シヴォルトが、なぜ――
ハルシャは、あまりに思いがけないことに、凍り付いたように動けなかった。
画面を見つめながら、リュウジが額に手を当てる。
「ハルシャ」
リュウジが考えを凝らしながら、半ば無意識のように呟いていた。
「教えてください――今回どうして、あれほどまでにジェイ・ゼルが激昂して、あなたを傷つけたのか。その理由を。
もしかしたら、何か、関連性があるかもしれません」
深い藍色の瞳が、画面の中のシヴォルトを睨みつけている。
彼の頭の中で、目まぐるしく思考が巡っていることを感じる。
リュウジの思考の助けになれば、と、ハルシャは詳細を語った。
今日、呼び出された部屋で、ジェイ・ゼルが画像を見ていたこと。
それは、自分たちが先日ロンダルで古着を買った後、帰宅をしている道中を後ろから映したものだった。
家に三人で入るところで、画像は終わっており、ジェイ・ゼルに一緒に暮らしていることを問いただされた、と。
ただ、事実だけを述べた。
ハルシャの言葉を聞いた後、リュウジは額に当てていた手を頬に滑らし、じっと考え込んでいた。
「ハルシャは、オオタキ・リュウジという僕のフルネームを、ジェイ・ゼルに話しましたか?」
問いに、ハルシャは視線を落として、記憶を手繰る。
「いや」
ゆっくりと、目を上げて、画面を見つめるリュウジの横顔へ、視線を向ける。
「言っていない。リュウジ、と。名前だけは言ったが、オオタキという姓は、ジェイ・ゼルには話していない」
小さくリュウジがうなずいた。
「そうですか」
考えながら、リュウジが呟いた。
「ですが、ジェイ・ゼルは、僕の名前がオオタキ・リュウジだと知っていました」
ゆっくりと、藍色の瞳が、ハルシャへ向けられた。
「となると、あなたでない誰かが、見ていた映像と一緒に僕のフルネームをジェイ・ゼルに教えたのです。
僕の名前を知っている人間は、ここでは限られています。
あなたと、サーシャ。それにドルディスタ・メリーウェザ。廃材屋のリンダ・セラストン。そして、ハルシャの勤め先の工場の人達だけ、です」
まさか。
と、声にならない声が、胸の中で響く。
「ロンダルからの帰り、ハルシャは急に視線を感じたと僕に注意を呼び掛けてくれましたね。
もしかしたらそれは、ジェイ・ゼルに渡された映像を撮った人物の眼差しだったのかもしれません」
何かが、かちん、かちんとはまり出す。
そうだ。
妙に敵意に満ちた視線だった。
だから、とっさにリュウジに暴行を加えた誰かの視線かもしれないと、自分は勘ぐってしまったのだ。
「もう一つ、実は気になったことがあります。サーシャがさらわれた証拠として、ぬいぐるみ生物が置き去りにされていました。
サーシャが、ぬいぐるみ生物を大切にしていると知っていなければ、わざわざそんなことをしません。
誰か、サーシャのことを知る人物が、今回の誘拐に関わっているのではないかと、密かに僕は考えていました。
今の話を聞いて、納得しました。
ロンダルから帰る道中も、サーシャは大事にアルフォンソ二世を抱えています。映像を撮りながら、その人物は、彼女の様子を記憶に留めていたのでしょう」
リュウジが目を細めて、低く呟く。
「そして、シヴォルトはジェイ・ゼルの心理を良く知っていました。あなたの存在が、どれだけ彼にとって大切なのか、を」
言ってから、不意に彼は目を逸らした。
「全てのことを総合すると、たどり着く答えは一つです」
迷いの無い言葉がリュウジの口からあふれる。
「前工場長のシヴォルトは、僕とハルシャがとても親しいことに気付いていました。これはジェイ・ゼルの耳に入れなくてはならないと、判断したのかもしれません。
そして――恐らく、僕たちの後を密かにつけていたのでしょう。
シヴォルトは、ロンダルで望んだとおりに、三人が家まで帰る姿を証拠として映像に収めます。
僕とハルシャが同居をしている動かぬ証拠となる映像です。
その品を携えて、意気揚々とジェイ・ゼルに、ハルシャ・ヴィンドースがあなたを裏切っていると注進に及んだのでしょう。
僕たちが一緒に暮らしている現場を見せられたジェイ・ゼルは、衝撃を受け怒り心頭に達する。
そのタイミングでサーシャをさらい、交換条件としてハルシャを求める。
そうすれば、裏切りに対して怒りを覚えているジェイ・ゼルは、簡単にあなたを手離すだろう」
虚空に呟いてから、リュウジはゆっくりと、ハルシャへ顔を向けた。
「と――シヴォルトは、筋書きを考えたのかもしれません」
ハルシャは、瞳が揺れた。
どうして、そんな悪意に満ちたことをシヴォルトはするのだろう。
「今回の一連の出来事は――シヴォルトの協力の元に、ギランジュがサーシャをさらったと考えたら全ての辻褄が合います。
シヴォルトは、あなたの履歴に書き込まれた家族欄から、サーシャの学校がどこにあるかも知っているのです」
あまりにも鮮やかにサーシャがさらわれた裏には、シヴォルトの協力があった。
信じられない事実が、ハルシャの胸を抉った。
「どうして……」
ハルシャの呻きに、リュウジが静かに首を振った。
「シヴォルトか、ギランジュ・ロアか、どちらが話を持ち掛けたのかは、わかりません。ですが、ジェイ・ゼルとあなたを引き離したかった、という意図だけは感じます。
ハルシャ」
静かに、リュウジが呟いた。
「人の悪意というのは、底知れない闇のようなものです――信じられないほど人は残酷にもなれるのです」
ハルシャは、深いリュウジの藍色の瞳を見つめた。
彼は――
その闇を見せつけられたのだ。
メリーウェザ医師から告げられた言葉が、耳に響く。
彼は口に出来ないような体験を身に刻まれたのだ。
沈黙するハルシャに、小さくリュウジが微笑んで見せた。
「シヴォルトが絡んでいるとなると、一つ説明がつくことがあります。
アジャスパ・ヴェルド社の対ショック用の椅子です」
リュウジの眼が、細められた。
「ハルシャの工場には――製品の参考にするために、アジャスパ・ヴェルド社の製品が、保管されていました。
シヴォルトなら、撮影する背景を宇宙船のように見せかけることはできるでしょう。彼のかつての職場は宇宙船を造る工場ですから、彼の知識は豊富です」
がたっと、ハルシャは立ち上がっていた。
「ジェイ・ゼルに、話してくる」
言葉に、リュウジが深くうなずく。
「それが良いと思います。彼にも、ギランジュ・ロアの瞳の中の映像を見てもらいましょう。賢明な彼なら、僕が説明しなくてもすぐに真相にたどり着くでしょう」
自分たちは、シヴォルトに、はめられたのだ。
ハルシャは、事実に顔色を変えながら呟いた。
「すぐ、彼を呼んでくる」
踵を返して部屋を出ようとしたハルシャの背に、リュウジの声が飛んだ。
「ハルシャ、一つ、おうかがいしたいことがあります」
足を止めて、振り向く。
首をひねるようにして、リュウジが自分を見ていた。
呼び止めたのに、リュウジはすぐに口を開かなかった。
きゅっと唇を引き結び、何かを内側にはらみながら顔を見守っている。
眉を少し寄せて、ハルシャは問いかけた。
「どうした? リュウジ」
一瞬ためらってから、やっとリュウジが口を開いた。
「――ジェイ・ゼルは」
言葉を切ると、再び唇を噛む。
何か、尋ねにくいことを、自分に聞こうとしている。
気付いて、ハルシャは静かにリュウジの元へ戻った。
彼の傍らで、語調を和らげて問いかける。
「何を訊きたいんだ、リュウジ。何でも尋ねてくれ。答えるから」
恐らく、今回のことについてだろう。
ギランジュと、何があったのか――ジェイ・ゼルが来る前に、耳に入れておきたいのかもしれない。
どんな質問でも受け入れる気持ちを込めて、ハルシャはリュウジに言葉を返す。
不意に、リュウジは視線を落とした。
「ジェイ・ゼルは――あなたに、媚薬は使わないのですか」
消えそうな声で、彼が質問を口にしていた。
言葉の意味を理解した時、なぜか、かあっと顔が赤くなってしまった。
「ジェ……ジェイ・ゼルは、習慣性のある薬物におぼれて、仕事が出来なくなる事態を心配している。とても危険だと」
何でも答えると言った手前、懸命に伝えようとするが、動揺のあまり声が震えてしまう。
「だから――使ったことはない」
何とかぼやかして、言葉を終える。
自分とジェイ・ゼルが行為に及んでいることを前提として、リュウジに話をしている。そのことがたまらなく恥ずかしかった。
かっかと顔を火照らせながら、ハルシャは踵を返した。
「すまない、リュウジ。ジェイ・ゼルを、呼んでくる」
早足に、部屋を出る。
リュウジは――
媚薬を使うとギランジュが言った時、ジェイ・ゼルが表情を消したところを、見ていたのかもしれない。
もしかして、ジェイ・ゼルが自分に媚薬を使っていると彼は思っていたのだろうか。
だとしたら、誤解を解いておきたかった。
ジェイ・ゼルは安易な方法だと、ギランジュを切って捨てた。
彼は自分に――何の手管も使わず、真っ直ぐに向き合ってくれている。
部屋を出た先は廊下だった。玄関から続く廊下の突き当りがジェイ・ゼルの事務所だ。自分たちが作業用に通されたのは、さらに左に折れた奥の部屋だった。
誰も居ない廊下を歩いて、ジェイ・ゼルの部屋の前に立つ。
軽く扉を叩くと、すっと、扉が内側に開いた。
中に居た数人の視線が、一斉にハルシャに向かう。
ジェイ・ゼルは、通信装置に向かって話をしているところだった。
ハルシャに気付くと、少し待ってくれと目で知らせて画面に向かう。
「そうか、ありがとう。また何か情報を掴んだら、教えてくれないか。
ああ。今度ゆっくり飲もう。それでは。ありがとう、ヘザー」
穏やかな挨拶の後、ジェイ・ゼルは通信を切った。
視線がハルシャへ再び戻った。
「どうした、ハルシャ」
立ち上がりながら、ジェイ・ゼルが言う。
「リュウジが、画面の解析をしてくれて――情報をジェイ・ゼルに伝えたいと言っている」
「そうか」
廊下の外にまだ立っていたハルシャの側へ、大股に近づいてくる。
「君の友人は、とても優秀だな――私も伝えたいことがある」
部屋の中へ顔を向けると、側で待機していたマシューたちに
「少し、リュウジのところへ行ってくる。新しい事実が解り次第皆に伝える。待っていてくれ」
と、言葉をかける。
彼は顔をハルシャへ向けた。
「行こうか、ハルシャ」
動くジェイ・ゼルの手が、ハルシャの肩を包んだ。
ごく自然な動作で、身に引き寄せられ、一緒に歩き出す。
ジェイ・ゼルは扉を抜けると、空いている方の手で、後ろ手に戸を閉めた。
瞬間、ハルシャの唇が、ジェイ・ゼルの口に覆われていた。
あまりに不意打ち過ぎて、ハルシャは目を見開いたまま、動けなかった。
肩に触れていた手が滑り、首の後ろに回される。
優しく引き寄せられる。
全ての感覚を一点に集中するように、ジェイ・ゼルは、目を閉じていた。
性急になりそうな動きを懸命に自制しながら、わずかに眉を寄せてジェイ・ゼルがハルシャを求めている。
失った信頼関係を必死に手繰り寄せるかのように、ぎこちなく、ひどくおぼつかなく――
ジェイ・ゼルが、唇を重ねる。
舌を絡めることもなく、ただ、優しく触れ合うだけの唇。
最初に飛行車の中で交わしたような、何の技巧もない純朴な口づけだった。
やっと、衝撃から立ち直り、ハルシャは身の緊張を解くと、彼の愛撫にようやく応えた。
はっと、ジェイ・ゼルが目を開く。
灰色の瞳の中に、自分の姿があった。
どんなに傷つけられてもなお――やはり、ジェイ・ゼルが愛しいのだと。
見返す自分が語っていた。
互いを与え合い、慈しみ合う関係になりたいと――彼は最初から望んでいた。そのことを思い出す。
彼の瞳が揺れる。
受け入れてくれたことに、安堵したように、ジェイ・ゼルがゆっくりと唇を離した。
「すまない、ハルシャ」
ジェイ・ゼルが視線を伏せると、小さく詫びの言葉を呟く。
髪を一撫でしてから、彼が視線を上げた。
「行こうか」
優しい笑みだった。
彼は――この瞬間まで、不安だったのだと、ハルシャは手触りのように感じ取る。
傷つけたジェイ・ゼルを、自分がもう二度と受け入れないかもしれないと彼は危惧をしていたのだ。
驚きに身を強張らす自分が、拒否をしているように思えたのかもしれない。
拒まれる恐怖を抱きながらも、彼は唇を重ねてきた。
和らいだ視線から、彼の心の落ち着きを読み取る。
ジェイ・ゼルの手の平が、背中に当てられる。
動き出した彼に、促されるように、ハルシャも彼の歩調に合わせて歩き始めた。
廊下を真っ直ぐに歩き、ほどなくリュウジの居る部屋へと戻る。
扉をノックして入った瞬間、自分の背中に手を当てるジェイ・ゼルへ、リュウジは鋭い視線を向けた。
が、ゆっくりと、目の中の険を消して
「ギランジュ・ロアの瞳の中に、彼の協力者の姿が映っていました」
と、穏やかな口調で、ジェイ・ゼルに告げた。