ほしのくさり

第105話  仮定の話





 腕に抱くハルシャの身体が、急に重くなった。
 気を失ったのだ。
 青ざめた彼の顔に視線を落とし、リュウジは内側の怒りを抑えきれなくなってきた。
「ドルディスタ・メリーウェザ!」
 叫びながら、大股に医療室に進んでいく。
「ハルシャが怪我をしています!」
 大声に驚いたように、メリーウェザ医師が部屋から顔をのぞかせた。
「治療をして下さい、ドルディスタ!」
 目の前が、真っ赤になってくる。
「早く! お願いします!」

 リュウジは普段、物静かにしか話さない。
 その黒髪の青年が、信じられないほどの大音量で叫んでいることに、待合室にいた数人の人々は、飛び上がらんばかりにして、驚いていた。
「まあまあ、落ち着け、リュウジ」
 頭を掻きながら、これも大股に彼女がやってくる。
 待合室で、リュウジの剣幕に身を細くしている自分の患者に向けて、メリーウェザ医師が優しい声で問いかけた。
「すまないが、いま待合室にいる人で、今日診ないと死んでしまいそうな人はいるか?」
 メリーウェザ医師の言葉に、ふるふると全員が首を振った。
 にこっと、彼女は微笑む。
「なら、すまないが明日来てくれるか? 薬だけは出しておく。急患で手一杯だ。どうやら、診てあげられそうもない」

 リュウジの血相を変えた様子と、腕の中にぐったりとする赤毛の青年の姿に皆は深くうなずいた。
 すっと、メリーウェザ医師がリュウジを見る。
「とりあえずメドック・システムを起動しておいた。
 そのシーツを脱がせて、ハルシャを寝かせておいてくれるか。待合の人達の処置を終えたらすぐに行く」
 リュウジの肩に、ぽんと、メリーウェザ医師が手を置く。
「大丈夫だ、リュウジ」
 ぽんぽんと肩が叩かれる。
「すぐに行く。先にハルシャを寝かせて上げてくれ」

 指示が、ゆっくりとリュウジの中に沁み込んでいく。
「了解です、ドルディスタ・メリーウェザ」
 腕の中のハルシャを抱え直しながら、リュウジは低めた声で呟く。
 肩に乗った手を引きながら、メリーウェザ医師が静かに言った。
「うん。頼むよ、リュウジ」

 リュウジが落ち着きを取り戻したことに、待合室の全員がほっと息を吐いた。
 新しく医療院で手伝いを始めた黒髪の青年のことを、古株の患者たちも結構気に入っていたのだ。

 リュウジはハルシャを腕に抱いたまま、医療室へと無言で進んでいった。
 メリーウェザ医師が開け放していた扉をくぐる。
 言ってくれていたように、メドック・システムは低い唸りを上げ、扉を開いてハルシャを受け入れる態勢が整っていた。

「もう少しで、楽になりますよ。ハルシャ」
 呟くと、リュウジは眉を寄せた。

 苦しさが、胸からせりあがって来る。
 こんなに傷つけられるのなら、あの時、行かせるのではなかった。
 足に縋りついてでも、止めるべきだった。
 ぎりっと歯を食いしばりながら、腕に抱くハルシャの身体を、メドック・システムの側へ運んでいく。
 大切な宝物のように、リュウジはハルシャを、メドック・システムの中にそっと横たえた。
 シーツを取ろうとした手を、不意に、止める。
 眉を寄せたまま、リュウジは逆にシーツを引き寄せてハルシャの身を覆った。
 離した手で、意識を失うハルシャの髪に触れる。

「なんてひどいことを――」
 怒りに、身が震えるのが抑えられなかった。
「あなたが、大切に思っている人だから行かせたのに――なんという、ひどいことを」
 震える手で、髪を撫で続ける。
「あなたを傷つけるなど……僕はどうしても、ジェイ・ゼルが許せません。ハルシャ……許せないのです」

 ふっと、気配がしてリュウジは視線を上げた。
 戸口に、メリーウェザ医師が腕を組んで、佇んでいた。
 ハルシャに触れるリュウジを、じっと見守っていたようだった。

 早く治療をして下さいと、リュウジが口を開きかけた瞬間、
「ジェイ・ゼルを、追い返したのか、リュウジ」
 と、メリーウェザ医師が静かな声で言った。

 わずかな非難が口調の中に籠っていた。
 敏感に感じ取ると、リュウジは真っ直ぐにメリーウェザ医師を見ながら口を開いた。

「お引き取り願いました。このメドック・システムは優秀です。彼にハルシャを渡す必要はありません」
 ふうっと、メリーウェザ医師が息を吐いた。
「ジェイ・ゼルは――ハルシャをわざわざ追ってここまで来たんだろう?」
 髪を掻き上げながら、彼女はゆっくりと、両手を握りしめて立つ、リュウジの側に歩を進めた。
「そのジェイ・ゼルに、ハルシャを渡さなかったんだな、リュウジ」

 メリーウェザ医師の呟きに、リュウジはきつい視線を向けた。
「まるで」
 口調までが尖る。
「ハルシャを渡さなかった僕のことを、責めていらっしゃるようですね。ドルディスタ・メリーウェザ」
 ミア・メリーウェザが静かに笑った。
「さすが、勘取りがいいな、リュウジ。その通りだ」
 静かに、理知的な目を、彼女がリュウジに向けた。
「君は、ハルシャをジェイ・ゼルに渡すべきだった」
 意外すぎる言葉に、リュウジは表情を消した顔を、メリーウェザ医師に向け続けていた。
 彼の驚愕を感じ取って、静かにミア・メリーウェザが笑う。
「ハルシャのことを、本当に考えるのなら、な」

 そして、視線をメドック・システムに横たわるハルシャへ向けた。
「シーツを、取っておかなかったのか、リュウジ?」
 さっきまでの会話など、何もなかったかのように、メリーウェザ医師が問いかける。そう指示しておいたはずだが、と、言外に告げている。
 リュウジは答えなかった。
 瞬きを一つしてから、穏やかな声で彼女は呟いた。
「そうか。傷つけられているハルシャを、見たくなかったんだな」

 リュウジは、眉を寄せた。
 そうだ。
 ハルシャの身体に刻まれているだろう、ジェイ・ゼルの暴力の痕を見たくなかった。だから、シーツを取ることが出来なかった。
 もし、目にしてしまったら――
 自分はジェイ・ゼルを、殺しに行くかもしれない。
 ハルシャが望んでいないとは解っているのに。
 それでも、自分は怒りに我を忘れてしまうかもしれない。
 自分自身が抑えられなくなるのが恐かった。

 沈黙するリュウジの前を、メリーウェザ医師が動いた。
 手に医療用のハサミを持って戻ると、ハルシャのまとっているシーツを、サクサクと切り始めた。
 リュウジは、メリーウェザ医師の手元から、目を反らした。
 見たくなかった。
 ハルシャが傷ついている姿など。

「リュウジ」
 シーツを取り去る作業を続けながら、メリーウェザ医師がリュウジを呼んだ。
「こっちへ来て、見てみるんだ。君が思っていることが、正しいかどうか」

 つぅーっと、開いたハサミで布を切り裂きながら、メリーウェザ医師が言う。
 ハルシャの身体を動かし、彼女はシーツを取り去る。
 歯を食いしばりながら、リュウジは顔をゆっくりと、メリーウェザ医師の作業の手元に向けた。
 ハルシャが、横たわっていた。
 その体から、覆っていた白い布が取り除かれる。
 良く鍛え上げられた、裸体の彼が、静かに眠っている。
 その身には、変色をしている場所はなかった。

「きれいだろう」
 メリーウェザ医師が、切り裂いた布をハルシャ身から外して呟いた。
「傷一つない、きれいな身体だ」

 ハルシャの後ろから取り去った布に、血液がついていた、目にした瞬間リュウジは顔を背けた。
「オキュラ地域で長く医者をしているとね、身を売った子たちもよく診るんだよ」
 血のついた布をそっと丸めながら、ミア・メリーウェザが呟いた。
「そりゃ、ひどいものさ。ことに支配的な形で、身を売られた子たちは、所有者から身体に様々な加工を受ける」
 淡々とした声が、リュウジの視線を、メリーウェザ医師の顔へ向けさせた。
「入れ墨で、所有者の名を彫りこまれたり、焼印を捺されたり」
 上質なシーツが細切れになり、ハルシャの身から除かれる。
「乳首や局所の敏感な場所に、ピアスを付けられたり、火傷を負わされたり、日常的に暴行を受けたり――人格を踏みにじられる行為を受け入れさせられる」
 ミア・メリーウェザは目を細めて、静かに呟いた。
「金を払えば、何をしてもいいと、思ってしまうのかね。
 本当に。
 情けないことだ」

 想像以上に、彼女は爛れた世界を、直視しながら生きてきたのだと、リュウジは再確認する。

 最後の布を取り去ると、メリーウェザ医師は、ハルシャの右腕に触れて確認をしている。
「だが、ハルシャは、身体に一切加工を受けていない」
 腕の様子を診て、彼女はそっとハルシャの傍らに横たえた。
「刺青も、ピアッシングもされていない。きれいなものだ」
 足に移る。
「リュウジ。ハルシャは、五年間、ジェイ・ゼルの相手をして来たが、彼がハルシャの身体に怪我を負わせたのは、最初の無理な性交の時だけだ。その後、傷は、何一つつけられていない。むしろ、メディカルチェックをきちんと受けさせて、私よりもハルシャの健康に心を砕いている」

 リュウジは、ゆっくりと視線をメリーウェザ医師から、横たわるハルシャに向けた。
 足を診終えると、メリーウェザ医師は、立ち尽くすリュウジの側に静かに動いた。
 同じ場所から、横たわるハルシャを見つめる。
「よく見てごらん。リュウジ。とてもきれいな体だ」
 ハルシャを見つめるリュウジへ視線を向けながら、彼女は静かに呟いた。
「傷つかないように、体に負担をかけないように、丁寧に配慮を施され大切に慈しまれてきた身体だよ」
 ぽんと、メリーウェザ医師の手が、リュウジの肩に触れた。
「たくさんの人間を診てきたからね、私には、解るんだよ。リュウジ」

 リュウジの肩から手を離すと、メリーウェザ医師はメドック・システムの操作盤へと向かった。
 ハルシャの状況に合わせて、彼女は検査内容を打ち込んでいる。
 低い駆動音がして、横たわるハルシャを覆うように、メドック・システムの蓋が閉じていく。
 リュウジはハルシャの顔を、見つめ続けていた。
 騒ぎを聞きつけて、外へ駆けだしたリュウジを認めた時、ハルシャは心から安堵した表情を浮かべた。
 シーツをまとい、足を引きずるハルシャを見た時、リュウジは一瞬、状況が理解出来なかった。
 駆け寄り抱きとめた身体の状態から、ジェイ・ゼルから酷い仕打ちを受けたのだと、瞬時に悟った。
 後部が血に濡れて、真っ白なシーツが赤く染められていた。

 全身の血が、逆流しそうだった。
 そこへ、ジェイ・ゼルが悪びれない様子で、姿を現わした。
 怒鳴ってはいけない。
 ハルシャを怯えさせてはいけない。
 必死に自分を抑え続けた。
 ハルシャは――おいでという、ジェイ・ゼルの呼びかけに、一瞬反応し、彼の元へ行こうとした。
 行かせるものか、と、リュウジはハルシャの身を、腕に抱き上げ強引に彼の元から連れ去った。
 後を追い、自分に暴力をふるって止めるかと思ったが、ジェイ・ゼルはそこまではしなかった。
 だが、その時――
 ハルシャを渡すべきだったと、メリーウェザ医師は言っている。

「借金を支払わなくてはならないから」
 リュウジは呟いていた。
「ジェイ・ゼルに、ハルシャを渡すべきだったと、おっしゃっているのですか、ドルディスタ・メリーウェザ」

 リュウジの言葉に、すぐに彼女は答えなかった。
 メドック・システムが順調に動き始めたことを確認してから、視線を上げた。
「そうだね。この後も借金が続く限り、ハルシャはジェイ・ゼルを受け入れなくてはならない。
 このことがきっかけで、もしかしたら、ジェイ・ゼルは機嫌を損ねて、ハルシャを手荒く扱うかもしれない。
 迎えに来たということは、多少なりと自分に非があると思っていたのだろう。
 その時に、ハルシャを渡すべきだった」

 メリーウェザ医師の声が、静かに午後の医療室に響く。

「リュウジがハルシャを取り上げてしまったら、ジェイ・ゼルに禍根が残るからね。
 それを、今後背負わされるのは、ハルシャだ」
 にこっと、メリーウェザ医師が笑う。
「君ではない。リュウジ」

 ぎゅっと、リュウジは両手を固く握りしめた。

「僕が勝手なことをして、ハルシャを苦境に追い込んだ、とおっしゃりたいのですね」
 メリーウェザ医師はただ、微笑んでいた。
「それが、オキュラ地域での生き方なのですね――僕は、余計なことをした。
 ハルシャを、大切にしているジェイ・ゼルに渡すべきだった。
 彼の借金が消えない限り、ジェイ・ゼルに体を蹂躙されるのだから少しでも楽な方がいい。
 それが――」
 顔を上げると、リュウジは真っ直ぐに、メリーウェザ医師を見た。
「あなたのご意見なのですね、ドルディスタ・メリーウェザ」

 ふっと、ミア・メリーウェザは微笑んで、リュウジに視線を向けた。
「ハルシャが好きか、リュウジ」

 唐突な言葉に、リュウジは面食らって、何も言えなくなった。
 黙り込むリュウジに、メリーウェザ医師は静かに言葉を続けた。

「ハルシャは家族のつもりだが、君は違う」
 微かに目を細めて、ミア・メリーウェザが呟く。
「気づいていないだろうが、君はサーシャとハルシャでは見る時の目が変わる。
 もし、このまま一緒にオキュラ地域で君たちが三人で暮らすとすれば」
 優しくメリーウェザ医師が微笑んだ。
「一番苦しむのは、君だよ、リュウジ。ハルシャは借金が続く限り、ジェイ・ゼルの相手をする。ジェイ・ゼルは信じられないぐらい、ハルシャに入れ込んでいるからね、決して手放さない。
 だからだよ、リュウジ」

 茶色の瞳が、包み込むようにリュウジを見つめていた。

「君は、ハルシャをジェイ・ゼルに渡すべきだった。
 そうしても、ハルシャは必ず君の元へ帰ってくる――その時に、彼の拠り所として彼を包んで上げればいいだけだ。
 ハルシャは、精神的に君の存在にかなり、助けられている。
 リュウジが生活に加わってから、彼の精神状態はとても安定している。サーシャを独りで支えてきた重圧から、楽になって来たのだろう。
 君が君でいる限り、ハルシャは決して君から去らない。
 ジェイ・ゼルと、競う必要は無いんだよ、リュウジ」

 メリーウェザ医師の声が、リュウジの耳に響く。

「快くジェイ・ゼルの手にハルシャを渡した方が物事が上手くいく。
 そうしても、ハルシャはリュウジから離れない。割り切った方が楽になる。
 私が言いたかったのは、それだけだよ、リュウジ」

 視線を落として、リュウジは沈黙した。
 全てを見抜かれていることよりも、ハルシャをジェイ・ゼルに渡せと言われたことが、きつかった。

「もし」
 リュウジは虚空に呟いていた。
「ハルシャが借金を全額返済できたとしたら」
 メリーウェザ医師が、視線をリュウジに向けた。
 彼はただ、独り言のように呟き続けた。
「ジェイ・ゼルの相手を、する必要はなくなるのですね」

 長い沈黙が、言葉のあとにあった。
 メドック・システムの低い唸りだけが、静寂を埋める。

「それは」
 メリーウェザ医師の声が、まどろむような、午後の光の満ちた医療室に響く。
「仮定の話だな、リュウジ」


 リュウジは、静かに微笑んだ。
 そのまま笑みを、メリーウェザ医師に向ける。
「そうです」
 笑みが深まる。
「もちろん、仮定の話です」









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