ほしのくさり

第118話  世界で一番幸せにしたい人





 サーシャの事件に関連して、汎銀河帝国警察機構の協力を仰ぐことになった。
 ジェイ・ゼルが、戻った事務所でマシュー・フェルズたちにそう告げた時、彼らは一瞬、息を呑んだ。

 立ったまま、自分の机に腰を預け、ジェイ・ゼルは彼らの顔を見守る。
 自分が何としてでもサーシャ・ヴィンドースを助けようという意図を察し、部下たちは黙って従ってくれていた。
 だが。
 そんな彼らでも、汎銀河帝国警察機構の捜査員たちが、自分たちと行動を共にするという上司の決断に、動揺を隠せないようだった。
「ディー・マイルズという、汎銀河帝国警察機構の警部は、人質救出に慣れているようだった。専門の訓練も積んでいる」
 緩く腕を組みながら、ジェイ・ゼルは口角を少し上げて、見つめる五人の男たちへ柔らかい言葉を放つ。
 自分の意志は、翻らない。
 だが、彼らの理解を得て、快く協力して欲しかった。
「サーシャの命を最優先にしたい」
 微笑みながら、言葉を続ける。
「ギランジュとシヴォルトは、相当の覚悟で今回の事件を起こしただろう。素人の私たちが、不用意に彼らを追い詰めたら、サーシャを殺害しかねない。
 その事態だけは、避けたいんだよ」
 静かに、付け加える。
「君たちを信頼していないわけじゃない。より、安全な措置を講じたいだけだ」
 そのために、自分たちが支払うリスクは、もちろん誰もが解っていた。

「彼らの協力が必要だと、ジェイ・ゼル様がお考えなら」
 不意に、マシュー・フェルズが口を開いた。
「私どもは、従います」
 皆の意見を封じるような口調だった。
 にこっと、ジェイ・ゼルは笑う。
「ありがとう、マシュー」
 わずかにためらってから、彼は再び口を開いた。
「ギランジュたちの処置も、彼らにお任せするのですか、ジェイ・ゼル様」
 口元に笑みを浮かべたまま、ジェイ・ゼルは目を細めた。
「マイルズ警部らに要請するのは、サーシャの救助だけだ」
 ジェイ・ゼルは、穏やかな口調で、部下たちの表情に注意を払いながら、言葉を続ける。
「ギランジュとシヴォルトの身柄は、こちらで預かる」
 細めた目から笑みを消しながら、低く、ジェイ・ゼルは呟く。
「彼らの始末は、私たちの流儀でつけさせて頂こう。それは、譲れない」

 ジェイ・ゼルは、視線をマシューの顔に向ける。
「必要があれば、帝星からのお客さんに、相応の礼をしてくれるかな。マシュー」
 警察としてではなく、個人として協力をしてほしいのだと、謝礼を見れば彼らは気付くだろう。
 受け取るかどうかは、解らないが。
「後で、私に請求を回してくれるといい」
 謝礼はハルシャの借金に加算することなく、自分が支払うと、ジェイ・ゼルは会計係のマシュー・フェルズに伝える。
 その一言で、マシューは理解したらしい。
「すぐに、ご用意いたします」
 どのくらいかは、裁量に任せておけば大丈夫だろう。
 マシューの明確な言葉にうなずきを与えてから、ジェイ・ゼルは、机に預けていた腰を浮かして真っ直ぐに立った。
「少し、奥の部屋で仕事をしている。帝星のディー・マイルズ警部が来たら、教えてくれるかな」
「わかりました、ジェイ・ゼル様」
 事務室にいた、マシューが皆を代表するように言う。
 腕を解くと、ジェイ・ゼルは再び微笑んだ。
「よろしく頼むよ」

 身を伸ばし、ジェイ・ゼルはゆったりとした歩容で、事務室の右奥にある、自分の私室への扉の前に立った。
 扉にある指紋認証用のパッドに触れると、すっと右へと扉がスライドして、開いていく。
 奥は、ジェイ・ゼルが個人的な資料を置いている部屋だった。
 後ろで扉が閉じたことを確認してから、その部屋に留まることなく、ジェイ・ゼルはさらに、奥に進む。
 ジェイ・ゼルの私室には、机と本棚が設えられている。個人的な客をもてなすための、応接セットも机の前にある。
 ソファーをよけて、本棚に進む。
 本棚の前に立つと、青い表紙の一冊を、迷いのない動きでジェイ・ゼルは抜いた。
 その瞬間、ゆっくりと、本棚が左に動いていく。

 ジェイ・ゼルの私室の本棚のさらに奥には、隠し部屋があった。
 隠し部屋は本当に極秘の物だけが置かれている。
 またこの部屋は、遙か宇宙に浮かぶイズル・ザヒルの本拠地、スペースコロニー『アイギッド』と直接つながる惑星間通話装置が完備されている場所でもあった。

 ジェイ・ゼルは通話装置のヘッドセットを、覆うようにして耳に装着してから、イズル・ザヒルとの専用回線ホットラインを繋いだ。
 短いコール音が、耳元から響く。
『ジェイ・ゼルか』
 音声だけが、響く。
「お忙しい中、申し訳ありません。頭領ケファル
『何か、トラブルか』
 よほどのことが無いと、ジェイ・ゼルが自分との専用回線を繋がないと、イズル・ザヒルは知っている。
「はい。お耳に入れておきたいことが」
『少し待ってくれ。今から、通話装置の前に移動する』

 イズル・ザヒルは、回線をつないだまま、歩いているようだ。周りの人間に断りを言いながら移動している。
 もしかしたら、『アイギッド』での遊戯に、立ち会っている最中だったのかもしれない。
 仕事を中断されることを、イズル・ザヒルは嫌う。
 だが。
 緊急事態だった。

 数分後に、ジェイ・ゼルの前の大きな画面に、ふわっと色が溢れ、イズル・ザヒルが座りながら
『どうした』
 と問いかけてきた。
 一呼吸入れてから、ジェイ・ゼルは口を開いた。
「お仕事中にお邪魔して申し訳ありません」
 椅子に腰を下ろしたイズル・ザヒルが、薄い色の瞳を細めて笑う。
『前置きはいい。話しに入ってくれ。私も忙しい』

 それでも、耳を傾ける姿勢は崩さずに、イズル・ザヒルが問いかける。
 瞬き一つだけの時間を貰ってから、ジェイ・ゼルは話しを始める。

「ギランジュ・ロアが、私の配下のシヴォルトと結託し、ハルシャの妹、サーシャ・ヴィンドースを拉致しました」
 イズル・ザヒルは、片眉を上げた。
『ほう』
 イズル・ザヒルは椅子に座ったまま、脚を組んだ。
『サーシャ・ヴィンドースは少女だったね。さて。ギランジュ・ロアは男しか興味がなかったと思ったが――宗旨替えでもしたのかな?』
「いえ。彼はサーシャと、ハルシャ・ヴィンドースの身柄の交換を求めてきました。
 ギランジュ・ロアの真の目的は、ハルシャです」

 くっと、イズル・ザヒルが喉の奥で笑いをはじけさせた。
『なるほど。私が断ったからそういう手に出たのか。言っておいただろう、ジェイ・ゼル。彼は生かしておくと厄介だと』
「ご忠告をないがしろにし、申し訳ありません」
 詫びながら、ジェイ・ゼルは言葉を続ける。
「ギランジュは、宇宙に今いると、我々に思わそうとしました。ですが、どうやら地上にいるようです。わざわざ画面の見える通信装置で連絡を寄越し、十時間後に再び連絡をすると言ってきました」
 ふむ、と、イズル・ザヒルは顎を撫でながら呟いた。
『困るな。ハルシャ・ヴィンドースは、極めて優良な借金の返済者だ。私の物に手を出していると、ギランジュはきちんと解っているのだろうね』
「はい」
 ジェイ・ゼルは、静かな声で言った。
「彼は、はっきりと、理解しています」

 イズル・ザヒルの眼が静かに細められた。
『なら、やることは、一つだな。速やかに処分すればいい』
 ジェイ・ゼルは、息を吸った。
 ここからが、一番難しい所だった。
頭領ケファル
 言葉を選びながら、ジェイ・ゼルは続ける。
「ハルシャとサーシャの兄妹は、互いだけを支えに、五年間暮らしてきました。今回のことで、ギランジュとシヴォルトに制裁を加えるのは簡単ですが、それだと、万が一にも、サーシャが犠牲になる可能性があります。
 そうなった時、ハルシャ・ヴィンドースは生きる目的を失います。
 自分を責め、自ら命を絶つ危険性が、極めて高いと思われます」

 ジェイ・ゼルの言葉に、イズル・ザヒルは耳を傾けてくれている。
 そのことを確認しながら、ジェイ・ゼルは言葉を続けた。
「サーシャとハルシャと、二人の優良な返済者を失えば、借金の回収は不可能になります。
 今回は、サーシャの生命の確保を、最優先にしたいと思います」

 イズル・ザヒルは、静かに微笑んだ。

『ハルシャが、むざむざ自死せぬように、君が気を配り説得をすれば……物事はもっと簡単にいくのではないかな?』

 イズル・ザヒルの考えはそうだった。
 現在、ハルシャ一人で、借金が回収できている。なら、ギランジュたちを速やかに始末すればいい。
 その過程で、サーシャが犠牲となったとしても、身から出た錆だ。もっと用心深く、さらわれないようにサーシャは心がけるべきだった。彼女は浅慮のつけを、自らが支払わなくてはならない。
 そうやって、犠牲を厭わずにイズル・ザヒルはのし上がってきた。

 彼がたった一つ、失うことを躊躇するのは、ただ――
 ジェイ・ゼルの妹、エメラーダだけだった。

頭領ケファル。おっしゃることは、その通りです。反論の余地はありません」
 ジェイ・ゼルは、視線を落として言葉を続けた。
「それでも……妹を喪失した後、ハルシャ・ヴィンドースが」
 伏せた睫毛が、震える。
「傷つき、もぬけの殻のようになり、心を失ってしまうことが、私は、辛いのです」
 一瞬、言葉を切ってから、ジェイ・ゼルはゆっくりと、目を上げた。
「今回の一連の出来事は、全て、私の思慮が足らなかったためです。頭領ケファルの借金を危機的な状況に陥らせてしまった咎《とが》は、私にあります」
 イズル・ザヒルは、腕を組んで、ジェイ・ゼルを見つめていた。
 薄青い瞳が、冷静に今の自分の状況を見ている。
「自分で始末を付けさせて下さい。頭領ケファル

 静かに、イズル・ザヒルが瞬きを一つ、した。
『君は』
 不意に、優しい笑みが、彼の口元にあふれた。
『ハルシャ・ヴィンドースが絡むと、平静を保てないようだね』
 ジェイ・ゼルは、肯定を含んだまま、沈黙する。
 その表情を見守ってから、最終決断をする口調で、イズル・ザヒルが口を開いた。
『いいだろう。君の思うように為す許可を与えよう。結果とすれば、サーシャが居た方が、借金の回収は楽になる。生かしておいた方が、得だというのは私にも解るよ。サーシャを救いたいのならそうするといい』
 ほっと、ジェイ・ゼルは肩から力を抜く。
「ありがとうございます、頭領ケファル
『ただし』
 微笑みが深まる。
『ギランジュ・ロアは、こちらに引き取らせてもらおうか』
 にこっと笑う。
『出来れば生きたまま捕縛してもらえれば、ありがたいな。ギランジュは、ハルシャとサーシャの兄妹が、私の負債者だと解りながら手を出した。
 非常に、不愉快だ』
 イズル・ザヒルの眼が、細く針金のようになる。
『しかるべき戒めを――彼に味わって頂こう。今後、不遜にも私の所有物に手を出す者が無いように』

 どのような戒めをギランジュが受けるのか、ジェイ・ゼルは予測していた。
 恐らく。
 スペースコロニー『アイギッド』の遊戯に供される。
 自分は、その意味を込めて、彼に警告をしたつもりだった。だが、彼はイズル・ザヒルの恐ろしさを正確に理解出来なかったようだ。

「了解いたしました、頭領ケファル
 再び優しい笑みが、イズル・ザヒルの顔に浮かぶ。
『ライサムを、すぐにそちらに送るよ。彼にギランジュ・ロアを渡してくれ。それ以上のことは、君は何も気にしなくていい――』

 ライサム・ゾーンは、イズル・ザヒルの片腕ともいうべき男だった。
 様々な意味合いを込めて、彼を送りつけてくるのだろう。
 サーシャの事件がどう落ち着くのか、見届ける必要をイズル・ザヒルは感じているのかもしれない。

「お手間をとらせ、申し訳ありません。頭領ケファル
 心からの詫びを、ジェイ・ゼルは呟いた。
 ふふっと、イズル・ザヒルが笑いをこぼす。
『しかし、ギランジュも惑わしてしまうほどに、どうやらハルシャ・ヴィンドースは魅惑的なようだね。
 君が手塩にかけて開発し慈しんできた少年だから、当然と言えば、当然かな』
 目を再び伏せたジェイ・ゼルの耳に、静かな声が響く。
『だが、気を付けるんだよ。ジェイ・ゼル』
 忠告を帯びた声に、ゆっくりと、視線を上げる。
『過ぎた寵愛は、よほど思慮を巡らせないと、周りの人間を巻き込み、要らぬ騒乱を引き起こす。
 愛でるのは良い。だが、大切ならば、注意深く護ることだ。
 彼を、失いたくないのならな』

 言葉が、ジェイ・ゼルの中に刺さった。
 視線が落ちる。
 イズル・ザヒルは、エメラーダを誰が見ても解るほどに、溺愛していた。
 その反面、エメラーダに余計な手を出す者に対して、一厘の容赦もしなかった。
 エメラーダの私室に入った者は、殺す。
 彼女に不快な思いをさせた者もまた、問答無用で彼は命を奪った。
 それが、イズル・ザヒルの護り方だったのだ。

「お言葉が身に沁みます。浅慮をどうかお許しください」
 再び詫びるジェイ・ゼルに。軽い口調でイズル・ザヒルが応える。

『いいよ。君が初めて、本気になった子のことだ』
 弾かれたように、思わずジェイ・ゼルは顔を上げた。
 ふふっと、イズル・ザヒルが微笑む。
『私としても、全面的に協力させてもらうよ。借金が回収出来ている限り、私には何の不満もない』
 笑みが深まる。
『君が誰を溺愛しようが、何も気にしない――安心しなさい。ジェイ・ゼル』
 薄青い瞳が、自分を見つめている。
 普段は決して見せない、イズル・ザヒルの情愛に近い感情が、瞳の中に見え隠れしている。

 そのままで、終わるつもりか。

 先代の頭領ケファルナダル・ダハットの血に濡れた彼は、ジェイ・ゼルにそう言った。固くエメラーダを傍らに抱き寄せながら、兄である自分を真っ直ぐに見つめていた。

 君の頭脳は優秀だ。
 働きたいのなら、その方法を教えてあげよう。
 のし上がるのも、自由だ。
 ただし。
 私を、裏切るな。

 イズル・ザヒルは、自分を、一人の人間として扱ってくれた。
 だから、今、自分はここにいる。
 惑星トルディアで事業を任され、今の暮らしをすることが出来ているのは、彼の尽力のお陰だった。
 あの時、もしイズル・ザヒルがエメラーダの兄として、相応の扱いをしてくれなければ、今でも空の見えない部屋の中に自分はいただろう。
 そして。
 魂の大切さに、気付くこともなかった。


「ありがとうございます。頭領ケファル
 感謝の言葉に、珍しく、小さくイズル・ザヒルが首を振った。
『君が居なければ、醜悪なナダルの元で、エメラーダは……恐らく命を絶っていた』
 ぽつんと、声が聞こえる。
『兄として、君が彼女を守ってくれたことに、感謝しているのだよ、私は』
 初めて聞く、イズル・ザヒルの心の声だった。
『ギランジュの始末は、私がする。君の手を汚すことはない』
 思わぬ優しい声で言ってから、ちらりと時間を確かめ、イズル・ザヒルはジェイ・ゼルに向き合った。
『また、何かあったら、遠慮なく連絡をしてくれ。ライサムをすぐにそちらに送る。彼に相談してもらっても良い』
 それでは、と、短い挨拶を呟いてから、イズル・ザヒルは通話を切った。

 腹心を送りつけてくるのは、彼なりに自分を心配してのことなのかもしれない。
 ひどく冷酷なイズル・ザヒルが、時折自分に見せる温かな心配り。
 最初に出会った時、これほど自分たち兄妹にとって、イズル・ザヒルが大きな存在になるとは、思っても見なかった。
 彼の細めた目が、エメラーダを見つめていたのを、ジェイ・ゼルは覚えていた。
 ナダル・ダハットに痛めつけられるたびに、エメラーダはイズル・ザヒルの手によって大切に身を拭われていた。
 眼差しを交わしながら、言葉にならない言葉で、二人は語り合っていた。
 エメラーダを自分の物にするには、先代を殺すしかない。
 そう強く想うほどに、イズル・ザヒルはエメラーダを愛していた。
 恐らく。
 最初に出会った、あの瞬間から。
 二人は見えない力で、惹かれ合っていた。
 どんな困難も乗り越えて、互いを深く結びつけるほどに。

 ジェイ・ゼルは、ヘッドセットを外した。
 灰色に変わった画面を見つめる。
 この部屋には、ハルシャとサーシャの借金に関する資料もある。
 決して外には出せない、もの。
 ことんと、音をさせて、ジェイ・ゼルはヘッドセットを、通話装置の横に置いた。
 立ち上がり、部屋を出ながら、扉を閉めるボタンに触れる。
 この部屋の存在は、誰も知らない。
 たとえ、汎銀河帝国警察機構の捜査員が来たとしても、目に触れてはいけない資料など、表には置いていない。何一つ。

 警部が来る前に隠しておいた方が、得策ではありませんか。

 ジェイ・ゼルの耳に、オオタキ・リュウジの声が響いた。
 彼は、自分たちが非合法な手段で利益を得ていると、知悉している。
 そんな目で自分を見ていた。

 ハルシャは……リュウジを、友人だと言った。
 だが。
 リュウジはそうは思っていない。
 挑むような、深い藍色の瞳を、ジェイ・ゼルは思い返す。
 あれは、ハルシャを一人の人間として、愛している者の眼だ。
 深く、強く、彼はハルシャを想っている。
 それを、ハルシャ自身に気取らせまいと、必死だ。

 僕は、ハルシャとサーシャが幸せなら、それでいいのです、ジェイ・ゼル。

 自分を見上げていた、強く激しい眼差しが、視界をよぎる。
 ふっと、ジェイ・ゼルは片頬を歪めて笑った。
「どうして――」
 小さく、呟く。
 ジェイ・ゼルの背後で棚が動き、元に復す。その向こうに部屋があるなど、誰にも解らない。
 静寂を取り戻した部屋の中で、ジェイ・ゼルは静かに、呟きを続けた。
「私が、ハルシャの幸せを願わないと、思うんだ――オオタキ・リュウジ」

 世界で一番、幸せにしたい。
 誰よりも、自分よりも。

 なのに、その彼を、不幸にしか突き落とせない。
 まるで呪詛をされたようなこの身のことを。
 真っ直ぐな目で、リュウジは責める。
 もう傷つけるなと。
 傷つけたくなどなかった。
 誰よりも大切に、慈しみたかった。
 彼の幸せだけを、祈っている。
 なのに、いつも酷く傷つけてしまう。まるで――
 暗黒の砦に潜む、呪われた悪魔のように。

 ジェイ・ゼルは、思いに、独りで静かに笑みを浮かべると、不意に何かに耐えられなくなったように、両手で顔を覆った。
 そのまま本棚にもたれて、彼は沈黙する。

 マシュー・フェルズが、私室の扉を外から叩き、ディー・マイルズ警部の来着を告げるまで、ジェイ・ゼルはただ、黙し続けていた。










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