――ジェイ・ゼル。
闇の中に、ハルシャは彼の名を呼んでいた。
一歩も動けないままに、うずくまる。
寂寥と寒さに身を震わせながら、自分を傷つけた人の名をそれでも懸命に口にする。
答える声がない闇の深さに、自分自身の身に腕を回して、何かにすがるように抱きしめた。
怯える子どものように、ハルシャは、ジェイ・ゼルの名を呼び続けていた。
ハルシャ。
微かな声が聞こえた。
自分の名が闇に響いている。
ゆっくりとハルシャは顔を上げて、聞き耳を立てた。
ハルシャ。
また、名が呼ばれる。
応えようとした。
すっと、身が引っ張られていくような感覚がする。
光だ。
光が向こうから射している。
ハルシャは顔を光に向けた。
立ち上がり、呼ぶ声に向けて、歩き出す。
ふと気づくと、誰かの手が、自分の右手を握りしめ、光に向けて引っ張ってくれている。
温かだった。
手の平の感覚だけを頼りに、ハルシャは光にむけて、歩を進め続けた。
瞼をとじた目の奥に、眩しい光を感じる。
ゆっくりと、ハルシャは、闇に自分を封じていた、重い瞼を押し上げた。
白っぽい視界に、人影が見える。
しばらく見つめてから、ハルシャは口を開いた。
「リュウジ……」
微かな呟きに、彼が反応した。
笑みを浮かべて、静かに顔を寄せる。
「気が、つきましたか、ハルシャ」
ハルシャは、ただ、リュウジを見つめていた。
頭が上手く働かない。
自分が寝かされているのが、どこかも解らなった。
「リュウジ」
ただ一つ、確かなもののように、ハルシャは彼の名を呼んだ。
ぎゅっと、手の平を包む力が強くなった。
気付くと、上掛けの布団から自分の右手が出ていて、それをリュウジが握ってくれていた。
闇の中で、自分を繋ぎ止めてくれていた温もりは、彼の手だったのかもしれない。
自分が目を覚ますまで、彼はずっと手を握ってくれていたのだろうか。
「どこか痛むところはありますか?」
顔を少し寄せて、静かに、リュウジが問いかける。
ハルシャは、自分の体に意識を向けた。どこにも痛みはない。
ゆっくりと首を振ると、彼はほっとしたように笑みを浮かべた。
「ボードで転倒したのですが、ハルシャは上手に受け身を取ったようです。どこにも骨折はありませんでした」
手を握りしめたまま、リュウジが言葉を続ける。
「強度の打ち身だそうです。三時間メドック・システムで治療を受けて、体組織は全て修復済みです――痛みがないのなら、治療が成功したということでしょうね。何よりです」
宇宙のような、深い色の瞳がハルシャを包んでいた。
記憶が、音を立てて蘇る。
そうだ。
自分はジェイ・ゼルから逃れて、リュウジの腕の中で気を失ったのだ。
傷ついた自分の姿を、全て彼に見られてしまった。
かすかに、頬が赤らむ。
「喉がかわいていませんか? 何か欲しいものがあれば持ってきます」
気づかわしげに、問いかけるリュウジの言葉に、ハルシャは、静かに首を振った。
「大丈夫だ。すごく楽になった。ありがとう」
リュウジは一瞬、眉を寄せた。
ハルシャの手を手の平で包んだまま傍らに腰を下ろして、彼はしばらく沈黙していた。
長い静寂の後、やっと彼は口を開いた。
「何があったのですか」
表情を動かさずに、リュウジが問いかける。
「ジェイ・ゼルと、あなたの間に」
ハルシャは、答えに窮した。
わずかに目を逸らして、呟く。
「ジェイ・ゼルと私との間のことだ。リュウジは気にしないでくれ」
不意に、手が強く握りしめられた。
「それは、無理です。ハルシャ」
言葉と手を掴む力の強さが、リュウジの心を物語っていた。
「あなたを傷つけられて、僕が平気だと思うのですか」
ハルシャは、リュウジの顔を、まともに見ることが出来なかった。虚空に視線を向けると、自分に言い聞かせるように呟く。
「私が愚かな間違いを犯しただけのことだ」
目の焦点が定まらないまま、途切れがちの言葉を口からこぼす。
「これが……ジェイ・ゼルとの契約なんだ。心配しないでくれ」
ジェイ・ゼルが望む行為を拒否しないこと。
たとえそれが彼の怒りであっても、自分は逃げずに受け止めなくてはならない。
そういう契約だった。
五年間、嫌というほど、身に染まされてきた。
どうして。
もっと賢く上手に立ち回れないのだろう。
彼の機嫌を損ねないように、うわべだけ賢く付き合うことは出来ただろう。
だが。
言葉でごまかすことは、卑怯な行為のように思えたのだ。
彼に誠実でありたかった。
だから、本当のことを正直に伝えた。
結果――信頼すらしてもらえず、彼は激怒し屈辱的な方法で自分を抱いた。
愚かだ。
本当に、自分は愚かな生き方しかできない。
心をズタズタにされたのに、それでも夢の中で、自分はジェイ・ゼルを探し求めていた。
おいでと呼ばれた時も、彼の腕の中に身を委ねたくなってしまった。
この上なく愚かで、どうしようもなく哀れな人間。
それが、自分だった。
顔を背けたまま、ハルシャは虚空を見つめ続けた。
彼に自分の現実を知られたことが、今更ながら辛かった。
「ジェイ・ゼルは」
ぽつりと、リュウジが呟いた。
「僕の名を、知っていました」
決して離さないというように、リュウジが自分の手を包む。
「僕のことで、ハルシャは責められたのですか」
彼の言葉に、身が反応してしまった。
「そんなことは、ない」
慌ててハルシャは、否定の言葉を吐いた。
「一緒に暮らしていることを、ジェイ・ゼルが知ったのですね。その上で」
言葉が聞こえなかったように、リュウジは続けた。
「ハルシャは、僕との関係を疑われて――挙句の果てに、こんなに酷い仕打ちを受けたのですか」
リュウジの勘は鋭い。
メリーウェザ医師の指摘した通りだ。
オオタキ・リュウジか、と、ジェイ・ゼルがこぼした一言から、事の次第を、全て推察したのだろう。
ジェイ・ゼルがハルシャを傷つけた原因を、彼は的確に見抜いた。
長い沈黙の後、彼はぽつりと呟いた。
「僕のせいで、ハルシャはこんなにも酷く傷つけられたのですね」
ハルシャは、何も言えなくなった。
いくら否定しても、リュウジは論破してくるだろう。
本当のことを言わされる前に、ハルシャは固く口をつぐんだ。
「ハルシャは」
再び黙してから、リュウジが口を開いた。
「借金が続く限り、契約で縛られ、ジェイ・ゼルの相手をし、あの工場で働き続けなくてはならないのですね」
リュウジが、淡々と事実を確認してくる。
穏やかな、責めるところが一つもない、言葉だった。
そうだ。
と。
一言、応えるだけで済む。
なのに、何故か、ハルシャには出来なかった。
仕方がないと、口ではリュウジに言いながら、どうしようもなく辛いと、思い知ってしまった。見ようとしなかった苦しみが、残滓のように記憶をざわつかせる。言葉に出せば、現実を思い知る。それが辛かった。
身の傷は、優秀なメドック・システムの中で癒してもらえた。
だが。
内側の見えない場所が、今も痛みを放つ。
自分が愛したと思った人のむごい仕打ちに、心が深く傷つけられている。
心の傷口から流れ出した血が、今も、音もなくハルシャの内側から、滴り落ちている。
そこから、全ての感情が抜け落ちていくようだ。
身を蹂躙されていた時のように、一切の感覚を締めだせば楽になるのだろうか。
答える代わりに、身が震え出した。
握っている手から、リュウジに震えが伝わったのだろう。
ぎゅっと、力が強くなる。
「自由に――」
言葉が、静かにリュウジの口から紡がれる。
「なりたくは、ないですか。ハルシャ」
いつか、自由になるさ。
借金を全て払い終えて。
かつてのように、笑って言おうとした。
だが。
言葉が喉に詰まって、出なかった。
細かく、身が震え続ける。
どうして――
ジェイ・ゼルと、対等ではいられないのだろう。
信じてくれなかった悔しさを飲み込んで、彼の思うままに、乱暴に身を引き裂かれた。
借金を負っていることで、そこまで自分は彼の思い通りにならなくては、ならないのだろうか。
今まで一度も、ハルシャはジェイ・ゼルから逃げたことが無かった。
卑怯で勇気がないことだと、思っていたからだ。
どんな仕打ちにも、歯を食いしばって耐えてきた。
これまでは、ただ、肉体が対象だった。
だが。
ジェイ・ゼルは、ハルシャの心を求め、差し出した自分の想いを容赦ない力で粉々に打ち砕いた。警戒を解き、全てをさらけ出していた無防備な心に、ジェイ・ゼルは深く爪を突き立てたのだ。
だから。
ハルシャは、初めて、ジェイ・ゼルから逃避した。
あの時。
もう、一秒も彼の側にいることが出来なかった。
逃げるしかなかった。
彼から――
彼の支配から。
心を踏みにじる、無情な行為から。
逃げることしか、出来なかった。
「父親の借金を払い終えない限り、この身は自由にはならない」
ハルシャは、震える声で、やっと、リュウジに言った。
「それが私の現実だ。どうしようもない」
「ハルシャ」
不意に、リュウジが強い口調になって言った。
「僕は、自由になれるかどうかを、尋ねているのではありません」
顔を背けるハルシャの耳に、リュウジの言葉がただ、響く。
「あなたの本心を、知りたいだけなのです」
穏やかな言葉だった。
けれど。
底知れない強さを秘めている。
ハルシャは、違う震えが、身の内に起こるのを覚えていた。
「ハルシャ」
問いかけの強さに思わず顔をリュウジに向ける。
真剣な眼差しが、自分に据えられていた。
「あなたの心を教えてください」
星々を中に擁して静かに広がる宇宙のような、深い藍色が自分を捉える。
「ハルシャは」
言葉を切りながら、リュウジが問いかける。
「自由に、なりたい、ですか?」