サーシャに何があったんだ。
午後三時。
いくら明るくても、オキュラ地域が危険な場所であるのには、変わりない。
学校から出た後、妹の身に、何かがあったに違いない。
最悪の事態が、胸を締め付ける。
不安に苛まれながら、ハルシャは学校から『福楽軒』の道を辿っていた。
メリーウェザ医師から渡された、彼女の移動用の通話装置を握りしめて、道を丹念に見ていく。
何かあったら連絡をしてくれると、メリーウェザ医師は言ってくれていた。
「サーシャ!」
ハルシャは、名を呼びながら、路地を見て歩く。
徒歩十分で、『福楽軒』へ着いてしまう。
アルバイト先の飲食店でも、サーシャを探してくれていたようだ。
表に出ていた老夫婦が、ハルシャを見つけて声をかけてくれる。
「すまないね、ハルシャくん」
まるで、サーシャが行方不明なのは、自分たちの責任のように、店主夫妻は眉を寄せてハルシャを見ていた。
「あまりに遅いので、学校へ連絡を入れてしまったんだが――午後三時にはもう出たと聞いて」
困ったように言葉をかけてくれる。
「こんなことなら、サーシャちゃんが来ない段階で、もっと早くに、連絡を入れておけば良かった」
ハルシャは、動揺する老夫婦をなだめてから
「サーシャは自分たちが探すので、どうかお店に戻って下さい」
と、言葉を尽くし、何とか店へと入ってもらった。
『福楽軒』の周囲を探してから、リュウジと相談した結果、もう一度学校へと戻ってみた。
それでも、サーシャの姿は、どこにもなかった。
「家へ、戻ったかもしれない」
ハルシャは考えながら、リュウジに告げる。
「家までは細かい路地も多い。その道も、探してみよう」
「そうですね、ハルシャ」
リュウジも周囲に目を配りながら、言葉を続ける。
「どこかで、具合が悪くなっているかもしれません」
最悪の事態が再び、脳裏をよぎる。
もし――サーシャが、誰かに連れ去られたのだとしたら。
「行こう」
疑惑を握りつぶしながら、ハルシャは踵を返して、学校から家への道を歩いていく。
サーシャの名を呼ぶが、答える声はどこからもない。
姿が消えてから、一時間半。
もう、二時間になる。
連れ去られたのだとしたら、かなり遠くに運ばれているかもしれない。
リュウジが、路上に放置されていた状態が、ふっと、頭に浮かぶ。
ぎりっと歯を思わず、噛み締めた。
くそっと、小さく呟きが漏れる。
サーシャの持ち物でも、どこかに落ちていないだろうか。
わずかな手がかりでも欲しかった。
サーシャ。
どこにいるんだ、サーシャ。
心に叫びながら、ハルシャは路地を調べて回った。
オキュラ地域は、路地が網の目のように張り巡らされている。
その一つに、もしかしたら、連れ込まれたかもしれない。
生きていてくれ、無事でいてくれと祈りながら、ハルシャは、焦る心を抑えつつ道を見て回る。
次第に家が近づいてきた。
ここではないなら、どこなのだろう。
不安が、胸を焼くようだった。
その時、突然、リュウジが声を放った。
「ハルシャ! 来てください!」
彼は細い路地を調べていたところだった。
ハルシャは答えることなく、走っていた。
リュウジの背中越しに、薄暗い路地へ視線を向ける。
ゴミの放置されている狭い空間に――ぬいぐるみ生物が転がっていた。
ハルシャは、目を大きく見開いた。
リュウジが開けてくれた空間へ、よろよろと進んで行く。
落ちているぬいぐるみ生物の側に、片膝をつき、ふんわりとした毛並みに触れる。
間違いない。
サーシャが大切にしている、アルフォンソ二世だった。
素早く辺りに目を配る。
そこに、サーシャの姿はなかった。
ただ、ぬいぐるみ生物だけが、放置されている。
「サーシャが、アルフォンソ二世を、手離すはずがない」
ハルシャは、絞り出すように呟いていた。
「この近くで、サーシャの身に何かが起こったんだ――」
路上に横たわるぬいぐるみ生物は、茶色の瞳で天を見つめていた。
この眼に、真実が映っていたのだろうか。
「ドルディスタ・メリーウェザに、連絡を入れましょう」
リュウジがきっぱりとした口調で言った。
「アルフォンソ二世は大きな手掛かりです。ここを中心に、サーシャを探しましょう」
リュウジが路地の左右の建物へ視線を向ける。
「もしかしたら、この近くに、サーシャはいるかもしれません」
ハルシャは、眉を寄せると、小さくうなずいた。
「わかった。メリーウェザ先生に、連絡を入れる」
ハルシャは、動揺を必死に抑えながら、メリーウェザ医師の通話装置を操作しようとした。
その瞬間、不意に、ハルシャの左の手首が震え出した。
はっと、ハルシャは、震えの源へと視線を向ける。
腕にはめた通話装置が、マスターと表示を画面に出しながら、振動している。
ジェイ・ゼル
声にならない声で、ハルシャは呟いていた。
ふっと、視線をリュウジへ向ける。
彼は、恐いほど真剣な眼差しを、ハルシャの左手首に注いでいた。
リュウジは気付いている。
ジェイ・ゼルが、ハルシャに連絡を寄越したのだと。
リュウジの藍色の瞳が、左の手首からゆっくりと、ハルシャへ向かう。
一瞬、二人は見つめ合った。
白い通話装置が、震えながら、ジェイ・ゼルの呼び出しを告げている。
目を合わせたまま、小さく、リュウジが首を横に振った。
出てはいけません、ハルシャと。彼の眼差しが制止する。
不意に、胸が痛んだ。
ジェイ・ゼルが、ハルシャを呼んでいる。
きっと、迷い抜いた末に、自分への通話の番号を押したのだろう。
今、ジェイ・ゼルは、薄い通話装置に耳を押し当てて、ハルシャが出るのを待っている。
彼は、目を閉じているのだろうか。
それとも、虚空を見つめているのだろうか。
どんな気持ちで、ハルシャへ連絡をしているのだろう。
想像すると、心臓が痛かった。
最後に見た彼の眼差しが、視界をよぎる。
ぐっと唇を噛み締めると、ハルシャは、メリーウェザ医師の通話装置を握り込んだ。
右の指先が、白い通話装置に向かう。
リュウジが表情を動かした。
「いけません、ハルシャ! 出ないでください!」
悲痛な、叫びのような声だった。
ハルシャは、マスターの文字を見つめる。
唇を噛み締めたまま、「通話」の表示に、触れた。
「――ハルシャか」
通話装置から、ジェイ・ゼルの声が響く。
わずかなためらいを含んだ、低い彼の言葉。
耳にした瞬間、感情の大波にさらわれたように、ハルシャは叫んでいた。
「ジェイ・ゼル!」
通話装置を引き寄せて、思いをほとばしらせる。
「サーシャがっ!」
どうして、自分は、こんなに感情を荒げているのだろう。
思いながらも、言葉が止まらなかった。
「サーシャが、どこにもいない!」
ジェイ・ゼルの声を聞いた途端、感情のコントロールが効かなくなった。必死に保っていた平静が砕け散る。
「サーシャがいないんだ――ジェイ・ゼル!」
まるで子どものように、自分はジェイ・ゼルにすがっていた。
「落ち着くんだ、ハルシャ」
通話装置の向こうから、ジェイ・ゼルが慌ただしく立ち上がり、歩き始めた気配が伝わってくる。
「今、どこにいる」
冷静な声に、ハルシャは、学校から自分の家に行く途中だと告げる。
「わかった。すぐにそちらへ向かう。目印は何かあるか」
ハルシャは、目に映ったものを、とりあえずジェイ・ゼルに伝えた。
「そこで待っていてくれ。すぐに行く」
ネルソンを呼ぶ声が、繋いだ通話装置から聞こえてくる。
「事情を聞かせてくれないか、ハルシャ」
歩きながら問いかけるジェイ・ゼルの静かな声に、ハルシャは、四時ごろにサーシャがアルバイト先に現れなかったと、ダーシュ校長から告げられたことを、伝えた。
話すハルシャの言葉を、じっとジェイ・ゼルは聞いていた。
「路地に――サーシャが大切にしていたぬいぐるみ生物だけが放置されていた。ここで、妹は連れ去られたのかもしれない」
詳細を告げている間に、ハルシャはだんだん心が落ち着いてきた。
「――オキュラ地域、だな。ハルシャ」
「そうだ、ジェイ・ゼル」
考え込むような沈黙の後、
「近づいたら、また、連絡を入れる。一度切るよ、ハルシャ」
とジェイ・ゼルは静かに呟いてから、通話を切った。
ジェイ・ゼルが来てくれる。
連絡が途絶えた通話装置を見つめてから、ハルシャは、ゆっくりと視線を上げた。
リュウジが、静かな眼差しを、ハルシャへ注いでいた。
どきっと、心臓が鳴った。
「リュウジ――」
彼は微かに眉をひそめている。
リュウジの顔を、まともに見ることが出来ない。
彼は通話を受けるなと言ったのに、自分は無視してジェイ・ゼルに繋いでしまった。
サーシャが行方不明の不安から、彼にすがらずにはいられなかった。
「すまない。リュウジは止めたのに――」
眉を、もう少し寄せてから、彼は静かに首を振った。
「ハルシャは、ジェイ・ゼルを信頼しているのですね」
少し寂しげに、彼は微笑んだ。
「僕では、頼りになりませんでしたか?」
どきんと、心臓が再び躍った。
なぜか、ひどくリュウジを傷つけたような気がした。
「そんなことはない。ジェイ・ゼルは、オキュラ地域のことに詳しい。だから……」
言い訳のように、ハルシャはリュウジの細めた目を見つめながら、呟いていた。
まるで、リュウジだけでは心もとないというように、ジェイ・ゼルを頼ってしまった。そのせいで、リュウジは傷ついている。
唇を噛み締めるハルシャを見つめてから、リュウジは一度、目を閉じ、ゆっくりと瞼を開いた。
「それは、賢明だったかもしれませんね」
気持ちを入れ替えるように、リュウジは微笑みと共に、ハルシャに言った。
「サーシャを探すためには、人手が多い方が有利です――そうですね、ハルシャがジェイ・ゼルの助けを求めたのは、やはり、賢明なことでした」
小さくうなずいてから、彼は眉を解き、静かに呟く。
「今は、サーシャを見つけ出すことが、最重要事項です――つまらないことを言って、ハルシャを困らせてしまいました。申し訳ありません」
すっと、右手を差し出して
「僕から、ドルディスタ・メリーウェザに連絡を入れておきましょう。
ハルシャは、路地の外に出て、ジェイ・ゼルが来るのを待っていてはどうですか? この路地にいては、見つけにくいでしょう」
と、いつもと変わらない穏やかな口調で告げる。
ハルシャは、少しためらってから、リュウジにメリーウェザ医師の通話装置を渡した。
「どうぞ――外で待っていてあげて下さい。僕はここに居ますから」
ニコッと笑ってから、リュウジはハルシャに背を向けて、通話装置を操作しはじめた。
彼の背を見つめてから、ハルシャはぬいぐるみ生物へ視線を落とす。
アルフォンソ二世の位置は、動かさない方がいいかもしれない。
判断すると、メリーウェザ医師と話すリュウジの横を抜けるようにして、ハルシャは路地を出る。
少し大きな道に佇み、上空を見つめた。
ジェイ・ゼルが来てくれる。
それだけのことに、ひどく安堵しているのは、なぜだろう。
あれほど酷い扱いを受けたのに、いざとなると、どうして彼を頼ってしまうのだろう。
ジェイ・ゼルの通信を拒まなかったことで、リュウジはひどく傷ついている。
自分でも、どうしてか解らない。
なぜ、ジェイ・ゼルを拒めなかったのか。
ただ声を聴いた途端、サーシャが居なくなった不安を、ジェイ・ゼルに訴えずにはいられなかった。
彼なら、何とかしてくれるかもしれない。
とっさにそう思ってしまった。
結局――
自分がすがる場所は、ジェイ・ゼルしかないのだ。
リュウジには自由になりたいと言いながら、拒むこともせずに、自分からジェイ・ゼルへ腕を差し伸ばしてしまった。
そのことで、リュウジは深く傷ついている。
自分の愚かさと弱さが、辛かった。
想いに目を細めながら、ハルシャは空を見上げて、ジェイ・ゼルの黒い飛行車を待ち続けた。
*
「そうかい」
ミア・メリーウェザは、通話装置から響く、リュウジの声に静かに答えた。
リュウジは、家までの途中の路地で、サーシャが大事にしているぬいぐるみ生物を見つけたこと。側にはサーシャはおらず、それ以外の痕跡がないことを、報告してくれていた。
ほんの少しの沈黙の後、彼はハルシャがいま、ジェイ・ゼルの到着を待っていることを、口早に告げた。
声が微かに震えていた。
ハルシャがジェイ・ゼルに助けを求めたことに、リュウジは少なからぬ衝撃を受けているようだった。
あれほど傷つけられながら、なぜ、と。
それが、ハルシャとジェイ・ゼルが過ごしてきた五年という時間のなせる業だよ、とは、ミアはあえて告げなかった。
「ジェイ・ゼルに助けを求めたのは、賢明だったね。彼の組織力は素晴らしい。オキュラ地域に警察は来てくれないからね。ハルシャは賢い選択をしたよ」
リュウジを慰めるために、メリーウェザは静かに言葉を告げた。
わずかの間の後、
「僕も、そう思います」
と、リュウジは思ったよりも平然とした声で言った。
「また、何か進展があったら、ご連絡します」
「ああ、ありがとう。こちらからサーシャの学校には連絡をいれておく。リュウジは、そっちに集中しておいてくれ」
「わかりました。ハルシャにもそう伝えておきます」
では失礼します、ドルディスタ、と礼儀正しく挨拶をしてから、リュウジは通信を切った。
移動用の通話装置では、映像が映らない。
だから今、リュウジがどんな顔をしているかは、推測するしかない。
が。
きっと、傷ついた顔をしているのだろう。
側に、ハルシャの気配を感じなかった。
離れたところで、自分に連絡を入れてきたのだろう。
動揺を、ハルシャに悟らせまいとして……。
かわいそうに。
ミア・メリーウェザは心の内に、呟いていた。
リュウジは、ハルシャをジェイ・ゼルから引き離そうとしている。それが、ハルシャの幸せだと、思っているのだ。
迎えに来たジェイ・ゼルの手に、ハルシャのことを考えたら渡すべきだった、と告げた時、リュウジは一切の表情を消して、見つめ返してきた。
消した表情の奥に、嫌悪がにじんでいるのを、メリーウェザは見逃さなかった。
ハルシャの本当の幸せと。
リュウジが考えるハルシャの幸せとは、少し、違うのかもしれない。
このまま一緒に居れば、一番傷つくのは、リュウジだ。
深いため息を吐くと、メリーウェザは額を手で覆った。
サーシャの身が心配だった。
一体誰が、彼女に危害を与えようとしたのだろう。
オキュラ地域の者ではない。ここに暮らす者なら、ジェイ・ゼルの息がかかっているヴィンドース家の兄妹に手を出すはずがない。
考えられるのは――
外部の者、だった。
サーシャの愛らしさに目を付けた、オキュラ地域以外の人物が、彼女をさらったと考えるのが妥当だ。
生きていてほしい。
切にメリーウェザは願った。
どんなに傷つけられたとしても、何としてでも治してあげる。
何があっても、支える。
だから。
生きていてくれ、頼む。
深く祈ってから、メリーウェザはやっと額から手を外し、ダーシュ校長に連絡を入れるべく、通話装置を立ち上げようとした。
ふと見ると、手に鍵を握っていた。
ああそうだ。ジェイ・ゼルの情報を鍵のかかる引き出しに入れて、そのまま鍵を持っていたのだ。
サーシャのことがあって、握っていることすら、忘れていた。
メリーウェザは、引き出しに素早く鍵をかけた。
その中にある情報を、目を細めて思い出す。
ハルシャは、聞こうとしなかった。
ジェイ・ゼルがどんな人間なのかを。
彼の口から直接聞きたいと、頬を赤らめながら、懸命に告げていた。
彼が言いたくないことは、知りたくない――ジェイ・ゼルの心を、一番大切に思っているからこそ、口に出来る言葉だ。
ハルシャは、本当にジェイ・ゼルが好きなのだ。
メリーウェザは、瞬きをした。
しかし、果たして、ジェイ・ゼルがハルシャに、彼の真実を告げる日が来るのだろうか、と、心の奥に呟く。
ふっと息を吐くと、メリーウェザは虚空を見つめた。
メドック・システムは、ジェイ・ゼルが秘して語らない彼の真実を、冷徹に暴き出していた。
ジェイ・ゼルは――
快楽惑星アマンダが生み出した、芸術品ともいうべき存在だった。
遺伝子情報から丁寧に組み上げ、とんでもない高額で取引される大変希少な生命体。
彼は、完璧な容姿を持つ、快楽のためだけに作り出された、最高級の『