救う。
シヴォルトの言葉に、わずかにジェイ・ゼルは眉を寄せた。
「どういう意味だ」
涙の痕のありありと残る顔で、シヴォルトが懸命にジェイ・ゼルを見上げる。
「ハルシャ・ヴィンドースから、ジェイ・ゼル様を、お救いしたかったのです」
真摯ともいえる態度で、彼は自分に向き合っていた。
ハルシャから、自分を救う?
思いもかけない言葉を呟いて、シヴォルトは真っ直ぐにジェイ・ゼルを見つめる。
「五年前――ハルシャ・ヴィンドースに出会われてから、ジェイ・ゼル様は、明らかに彼に惑わされていらっしゃいます。
彼に便宜を図り、ご寵愛になられています。
ジェイ・ゼル様は、ハルシャ・ヴィンドースに利用されているのです。彼はジェイ・ゼル様を誘惑し、自分の意のままに操ろうとしています」
狂気をはらんだ眼差しで、シヴォルトがジェイ・ゼルを見つめ続ける。
「ハルシャ・ヴィンドースは、魔物です。ジェイ・ゼル様の心を貪り食っている、性悪の悪魔です」
ずるずると、シヴォルトはジェイ・ゼルの側に、這いながら近づいてくる。
「私は、ジェイ・ゼル様を、ハルシャの魔の手から、お救いしたかった。同じ工場に居た時には、お守りできましたが、異動となりハルシャの側にいられなくなりました。
何としてでも、ジェイ・ゼル様をお守りしたかった。今のままでは、ハルシャを切り捨てることが、ジェイ・ゼル様はお出来にならない。
だから、私が――」
佇むジェイ・ゼルの靴の傍に近づくと、シヴォルトは、ジェイ・ゼルを見上げた。
「ジェイ・ゼル様をお救いするために、ハルシャを引き離そうと、心に決めたのです」
彼は、恭しく、ジェイ・ゼルの靴に唇を押し当てた。
長くそうしていてから、シヴォルトは顔を上げた。
「ハルシャさえいなければ、ジェイ・ゼル様は穏やかに日々をお過ごしになることが出来る。惑わす悪魔さえいなければ――」
シヴォルトはゆっくりと顔を上げた。
「昔のジェイ・ゼル様に、戻って下さる」
瞳の中に、暗く揺らめく炎がある。
「心より、お慕い申し上げております、ジェイ・ゼル様。私は、あなた様の忠実な部下です」
ゆっくりと、ジェイ・ゼルは膝を折った。
自分の前に這いつくばるように控える、シヴォルトの目線の高さになる。
「シヴォルト」
穏やかな声で、ジェイ・ゼルは彼に言葉をかける。
「君との付き合いは、もう八年になるかな」
はっと、喜びがシヴォルトの顔に浮かぶ。
「はい、そうです。ジェイ・ゼル様」
瞳を潤ませながら、シヴォルトが呟く。
「この八年、ジェイ・ゼル様の工場を任されてから、ただひたすらあなたのためだけに、働いて参りました。お喜び頂けるようにと、それだけを考えながら」
「そうだな」
ジェイ・ゼルは手を伸ばして、シヴォルトの涙に濡れる頬に触れた。
「八年だ」
指先が触れた途端、うっとりとした顔で、シヴォルトがジェイ・ゼルを見つめる。
「八年間、私の側にいたのに、君は何も見ていなかったのだね」
ふふと、ジェイ・ゼルは艶やかな微笑みを浮かべる。
「よく見てご覧」
灰色の瞳を細めて、ジェイ・ゼルは呟く。
「悪魔は、私だよ。シヴォルト」
指先でジェイ・ゼルがシヴォルトの頬を、静かに撫でる。
「人の心を惑わし、運命を狂わせるのは、私なのだよ。シヴォルト――ハルシャ・ヴィンドースも、私に関わったために人生を歪められた」
穏やかな声が、部屋の中に響く。
「ハルシャは私を惑わしてはいない。
逆だよ、シヴォルト」
すっと手を引くと、ジェイ・ゼルは真っ直ぐにシヴォルトを見つめた。
「惑わしているのは、私だ。私はね、シヴォルト。
ハルシャ・ヴィンドースの存在によって、救われているのだよ」
静かに立ち上がる。
「私を大切に思っているのなら、私が誰を大事にしているか、解ってくれそうなものだけれどね。
シヴォルト。結局君は、私を慕っているのではない。
君に都合のいい、ジェイ・ゼルという存在を、あがめているだけだ」
上から降る言葉に、シヴォルトは身を震わせた。
「ジェイ・ゼル様!」
静かにジェイ・ゼルは首を振った。
「駄目だよ、シヴォルト。許すことは出来ないね。君の好意は、悪意と紙一重だ。
君の忠義は信じよう。
だがそれは、私の望む形ではないのだよ、シヴォルト」
灰色の瞳を細めて、ジェイ・ゼルは静かに言葉を続けた。
「ハルシャに危害を加えようとしたことが、どれだけ私を怒らせたのか、きっと君は想像すら出来ないのだろうね」
シヴォルトは、ゆっくりと表情を消した。
ふっと、ジェイ・ゼルは微笑んだ。
「気付いたかい、シヴォルト。私は激怒しているのだよ。君をこの場で殺さないのが、不思議なぐらいにね」
低めた声で、ジェイ・ゼルは呟く。
「もし、ハルシャが悪魔で私を堕落させようとしたとしても、私は喜んで堕ちよう。君に心配されるまでもない。
わかるか、シヴォルト。
私にとってハルシャ・ヴィンドースはそういう存在だ」
不意に、ジェイ・ゼルは身を屈めると、シヴォルトの襟首を掴んで、自分に引き寄せた。
真っ直ぐに彼の目を見つめる。
「二度と、ハルシャに手を出すな、シヴォルト」
低い脅しに、シヴォルトは目を大きく見開いたまま、固まっていた。
ジェイ・ゼルはゆっくりと、手を離した。
がくっと、シヴォルトの体が地面に崩れる。
「君の処分は、もう少し詳しく話を聞かせてもらってからにしよう」
ジェイ・ゼルは、彼に静かに告げた。
シヴォルトはただ、虚空を見つめていた。
「そうだな。この部屋はローンに譲って、君は別室に移動してもらおうかな。この部屋は、床の掃除がしやすいように作られているからね。ローンの方が、最適だろう」
横たわるローン・ダナドスの姿へ、視線を向ける。
「もう彼は、床を汚しているからね。彼を移動させれば、別の部屋の床が汚れる。皆に迷惑をかけてしまうだろう。それはとても気の毒だ」
穏やかに微笑みながら、ジェイ・ゼルはシヴォルトへ顔を向けた。
「君は」
優しい声で、ジェイ・ゼルは続けた。
「もちろん、床を汚すような、愚かな振る舞いはしないだろうね、シヴォルト。きっと素直に私たちの問いに、答えてくれると、信じているよ」
*
「サーシャ!」
凄まじい勢いで、メリーウェザ医師が走ってくる。
「顔をみせておくれ、大丈夫なのか。吐き気はないか」
託されていた通話装置を使って、リュウジがあらかじめ、今からそちらへ参りますと、メリーウェザ医師に連絡を入れていた。
だからだろうか。
彼女は医療院の前で、腕を組んで必死に空を見上げていた。
気付いたハルシャは驚きを隠せなかった。
普段、冷静なメリーウェザ医師らしくない行動だ。
危険極まりない夜のオキュラ地域なのに、唇を噛み締めて、メリーウェザ医師は懸命に自分たちを待ち続けていた。
リュウジの知り合いのヨシノさんは、ネルソンに勝るとも劣らない、操縦技術の持ち主だった。
ほとんど揺れることなく、飛行車はオキュラ地域に静かに舞い降りた。
サーシャを抱えて降り立ったハルシャに向けて、猛然とメリーウェザ医師が駆けてくる。
勢いに、思わず立ち止まってしまうほどだった。
ハルシャは、腕に抱えていたサーシャを、そっと地面に立たせて上げた。
まだふらつく体を支えて、佇んでいると、両手を差し伸べながら、メリーウェザ先生が膝を折る。
「サーシャ!」
応えるように、サーシャも両手を伸ばす。
「メリーウェザ先生!」
ぎゅっと、二人は固く抱き締め合っていた。
腕に包みながら、メリーウェザ医師が、震える声で呟く。
「全く、心配をかけて、この子はもう……」
「ごめんなさい、メリーウェザ先生」
「良かった。無事で、本当に良かった」
身を離して、メリーウェザ医師が、サーシャの顔を撫でる。
「元気そうで、安心した」
ふっと笑ってから、彼女はゆっくりと立ち上がった。
「歩けるかい、サーシャ」
「まだ、ちょっと、ふらふらします」
「そうか」
それでは、ということで、ハルシャがメドック・システムまで、サーシャを抱えていくことになる。
ぎゅっと自分に回す腕の強さに、ハルシャは、妹が生きている喜びを、再び噛み締めた。
「今日はとにかく、大人しくしていることだ」
メドック・システムにサーシャを寝かしてから、メリーウェザ医師が言う。
「大丈夫だよ、目が覚めたら、朝になっている。ぐっすりお休み、サーシャ」
「はい、メリーウェザ先生」
素直に言ってから、サーシャは目を閉じた。
メリーウェザ医師が操作盤に移り、ゆっくりと蓋が閉じていく。
液剤がごぼごぼと流し込まれていく。
量はいつもと同じ、身体の半面が浸かるぐらいだった。
ハルシャとリュウジは並んで、サーシャの様子を見守っていた。
しばらく無言だったメリーウェザ医師が口を開いた。
「バルビツール酸系とベンゾジアゼピン系の二種類の睡眠薬が、サーシャに使われたようだ」
ちっと小さな舌打ちが聞こえる。
「全く、容赦ないね。バルビツール酸系睡眠薬は依存性があるっていうのに」
ふうっと息をしてから、静かに続ける。
「体内に残さないように、丁寧に解毒しておくよ。それ以外の特記事項はなし。身は傷つけられていない」
やっと、彼女はにこっと笑った。
「大したことが無くて、良かったな」
ほっと、リュウジが隣で息を吐いた。
「良かったです」
サーシャから預かっていたアルフォンソ二世を抱きしめて、リュウジが安心したように呟いた。
「もしかしたら、と、ついつい、考えてしまいました。これで、一安心です」
同じ危惧を、リュウジも抱いていたようだ。
ハルシャも、やっと息が出来るような気分になった。
メリーウェザ医師は、メドック・システムに触れながら、
「このまま、サーシャは一晩預かっておくよ。何かあってもいけないからね」
と、優しい表情で言う。
「液剤の中に、安定剤を入れておいた。明日の朝まで、ぐっすりとサーシャはねむっているはずだ」
確かに、サーシャは液剤の中で、まどろみ始めている。
見つめるハルシャに、メリーウェザ医師が静かに言った。
「ダーシュ校長と『福楽軒』のご夫婦には、もう私からサーシャが無事に戻ってきたと伝えておいたから、大丈夫だよ」
ハルシャは顔を上げた。
「とても、喜んでいらっしゃった」
素早くメリーウェザ医師が連絡を入れてくれて、本当にありがたかった。
「ありがとう、メリーウェザ先生」
にこっと、優しく彼女が笑う。
「サーシャのことは心配せずに、ハルシャたちももう家に帰って、ゆっくり休んだらどうだ」
え。
と、ハルシャは目をメリーウェザ医師に向ける。
「だが……」
「離れがたいのは解るが、ハルシャ達の方が、ぶっ倒れそうな顔をしている。大変だったな、緊張して、辛く長い一日だっただろう」
労りに満ちた声で、メリーウェザ医師が言ってくれる。
「サーシャは私が面倒を見るから、心配せずにゆっくり休みなさい。そして、明日、元気な顔を見せておくれ」
ハルシャが何かを答える前に
「そうですね、ドルディスタ・メリーウェザ。今日は、ハルシャにとって、本当に大変な一日でした」
と、リュウジが彼女の側に歩を進めながら言った。
「お言葉に甘えて、ハルシャと一緒に、家に戻って静養します」
「それがいい」
微笑みが深まる。
「一番辛く苦しい思いをしたのは、ハルシャだ。思った以上に、身体が疲労している。リュウジ、ハルシャを休ませてあげてくれ」
「解りました」
リュウジは手にしていたぬいぐるみ生物を、メリーウェザ医師に差し出した。
「サーシャの目が覚めたら、アルフォンソ二世を渡してあげてください。この子が、サーシャが行方不明になったことを、僕たちに教えてくれたのです」
「了解した」
リュウジから受け取ると、メリーウェザ医師はポンポンと、ぬいぐるみ生物の身をはたいた。
「お前も大変だったね、アルフォンソ二世」
と、小声で語り掛ける。
「なにしろ、良かったな、ハルシャ」
ハルシャは首を振った。
「自分は何もしていない」
サーシャへ視線を向けながら、小さく呟く。
「皆が助けてくれたからだ。マイルズ警部と彼の部下と、リュウジとヨシノさんと」
ハルシャは言ってから、微かに頬を赤らめて付け加えた。
「ジェイ・ゼルと……皆の協力がなければ、何も出来なかった」
ふふと、メリーウェザ医師は微笑む。
「ハルシャの一生懸命な姿が、皆を動かしたのだと、私は思うけどね」
何かを言おうとしたハルシャの肩に、ぽんと、メリーウェザ医師が手を置いて、語り掛ける。
「また、聞かせておくれ。だが、今日のところは、何も考えずに休むことだ」
別れの挨拶を言って、リュウジと並んで医療院を出ると、ヨシノさんが飛行車で待っていてくれていた。
「ヨシノさん」
リュウジが彼の元へと走っていく。
短い会話を交わしてから、リュウジがハルシャを呼んだ。
「お腹が空いていませんか、ハルシャ」
屈託なく笑いながら、リュウジが続ける。
「ヨシノさんが、食事に連れて行って下さるそうです。今日のお祝いで――飛行車に乗って下さいと、おっしゃっていますよ。この時間なら、まだ料理店は開いていると思います。行きましょう、ハルシャ」