ハルシャが立っていた道は狭くて、飛行車を降ろせなかったらしい。
ジェイ・ゼルの黒い飛行車が見る前で、待つ上空を通り過ぎて、やや開けた場所に静かに降りてくる。
彼を迎えに、ハルシャは走り寄りたい気持ちに駆られた。
なのに。
足が進まなかった。
ジェイ・ゼルを待ちわびていたというのに、実際に彼の黒い飛行車を見た瞬間身がすくんだ。
メドック・システムによって癒されたはずの場所が、鈍く痛みを発したようだった。
身体と心が、ジェイ・ゼルの酷い仕打ちを覚えているのだ。
恐怖に近い感覚が内側に広がる。
ハルシャは、動けなかった。
飛行車を降りて、自分を見つけて足早に進んでくるジェイ・ゼルを目に映し立ち竦む。
どんどんと、心臓が高く鳴る。
不意に、彼に背を向けて逃げたい衝動にかられハルシャは自身を叱責する。
サーシャが行方不明だという訴えに、すぐに彼は動いてくれたというのに。
どうして逃げることが出来るだろう。
脇に垂らした手を拳に握り、ハルシャは衝動に耐えた。
黒い服をまとったジェイ・ゼルが、足を速めて、ハルシャに近づく。
彼の後ろに、数人の部下の姿が見えた。
何人かを連れてきてくれたのだ。人手が多い方がいいと言った、リュウジの言葉を思い出す。
救いを求めれば、ジェイ・ゼルは確実に応えてくれる。
ハルシャは、左手首にある通信装置の存在を強く感じた。
シヴォルトに困っているハルシャの窮状を知ると、彼はすぐに手を打ってくれた。
だから――彼にすがってしまうのだ。
彼は的確に、物事をさばく手腕に、優れていた。
早めたジェイ・ゼルの足が、ハルシャに近づくにつれて、緩んだ。
ドキドキと心臓を躍らせながら、まともに彼を見ることが出来ず、ハルシャは微かに視線を逸らした。
ジェイ・ゼルの足が、止まる。
「ありがとう、ジェイ・ゼル」
勇気を振り絞って、自分から声をかけてみる。
「ハルシャ――」
ジェイ・ゼルの声が聞こえた。
何かを言われる前に、ハルシャは早口に
「逃げてすまなかった」
と、先に詫びを口にする。
一瞬、ジェイ・ゼルが息を呑んだ。
彼の表情を見ることが出来ないまま、ハルシャはただ、考え続けていた言葉を呟く。
「拒否しないという契約だった。ジェイ・ゼルは自分の権利を行使しただけだ――逃げ出して、すまなかった」
謝れば、リュウジがしたことも、きっと許してもらえる。
ハルシャは、考え抜いた末に結論に達した。
リュウジは自分をかばってジェイ・ゼルを拒んだ。
そのことで、彼の身に何かあってはならないと、ハルシャは危惧していた。ジェイ・ゼルの怒りを、リュウジに向けてはいけない。
自分が折れれば、全てが丸く収まるような気がしたのだ
非道な行為に対して、自分から謝ることに矜持が傷つく。
けれど、それよりも、リュウジの身を守りたかった。
彼は自分を、家族だと言い切ってくれた。
ギランジュの時と同じだ。
彼は、自分の権利を行使しただけだ。
それで傷つくなど、自分が弱いだけだ。
必死に自分に言い聞かせる。
そういう契約を、自分はジェイ・ゼルと結んでいる。
だから――仕方なかったのだ。
これが自分の現状だ。
ハルシャは、目を上げることが出来なかった。
沈黙の後、立ち止まっていたジェイ・ゼルが一歩進める。
足の動きから悟ったハルシャは、びくっと、身が拒否するように震えるのを止められなかった。
「サーシャのために、来てくれて、ありがとう」
言いながら、踵を返し、ジェイ・ゼルから距離を取る。
「ぬいぐるみ生物が捨てられていたのは、この路地だ」
一度も視線を合わせないまま身を返して、ハルシャは、リュウジの待つ路地へと入っていく。
路地の奥まった場所に、リュウジが佇んでいた。
深い藍色の瞳が、静かに自分を見つめている。
全てを包み込むような、穏やかな眼差しだった。
リュウジがハルシャを見てから、すっと視線を滑らせた。
路地の向こう――ハルシャの背後を見つめる。
そこに、ジェイ・ゼルが姿を見せたのだろう。
彼は、じっと眼差しを注いでいる。
ハルシャは唇を噛み締めると、路地へと歩を進めた。
ぬいぐるみ生物の横を過ぎ去り、さらに奥へ、リュウジの立つ場所へと真っ直ぐに進んで行く。
メリーウェザ医師の通信装置を握りしめるリュウジの傍らに、ハルシャはやっとたどり着いた。
そこで、身の緊張を解く。
想像した以上に、自分はジェイ・ゼルの存在に、恐怖を抱いているようだ。
与えられた暴力が、理屈抜きに、身を強張らせる。
様子がおかしいことに気付いたのだろう、リュウジがハルシャの腕に軽く触れた。
「大丈夫ですか、ハルシャ」
視線を捉えて、リュウジが呟く。
「あ、ああ」
触れる手の温もりを感じながら、ハルシャは呼吸を整える。
サーシャのために、ジェイ・ゼルは来てくれたのだ。その志を、無駄にしてはいけない。
ようやく彼に向き合う勇気をかき集める。
「ジェイ・ゼル」
振り向いて、彼に視線を向ける。
路地に足を踏み入れることなく、ジェイ・ゼルは、地面を見つめていた。
ぬいぐるみ生物へ、視線を向けている。
「発見した時と同じ場所に、ぬいぐるみ生物は置いてある。サーシャはこれを、とても大切にしていた。よほどのことが無いと、手離さないと思う」
ジェイ・ゼルは、黙ってハルシャの言葉を聞いていた。
「サーシャの他の持ち物は、見つかっていない。このぬいぐるみ生物は、学校から家に向かって歩いてくる途中で見つけた」
ハルシャは視線を上げる。
「もしかしたら、この先に、何か落ちている可能性もある」
ジェイ・ゼルは無言で、ぬいぐるみ生物を見ていた。
「ここへ来る途中」
静かな声で、彼は呟いた。
「心当たりのある組織に、連絡を入れてみた」
どきんと、心臓が鳴る。
心当たりのある組織――つまり、ジェイ・ゼルが裏で関わりのある、犯罪組織のことだ。ラグレンに巣食ういくつかの犯罪組織は、誘拐や人身売買を行っていると噂に聞いたことがある。
やはり、彼は闇の金融業の人間なのだと改めて思い知る。
唇を噛み締めるハルシャの耳に、ジェイ・ゼルの声が、淀みなく響く。
「だが、サーシャに手を出すような、愚かな組織はなかった。私を騙していない限り――サーシャが連れ去られたのだとしたら、ラグレンではない、外部の組織が絡んでいる可能性が高い」
淡々と、ジェイ・ゼルが言葉を告げる。
目を見開いたまま、ハルシャは動けなくなった。
外部の組織。
なら、サーシャは。
ラグレンから外へ、連れ出された可能性があると言うのか。
なおもぬいぐるみ生物へ視線を落として、ジェイ・ゼルが呟く。
「これは、この道から路地へ向けて、投げ入れられた距離に落ちている」
顎で示しながら、ジェイ・ゼルが言う。
「サーシャの身に何かがあったのだと、誰かが私たちに示すために、わざわざこのぬいぐるみ生物を残していったんだ」
ゆっくりと、ジェイ・ゼルが顔を上げる。
初めて、ハルシャと視線が出会った。
びくっと、身が震えるのを、どうしても止めることが出来ない。
自分の眼の奥から、恐怖を読み取ったのかもしれない。
ジェイ・ゼルがかすかに、目を細めた。
「ハルシャから連絡を受けて、すぐに、サジタウル・ゲートに人を遣って、サーシャを運ぼうとしている者がないか探させている。
今のところ連絡は受けていない」
サーシャが行方不明という一言から、外部の犯行だとジェイ・ゼルは考えていたようだ。バルキサス宇宙空港へサーシャが運ばれる危険性を考え、すぐに手を打ってくれたらしい。
礼を言うことも出来ずに、ハルシャはただ、ジェイ・ゼルの目を見つめる。
最悪の予想が、当たったのだろうか。
サーシャは、誰かに、連れ去られてしまったのだろうか。
どんどんと鳴る心臓の音を聞きながら、ハルシャは立ちすくんでいた。
ジェイ・ゼルが動いた。
路地へ静かに足を進め、ぬいぐるみ生物の側で歩を止める。
身を屈めて、片手でそれを持ち上げた。
手にしてしばらく見つめる。パンパンと軽く叩いて身についた埃を落とす。
「サーシャが行方不明だと気づくのが、遅くなったことが気にかかる」
ふわふわのぬいぐるみ生物を見つめながら、ジェイ・ゼルが呟く。
「バルキサス宇宙空港にも、人が遣っている。まだ、そちらは宇宙空港へは着いていない」
サーシャが、宇宙へと、連れ去られたかもしれない。
ハルシャは、目眩を覚えそうになった。
何が目的で妹を連れ去ったかなど、火を見るよりも明らかだ。
震えるハルシャの腕に、リュウジがなだめるように、触れる。
「大丈夫ですよ、ハルシャ。きっと、サーシャは無事に帰ってきます」
優しい声が、耳に響く。
その様子に、ジェイ・ゼルが眼差しを向けた。
触れるリュウジの手をみてから、彼は目を逸らした。
「ハルシャ――」
小さくジェイ・ゼルが呟いたとき、彼の服から、通話装置の着信を告げる音が響いた。
さっと、ハルシャの身に緊張が走った。
サーシャのことで、ジェイ・ゼルに連絡が入ったのだろうか。
全身を耳にして、注意を傾けるハルシャの前で、ジェイ・ゼルが通話装置を素早く取り出して画面の表示を見た。
一瞬眉を寄せてから、彼は通話を繋いだ。
「どうした、マシュー」
相手は、ジェイ・ゼルの会計係、マシュー・フェルズらしい。
「サジタウル・ゲートから、そちらに連絡が入ったのか?」
返すマシューの言葉に、ジェイ・ゼルが眉を寄せた。
「何だと」
ちらっと、ジェイ・ゼルの灰色の瞳が、ハルシャへ向けられる。
片手にぬいぐるみ生物を持ったまま、彼は薄い通話装置を耳に押し当て不意に虚空を睨んだ。
「そう言うことか――わかった。すぐに会社に戻る。また連絡があったら教えてくれ」
通話装置を切った後、ジェイ・ゼルは眉を寄せたまま、ハルシャへ視線を向けた。
「サーシャをさらった相手が、わかった」
静かな怒気を含む声で、彼は呟いた。
「ギランジュ・ロアだ」
驚愕に、ハルシャは目を見開いた。
ギランジュ・ロア――
彼が。
どうして。
「マシューが、会社の通話装置で連絡を受けた。ギランジュは画像付きの通話装置で、私と話をしたがっていたらしい」
通話装置を服にしまいながら、ジェイ・ゼルが苛立たしげに言葉を続ける。
移動式の通話装置では、画像が安定しないためやり取りが出来ない。
「ギランジュは、その時言っていたそうだ。金色の巻き毛で、青い瞳の可愛い子猫を預かっている、それについて話し合いをしたい、と――」
金髪の巻き毛で、青い瞳の可愛い子猫。
サーシャのことだ。
何ということだ。
ギランジュ・ロアが、サーシャをさらった。
さあっと、ハルシャは全身の血が、下がっていくのを覚えた。
彼が媚薬を使い、行おうとした行為の卑劣さが、目の前を暗くする。
もし、彼が、サーシャに手を出したとしたら――
吐き気が不意に、ハルシャの身を襲った。
揺れかけた身体を、とっさにリュウジが支えてくれた。
「助けてくれ、ジェイ・ゼル……」
がくがくと、身が震える。
「サーシャを、助けてくれ」
うわごとのように、ハルシャは呟いていた。
「ギランジュは、また連絡をすると言っていた」
ジェイ・ゼルの揺るぎない言葉が、ハルシャの視線を彼に向けさせた。
「ハルシャ。これから一緒に会社に行こう。そこへ、ギランジュは連絡を入れてくる」
ハルシャは、力なく、うなずいた。
「僕も参ります」
腕を取って支えていたリュウジが、思わぬ鋭い口調で、ジェイ・ゼルに言った。
「ハルシャと一緒に、僕も行きます」
鮮やかな宣言のような言葉だった。
ジェイ・ゼルとリュウジは、一瞬無言で見つめ合った。
自分を支える腕をみてから、ふっとジェイ・ゼルは顔を背けた。
「――いいだろう」
ぬいぐるみ生物を手に持ったまま、彼は踵を返して歩き出した。
「行きましょう、ハルシャ」
穏やかな口調になって、リュウジが言う。
ハルシャは路地を出ると、先を進むジェイ・ゼルの背を追った。