う。
「放置されていれば、確実に彼は死んでいた。この地上では、弱った者は、格好のストレスのはけ口になるからね。誰かに見つかって、なぶり殺しになっていたかもしれない。
 それを、助かったんだ。私は喜んでいるだけだよ、ハルシャ。
 尊い命が一つ、失われなかったことを」
 笑みが深まる。
「このオキュラ地域にありながら、正しい選択が出来たハルシャのことを、私は誇りに思うよ」

 ハルシャは、無言で、メリーウェザ医師の瞳を見つめた。
 にこっと、彼女は笑う。
「君は責任感が強くて、一人で頑張りすぎる。大丈夫だ、私も乗りかかった船だ。ベッドと食事ぐらい、彼に提供するよ。
 安心して、任せてくれ――そして、彼が無事に家族の元に戻れるように、出来る努力をしよう」
 優しく目が細められる。
「みんなで、一緒に」

 いつの間にかサーシャが側により、ぎゅっとハルシャの服を握りしめていた。
 自分もここに居ると、言うように。
「ご飯を作りに来るね、お兄ちゃん。えっと、リュウジくんの、ために」
 聞かされた名前を思い出しながら、サーシャが告げる。
「先生に任せたら、ひどい味のパウチの処理役にされてしまうから」
「それはひどいな、サーシャ。私もそのぐらいの配慮はある」
 やいやいと言い合う二人に、ハルシャは微笑んでいた。
「ありがとう、メリーウェザ先生」

 言葉の響きに、受諾を感じ取ったのかもしれない。
 サーシャから視線を戻して、メリーウェザ医師が髪を掻き揚げる。
「困った時は、お互い様――それが、宇宙飛行士の鉄則だよ、ハルシャ」
 真剣な眼差しが、ハルシャを包む。
「覚えておくといい。宇宙の中では、皆が協力しないと生きていけない。助けることも、助けられることも、何も恥ずかしいことではない。
 宇宙で大切なのは、勇気と、最後まで希望を捨てないこと――誰が諦めても、自分だけは希望を持つ。それが、宇宙を旅する者が持つべき気概だよ、ハルシャ」

 どうして。
 メリーウェザ医師は不意にそんなことを言うのだろう。
 まるで、ハルシャが宇宙飛行士を目指していると、知っていたかのように。
 ふと、言葉が胸を打つ。
 勇気と、最後まで希望を捨てないこと。
 それは、今のハルシャに一番突き刺さる言葉だった。

「彼――リュウジを、お願いします」
 ハルシャは、全ての思いを閉じ込めて、ただ、医師にそう告げた。
「任せておけ。別に暴れることもなさそうだ。実に扱いやすい患者だよ」

 *

 オオタキ・リュウジを、メリーウェザ医師に託して、ハルシャとサーシャは手を繋いで家路をたどった。
「お兄ちゃん」
 道々、サーシャが問いかける。
「リュウジくん――記憶が戻らなかったら、どうするの?」
「記憶が戻らなくても、身元が解れば、家族の元に、帰してあげられる」
「そうか」
 呟いて、サーシャはしばらく沈黙していた。
「でも、お兄ちゃん」
 ぽつんと、彼女が言葉をこぼす。
「もし、身元が、解らなかったら?」
 ぎゅっと、ハルシャはサーシャの手を握りしめた。
 言葉を返さずに、そのまま歩を進める。
 彼は、恐らく身分証を奪われている。オオタキ・リュウジという名が、彼の名でなければ、再発行も出来ない。
 そうなると、惑星トルディアを出ることが出来なくなる。
 出入星管理は、かなり厳しく行われている。
 身分証もなく、惑星を出られない状況に陥ったとしたら、行き場のない彼を、どうするのか。
 ハルシャは、妹の手を握り締めて、ただ、黙々と歩き続けた。

 かつて、自分たちも行き場のない状態になった。
 その時、ジェイ・ゼルが生活と労働の場を用意してくれたことを、ハルシャは思い返す。
 もし、あの時兄妹二人で、放り出されていたら、生活の術を何も持たなかった自分たちは、路頭に迷っていただろう。かさばる借金と返却の要求に、疲弊して、二人で死を選んでいたかもしれない。
 無慈悲に見えたジェイ・ゼルの行為を、今、ハルシャは違う方向から眺めていた。当時は、冷酷で容赦なく思えた仕打ち。
 だが。
 彼は――自分たちに救いの手を差し伸べてくれていたのだ。
 生きる場所を、与えてくれることによって。
 認めたくなかった事実が、胸に刺さる。
 記憶を失い、すがるようにハルシャを見つめていた、青年の眼差しが、視界をよぎる。
 もし、彼の身元が判明しなければ――自分に何が出来るのだろうかと、ハルシャは、考え続けていた。




Page Top