ほしのくさり

第107話  自由になりたいですか?-02





 この先――
 何十年も、莫大な借金を払い続けなくてはならない。
 そして。
 ジェイ・ゼルの支配下に身を置かれ続ける。
 納期の厳しい仕事を、孤独の中でこなさなくてはならない。
 解っている。
 誰も、助けてはくれない。
 自分の現実は、一番自分が知っている。
 それでも――リュウジの問いかけが、身を震わせる。


 自由に、なりたいですか?


 どうして。
 そんなことを、訊くのだろう。
 厳しい現実を突きつけるように。
 けれど。

 言葉をためらうハルシャを、リュウジの、深い瞳が見つめていた。
 彼は。
 自分の心の真実を、問うていた。
 出来るか、出来ないか、ではなく。
 自由になりたいか、そうでないかを。
 ハルシャの本当の気持ちを、真摯に問いかけていた。

「私は」

 相手に剥き出しの心を見せることに、恐怖を覚えながら、それでも、言葉を口に出そうとした。
 ためらいが、胸の内に渦巻く。
 言ってどうなる、という諦念と、リュウジに自分の本当の心を知って欲しいという想いの狭間で、ハルシャはなおも揺れ動いた。

 ぎゅっと、リュウジが、ハルシャの手を強く握りしめた。
 どんな言葉でも受け入れると、力強く約束してくれるように。
 そうだ、彼は――
 自分の現実を知った後も、何一つ態度を変えていない。
 ジェイ・ゼルに身を弄ばれていると知りながら――
 軽蔑も憐憫もなく、いつもと同じ瞳をハルシャに向けている。

 信じよう。

 ふと、ハルシャは思った。
 リュウジを、彼の優しさを、心の広さを。
 信じようと、一途に思った。
 かつて、ジェイ・ゼルを信じようと思い、あれほど手ひどく、傷つけられたというのに。
 自分は又、人を信じようとしている。
 だが、愚かで良いような気がした。
 それがきっと、自分なのだ。
 ジェイ・ゼルに傷つけられ、粉々にされた心を拾い集め、ハルシャは、見つめる優しい瞳に向けて、自分の中の真実をさらした。

「私は」
 リュウジの、華奢な手を握り返す。
「自由に、なりたい」

 言った途端、堰き止めていた、何かが内側からあふれた。

 自由に、なりたかった。
 喉から手が出るほど、自由を自分は求めていた。
 ジェイ・ゼルの支配から抜け出したかった。
 契約で、服従を強いられるのではなく――
 彼と。
 対等になりたかった。

 ただの人間と人間として――
 彼と一切の虚飾を廃して、向き合いたかった。
 ほんの一瞬。
 そうできたと思ったのに。
 手にしていたはずのものが幻だったと突き付けられるのが、身を切るように辛かった。

 暗澹たる未来と隷属の身から、ただ、解き放たれたかった。

「――自由になりたいんだ、リュウジ」

 自分の手を握るリュウジの手の甲に、反対の手を乗せて、きつく握りしめる。
 身を折るようにして、握りしめた手に額を押し付けた。
 祈るように、痛みに耐えるように。
 丸めた背で、運命の重みを担いながら、ハルシャは身を震わせた。

 ふわりと、背中にリュウジの腕が回され、頭に彼の額が触れた。
「よく、わかりました」
 耳元に、優しい言葉が滴り落ちる。
「ハルシャは、自由になりたいのですね」
 小さく、頭を揺らす。
 覆いかぶさるように、リュウジがハルシャを抱きしめていた。
「もう、あなたを誰にも傷つけさせません」
 背中を包む、リュウジの手の平が温かだった。
「僕が、護ります」

 莫大な借金を突き付けられた時、誰も助けてはくれなかった。
 思いやりに満ちた言葉を、葬儀の時に告げていた親戚たちも、政府も、誰も。
 醜いもののように、自分たちを切り捨て、顧みすらしてくれなかった。
 だから――借金を払い続けるための意味しか、与えられない人生を、生き抜くしかなかった。
 自分の身を、ジェイ・ゼルに差し出しながら、運命に耐え続け、両親の死を悼む余裕すらなかった。
 それが、ハルシャの現実だった。
 なのに――
 リュウジは、手を差し伸べてくれている。
 ハルシャと同じ場所まで、身を沈めて、揺るぎない眼差しで自分を支えてくれる。
 握った右の手を離さずに、温もりで包んでくれていた。

「ハルシャが自由になるためになら、僕は何でもします」
 言葉が静かに、耳元に響く。
「何でも――」

 ハルシャは身じろぎし、ゆっくりと顔を上げた。
 気配を感じたのか、リュウジも包んでいた身を浮かして、ハルシャの顔をのぞき込んだ。
 深い藍色の瞳を見つめていると、心が震えた。
 自分たちに関わり合いになると、リュウジが不幸になる。
 止めてくれと、言いたかった。
 だが。
 言葉の代わりに、不意に、涙が目からこぼれ落ちた。
 両親を失った時にも流れなかった涙が――静かに頬を伝った。

「リュウジ――」
 名を呼ぶことしか、出来なかった。

 ありがとう、と。
 君の思いやりが嬉しいと、いくらでも言葉を尽くして、リュウジの心に応えたいのに、朴訥に名を呼ぶことしか出来ない。
 リュウジが不意に、きつく眉を寄せた
 ふわっと、彼の手が自分の身を包み、静かにハルシャは上体を抱き起されていた。
 ベッドの端に腰を下ろし、身をひねるようにして、リュウジがハルシャを腕に包んで自分の身に引き寄せる。

「辛かったですね、ハルシャ」
 腕の空間に捕えたまま、リュウジが静かに呟いた。
「ずっと、一人で耐え続けて来たのですね」
 髪に、彼の手が滑る。
「涙をこらえないでください。あなたは泣いていいのです、ハルシャ。両親を失って、懸命に生きてきたのですから」
 穏やかに、髪を撫でられて、ハルシャは身が震えるのが止められなかった。
「もう、一人じゃありません。僕が側にいます。ずっと、僕はあなたの側にいます――決して一人にはしません。寂しい思いを二度とさせません」

 優しい言葉に、身が震えるのが、止められない。
 ハルシャはリュウジの服を握りしめると、彼の胸に顔を埋めた。

「荷物を半分渡してください。一緒に背負いましょう。こう見えても、僕はタフなんですよ、ハルシャ」
 髪に、リュウジの唇が触れる。
「あなたの背には、大きく強い翼があります。忘れないでください。その翼は、宇宙を飛ぶ翼です」

 実現不可能な夢だ。

 一言で以前は断ち切っていた言葉が、ずんと深く胸に響いた。
 だが。
 今でも自分は宇宙へ行きたいのだ。
 踏まれにじられながらも、懸命に天を、見つめ続けてきた。
 幾度も、幾度も、どうせ無理だと思いながらも、諦めきれない夢が、胸を焦がす。

 ぎゅっと、ハルシャはリュウジの服を掴んだまま、小さく呟いた。
「宇宙へ、行きたい――リュウジ」
 リュウジの頭が揺れた。
「あなたは、宇宙に呼ばれている人です。必ず宇宙へ行きます。僕にはわかるのですよ、ハルシャ」

 強い力で、リュウジがハルシャを抱きしめた。

「一緒に宇宙へ行きましょう、ハルシャ。同じ星々を見つめましょう」

 ハルシャは額をリュウジに押し付けたまま、声もなく涙を流した。
 リュウジは黙って、ハルシャを腕に包み続けてくれる。
 服を濡らす涙を、リュウジは静かに、受け入れ続けてくれていた。
 傷つけられ、ささくれていた心が穏やかになる。
 守られるような温もりの中に、ハルシャは静かに自分の身を委ね、悲しみを吐き出す。
 彼は決して自分を傷つけない。
 リュウジの腕の安らぎに、ハルシャは心を開いて、縋りついた。
 静寂の中で、ハルシャは、彼の温もりだけを、感じ続けていた。


 *


 ミア・メリーウェザは、医療室の自分の机に座って、虚空を見つめていた。

 仮定の話。
 と、笑って言いながら。
 リュウジの目は、笑っていなかった。

 そのことを、考え続ける。
 三時間かけて、メドック・システムはハルシャの外側と内側の傷を癒した。
 腸の内壁が、かなり傷つけられていて、その治療に一番時間がかかった。
 処置が早かったから良かったようなものの、腸の傷を放置していたら腹膜炎を起こし、外的な手術が必要になったかもしれない。
 正直、あれほどハルシャを大切に扱っているジェイ・ゼルが、こんな無謀な行為に及ぶとは考え難かった。
 ジェイ・ゼルが激怒する事態に、陥ったということだ。
 恐らく。
 ハルシャが、リュウジと一緒に暮らしていることが、彼には気に入らなかったのだろう。

 五年前。
 ハルシャに出会う前のジェイ・ゼルは、かなりの少年たちを気まぐれに抱くことで有名だった。
 噂の域を出ないが、彼は少年たちに性技を仕込み、付加価値をつけて、高値で売り飛ばしていたようだ。趣味と実益を兼ねて、少年たちを仕込んでいたのだろう。

 けれど、ハルシャ・ヴィンドースを相手として選んでからは、彼は一切他の子たちに手を出していないと聞いている。
 しかも、彼の常とは違い、ハルシャを惑星トルディアに囲い込んで、誰の目にも触れさせずに自分の手元に置いている。
 それだけ、気に入っているということだろう。
 オキュラ地域でも、ハルシャとサーシャの兄妹には、ジェイ・ゼルの息がかかっていると知れ渡っていた。そのお陰で、彼らに手を出す者はいない。
 もし、ハルシャに何かあれば、ジェイ・ゼルの逆鱗に触れると、皆が知っているからだ。
 ジェイ・ゼルの相手をすることで、ハルシャは知らず知らずの内に、彼から手厚い保護を受けている。ある意味、安全を保障されているようなものだ。
 ジェイ・ゼルは、ハルシャを、この上なく大切にしていた。
 ハルシャが仕事の負荷に耐えられずに熱を出した時、彼の治療をしながら、ミアは常に、彼の腸内の傷にも心を配っていた。
 ジェイ・ゼルの相手をし続けていることは、周知の事実だったからだ。
 だが。
 ハルシャの身体は、驚くほど丹念にケアされていた。
 男性を受け入れているにしては、傷がほとんどない後孔。
 身体に負担をかけないように、配慮を巡らしているのだろう。
 ハルシャに聞けば、年に数度、メディカルチェックも受けているらしい。
 自分の相手をさせながら、ジェイ・ゼルはハルシャのことを、大事に慈しんでいると、ミアは考えていた。
 身体に加工も受けず、成長を阻害するような物質も飲まされていない。
 幼い体形が好みの人に買われた子たちは、その嗜好に合わせ、時に容姿を幼く保つために、成長阻害物質を与えられることが現実としてあった。
 だが、ジェイ・ゼルは違った。
 ハルシャの健康状態に対して、誰よりも気を遣っているように、ミアは思っていた。
 そこまで大切にしながら、今回は、ジェイ・ゼルの忍耐が焼き切れるような事態が、起こったのだろう。

 嫉妬。

 ミアは目を細めた。
 深く愛すれば愛するほど、自分以外への愛情が、憎しみの対象となる。
 ジェイ・ゼルは、誰にも深入りせずに、淡々と仕事をこなすと、以前は聞いていた。
 どうやら、ハルシャに関しては、違うらしい。
 これほど彼が執着しているハルシャを、リュウジは、激怒して奪い去った。
 傷つけられたのが、よほど腹に据えかねたのだろう。
 深く激しい怒りを全身から発しながら、リュウジはハルシャを腕に抱いて、大声で叫んでいた。
 数多くの修羅場をくぐって来たミア・メリーウェザでも、思わず総毛立つほどの迫力だった。
 リュウジは、激怒していた。

 もちろん、仮定の話です。

 笑顔を浮かべながらも、深い藍色の瞳には、一片の笑みもなかった。
 彼は、真剣そのものだった。
 その意味を、メリーウェザは考え続ける。
 治療を終えたハルシャを、リュウジは腕に抱えて、自分で医療ベッドに運んでいった。昨日、ハルシャが洗濯室を借りて乾してあった服も、自分一人で着せている。
 この上なく大切な宝物のように、リュウジはハルシャを扱っていた。
 この先のことを、ミア・メリーウェザは考える。

 果たして――
 リュウジはハルシャを、もう一度ジェイ・ゼルの手に渡すだろうか。

 リュウジの中で、考えが渦巻いているような気がした。
 そして、また、ミアは聞き損ねた。
 もう、君の記憶は戻っているのではないのか、という、たった一つの疑問を。

 ふうっと、ミアは息を吐いた。
 自分の養子にならないかという申し出の答えを、まだ、ハルシャは出していない。
 ハルシャとサーシャのことを、メリーウェザは沈黙の中で、考え続けていた。

 不意に、メドック・システムが検査終了を音で知らせて来た。

 ん?
 と、メリーウェザは腕から顔を浮かせた。
 ハルシャの治療を終えた後、リュウジの迫力に気圧され、メドック・システムの駆動部を落とし損ねていたらしい。
 それにしても、ハルシャの治療は終わっている。機械が何の検査を終えたと、言っているか、疑念を抱きながら、メリーウェザは立ち上がった。
 椅子を引いて、メドック・システムの操作盤の前に立った。
 ああ、とメリーウェザは、一人で納得してうなずいた。
 どうやら、以前の設定を消し忘れてしまっていたらしい。
 リュウジを襲った相手が誰なのかを知るために、採取した精子から自動的に、遺伝子情報を汲み取り、個人を特定する設定だ。
 消し忘れていた機能が、働いてしまったようだ。
 ハルシャの体内から採取された精子を元に、メドック・システムは、自動でついさっきまで、個人の情報を検査し続けていたようだ。
「すまなかったね、無駄働きをさせて」
 笑いと共にメリーウェザは、メドック・システムに謝りながら、情報を消そうとした。
 相手はジェイ・ゼルだ。解り切ったことを、知る必要はない。

 が。
 操作画面に表示される情報を何気なく読んだ時、ミア・メリーウェザは動きを止めた。
 凍り付いたように佇んだまま、その情報を、読む。
「まさか……」
 小さく、呟きが口からもれる。

 メドック・システムは、嘘をつかかない。
 与えられた命題に従って、残酷なほど正確に、診断を下す。
 どんなに信じられなくても、これが、彼の真実なのだ。

 ジェイ・ゼルに関する情報を見つめたまま、ミアは長く動きを止め、表示されている事実を、ゆっくりと理解していった。

 










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